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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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幕末の宣伝戦「水戸天狗党と諸生派」 (4)

  次に考える諸生の建言書は、檄文のように整然とした文章組み立てではなく、冷静さを装いながら、徹頭徹尾、天狗党挙兵を「反乱の大逆」と非難攻撃するに終始し、先君烈公斉昭が天保四年三月九代藩主としてはじめて就藩した時、家臣らへ諭告した『告志篇』を冒頭に取りあげ、今こそ先君の遺志を守ってこの時局に対処すべし、という主張を繰り返すだけである。その中で天狗党が、「無体の暴論」をもって、数々君上に迫るという文章があるが、これは檄文にいう彼らの尊王攘夷の思想を指すものと考えられる。そして天狗党が先君の遺志を継承するものとして、烈公斉昭の神主(仏教でいう位牌、水戸の士族の間で通用していた)を祀った神輿をかついで、一般士民に見せびらかしていることに対する反感を露わにした文章が続く。また天狗党が東照宮参詣の道中、烈公の神主ではなく、東照宮家康の神輿を奉じたという記文にも、眼前君父を差置いての分限を超えたパフォーマンスとして、不快の念を強めたものではないかと推測される。

  そして、この時にあたって「国之逆臣」を除いて、「賊の横行」を制御することができないならば、どうして烈公に対して面目を立てることができようか、と力説する。今回、願入寺に集会した上は、一同心を一にして力を合せ、是非黒白を明らかにして、「眼前の君上」のお気持ちを安んじ奉るのが一同の本意である、結ぶのである。 結びにも記した「眼前の君上(主君)」に対する礼節こそが、臣子として守るべき第一の責務であることは『告志篇』から受けた反天狗派、諸生建言書の主軸なのである。そこからすれば、この建言書のはじめに強調しているように、藩士の分際で、眼前の主君、つまり自分の仕える藩主を差置いて、東照宮家康の御恩を報ぜんとすることは無論、尊王と称して直接朝廷に忠を尽くすなどということは、身分を越えた行為であるとする、これを『告志篇』の要点とする信念で書かれているのが諸生建言書であるといえる。
  それにしても檄文が、外圧の深刻化する内憂外患を訴えて祖国救済の大原理尊王攘夷を呼びかけているのに、諸生の建言書は一言も外圧のことには触れず、ひたすら封建秩序の厳守を唱えて、現体制を脅かす天狗党の行動を非難し、その討伐を表徴するあたりは論戦としてかみ合わないが、現実には別の効果があったとみられる。

  さて、諸生建言書について、より理解を深めるためには、『告志篇』が天狗党の挙兵の前年、文久三年弘道館蔵版として、はじめて世に公表された事情を探ってみる必要がある。まず斉昭がはじめて就藩して家臣に告諭した天保四年という時点と、嘉永六年ペリーの来航によって大きな衝撃を受け、安政文久と急激な時代の変化に直面した時点とでは、僅か三十年しか経っていないが、日本、そして水戸藩の政情、士民の生活感情は、他の時代の一世紀にもまさる変化をみたものと考えられる。 そのような変化を越えて、私版でなく、水戸の藩校弘道館蔵版、いわば水戸藩の公判という形で刊行されたことについては、時の弘道館総教青山延光をはじめ、弘道館にもかつて関係した諸生建言書の起草者内藤耻叟らが動いたのではないかと推察される。

  青山延光は会沢正志斎と共に、弘道館初代総教を務めた青山延干の嗣子。青山家は水戸文学の家といわれ、尊攘激派からは軟弱だと批判されたこともあった。内藤耻叟らと共に、鎮派の中心として重きをなした、これら人物の尽力で、はじめて公表されたと考えられる『告志篇』刊行の時代的背景について、私は「『水戸小史』の立場」で次のように述べたことがある。
 文久二、三年の交は「天朝」を取り込んで攘夷親征が強調され、西南雄藩や水戸藩をはじめ、全国的に尊攘運動が猖獗を極めた時期である。そして国論も尊攘主義で、諸外国との対決姿勢が鮮明となり、やがて攘夷戦争も起こり得るような情勢であった。
 このように考えてみると、建言書の「我々是迄日々弘道館に出入りし、文武之業を勤めて以て君上の恩に報ぜん事を謀る」という文意が、一層はっきりしてくる。
 当時の弘道館文武諸生(書生、学生)らは、この『告志篇』を教科書として読まされたのではないかと思う。次に『告志篇』に関して、一通の褒賞状の写しを紹介することにする。
   成沢村
 袴地壱反   瀬谷登之介
 告志篇壱部
      其方儀学問武芸出精ニ付為御褒美本分之通御品被下置候条尚更出精可致事
      (右元治元年甲子四月八日四ツ時御用)
  これは、安政年間増設された水戸藩校の一つ、那珂郡大宮郷校(常陸大宮市)から受けたものである。登之介(名は義正)の生地成沢村(多賀郡成沢村、現在の日立市成沢町)からは多賀郡大久保村の暇修館の方が近いので、そこにも席をおいて学問や剣術に励んでいたようであるが、はるかに遠い大宮郷校にも、会日には休まず通っていて受賞したのだろう。
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

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