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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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水戸城焼失と旧水戸藩士の鬱憤 (3)

 供述書の冒頭に名前の出てくる「河西粛儀」とは、以前、「弘道館の戦い⑤」で紹介したことのある人物で、明治元年10月、市川勢が現在の千葉県匝瑳市に逃走した折、水戸藩追討軍「純真隊」の三番隊長として指揮を執った「河西辰次郎」のことを指すようです。その時の一番隊長は尼子扇之介、二番隊長は松延喜之介でありました。
 供述調書にある「松延清之助」と松延喜之介の関係は今一明確ではありませんが、明治時代に初の衆議員議員となった「松延玹」と「松延喜之介」は同一人物のようです。出典は「常総名家伝」で、そこに「松延玹」の名前と略歴が載っています。常総名家伝によれば、松延玹は明治当初、藩命で諸国を遊歴したようですが、河西辰次郎と東京を出発し、各地を経て大坂に至る、と書かれています。どのような任務かは書いてありませんが、廃藩置県の報を聞いて任務を果たせないまま帰ってきたようです。

 明治七年の水戸城焼失の後は、河西、小松崎吉郎と共に清国に渡ったといいます。河西と松延玹のこのような親密な関係から推測しますと、河西が一時同居したという水戸の松延清之助は松延玹と兄弟であったように思います。
 供述書には、桜田門外の変にかかわった「佐藤鉄三郎」の名前も出てきます。また、三木と同論の者として8人の名前(酒泉彦太郎、前木鈷藤太、向坂真之助、大関亮之助(俊徳)、大竹与兵衛、谷勇次郎、國松銀太郎、經島留八郎)が挙げられていますが、明治になって頭角をあらわす大関亮之助(元大発勢)がいることに興味を覚えます。かれは桂小五郎(木戸孝允)やその従者であった伊藤俊輔(博文)と交遊(剣術道場で一緒?)があり、茨城県令となって水戸に派遣する長官は一様に大関のところに挨拶に出向いたそうです。この人は桜田門外の変に参加した「大関和七郎」と同族なのでしょうか。

 酒泉彦太郎、いわゆる「本圀寺勢」の一人ですが、かれの日記がたびたび「水戸市史」に引用されています。また、三木左大夫とともに「茨城人物評伝」に詳しく紹介されていますが、酒泉や三木の交遊も多岐に渡っていることに驚かされます。後に京都の県令になった北垣国道、鳥取県令になった河田佐久馬をはじめ、会津藩の首脳とも関係を結んでいます。敦賀の水戸烈士墳墓の前にある石燈籠の寄進者として鳥取藩家老や北垣国道の名前などが刻まれていますが、水戸尊攘派との深い関係を示すものとして注目されます。酒泉彦太郎の弟温忠は、兄の無実を訴える救済運動で処分を受けますが、後に第三代の水戸市長して活躍しています。

 前置きが長くなってしまいましたが、果たして事件の真実はどうであったのでしょうか。巨魁(首謀者)と目された酒泉、三木、藤田らが手厳しい取調べにもかかわらず、最後まで自白しなかったということですから、この供述書は司法省にとって重要なものだったのでしょう。当事者でなければ知り得ないことも述べられているので信憑性は高いのだと思います。
 水戸城放火について本を出版した著者によれば、いずれの関係者も事件後に「清々して宜しかろう」などと言い、悲しむ様子がどこからも感じられないことから、供述書の内容は事実であると述べています。つまり、水戸県ができた時に県庁の高官の地位にあった者が主導したのは間違いないと記しています。
 また、供述した松延清之助は、その後自殺したとも書いていますが、それが真実であれば大変不幸なことであったと言わざるを得ません。水戸藩は幕末、天下の魁として尊王攘夷運動を旗印に掲げて他藩の一歩先を進んできましたが、最後には攘夷から倒幕に踏み切った西南雄藩に先を越されてしまいました。そして明治維新という新時代を迎えた時、政府には水戸藩出身の者の名前はありませんでした。水戸の先人たちが命を賭して幕政改革に取組み、未曾有の国難に立ち向かったのですが、そのようなことを無視したような政府高官の態度が気に入らなかったのかも知れません。元々水戸藩士は御三家であることを鼻にかけ、京都では他藩の藩士を見下したような態度であったとも言われていますから、余り好感を持たれなかった面もあったのでしょう。

 「成破の盟約」を基準に歴史を振返れば、あるいは桜田事変を見ても、水戸藩は常に仕掛け人的役割を果たし、その後の事態収拾は長州藩などに任せるという考えもあったので、そういう意味からすれば必ずしも表舞台に立つこと、立てることを望んでいなかったようにも考えられます。しかし、いざ新しい時代を迎えてみると、先人(大天狗)たちの思いとは違った見方をする人々(小天狗)が出てきたように思います。
 水戸城が焼失した後の段階になって常磐神社創建の話が持ち上がりますが、当時の旧水戸士族にとって義公(光圀)、烈公(斉昭)は水戸藩の象徴的存在であり、これを政府に認めさせることで折合いをつけようとしたのかも知れません。
 水戸藩には前途有為な人材が数多いたのですが、残念ながら激しい党派の争いでそういった人々が亡くなってしまいました。
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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