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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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戊辰戦争の激戦地を行く  (2)

 江川太郎左衛門とお台場

  嘉永6年7月1日老中阿部正弘がペリー持参の国書を示しアメリカの要求について諸大名、幕臣らに意見を求めた。7月3日高家以下布位以上の有司の意見を聞いた。そして、幕府は前水戸藩主徳川斉昭(烈公・徳川慶喜の父)を海防参与に任命した。幕府は国論を統一し日本を外国の侵略よりいかに守るかに苦心する毎日であった。 
  7月18日プチャーチン率いるロシア極東艦隊が長崎に来航する。
  8月6日幕府は砲術家高島秋帆の禁固を解いて、韮山代官江川太郎左衛門英龍の配下に置いた。江川家は名家で多くの人材を排出している。太郎左衛門の父英豪は伊能忠敬の地理学天文学の弟子で親交が深く、伊能測量で伊豆韮山の江川代官所に滞在している。また、英豪は伊能忠敬に依頼し幕府天文方より亜欧堂田善の「新訂万国全図」を譲りうけている。
  太郎左衛門は湯島の鉄砲鋳造場、及び韮山の鋳造場で大砲の製作にあたった。そして、12月太郎左衛門は、韮山に本格的な製鉄製造のための反射炉を建造し大砲、軍艦を造るべく軍備面の強化を図り奔走する毎日であった。
 また、幕府は8月15日、大砲50門の鋳造を佐賀藩に命じた。
 8月24日幕府は、太郎左衛門の指揮のもと、江戸湾品川沖に外国船の浸入を防ぐため11基の「お台場」の築造を始めた。

  11月27日安政に改元し、激動の時代が始まる。12月品川沖お台場5、6番が完成。しかし四番、七番は未完成のまま、8から11番は着工せず、資金不足で計画は中止となった。品川沖のお台場は六基まで完成した。現在第4お台場は品川区2丁目に埋もれ、第一と第五お台場は品川埠頭に入り、第6お台場は海中に孤立し第3お台場は公園として入ることが出来る。
  安政2年(1855)1月16日心半ばにして江川太郎左衛門は死去した。
  江川太郎左衛門は歴史上の人物で昌平坂学問所教授安積艮斎や蘭学者渡邊崋山、高野長英、外国奉行川路聖謨、絵師の谷文晁等と交友のあった幕末の英傑である。優れた政治家は一方のみの意見に偏ることなく広く意見を聞き将来を見据えて政治判断をすることの出来る人物であったと思う。嘉永6年8月29日薩摩藩主島津斉彬は幕府に軍艦建造、武器・兵書の購入を要求したが、幕府は、武器・兵書の購入は認めず薩摩藩に建艦のみを許可した。そして9月18日幕府は大船建造禁令を解除した。このことにより大藩は大型船の建造を始めた。

水戸藩の高炉と三春藩士熊田嘉門①

 嘉永6年9月23日NHK大河ドラマ「篤姫」の第13代将軍徳川家定が本丸に入り、10月23日に朝廷より徳川家定に将軍宣下があった。 10月20日徳川斉昭はロシアとの和親不可を建議。一方一関藩の漢学者でお台場を造った江川太郎左衛門の門人大槻磐渓は、幕府に親露を献策する。後に盤渓は戊辰戦争で奥州越列藩同盟の文章を起案し東軍に戦いを挑むことになる。11月12日幕府は水戸藩に大船建造を命じる。
  江戸幕府の海防参与であった水戸藩九代藩主徳川斉昭は,武装強化による国防の必要性を強調していた。このような状況の中、幕府から資金援助を受け那珂湊の吾妻台に鋼製の大砲を造るため反射炉二基を築造した。反射炉はオランダの技術を用いたもので、建造には南部藩の鉱山学者大島高任、薩摩藩の竹下清右衛門、三春藩の熊田嘉門を技術者として招聘した。
  そして、安政3年(1856)3月4日鉱山学者大島高任らは反射炉で銑鉄溶解実験に成功した。この溶鉱炉は巨大なもので那珂湊高等学校の隣の小高い丘の上に復元されている。この高炉造りに三春藩士熊田嘉門が関わっていることがわかった。水戸藩が那珂湊に高炉を作り製鉄を始めたことは大学時代に水戸学講座の中で斉昭公の業績のひとつとして知っていが三春藩の熊田嘉門(淑軒)が製鉄に従事したことを知り一層興味を持った。
  熊田嘉門について明治37年発刊の田村郡郷土史によると嘉門は都路村岩井沢の人渡邊興市の6男として生まれた。そし て熊田家の養子になった。熊田氏は代々三春藩秋田侯の藩医師であった。嘉門は南部藩の某氏について医術を学び嘉永年間江戸に遊び、諸大名の門に出入りしていた。
  以下原文の史料をもとに書きのべると「医業を研究すること数年嘉永6年米国の水師提督彼理(ペリー)浦賀港に来たりて互市を請うに会す。物情騒然幕府は衆に諸侯伯を召集し警備すこぶる巌なり。衆皆曰く浦賀談判の一挙は和戦の諸侯伯は皆使臣を浦賀に這わし、その状を探知せんとす。秋田侯もまた、使臣を派せんとす。偶々江戸在番の諸士中当器の人に乏し。即ち医師吉井某及び淑軒(嘉門)を遣わしその任にあたしむ。以来二人の医業を停止し、各事務に就かしむ。更に淑軒をよんで求給人格に進む。これにおいて藩の兵学師範今泉可八に従いて兵学を修む。また、巨砲鋳造法を研究す。安政三年水戸烈公反射炉を築き領内寺院の梵鐘を徴して大いに巨砲を鋳造するに際してその招きに応じ水戸に到り砲銃鋳造掛を嘱託せらる。居ること五年にして帰る」と記している。(つづく)



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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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