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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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弘道館の戦い (2)

市川方参戦の記とその犠牲者

  弘道館の戦いについての記述には、報告書、聞書等があるが、何人かの戦争参加者の回想記もあるので、その二、三について記してみる。

  まず大子町出身で北越戦争以来の実戦経験者である黒崎雄二の回顧談によれば、市川勢は九月二十九日石塚(城里町)で宿を取ると見せかけて泊まらず、水戸城中へ斬り入る内議で決死の前進ということになり、頭の髪を結い、毛を剃ったりしたが、衣服は穢いままであった。もし目的を果たせなかったならば、水戸家の御廟所瑞龍山(常陸太田市)に参って、残らず割腹するという協議だったという。
 そこで黒崎は、北越戦争敗走後に会津若松城で巡り合った兄の隊と分れて、市川三左衛門付だった志水陸一郎の指揮する隊に合し、直接弘道館へは行かず、城の北側の御杉山の方へ出た。御杉山の戦いで志水らが戦死したので、御杉山を放棄して弘道館に引上げた。弘道館玄関の戦闘で負傷した兄が、筧助太夫と一緒に土手の側にいるのに出会った。それは十月一日の朝のことであったという。
「皆知名の人が弘道館で亡くなりましたような次第で、負傷者ばかり沢山居ります。此処では城から直ぐ見下ろされるから、山ノ辺の屋敷へ引上げたら宜しかろうといふので(中略)山ノ辺邸へ残らず引上げました。其の時怪我人が七十八名ございました。傷の浅深に拘わらず歩行の出来ぬ者は皆自殺して、跡は邸に火を掛けて焼き捨てるの約束でありました。
 故に私共が逃出て凡一里計も行き長岡(茨城町)に至て後を顧みますと火の手が上りました。跡に残りて二、三人が介錯を為し、又邸に火を掛けたのは宗庵(安)と申す医者でありまして、清(志)水陸一郎の弟(兄の誤り)でありました。(中略)弘道館で戦ひつつ其処に三日居りました。是亦糧食もありませぬ武器もありませぬ」
 
  市川勢の敗戦ぶりが生々しく描かれているが、この戦いで市川勢の犠牲者は相当数にのぼった。「奸賊討取幷討死扣帳」によれば、討取り八十六人、不明の首級三十六も召捕り十一人とあるが負傷者については全く不明である。これらの中には藩士以外に農民や僅かながら町民も交じっているが、越後出生某や下野浪人某などがいるのも注意を引く。

  なお御杉山で討たれた市川主計と弘道館で戦死した市川安三郎は共に市川三左衛門の子であった。また市川の家来二人もその中に数えられる。市川三左衛門は自分の古屋敷も焼け、水戸脱走以来越後を転戦してきた二人の子も失った。若き日の学び舎であり、また市川ら門閥派を支えた諸生にとって聖地でもあった弘道館の敷地内で死の戦いが展開されたことは、市川勢にとって予想もしないことだったというだけでなく、、水戸藩の終末として相応しいものだったとは決して言えない。
  そうした中で、弘道館へは無論のこと、城下までも侵入するのは恐れ入るとして、己の菩提所である常葉村(水戸市上水戸)の本行寺の祖父の墓前で自刃した荻庄左衛門とその長男勇太郎の最後は哀れを留めるものであった。
  荻家の祖先は、はじめ武田信吉に仕えて二百石、つづいて水戸藩祖頼房に仕えた三百石の旧家で、庄左衛門の妻はかつて反天狗の中心人物と目された結城寅寿の姉である。元治元年、常に市川三左衛門に属して筑波勢追討の功により、同年十一月には側用人となり、子勇太郎も父と共に市川に従って功あり、同じ時期に中奥小姓となっている。譜代中士の手堅い名家というべきであろう。
  かつて北越の戦陣で、「草枕むすふかりねの木間より 光をてきに弓張の月」という一首を残している庄左衛門は、本行寺で自決の際、次のような母への遺書を認めている。
「    お母上様                 庄左衛門  九拝
 三月以来奧越にて数度戦争仕候処、帰路途中被左之手を打抜一統に後、壱人に相成進退止り 候間、恐入候得共覚悟致候間何卒御安度奉願候」
 また、子の勇太郎は次のような一書を書き遺している。
    御引取
  一 御父様 御大小
  一 私   大小
  一 御父様 御紙入
   右之品本行寺江頼置候間御引取奉願候以上
  これらは、かねて顔見知りの菩提樹の僧に預けられ、やがて遺族の手に届けられたものと思われるが、庄左衛門の母への遺書から、水戸に向かう(帰路)途中でかれが左手に貫通銃創を受け、そのために皆に遅れ一人になって、進退不自由のため自刃の覚悟をしたとあるところが注目される。子の勇太郎はそうした父に殉じて共に相果てたのであろう。庄左衛門時に五八歳、勇太郎は参五歳であった。

<戦死者>

  市川主計(三左衛門の子)、同安三郎(同)、鵜殿内匠、太田源五郎、生駒誠蔵、河合傳次、村松信蔵、宮田常之介、野澤藤太郎、佐々木雲八郎、介川治衛門、藤咲小衛門、宮田介太郎、小田部壮三郎、猪飼傳衛門、佐々八三郎、大久保久八郎、宇田川松之介、中川任一郎、中澤寅一郎、小嶋為四郎、田島重次郎、高倉常五郎、戸村三郎四郎、滑川総四郎、黒羽鉄五郎、後藤小平太、生井岸次郎、小貫要介、荘司誠一郎、長山徳十、藤田卯之介、磯崎二郎左衛門、茅根善吉、岩澤政五郎、瀧徳太郎、田崎年次郎、松田半左衛門、弓削左内、生井秀三郎、菅谷貞蔵、小泉幾太郎、打越所一郎、目黒安次郎、阿部弥吉、渡邊織之介、森山友衛門、久保菅衛門、高野金蔵、高野金七、高野田衛門、長澤亀之介、木村謙吉、大沼平蔵、市毛子之吉、川崎六郎、木村弥一衛門等、その他姓名詳ならざる者数十人あり。
  また、前後捕に就きたるもの兒玉園衛門、大島理八郎、渡邊伊衛門、小泉佐十郎、鯉渕幸蔵、嶋崎左介、松本長衛門、田崎謙次郎等あり、後皆刑せらる。
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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