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弘道館の戦い (6)

八日市場周辺松山での決戦

   『徳川昭武家記』によれば、「市川弘美等奸人(中略)下総国へ潰走ス、藩兵尾撃シ匝瑳郡八日市場ニ戦テ之ニ捷(勝)チ」とあり、恐らくここが原拠となって市川勢と水戸藩兵(追討軍)の決戦を八日市場の戦と呼ぶのが、水戸地方の常識となったものであろう。ところが、八日市場に近い多古藩の明治元年十月十日付の明治政府への届書によれば、「去ル七日不取御届置候通、下総国匝瑳郡松山村辺ニテ戦争相始リ候旨注進ニ付」とあって、戦いは松山村辺であったことを示しており、また十月十七日の届書には、「松山戦争」と記している。しかし、これも余り遠くない小見川藩の記録、十月四日の条に「然ル処脱賊八日市場辺屯重戦争之趣」とあって、八日市場辺での戦闘を思わせる記述もあるから、水戸藩が八日市場の戦というのも決して的外れというものではない。
 当時、八日市場村は松山村と同じく旗本知行地であったが、八日市場は銚子街道に沿う宿場町で名が通っていたので、水戸のような遠方では八日市場の戦いという呼称が、一般的になった事情も察せられる。
 しかし、この松山村は現在八日市場市域となり、「八日市場史」では、「明治元年十月六日(新暦では十一月十九日)、八日市場村から松山村、中台村での水戸藩諸生党と天狗党による戦闘は″松山戦争″と呼ばれ、時間にしてはほぼ二時間余りの戦闘が水戸藩の戊辰戦争終結の場となった。この戦闘が八日市場を舞台に繰り広げられることになった必然的理由は見当たらない。むしろ当地方にとって突然降ってわいたような出来事であった」と述べ、古くから戦闘の主戦場となった松山の地名をとって「松山戦争」と称してきたことを示している。

 この決戦の状況については、越後以来市川勢に参加して行動を共にした前記黒崎雄二の回顧談に「私共ハ八日市場ヘ参りました。(中略)昼の支度をすると云って居りますと裏山で砲声を聞きました。(中略)裏山に登れといって僅か四十人計りの者が登りました所が、水戸からの百目筒を以て追撃したのでありました。(中略)それで八日市場の高台の松山で土手に乗て戦ひまして」という程度の簡単で、しかも曖昧な内容である。これは黒崎が松山戦争には直接参加せず、途中から東京を指して逃走することになったために、戦況について詳しく述べることができなかったのであろうか。他に市川方で戦況を記したものはない。
 これに対し、追討軍記録の一例として、前記純真隊のものがあるが、それには、「残奸共八日市場さして迯去候故、尼子扇之介総勢昼夜を懸て追かけ、下総国八日市場在松山村中台と申処に而追付、十月六日四ツ半(午前十一時)時砲戦相始メ敵を目掛けて無二無三に打入、奸賊共朝比奈弥太郎父子始メ三拾人討取、其外拾人寺ニ而焼死、其日之八ツ半(午後三時)遂ニ落着相成、尤味方の討死者ハ五人、深手負九人、浅手負弐人有之候間、早々八日市場引取候処、戦場より賊三拾人程迯去候、跡より追討勢南御郡方寺門辰太郎殿勢幷潮来館之人数、上総さして追かけたり、純真隊之勢勝利ニ而、一ト先御国元江御引上相成次第之事」とあって、まず市川勢に対して追討軍が砲撃を加えたことは、前記黒崎の回顧談と一致する。
 また、松山西北方の多古村(千葉県多古町)陣屋のあった多古藩の十月七日付の明治政府への届書には「私所在下総国多古陣屋ヨリ東方之方へ当リ昨六日昼八ツ頃(二時)遥ニ大砲小銃之音相聞、不容易相心得候ニ付巡邏隊差出候処、同松山村辺ニテ水藩脱走之由ニテ卒然ト戦争有之由報告有之、依陣屋許へ兼テ備置候兵隊迅速出張子仕候段(中略)猶委細之義ハ追々可奉申上候得共、不取敢此段申上候以上」とあって、砲撃の戦況を伝えている。
 また「松山戦争」には、「頃ハ四ツ半(午前十一時)時ニ打出ス、大筒鉄砲小筒其ノ響天地モ崩ルゝ斗(ばか)リ也。諸誠派(諸生派の誤記)方十人斗リ、尼子勢ノ群タル中へ切込ミケレバ馬印捨置キ大勢ドット逃出ス」とあって、砲撃の激しさを伝え、合せて市川方の勇猛な奮戦ぶりを記しているが、市川勢には大小砲はなかったものと考えられるので、松山、中台方面での戦いが、兵員の数でもまた武器の点でも、追討軍が圧倒的に優勢だったことが知られる。
 従って前記純真隊の記録にあるように、水戸藩追討軍の討死がわがか五人に対して、市川勢は討死が三十人、その外十人が付近の寺で焼死とあって、結局四十人、つまり八倍もの戦死者があったことは当然の結果と考えられる。

 このほか市川勢三十人程が戦場より逃走したというから、松山まで至った脱走市川勢は七十人ほどで、そのうち四十人が戦死ということになる。松山は市川勢にとって将に決戦の場であり、壊滅の時であった。純真隊の記録に、この戦争がついに「落着」したとあるが、それは追討軍からすれば、長い党争の戦いに留めをさしたと同意語と見なすことができるであろう。
 さて、市川勢の戦没者の数については、大正十五年(一九二六)四月戦跡に建立された脱走塚の弔魂碑に、「飛丸雨の如く諸生党軍遂に全滅す。遺屍二十五、其の一首級なし」とある二十五人から、多いものは四十四人と開きがあって、諸書異なるのは確たる記録が欠けているためであると考えられる。
 そして四十人とする純真隊の記録には、討取り分として十九人の名をあげているが、前記弔魂碑に刻まれた二十五人の名前とは一致しない点も認められる。しかし、戦没者の中心人物と思われる者の名はほぼ一致する。
 その中から主な人物をあげると、門閥派の代表的人物前執政朝比奈弥太郎四十一歳、その養子で小姓頭の靭負、先に北越で病死した佐藤図書の長子で小姓頭の主税とその弟留男、前執政筧助太夫に十八歳とその弟平十郎二十一歳、先手同心頭富田理介、徒目付友部徳之介に十五歳(父は結城寅寿に党与したとして安政四年永牢となった友部八五郎)らが藩士として注目される。
 またこの決戦で門閥派と行動を共にしてきた水戸藩郷士が戦没していることも注目される。それは久慈郡大子村の旧族郷士益子民部左衛門六十六歳とその実弟で別家を継いだ郷士益子勘介六十三歳らである。こうして朝比奈、筧ら執政を勤めた門閥派の中心人物や、また古くから門閥派に組してきた郷士たちが、親子あるいは兄弟揃って松山の戦いで姿を消したことはも反天狗を標榜してきた門閥派の壊滅を意味するものであった。
 一方追討軍について、地元では当時の伝承口碑などによって、八日市場地方の民衆に対しての乱暴や献金を強要したり、押し借り等があったとしているが、「高崎藩記」では、「水藩兵士領内ニテ金策等之調書」をあげ、「水戸御藩三百余の兵士が当時高崎藩領内へ宿陣中、在町(銚子を指す)所々の人家へ押込み、金品等を出させたという風聞があったので、追々鳥調べさせた」ところ、銚子の豪商田中屋常右衛門は三千両のほか、同人預り金五千両と造醤油仕入金二千両、浜口儀兵衛外二人が二千両、田中玄番が千二百両、その他の金額合せて一万三千七百両を奪い取られたとしている。それは戦争がもたらす勝利者の常套手段ともいうべきものだったのである。
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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