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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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戊辰戦争の激戦地を行く (3)

水戸藩高炉と三春藩士熊田嘉門 ②

  茨城県の那珂湊の高台にある溶鉱炉は地下からの高さが21メートル、地上15メートルの巨大な西洋式高炉である。反射炉脇に登り窯があり、耐火煉瓦を焼いた。反射炉には耐火煉瓦約四万枚が使われている。耐火煉瓦の原料は栃木県馬頭町の粘土を用いた。大砲の形成には砂型鋳造の技法が用いられている。現鉄は岩手県釜石産の南部鉄と鳥取県の雲集鉄が使われた。
  28門以上の砲身の長い大砲(カノン砲)が鋳造された。柳沢の水車場で加工され品川沖のお台場へも献上された。ここで造られた大砲は長州の萩や伊豆韮山の反射炉で造られた砲より性能的にすぐれていたと言われている。砲弾は直径12,7センチ、装填火薬304グラム、飛距離1233メートルとの記録が残されている。

  水戸藩那珂湊に西洋式高炉を造った三春藩士熊田嘉門について明治37年発刊の田村郡郷土史は「水戸公その労籍し銀百枚及び日本史一部を賜る。後会津藩に招かれ鉄鉱溶解の事を託され一年にして帰り、更に相馬藩に招かれ鋳造の事を託され事竣て帰る。会津相馬二藩より各金若干を賜りてその労を謝す。
  慶応二年三春藩学校句讀師に補せられ師弟教育に従事す。慶応四年京師騒然に際し山地立固と謀りその状を察せとことを藩老に説き相携え京師に至り岩倉公(岩倉具視)に拝謁して三春藩情を具陳す。官軍大挙東下するに際し百方周旋藩主をして早く帰順せしむ事平定するにおよんで藩白鞘刀一口を賜うてその功を賞し、更に文学教授に似んぜられ、明治四年七月廃藩置県に際し藩校もまた廃止、諸生等方嚮に迷うを慨し有志謀り養才義塾を設立し子弟教育の任務を持続す。
  明治六年三春小学校を置くに及んでその教師に聘せられ、尋て磐前県第二中学校を三春に置くに及んでその教師に聘せれれ中学校廃止するに及んで家塾を設け子弟を教育すること前後十有余年にして明治二十年一月歿す。時に七一歳天澤寺先瑩の域に葬る。」と記している。

  三春藩は戊辰戦争は11歳の幼君映季侯を擁し、伯父秋田主税が後見人を務め、いち早く奥州越列藩同盟を脱退し西軍に組みした。そして二本松藩を攻めることになる。 三春藩に熊田嘉門のような広い見識をもった藩士がいたので、二分する藩意をまとめ朝廷に恭順の意を示し、三春の町を戦禍より救ったのであろう。

吉田松陰先生終焉の地 ③

 嘉永7年(1853)1月16日前年の予告通り、ペリー率いる7隻の艦隊が来航し、江戸湾小柴沖に停泊した。3月三日幕府の井伊直弼は日米和親条約調印(神奈川条約)に調印した。三月二八日吉田松陰と金子重之助は伊豆、下田沖に停泊していたペルー提督のアメリカをめざして小船を乗り出した。しかし軍艦の乗組員は2人の若者の話しを取り合わなかった。松陰と重之助は自首した。4月5日吉田松陰は「下田踏海事件」に連座して、松代藩士で松陰の師佐久間象山も逮捕される。松陰、重之介は長州に護送された。
  9月18日幕府、吉田松陰、佐久間象山を蟄居処分とした。12月15日長州藩は吉田松陰を出獄させ、蟄居とする。九月長州藩、吉田松陰に私塾主催を許可した。身分に関係なく約80人が塾生とさせた。松下村塾の門弟には伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等明治維新の大業に功績のあった著名の士を多く輩出している。

  安政5年4月将軍家定が井伊直弼を大老に任命した。井伊大老は越前藩主松平慶永を隠居の上謹慎、徳川斉昭を謹慎、水戸藩主徳川慶篤、一橋慶喜を登城停止処分にした。そして宮家公家の家臣30余名と水戸藩家臣が逮捕され安政の大獄が始まった。
  4月吉田松陰は江戸に護送され取調べを受け伝馬町の牢屋敷に繫がれた。10月7日吉田松陰(30歳)、頼三樹三郎(35歳)橋本左内(26歳)が伝馬町牢屋敷で処刑される。安政7年3月3日桜田門外において大老井伊直弼が暗殺された。大伝馬町の屋敷跡にある大安楽寺の高野山真言宗準別別格本山中山弘之住職を訪ねると「松陰先生、橋本左内、頼三樹三郎がここで処刑されました。
  処刑執行人は山田浅左衛エ門(首切り浅左衛エ門)でした。江戸時代伝馬町牢座敷に収監された罪人は数10万人で多くの侍が処刑されました。町民や農民は鈴が森や小塚原の刑場で処刑された。明治八年牢屋敷は市谷囚獄署(防衛省跡)に移転するまで約270年間伝馬町牢屋敷が存在しました。
  敷地は2618坪ありました。移転後伝馬町牢屋敷跡には人は住まず、夜になると人魂が出没します。2人の若者が怨霊を鎮めるための議論をしていたのを高貴な方がじっと聞いていて、高貴な方はここにお寺を建てて供養するのがよいと話された。そして二人の若者によって高野山別山の「大安楽寺」が建てられた。筆者の問いに住職は高貴な方は山階宮で二人の若者は帝国ホテル、帝国劇場などを設立した大倉喜八郎と東京大学の安田講堂を造った安田財閥の安田善次郎です、と話された。

 伝馬町牢屋敷跡に建つ大安楽寺「揮毫は山岡鉄舟筆により為囚死郡霊離苦得脱(いしゅうしぐんれいりくとくだつ」と記されている。(おわり)
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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