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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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明治維新150周年を目前に控えて

  今年一月から始まった新たな取り組みで、八年前と同じように昼夜逆転の日々がつづいています。当時はまだ60代でしたが今は70代、なかなか思うように進まないのが実態です。でも意欲だけはあるので、スピードは遅くても焦らずじっくりと仕上げていきたいと願っています。具体的には、夜8時頃から机に向かい、明け方4、5時頃布団に入ります。そしてお昼頃起床してその日の日課が始まります。 最近は夜が明けるのが早いので、出来るだけ暗いうちに布団に入るよう心掛けています。
  体力づくりの散歩も3月頃から再開し、8000歩を目標に挑戦しているところです。散歩コースは町中を避け、田圃道や林の中を歩くようにしています。農家によってはすでに稲苗が植え付けられ、蛙の鳴声も聞かれるようになりました。また、ツバメの一団が田圃の上を低空飛行で飛んでいる姿が散見されます。休憩を兼ねてよく観察しますと、いろいろな飛び方を披露してくれますが、とに角飛ぶスピードが速いのと変化に富んだ方向転換が興味をそそります。小生の家の近くにある林にはキジなどの野鳥が生息していて、これもしばしば目にします。警戒感が強く、近寄ろうとすると速足で藪のなかに隠れてしまいます。

  話は変りますが、例年「歴史研修旅行」を実施して参りました。昨年は大河ドラマにちなんで萩へ行ってきましたが、今年は友人の山国隊関係者の勧めで京都を訪問することになっています。この行事には鳥取からも友人が合流することになっています。先日、地元組が集って日程案を話し合い、原案が決定しました。茨城空港から神戸に行き、神戸から快速電車で京都に向かうことになりました。距離は80キロ近くあるのですが、1080円の電車賃で1時間もかからないのですから有難い話です。今回は見どころが多いということで、いままでより滞在期間を二日ほど多く取ることにしました。次回の打合せでは、見学場所を洛中と東西南北に分けて決めることになっています。十月初旬を予定していますので、それまでには肝心の原稿を仕上げなくてはなりません。

  現在、元治元年から明治二年二月までの粗原稿約450ページが出来上がりました。この後がいよいよ「まとめ」の部分となるのですが、小生にとって一番の難所となります。残り20~40ページになりますが、どう着地点を見出すかが大きな課題となります。
水戸藩は、幕末「天下の魁」として歴史に名をとどろかせて来たことは有名です。つまり「尊王攘夷」という旗印のもとに諸藩の力を結集し、未曾有の国難に立ち向かおうとしました。しかし、外国の軍事力と当時の日本の軍事力の差は歴然としており、これを目の当りにした長州、薩摩などはそれまでの方針を一変させ、秘かに攘夷から倒幕へと軸足を変えることになりました。幕府権力による水戸天狗党の大量処刑が、幕府を武力討伐するという大きな引き金になったとも言われております。
  ところが、「本圀寺党」と称する当時の在京水戸藩士の意識は、あくまで「攘夷」一辺倒のままで、次第に改革勢力であるはずの薩摩、長州などと距離を置くようになります。勿論、尊王敬幕主義の水戸藩ですから倒幕などというような概念がないのは当然だと思います。本圀寺勢は、慶喜が禁裏守衛総督時代まではその麾下でよく働いてきましたが、慶喜が将軍職になって兵庫開港の勅許を朝廷に提出するに至って足並みが乱れ、統率者の大場景淑、鈴木縫殿らは途方に暮れてしまいます。武士としての忠義をどこへ尽くせば良いのか、本圀寺勢の間で議論が沸騰します。
  水戸藩主慶篤か、将軍慶喜か、それとも朝廷か、酒泉彦太郎の日記には当事の本圀寺勢の苦衷が詳しく書かれています。あれよあれよしている間に薩長が急進派の公卿と結び、王政復古の大号令が出てしまうのですから、水戸藩本圀寺勢の立場はいよいよ苦しくなってしまいます。
  天下の魁であったはずの水戸藩は、いつの間にか新興勢力の前に怯える存在となったのです。そして明治新政府に薩長土肥の政権ができたことで、あたかもこの四藩が明治維新の立役者のように言われるようになってしまいました。しかし、「幕末の魁、維新の殿」の著者小野寺龍太氏は、明治維新の原動力について「水戸藩の徳川斉昭」を高く評価しています。二年後の2018年は、明治維新150周年を迎えますが、改めて水戸藩が脚光を浴びることを期待せずにはいられません。
小野寺氏の言葉を借りれば、西郷、大久保、桂の場合にはそれに取って代わる人物がいるが、徳川斉昭の場合はそれが見当たらないと強調しています。

  改めて幕末維新を考えると、水戸藩士はあくまで武士の忠義に尽くそうとしたのに対し、他藩は武士ではない西洋合理主義を取り入れんがため、攘夷をあっさり捨てたように思います。明治新政府の高官たちは、水戸藩の攘夷をどのように振り返ったのでしょうか。
  日本を神州ととらえ、それを異人によって穢されることを嫌って尊王攘夷主義に徹した水戸藩、武士の存続を前提とした水戸藩士の考えは、どのように捉えれば良いのでしょうか。
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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