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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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明治維新150周年記念「薩長因備」シンポジウム特集 ②

 午後1時の10分前、森本さんの指示で二階の講堂に入りました。会場は既に満員で、熱気が充満しておりました。パネラー役の原口先生、西郷さん、原田さん、そして私は、最前列の指定された席に腰を下ろしました。コーディネーター役の森本監督は興奮した様子であちこちを歩いていました。時間ギリギリで講堂に駆けつけてくるお客もいて、場内整理の役員は椅子を手にもって対応に大わらわでした。
 午後1時丁度、森本鳥取歴史振興会長がマイクを握り、第一声を放つと、会場から万雷のような拍手が起こりました。そうとうの期間に渡って準備を重ねて来たので、気合が入った挨拶となりました。内容は二部構成で、第一部は原口泉先生による基調講演が行われました。さすがに薩摩藩研究の第一人者だけあって、淀みない口調で語る姿には大変感服させられました。先生は慶応三年末の西郷隆盛書状を通して、維新の本当の立役者は「薩長因備」であることを強調したことで、会場から惜しみない拍手が送られました。参考までに「維新に“薩長因備”の力」と題する、昨年の産経新聞の記事を紹介します。

【歴史のささやき】
志學館大教授・原口泉氏 維新に“薩長因備”の力
先般、鳥取市の映画監督、森本良和氏が西郷隆盛自筆書状1通が売り出されていることを教えてくれた(思文閣目録『和の史』243号)。慶応3年12月24日の「外倉修理之介」宛てである。西郷は名字を間違って記しているが、岡山藩家老、土倉修理助正彦のことで、後に新政府参与となった。文中で西郷は鳥取藩家老、荒尾駿河守成章について尋ねている。
成章は土倉の叔父で、西郷は成章が本当に勤王の意志が強いかを確かめたかったようだ。その内容は次の通り
〈因州(因幡)家老の荒尾駿河という人は、尊上(明治天皇)の所へ罷り出て、ぜひ勤王の御実行をしたいので、自分へも警固を命じて下さいと申したてたと聞きましたが、これはどういう事態でしょうか。朝廷がその申し出を聞きいれたことは私も承知しましたが、荒尾は一向にその動きをしていません。きっと貴方ならこの件について御存知のはずだと思い、ひとまず御尋ね申し上げます。荒尾は真に王事に尽くす者でしょうか。ただ朝廷の御都合向きを計らっているだけでしょうか。御賢慮を拝承したく、略儀ながら書をもって尊意をうかがいます〉

 書面からは、土倉と西郷が以前から親しいことがわかる。12月24日といえば、江戸の薩摩藩邸が焼き打ちされる前日。旧幕府軍との鳥羽伏見の戦いが始まるのは翌年正月3日。荒尾は、このとき御所の警備をし、新政府側に味方している。因備すなわち鳥取藩と岡山藩は、ともに池田氏が藩主だった。この両藩は鳥羽伏見の開戦2日目に新政府側についていた。これは大久保利通が、島津久光側近の蓑田伝兵衛に宛てた手紙(鹿児島県歴史資料センター黎明館常設展で公開)で確認できる。
「備前・因州官軍に相違御座なく候。備本末(本藩と支藩)共に大津へ出張大に相振ひ申し候」
 岡山藩は支藩の岡山新田藩(鴨方藩)・生坂藩とともに、大津に布陣した。草津まで関東から旧幕府歩兵大隊が迫っていた。
 この手紙は、「因州は本末、山崎へ出張、同断相振ひ申し候。懸ては御疑念もこれあるべく候えども、勢ひは言外にあるものにて、実に皇威振興…」と続く。鳥取藩も支藩の鹿奴藩・若桜藩とともに山崎で大いに戦った。新政府軍の大勝利が決定的になったことを伝えている。

 大久保は6日の日記に次のように記した。「初戦より一日も敗走これなく、寸歩も退きたることこれなし…実に大愉快に堪えざる次第なり」と喜びを隠しきれなかった。
 因備が戊辰戦争の緒戦で新政府に味方したことの意味は大きい。新政府軍は西国へ戦力を削ぐことなく、関東へ出軍できたからである。
 では、いつ頃から西郷は、岡山藩家老の土倉と通じていたのであろうか。それを知る手がかりは桐野利秋日記にある。桐野は戊辰戦争の鳥羽街道の総指揮から会津鶴ヶ城の受取りまで大役を果たしている。
 慶応3年9月1日、桐野は京都で備前藩士の青木太郎左衛門の所に行き、夜10時過ぎに薩摩藩邸に帰っている。11月3日初雪、桐野はまた青木を訪ねた。
 このほか青木の名が何度か日記に出ている、岡山藩主、池田茂政は徳川斉昭の九男であり、表向き佐幕の立場にあったが、3月15日藩主を継いだ章政は慶喜追討軍を送っている。岡山藩下級藩士の青木は、尊王攘夷派として桐野と接触したのであろう。
 鳥取藩主、池田慶徳も徳川斉昭の五男で、将軍徳川慶喜の兄だったので、両藩が新政府に味方したことは、旧幕府の士気を喪失させたであろう。
 実は西郷が土倉に宛てた手紙はもう1点ある。所有者の日本史家、磯田道史氏はその手紙を平成26年6月25日の新聞紙上で紹介された。
 日付は慶応4年の1月15日。西郷は新政府を揺るがす神戸事件の4日後に岡山藩家老の土倉に頼る必要があった。神戸事件とは神戸の警備についていた岡山藩兵とフランス水兵との銃撃戦である。英公使パークスの厳しい抗議に新政府は苦慮していた。西郷は結局、岡山藩の隊長、滝善三郎に詰腹を切らせて決着させた。
 西郷は戊辰戦争の直前と最中、2回も岡山藩家老、土倉の強力な援助を受けていたのだ。西郷書状は現在、縁の深い鳥取市が入手に向けて動いている。

 原口先生は、鳥羽伏見の戦いにおける備前と因幡の兵の配備状況から、鳥取藩が先陣を切って幕府軍と戦った様子を強調し、真の維新の立役者は「薩長因備」と声を張り上げて聴衆に訴えたことでも会場から万雷の拍手が巻き起こりました。
 第一部終了後、休憩を挟んで二部が始まり、パネラーからそれぞれの思いが語られました。何と言っても西郷隆夫氏に注目が集まり、報道陣によるカメラのフラッシュが何度も光った次第です。全体的内容は、新聞記事で紹介します。
(写真左より原口泉先生、西郷隆夫氏、原田良子氏、鯉渕義文)











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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

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