桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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戊辰戦争の激戦地を行く (1)

  あさかの学園大学講師、伊能忠敬研究会員の松宮輝明先生が平成20年に執筆した「戊辰戦争の激戦地を行く」の記事が阿武隈サロンに連載されましたので、何回かに分けてご紹介させていただきます。

ペリー提督の国書と安積艮斎

  嘉永6年(1853)6月13日東ペリー提督の東インド艦隊は那覇へ向けて江戸湾を離れる。安積艮斎は嘉永6年(1853)7月18日にロシアのプチャーチンが持参したロシアの国書も翻訳している。そして幕府の求めに応じ外交意見を提出した。
  10月にはロシアへの回答の原案を艮斎が作成し、林大学頭が起案した。この時期艮斎は幕府学問所昌平坂学問所(東京大学の前身)教授で門人に吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎、幕府勘定奉行の小栗上野介などの歴史上の人物が多く集まっていた。
 「安積艮斎門人帖」には商工会議所の創立者であり東京日日新聞の創立者福地源一郎、福島県令になり安積開拓を遂行した安場保和らがおり、艮斎門人帖3千余名は郡山の安積国造神社の宮司安藤家に保存されている。嘉永5年5月艮齋は12代将軍徳川家慶に政治状勢を進講している。
 嘉永7年3月には一橋慶喜に進講し、外交文書翻訳についての功績により賞を賜わった。長男文九郎も将軍に拝謁し[山吹の間御目見]となり幕府の官儒者として高い地位にあった。艮斎の師は幕府儒官佐藤一斎である。安積艮斎は蛮社の獄で逮捕された蘭学者高野長英や、逮捕され自刃した渡邊崋山、安政の大獄で処刑された頼三樹三郎や、幕府の外交官で井伊直弼を批判し罷免された川路聖獏等との交遊が深かった。
 艮斎は寛政3年(1891)郡山の安積国造神社の三男として生まれた。幼児より利発な子供で郡山に来る行商人の持ち物(柳行李)をみてどこの国の商人であるかを言い当てたと云われている。16才で今泉家の婿となった。しかし、一年足らずで離縁された。
 郡山市の今泉家は「今泉三家」と呼ばれる家柄である。今泉本家(名主・本陣地紙屋は戊辰戦争で自衛団を組織した。)、上の今泉家(荒池の名主・晩年の小林久敬の庵跡)、下の今泉家がある。下の今泉家の子孫今泉学園・今泉女子専門学校の今泉玲子校長は「艮斎先生の母親は今泉家から安藤家に嫁ぎました。
 艮斎先生は幼少より聡明な方でしたが不器量で今泉家から離婚されたのです。」と答えられた。筆者はその意見に異論がある。不器量で男は離婚されない。17七歳の艮斎は学問の志やみがたく今泉家から身を引き、三月単身江戸に向かった。艮斎はあわせ2枚、煮豆2升ほどをやぶれた風呂敷に包み、四書五経の抜粋本1冊を懐に入れ、たった一人奥州街道を南へと歩いていった。旅すがら煮た豆をかじりながら江戸を目指した。江戸には林大学頭の学塾取締江戸一番の儒学者佐藤一斎がいた。一斎の門をたたき入門を許されたのである。
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

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