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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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魔群の通過 (1) 湊に天狗がいるわいな

 六

 意外にも三人は、途中幕軍につかまることなく水戸にはいることができました。
 約一ケ月後、天狗党がげんに北方へ向けて突破したように、蟻一匹も逃さないと呼号していた六万の包囲軍も、実は幕軍や諸藩兵の寄せ集めで、実際に通行してみれば、案外網の目は粗雑だったのでござります。
 もっとも、二、三度、哨戒の敵兵がこちらを見て近づいて来たこともござりましたが、すぐ向こうへ行ってしまったり、なかには「早くゆけ」と、あごをしゃくった者さえありました。私たちをほんとに漁師の少年だと見たらしいのですが、私たちがなまじ逃げ隠れするような不審な挙動をとらなかったせいもあると思います。
 私たちははじめから決死の覚悟であり、かつまた、こうなったら、一刻も早く母たちのいる牢獄に近づきたいという望みに火のように煽られていて、ちょっとやそっとの危険などかえりみる気のなかったことが、逆によかったようでござります。
 水戸藩の牢は、昔から赤沼という町にあり、赤沼牢と呼ばれておりました。母たちがいれられているのもそこだということも聞いておりました。で、水戸にはいるや、私どもはひたむきにそこに急いだわけでありますが、その間にも町の変化はいやでも眼にふれずにはいられませぬ。
 もう秋の朝の白い光が町に満ちておりましたが――まだ朝だというのに、路地の軒下には濃い化粧をした女がならんで、けたたましい声で呼んでいるのです。その前を、槍をかかえて往来している侍たちも、もう酔っぱらっているのです。そして、空地には、鉄砲をほうり出した足軽連中が、車座になってサイコロばくちをやっているのでござります。
 猥雑といおうか、殺気横溢といおうか。――そのあたりは、この夏私たちが出発するまで、いかめしく物静かな侍町であったところです。斉昭公が、同じ樹木でも梅干と筍という食糧がとれる、と、おっしゃって奨励なさったので、水戸は梅と竹が多い町ですが、その竹林の向こうでは矢稽古の弦のひびきや、梅の花のこぼれる土塀の中では謡いの声くらいしか聞こえなかった場所が――厳しいけれど愉しい私たち少年の生活のあった場所が――何たることか。
 何よりショックであったのは、横行する武装兵たちの言葉の大半が水戸弁でないことでござりました。
 ――水戸学の聖地が……尊皇攘夷の本山ともいうべき水戸が。……
 雑踏の中を歩きながら、私たちは歯ぎしりしておりました。だれがこんなことにしてしまったのか。水戸にこんな幕軍や諸藩兵をみちびきいれたのは、佐幕派の連中だ。
 それはともかく、目ざすは赤沼牢でござりまする。
 金次郎と私は、その前に丑之助に向かって、
「お前は村のおふくろのところへゆけ、そして夕方にどこそこで待ち合わせて那珂湊へ帰ることにしよう」
 と申しました。しかし丑之助は、ともかくいっしょに赤沼へいって、その首尾を見とどけたうえでそうさせてもらう、と、いうのです。思えば十二の子供にしては、実にけなげなものでござりました。
 そのために丑之助は、思いがけない手柄と――私たちにとっても大変な戦利品を持って帰るめぐりあわせになったのでござります。
 赤沼町に近いある土塀の角をまわったとき、私たちはゆくての馬場沿いの大欅の下で一人の雲水が、一団の鉄砲足軽に何か訊ねているらしい光景を見ました。
 雲水は網代笠に手をかけて礼をいい、ついでに何か冗談でもいったと見えて、足軽たちはゲラゲラ笑いながら、向こうの角を曲がってゆきました。雲水は一人でお経を唱えながら、私たちのほうへ歩いて来ました。
 すれちがおうとして、ふいにその坊さまが立ちどまり、
「金次郎君」
 と、呼びかけたのには、私たちはぎょっとしました。
「ははあ、魚売りに化けて来たか」
 坊さまは笑っておりました。
「やあ、こりゃ源五郎君、ほう、丑之助もいるか。……しかし、大胆なことをする。万一奸党の知り合いに見つかったらどうするか」
 大胆不敵とはだれのことをいうのか。
 その網代笠の下の若い顔は、六万の敵のみならず、天狗党からさえ夢魔のように怖れられた人間の顔でござりました。それが悠々と水戸の町の中にいることすら信じられないほどなのに、どうやらいま見たところでは、敵兵と何やら談笑していたようではありませぬか。
 坊さまは、私の肩をたたきました。
「しかし、何しに来た?」
「田中さん……」
 私は息を切らしました。
「あなたこそ、大丈夫ですか?」
「どうだか、わからん」
 相手は爽やかな声で笑い、
「せっかく来たのだから、君たち田中隊へゆかんか」
 と、おどけた調子でいいました。
「田中隊はいまどこにいるんです?」
「助川城におる」
 助川城は水戸の北東十里ほどのところにある、家老筋の山野辺主水正どののお城です。なぜ田中隊がそんなところにいるのか、それより田中隊の頭領の田中愿蔵さんが、どうしていま水戸にいるのか、狐につままれた思いでしたが、何にしてもそれは、そのときの私たちの関心の外にありました。
「それより、君たち、何しに水戸へ来たって?」
 もういちど訊かれて、私たちは母や家族の様子をうかがいにこれから赤沼牢をのぞきにゆくつもりだといいました。
「そりゃ、いかん!」
 みなまで聞かず、田中さんは首をふりました。
「君たち、よくいままで見つからなかったものだと感心するが、赤沼牢はいかん。あそこには天狗党の家族の顔をみんな知りぬいた連中が眼をひからせておる。そこへ武田耕雲斎の子や孫が顔を出すなんて、飛んで火にいる夏の虫のようなものだ。これ以上、一歩も近づいてはならん!」

     七

 ここにおいでのみなさまは、むろん田中愿蔵の名はご存知でござりましょう。まことに彼の悪名は高い。常州野州においては、天狗党といえばその中のだれよりも、むしろ田中愿蔵という名が人々の頭に浮かんで、いまも恐怖と憎しみのまとになっております。
 それは私も承知しております。にもかかわらず、この悪名と、記憶にある彼の実像とのくいちがいが、実はいまでも私を大変悩ませておるのでござります。
 田中は、それ以前からよく知っておりました。筑波山以前に、藤田小四郎とともに、よく私の父の耕雲斎のところへやって来て、議論を吹っかけていたからであります。
 元治元年、藤田が二十二歳であったと申しましたが、この田中はそれよりまだ若く二十歳でありました。
 田中は藤田とならんで、非常な秀才でござりました。斉昭公は領内のあちこちに何々館と名づけるいくつかの藩校をお作りになりましたが、彼らはその若さで――しかも元治元年以前に――藤田は小川館の館長、田中は時雍館の館長を命じられたことでもわかります。田中の出身は藩医の息子でござります。
 ですから、二人が父に吹っかける議論も、烈しい攘夷論というだけで、詳しいことは当時の私などには理解できませんでした。もっとも、よく論ずるのは主として精悍な藤田のほうで、田中はむしろ穏やかなたちに見えた。実際にまた彼は、一見、女にもまがうスラリとした美青年でござりました。
 私たちから見ると、藤田は少々おっかない兄貴で、田中は実にやさしい兄さんでした。からかうことはあっても叱ったことはないし、だからいま、こうお話ししていても、実は田中さんと呼びたいほどなのでござります。
 ただそれではほかの人とつり合いがとれず、みなを「さん」づけで呼んでは話がまだるくなるので、あえて呼び捨てにいたします。
 さて、藤田と田中は親友でありました。ただ双方ともに攘夷思想に凝りかたまった秀才であっただけではなく、前年の春、主君慶篤公に従ってともに上洛し、上方に渦巻く天下動乱の風雲をともに吸って来たことで、いよいよ意気投合したものと見えます。
 その前年の秋ごろから、藤田小四郎が、府中――これは今の石岡であります――新地の紀州屋という女郎屋にたてこもって、藩内の同志や江戸で知り合った志士などを集め、攘夷の旗挙げについての談合をはじめたころ、田中愿蔵は江戸におりましたが、このことを聞いてたちまち馳せ参じました。
 かくて彼らが、いよいよ三百人ほどの同志とともに筑波山に屯集したのが三月の末でありましたが、四月はじめになって、日光に移動することになった。
 筑波で気勢をあげたのはいいが、たちまち幕府の鎮圧を受けては困るので、日光にいって東照宮を盾にして立て籠れば幕府もちょっと手の出しようがないだろう、という作戦を立てたのでござります。
 そこで筑波山を下りて、日光へ移動したのですが、これが実に馬鹿馬鹿しいなりゆきになった。
 日光奉行は、宇都宮藩、館林藩の出兵を求めて防衛線を張り、何しに来たか、と詰問しました。これに対して筑波勢は、ついうっかりと、
「攘夷の祈願をしに参ったので、他意はない」
 と返答してしまった。すると、
「それならみな脱刀して、十人ずつ参拝さっしゃい」
 ということになり、とうとうそのとおりにやるほかはない始末になった。
 そして、あっけらかんと日光からひき返して来ました。
 むろん、そんな馬鹿げたことをやりに日光へいったわけではないが、ものの気合いというものは妙なものです。
 もっともそうなったについては、彼らの旗挙げなるものに、どこか腰の坐らぬところがあったからでござります。つまり彼らは、ただ攘夷のデモンストレーションのつもりでやり始めたので、すると全国のあちこちに同じ共鳴運動が起こって、幕府も攘夷を実行せざるを得ないだろう、と考えての行動に過ぎなかったのでござります。
 筑波勢は日光から追い返されて、こんどは一応、栃木の太平山に拠りましたが、筑波山ほど有名でない山上でのデモンストレーションは非効果的だ、ということと同時に、他国での運動はどうもやりにくい、ということがわかって、五月の末にまた筑波山に帰りました。
 やりにくい、とは、主として徴発のことでござります。
 最初に旗挙げしたころは、多少の軍資金も用意しておりましたし、また筑波周辺の商人や豪農に、尊皇攘夷のための御用金だといえば、ともかくも同じ水戸領内のことだから、シブシブながらそれに応じてくれた。
 しかし、太平山は他領です。しかも、この野州を練り歩いている間に、諸国から浪人たちが馳せ参じて、もう千人以上の人数になっている。その毎日の食い扶持だけでも容易な量ではありません。
 やむなく近くの百姓から徴発したのですが、当然のことながら、苦情はおろか、烈しい抵抗が起こりました。
 こうして、筑波勢はまた筑波山にひきあげたのですが、この一見無意味な往復運動は、あとに凶々(まがまが)しい渦を一つ残したのでござります。
 それは、筑波勢から分離して野州にとどまった一隊でありました。田中隊でござります。
 総帥を田丸稲之衛門、中軍将を藤田小四郎とする筑波軍で、田中愿蔵は一隊長という地位を与えられておりましたが、以上の筑波勢の動きに徹頭徹尾不満でありました。
 ――なんだ、日光での醜態は。
 ――子供の使いじゃあるまいし、わざわざ筑波から砂塵をまいておしかけながら、十人ずつ参拝を許されて、しっぽを巻いて退散するとは。
 ――そもそも、はじめから東照宮を盾にしようという根性がまちがっておる。
 ――いったいこんなことで幕府への示威運動になると思っているのか。
 田中は、こう藤田を痛罵したと申します。
 以前の二人の仲を思うと信じられないようですが、田中愿蔵はこんどの挙に参加して以来、まったく人間が変わっていたのです。いえ、以前の仲といっても、それは私たちに、田中が藤田に従属しているように見えたというだけで、もともと田中は実に勇猛果敢な性質の持ち主だったらしいのですが、少なくとも子供の眼にはわからなかったのが、ここに至ってそのやさしい面貌をかなぐり捨てたのであります。
 藤田は攘夷を唱えるだけでまだ討幕を意図していなかったのですが、田中は幕府あるかぎり攘夷の実行は不可能だと見ぬいていて、はっきりと討幕を考えていたのでござります。
 天狗党の中で、過激派の藤田にくらべ、これはまた一段と極点へいった最過激派といえます。――そして、後世になってみれば、田中愿蔵の歴史的直感のほうが的を射ていたのであります。
 彼は、反対者があってあきらめましたが、そのまま一隊をひきいて野州から甲州へ迂回進撃し、甲府を奪い、さらに駿府まで占領して東海道を遮断しようという作戦まで立てたくらいです。
 まことに破天荒な考えのようですが、どうもあとで調べてみると、当時の幕府の状態では、この作戦を実行していれば、相当以上に成功の可能性があったらしい。
 実は藤田は、筑波一挙の前に長州の桂小五郎と、東西相呼応して攘夷運動を起こすことを打ち合わせていたので、これが七月になって京都における例の禁門の変で西の長州が敗れたことで、画餅に帰し、ひいては東の天狗党も潰えるという結果になったともいわれます。
 協同作戦のタイミングがくいちがったのですね。だから、その禁門の変以前に、もし田中が甲州まで占領していれば、こういう一手遅れの狂いが起こらず、あとの歴史の転回がまったく異なったものになったかもしれないという説もござりまするが、しかしこれはまあ、歴史によくある死児の齢を数えるに似た愚痴かもしれませぬ。
 さて、それはともかく、こうして田中愿蔵は藤田と喧嘩し、袂を分かった。そして、田中に同調する百数十人の浪人たちと野州に残った。
 ところで、これも現実の悲しさですが、右のような大志をいだきながら田中隊はたちまち資金的に隊の維持に困窮しました。そこで栃木町にはいって、そこの陣屋に軍資金の提供を申し込み、拒絶されて、戦闘をひき起こしました。
 このとき田中隊は、油樽を割り、篝火を投げ、松明を持って商家に乱入し、火を放ちました。そのために、当時野州第一といわれた栃木の町はほとんど灰燼《かいじん》に帰しました。
 のちのちまでも「愿蔵火事」と呼ばれたこの暴挙で、彼らは完全に民衆の敵となりました。
 筑波に帰った天狗党は田中愿蔵を除名し、田中隊とは無縁であることを宣言しましたが及ばず、民衆の恐怖と怨嗟は天狗党ぜんぶに向けられました。
 このことがついに幕軍の出動を呼び、水戸内戦をいよいよ深刻なものとし、さらに天狗党に賊名を与え、その末路を悲劇的なものとした大きな原因の一つとなったのでござります。
 やがて七月にはいって、筑波勢は、幕軍と、これに相呼応した水戸佐幕派と戦い始めるのですが、水戸に残した家族に迫害のかぎりをつくす佐幕派にこそ猛烈な敵意を燃やしたものの、幕軍に対してはやはりどこか遠慮があった。
 そして、応援に来た田中隊には、依然として拒否の姿勢を示しました。
 味方からも嫌悪された田中愿蔵は、とんと意に介しませんでした。彼が洩らしたという傲語は、そのころ筑波勢とともに戦っていた私たち武田軍にも伝わって来ました。
 ――水戸の家族にいまさら何の心配をするのか。すでに天下に叛旗をひるがえしたわれらは、はじめから家族など捨てて然るべきだ。甘いぞ、小四郎。
 ――幕軍よ来れ、幕兵を一人たりとも多く殺すことこそ、われらの目的に叶う。
 田中はこう呼号し、筑波勢とはつかず離れず、神出鬼没のゲリラ戦を展開しました。ゲリラ戦とは、ナポレオンに対するスペインの抵抗戦術から発しました言葉で、小部隊による遊撃戦のことでござります。
 彼の部隊は主として水戸人以外の浪人軍で、戦闘ぶりも筑波勢以上でしたが、戦場となった土地の農民や町人にも無慈悲でありました。
 他国人部隊のため掠奪ぶりも荒っぽかったが、彼自身、いくさのためには一切合財を犠牲にすることをいとわない風でありました。田中隊と聞いて抵抗する町や村は、容赦なく焼き払われました。
「刃向かうやつは殺せ、焼け、許すな」
 この白面の美しい隊長に、甘さは髪一筋もなかった。実際に彼は、配下の兵の髪を、戦闘に便利なようにチョンマゲを切ってすべてザンギリ頭としたので、一名「ジャンギリ組」とも呼ばれ、その名は敵軍のみならず、常陸全土に魔神のような印象の波をひろげたのでござります。
 田中愿蔵こそ、いわば革命の申し子でござりました。その歴史的直感は正しく、しかもその戦闘はもっとも勇敢であった。
 しかるに、さきほど農民までも武器をとって起ちあがったと申しましたが、それは主としてこの革命軍たる田中隊に対して起ちあがったのでござります。そして、筑波勢のもっとも強力な友軍でありながら、筑波勢に賊徒の汚名をかぶせたのもまた田中隊の所業だったのでござります。こういう矛盾が、客観的に見れば、歴史のアイロニーというものでござりましょう。
 むろん当時、武田軍にあった十五歳の私に、そんなことを面白がる余裕はござりませぬ。客観的に見る判断力もありませぬ。
 これは少年の私ばかりではない。武田軍のみならず藤田軍まで、みな一様に彼に対して憎しみをいだいておりました。
 それは、いまや最後の関頭に追いつめられつつある那珂湊の天狗党のすべてが、なお田中隊の合流を拒否しているほどの悪名でござりました。
 そのジャンギリ組の隊長田中愿蔵がここにいる。水戸の市内に、雲水姿で潜入している。

     八

 田中愿蔵は、私たちに、いかに赤沼牢に近づくことが危険であるかを、こんこんとして説きました。
 実は私たちは、右に述べたような田中隊の所業をまざまざと目撃したわけではありませぬ。ただ、常陸の野にひろがる憎しみの声と、天狗党の中の、
「きゃつ、天狗党の名をけがした。天狗党を賊にしてしまった元凶はきゃつだ」
 という痛憤の声を聞き、はじめ、「あの田中さんが?」と信じられないものに思い、やがてそれらの声に動かされて、その人に対して、同じ凶々(まがまが)しい印象を持ちはじめていたのでござりますが、いまやさしく誡されて、私たちは以前のなつかしい田中さんを思い出し、また昏迷におちいりました。
「いったい耕雲斎先生は、君たちのこんな行動をお許しになったのかね?」
「いえ、知られると叱られそうなので、まったくないしょでやって来たんですが。……」
「そうだろう、君たちも、もう戦争に参加しているんだ。戦士の一員なんだ」
 と、田中はきびしい顔色に改まって申しました。
「いまこのときになって、家族の安否をうかがいに来るなんておかしい。そんなものは捨てなければ、いくさには勝てんぞ」
「勝つ?」
 金次郎は問い返しました。
「田中さんはこのいくさに勝てると思ってるんですか?」
「戦争というものは、最後までわからんさ。いままでのなりゆきだって、意外の連続だ。われわれが旗挙げしたとき、水戸全域が戦乱の巷《ちまた》になるなんて想像もしなかったし、また幕府がこれまで六万の兵と五十万両の戦費を使って、まだ天狗党を鎮圧できず、総大将の田沼の罷免の噂まで流れているときに、突然こっちの大将の大炊頭さまが降伏するとも思わなかったよ」
「ですから、もう終わりだと。――」
「なに、絶望はまだ早い。戦争は絶望してはならんものだ。一日も長く頑張って、一兵たりとも敵を多く殺すようにあらゆる努力をしているうちに、何とか活路がひらける可能性が出て来るんだ。そのために、おれも水戸へ出て来たんだ」
「田中さんは、何をしようというのですか」
 私は、最初からの疑問を口にしました。
「敵の大将の田沼玄蕃頭の妾《めかけ》と、奸党の親玉市川三左衛門の娘を誘拐してやろうと思ってやって来たのさ」
 網代笠の下で、白い歯がニヤリとしました。
「えっ、市川の娘?」
「田沼の、メ――」
 私たちは、思わずさけびました。
「しっ、あまり大きな声を出すな」
 と、さすがに田中はあわてた顔をしましたが、
「おれはそのつもりでいる。もっとも、はじめはただ偵察に来たんだ。すると、きのう大炊頭さまが降参したというじゃないか」
 と、ささやき声でいいはじめたのでござります。
 私たちは、松平大炊頭さまの件については、まだそのことだけしか知らない状態でありましたが、水戸にいた田中は、その他にいろいろなことを探知しておりました。
 大炊頭さまは、田沼総督と直接交渉してではなく、前線の幕軍責任者との話し合いだけで降伏したらしく、水戸には寄らないで、そのまま南のほうを通って水戸街道にはいり、江戸へ向かって急ぎつつあるらしい。そのことを知った田沼が、勝手に江戸にゆかせては総督たる自分の面目が立たぬ、いそぎ水戸へ連れ戻せ、と命じて、市川三左衛門がきのう追跡に出ていったらしい。
「大炊頭さまはどういう条件で降伏されたのか知らないが、おれの見るところでは、どうせ甘い坊っちゃん大名だ。おそらくこれから、約束がちがう、と歯がみしても追っつかないことになるだろう」
「…………」
「ま、それはともかく、いま水戸は大炊頭一行をつかまえる騒ぎで、眼はみんなそっちへ向いている。それで思いついたんだ。田沼の妾や市川の娘をさらうのはいまだと」
「…………」
「田沼は本陣を水戸城内の弘道館に置いているが、いくら何でも妾を弘道館にいれるのははばかりがあると見えて、市川三左衛門の屋敷に泊めている。市川の娘とひとまとめにしてさらうには好都合だ」
「…………」
「と、思ったが、さすがにそう簡単にはゆかない。三左衛門はいまいったように大炊頭さま追跡に出ているが、屋敷は警戒厳重でちょっと手の出しようがない。思案投げ首でいたところへ、はからずも君たちに逢った。そこで天来の妙案がひらめいたんだ」
「…………」
「君たちに頼むことだ。市川屋敷にいる二人の女をさらうには、君たちの手をかりるよりほかない」
 口をポカンとあけていた私どもは、やっとわれに返りました。しかし田中は、さらにふしぎなことをいうのでござります。
「もっとも、いまおれが頼みたいのは、いちばん小さい野村君だがね……。野村君、手伝ってくれるかね?」
 十二の丑之助は、君づけで呼ばれたせいか、顔を真っ赤にして、
「ぼくにできることなら。――」
 と、さけびました。
「ありがたい。では、こっちに来てくれ。……いつまでもこんなところで立ち話をしているわけにはゆかん」
 雲水姿の田中は歩き出しました。人気《ひとけ》のない路地をえらんで歩きながら、私たちはこういう問答を交わしました。
「丑之助、君の顔を知っている者が、市川屋敷にあるかな」
「さあ。……わかりません」
「金次郎君や源五郎君の顔ならともかく、田丸さんの小姓をやってた十二の君を、まさか知ってるやつはあるまい。それにごった返している最中だから大丈夫だろう」
「それで、ぼくは何をやるんです」
「弘道館にいる田沼総督からのお使いだといって、田沼の妾に手紙をとどけてもらいたい」
 やがて私たちは、田中愿蔵に、ある場所に連れてゆかれました。
 水戸の町は、古くから上町下町に分かれております。上町は武家町ですが、私たちのいったのは、町人住居区域になっている下町の、ある路地の奥の一軒でござりました。
 そこには、素姓不明の、二、三人の男女がおりました。――いまや水戸じゅうの人間から敵と見られている田中愿蔵ですが、やはり同志の者をそんなところに持っていたと見えます。
 その人々を古着屋に走らせ、また手伝わせて、丑之助は、雀の巣みたいにモジャモジャにした髪を前髪立ちに直され、立派な紋付に着替えさせられ、よく古着屋にそんなものがあったと感心したのですが、小さな裃さえつけさせられたのです。
「さあ、手紙はこれだ」
 その間に書いた一通の封書を、田中は丑之助に渡しました。その表には、
「至急ゆんへ、田」
 と、書いてありました。
「田? ぼくは田丸さまの家来ですが、それじゃあ。……」
「田丸の田じゃない。田沼の田のつもりだ。幕軍総督が妾にどういう手紙を書くのか見当もつかんが、田沼の使者といって乗り込んだ以上、だれだって田沼の小姓だと思うだろう」
「ゆんへ?」
「おゆんというのが、妾の名なんだ……。すると、だな。九分九厘までそのおゆんが、手紙に指定した場所へ――藤沢小路の庚申堂のところまでやって来るんだ」
「ほ、ほんとうですか?」
 私たちは、眼をまるくしました。
「君たちに聞かれると恥ずかしいが」
 田中はニヤリとしました。
「田沼の妾は、府中の紀州屋という女郎屋の養女で、実はおれの色おんなだった女さ。そいつを田沼が府中に進駐している間に、自分の妾にしてしまった。しかし、その女はすぐに田中の田の字だと見ぬくはずだよ」
「…………?」
「それもふつうの女なら来んだろうが、あれなら出て来るだろう。なにしろ一風変わった女だからな」
 こういう次第で、丑之助は、奸党の首魁市川三左衛門の屋敷へ乗り込むことになったのでござりまする。(つづく)
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

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