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幕末の宣伝戦「水戸天狗党と諸生派」 (最終回)

  ここで重要なのは、前年に発刊されたばかりの『告志篇』が、賞品として配られたということである。すなわち当時弘道館の指導権を握っていたと考えられる鎮派が、身分制の堅持による太平主義とでもいうべき政治の安定化に同書を利用したとも考えられる。
  因みに当の登之介は、受賞してから十日後には他の郷士や神官仲間と、禁裏守衛総督に任命されていた一橋慶喜の護衛のため、水戸藩命で上京することになった。その一行には、近藤勇を捕えたことで一躍有名になった後の伯爵香川敬三がいたらしい。香川は京都で尊攘派の公卿として活躍、維新政権のもとでこれまた一躍要人となった岩倉具視の家に出入りして認められ、水戸の北方御前山に近い故郷に錦を飾った。彼が旧中藩大名に匹敵する伯爵となったのは、それなりに新政府に貢献した功績が認められたからだろうが、一方、登之介のほうは『告志篇』の告諭をよく守って天狗派にもつかず、その生涯を故郷の田舎で平凡にして、大正十三年十二月、八十五歳の天寿を全うした。
  その間、藤田東湖の詩碑が河原子(日立市)の海岸の突出した烏帽子岩の中腹に建った時、東湖の門人として筆をとった香川が除幕式に臨席するらしいという情報を聞いた家人らが、京都の誼をもって訪ねてみたらどうかと、しきりに勧めたというが、世事に疎く朴訥だった登之介は、それをはっきり断わったという。
  片や『告志篇』など眼中になく、尊攘から討幕の旗印のもとで、多くの水戸人を驚かすような栄誉を勝ち取った香川に対しては、近藤勇のことで余り芳しい評価は聞かれない。無論、瀬谷登之介のことなど、水戸幕末維新史の中では、話題にもならないことながら、『告志篇』に関連して、筆にまかせて記したまでである。

  ところで、斉昭の告諭を幕末争乱の最中にかつぎ出した建言書の宣伝効果はどうであったのだろうか。それについては起草者内藤耻叟が「水戸小史」の中で、集会に馳せつけた参加者各自が、この文章を写して懐中していたというから、先ずそれが、同志の結束に役立ったことは言うまでもない。
  かつて桜田事変や坂下門外の変の際に、浪士らが趣意書を懐中した先例がある。そうしたことは尊攘派だけだと思ったら、今回、諸生派にもみられたことに注目したい。
 当時、水戸の役人はこの建言書を憎み、目付二人を願入寺に派遣して、集会を止めて各自帰宅するよう説得したというが、「結衆ノ諸生等敢テ命ヲウケズ、遂ニ幕府ノ内旨ヲ得テ」水戸の反尊攘保守門閥派の朝比奈弥太郎、市川三左衛門、佐藤図書ら三家老の賛同を得たので、五月二十六日、諸生ら五百余人に膨れ上がった同志が、水戸城南千波原に集合、大デモンストレーションを展開し、やがて江戸に上って天狗征伐を訴えることになったのは、「水戸小史」が伝えるところであるが、それまでの水戸のデモといえば、ほとんどが改革派、尊攘派側にみられたのが、この度は一転して反尊攘派諸生らの大集会、南上が実現したことは、かの諸生の建言書の効果とも受け取れる。
  また、尊攘派的ともみられるが、比較的中立の立場で史料の選択を行なったとみられる『水戸藩史料』(下巻全)は、諸生の建言書について次のように述べている。

「是に至り諸生等の議論は幾んど一藩を風靡し激派有志を除くの外重臣を初めとして諸番頭以下皆同情を表せざるはなく所謂鎮派の士も内心心には彼の結城の残党等の心術を疑はざるに非ずと雖も、速に野州の騒擾を鎮定せんとの議に至りては皆一致せざるを得ず、遂に大挙南上(小石川の水戸藩主に訴えるため江戸に上ること)して野州の追討を断行せんとするに至れり……」
 これは正に、建言書の成果を適確に言い当てたものではなかろうか。
 この建言書が、諸生の同志的団結の強化に役立ったことは勿論であるが、諸生派、鎮派の中にも不信感があった結城派(改革派からは斉昭の信任を裏切った奸物の巨魁と目された天保期の家老、執政結城寅寿の流れを汲む保守門閥派)と天狗討伐という点で、急速に一致点を見出すことになったことは、前述の通りである。この点が天狗党鎮圧後の水戸藩の政情を一層複雑化し、幕末維新期の政局における混迷の一大原因となったのである。 
  また、この建言書がいかに尊攘派を刺激することになったかは、建言書から間もない五月十四日の夜、水戸城下柵町の下馬筋と、下町の七軒町制札場の二ヶ所に出された張紙から察することができる。
  この張紙については、『水戸市史』中巻五が詳しく紹介していて、誠に興味深い。特にその一通からは討幕思想をはっきり読み取ることができる。なお一つは「正義中」、他の一つは「報国赤心至誠至忠有志連」の名で張り出されているが、実は一人か、同じグループの者の仕業だろうといわれる。共通しているのは、願入寺集会に対する攻撃的言葉に満ちていることである。
  特に七軒町の張紙には、「腰抜け諸生どもは奸逆を計らんと欲し、岩船(岩船山願入寺)へ出張した。そして大奸の重役どもも多数これに同心しておる。これ皆、先公(前藩主斉昭)の御志を知らず天下の大義も弁えぬ畜生同然、糞尿にも劣る奴らにして、人間にはあらず、さらさら恐るに足らないが、愚民を迷わすには足る。………ついては士民ども愚夫愚婦にいたるまで、右の畜生らの奸説に迷わされず、もっぱら我らの存意に伏して成功を待たれよ」というように、集会の諸生らを人間とは思わず、畜生呼ばわりするあたり、尋常一様の内容とは思われない。そして張紙の中に「奸説」とあるのは、明らかに諸生の建言書の内容を指しているとみられる。反天狗派、鎮派の重鎮内藤耻叟の起草した建言書が、尊攘派にいかに大きな衝撃を与えたかを察することができる。

  さて、二つの張紙が、挙兵した天狗党に味方する者の手によることは間違いないだろうが、正々堂々と名乗って宣伝戦に加わったものとはいえない。
  天狗党の檄文は、天下に堂々と挙兵の目的、尊王攘夷の意義を宣言したものである。これによって水戸を起点とする尊攘運動も、元治元年の時点で、どのように理解すべきか、この宣言をおいては外に求められない、といっていいだろう。そして、研究者の間でも、尊王攘夷の意義、解釈については様々である。
  今日まで私の知る限り、研究者は余りこの檄文の内容について言及していない。それには種々の理由があると思うが、私は水戸の尊王攘夷は天保改革の時点と、天狗党挙兵時では内容的に温度差を感ずるばかりではなく、元治の時点では何か新しい時代を望むような発展性がほのかに見えてくるようにも思われる。そしてこの時期、主として西南雄藩出身の有志たちが唱える尊攘主義というものは、水戸のそれとどのような差があったのか、これは研究者の今後の課題である。その場合も、天狗党の宣言を抜きにしては前に進めないと思う。
  また、この宣言に堂々と反論を加えた諸生の宣言も、今日まで余り問題にされなかった嫌い(傾向)があるが、今後は天狗党の宣言とともに幕末史の上で大きく取り上げるべきものと思う。それに関連して、多くの水戸幕末維新史では、天狗党に対立するものとして諸生党があげられるが、その由来は元治元年五月の諸生の集会にあって(端を発するもので)、ここに天狗・諸生両党の対立抗争という図式が用いられるようになった、とするものが多い。しかし、それにもかかわらず、最近天狗党と保守門閥派の対立という図式が用いられるようになったのは、それなりに意味がある。この点は、今後私ども研究者に課せられた新しい問題でもある。
  以上、幕末の天狗党の檄文と諸生の建言書を宣伝戦という視点で考えてみた。そして、そこから新たな問題が見えてくるような気がしてならない。
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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