FC2ブログ

桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

                 桜田門外の変「情念の炎」ホームページはこちら
本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

FC2ブログランキング
←ご協力お願いします

弘道館の戦い(5)

敗走する市川勢 2

  さて前に触れた高崎藩への降参人であるが、これについはまず前記黒崎の回顧録に、
「松岸上陸後、銚子で船を雇って北海道へ落ちるという協議だったが、高崎藩兵三百人がやって来て交渉ということになった。それに当ったのが大森弥左衛門で、結局降伏ということで、その条件も予めできたように聞いた。すると松岸の町中で砲撃するかと思ったとたんに、交渉役の大森が倒れて死んだ。余りのことに同志は銚子まで繰り込み、高崎藩の指揮者に抗議した。しかし、不行届きを陳謝されたので、三百の人数で死骸を松岸の某寺に鄭重に葬った」
 と、いうのである。
 この大森弥左衛門というのは水戸藩馬廻組の大森金四郎の誤記で、実は市川勢の重鎮で会津で陣没した大森弥三左衛門の実弟である。かれの弟の大森金八郎はすでに三月暗殺され、古くからら市川家と関係の深かった門閥派大森家も、党争の犠牲となって一族滅亡の憂き目にあったことになる。
 さて、降伏したおよそ百十人に及ぶ脱走兵の実体はどうだったのであろうか。これについは、「明治元年純真隊惣人別控」に、明治元年十月二日夜水戸を脱した市川勢に対して、水戸藩から尼子扇之介らの率いる追討軍五百余人が下総に至り、銚子の高崎藩に市川勢のうち百九人が降参し、その残りの者が八日市場へ逃れ去ったと記してある。
 表題の純真隊というのは追討軍の名称で、一番隊長が尼子扇之介、二番隊長が松延喜之介、三番隊長が河西辰次郎で、隊には槍隊などのほか、大砲隊、小砲隊などが配属され、脱走の一隊とは違って軍装の整った一隊のように見受けられる。そして注目されるのはその隊員の中に、かなりの数の農民の名が見られることである。これらは前期のように復活した農兵として、藩に徴用されたものであろう。

 さて、降参人については、右の「人別控帳」に、「下総国松岸ニて、幕人純真隊江降参人別、辰十月五日」として、佐々木槙一郎以下百九人の姓名をあげている。そして降参人を「幕人」つまり幕臣としている。その幕臣降伏の件については、十月二十四日付高崎藩銚子陣屋からの届書に添えられた別紙「脱走之者共降伏竝水藩兵士罷越候始末書」に述べられているので、その大要を左に記すことにする。
「多人数が当領内(高崎藩領内)に著船の旨報告があったので、応接の者をして事情を尋ねさせたところ、奥州を脱出するとき市川三左衛門へ随従してきた由で、一同嘆願筋があるとて、船を雇って東京へ出たいということであったが、それは一切許されないからとして態度決定を迫ったところ、当家(高崎藩)へ降伏したい旨返答があり、大小その他兵器を取り上げ、囲み内へ入れて見張るようにした。
 右の外に長塚村(千葉県銚子市)へも上陸した一隊は、市川三左衛門一手の脱走兵で、前の一隊とは違った趣であったが、水戸藩の追討もあるし、とても脱走の余地はないとして、速やかに悔悟帰順の上は、天朝の寛大の御処置があることを説得して返答を待っていたが、いよいよ脱走をはじめたので、追討のため発砲し一人を討留め、その余の脱走者を追跡したが行方が知れず、当十日(十月)帰陣した」
 というものである。
 ところが百九人の降伏者について、十月十日から十二日まで銚子に宿陣した水戸追討軍(純真隊のことであろう)と、高崎藩側との間に激しい応酬があった。それは高崎藩への降伏者を全員水戸側へ引渡すようなーに強談判があったからである。高崎藩では、降参人については東京の御総督に処置をうかかがっているので、その御沙汰がないうちは如何様の交渉にも応じられないと断ったところ、水戸側では場合によっては多人数が押込み、降参人を奪い取るやも知れぬ気配だったので、程よくなだめ、精々談判したところ、不服ながらも承知して、隊長河西辰次郎らが引上げた。
 しかし、翌十一日になって軍監根本弥七郎らが従者多人数を召し連れてやって来て、降参人のうちには水戸藩の者共もいるようなのでそれを確認したいと言い、どんなに断っても疑っていて穏やかな話はできず、水戸側は憤怒の失言でいよいよ狂檄(矯激)の様子なので、乱暴のことがないことを約束の上、囲みの外より降参人等を見届けさせた結果、(水戸人のいないことを確認して)十二、十三両日に当所を引き払った、というのである。追討軍純真隊が市川勢を捕えようとして、いかに殺気立っていたかを察することができる。

 これによって降参人が市川勢そのものとは全く違った集団であることが分かった。それで高崎藩は降伏の者を糺問したが、その申立書によれば、かれらは四月中東京を出立、野州、信州等で戦い利あらず、兵力衰弱、会津へ至り、会議の上会津を引揚げ東京へ嘆訴することに一決した。折柄、市川三左衛門以下に出会い、右の趣を話したところ、市川も「同意の趣」なので水戸城まで行き、それより船路東京へというのが便利の旨を聞かされた。
 これ幸いと連合して水戸城下までやって来たところ、市川から御城内へ打ち入りの攻撃をするから尽力してくれとの依頼があったので、一同驚き入り、それはどうした趣意なのか、予想もしなかったことで同心できないからと強いて断ったが、さらに聞き入れてくれず、憤激して談判はきびしくなるばかりであった。その場は止むない次第で承知はしたが、去る二十九日より十月二日までの戦争中は砲戦等は無論せず、適当に進退した。
 それで市川は一旦は勝っていたが、終に敗走、玉造まで引き退いて敗走兵をまとめ、それより乗船して当所で運送船を雇い、東京に出て委細をその筋へ申し立てるつもりで上陸したまでで、別に他意はないので、一同降伏してその経緯を申し上げた次第である、ということであった。
 そして降伏集団は新遊撃隊に所属した義集隊、回天隊、純義隊、貫義隊の旧幕兵九十九人と、長岡藩兵ら十一人であった。この長岡藩兵たちは閏四月に長岡城を出て以来、奥州その外所々の戦場へ出たが、隊長その外軍事に関係した重役らは何れかへ散りじりになって計策も立たず、東京へ出るところだったのを市川勢に出会い同伴したので、すべて幕兵らの言う通りの状況であった。因みに降参人は後日東京に送られ、取り調べの上服役、その後許されているのである。
 これでも分かる通り、本来の市川勢には一人の降伏もなく、敗走するままに十月六日、八日市場方面へたどり着いたのである。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
 「情念の炎」下巻
この本を購入する
茨城県内一部店舗で販売しています
義援金募集
FC2「東北地方太平洋沖地震」義援金募集につきまして
FC2はユーザーの皆様から募金を募り義援金として支援を実施いたします。
映画「桜田門外ノ変」
桜田門外ノ変映画予告編 桜田門外ノ変メイキング 主題歌alan/悲しみは雪に眠る
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
リンク
検索フォーム
QRコード
QR