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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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弘道館の戦い(1)

  この時期としては、例年になく毎日、暑い日が続いています。昨年9月から取りかかった水戸藩の幕末、維新の状況については、ようやく明治元年7月までの調べが終わり、次へ進む準備をしているところです。戊辰戦争のうち、水戸藩が関係したのは主に越後口方面ですが、六月以降、さしたる記述もなく、困り果てているところです。止むを得ず先に進むことに決め、弘道館の戦いについて調べ始めたところです。
これについては、水戸市史でも結構詳しく取り扱っていて、それ以外にも参考図書があるので何とかなりそうです。そこで、水戸市史に記されている弘道館の戦いをご紹介したいと思います。

弘道館の激戦

  それ以後の市川勢の行動について、水戸藩をはじめ市川勢に対抗した諸藩は、明治政府に対して防戦の状況を報告しているが、水戸中納言家来大野謙介の名で提出されたものは次のように戦況を報告している。
「当春国許脱走之奸徒市川三左衛門、朝比奈弥太郎等その他会賊(会津藩兵)共九月二十八日頃領内へ相迫り候ニ付、早速人数差出候処、二十九日未明城西北の方小野河岸(常陸大宮市)と申す小渡場(中略)、午刻石塚(城里町),と申す処にて再戦に及び遊撃隊の内死傷是あり候得ども、遂に防兼退陣致し、城下かね町ニ於テ家老山野辺主水正一手防戦の処、敵大勢味方小勢引返し接戦の処、終に弘道館に押入必死奮戦、朔日(十月一日)未明より双方互ニ接戦(下略)」
 この中で防戦に当ったという山野辺義芸(主水正)の一手が、敵の大勢(市川勢)に敵わず、ついに市川勢が弘道館に押入り、翌十月一日未明から水戸城中の兵と、弘道館を占拠した市川勢との間に激戦が展開されたというのが、世にいう弘道館の戦いである。
 また水戸藩の附家老で、この年の一月末独立したばかりの松岡藩(中山家、譜代二万五千石)の報告書は、「賊市川三左衛門等水戸領大子(大子町)辺へ襲来候趣追々遂注進候ニ付人数差出シ討撃候処、十月朔日暁七ツ時(四時)頃賊軍俄ニ内郭弘道館(三ノ丸の地)迄進来、及発砲候間、弊藩一隊大手(弘道館と相対する)相固メ、一隊水門荒神見附固居、分手杉山口ヨリ四斤半大砲一門小砲ヲ以砲撃、午後備中守一隊相率ヰ諸隊指揮致シ、親(みずから)弘道館へ相進及接戦賊徒討取候得共、箇所々々潜伏発砲烈シクニ付一ト先城内ヘ繰込、諸隊ヲ整頓仕又々
弘道館へ討入指揮ヲ加へ奮戦仕、賊徒討取暮時人数繰揚ケ、弘道館文武教場失火終夜辛苦奮戦、大砲打掛ケ固守仕候(下略)」と奮戦の模様を伝えている。

 中山隊は一旦弘道館内へ進入したが、各所に潜伏する市川勢の激しい発砲にあって、ひとまず水戸城内に退いて隊を整え、再び弘道館へ打ち入って「賊徒」を討ち取り、暮れ時また城中に引上げたが、弘道館の文武の教場は戦火で焼け、終夜奮戦、城側から大砲を打ちかけて城を固守したという。
 一方弘道館の市川勢が打ち込んだ弾丸は、慶篤の「御尊骸」や文明夫人(故斉昭の夫人)と故慶篤の夫人、また両公子の居間の庭へ時々飛来したというから、双方からの銃撃戦が激しかったことが分かる。
 こうした砲撃を交えた戦闘で、弘道館の諸施設が戦火を被り、正庁を残して文武の教場と寄宿舎、賛天堂と呼ばれた医学館が焼失した。この原因は何だったのか。当時もこれについては二、三の見方があった。その一つは、水戸中納言家来大野謙介の名で明治政府弁事役所に出した届書に、「翌二日(十月二日)敵支え難き故か、弘道館内並びに南北郭中へ放火致し、同夜四方へ散乱」とあって、いかにも市川勢の放火によって焼失したかのように受け取れる。
 これと反対に、水戸上町の豪商大高氏の日記十月一日の条には、「朝より天気快晴西風(中略)夕方御城より鉄砲ニ而南三ノ丸大火」とあって、水戸側からの鉄砲が焼失の原因であるように解される。前記、松岡藩の報告書にもあるように、城側からは大砲も打ち放ったとあるから、城側からの発砲によって火災が発生したことも十分に考えられよう。

 弘道館の土塀が修理される以前は、当時城側から打たれたと思われる弾痕が生々しく残っていたが、今では弘道館正門の柱にその跡を留めるのみである。
 その時の火災については、「御用召御達諸留」十月一日の左のような記事が詳しい。
「夜火出来ル、弘道館武術稽古場より医学館表長屋幷南三ノ丸松平安房屋敷より、杉浦長五郎、大久保甚十郎、古筧助太夫、太田新倉屋敷迄皆焼、飛火ニ而柵町赤林三郎兵衛屋敷より、古市川三左衛門屋敷まで焼、都合七間(軒)焼」
 とも角水戸城下としては、かつて見られなかった最も激しい戦いであったから、その混乱の中で火災の原因を突き止めることは難しいであろうが、この戦いによって天保十二年(一八四一)に開館されて以来、水戸藩文教の拠点として全国的にも水戸の声価を高らしめた弘道館の重要な諸施設が、一朝にして鳥有に帰したことは、後世深く惜しまれるところであった。
 この戦いは、十月二日夜に至って多くの負傷者を出した市川勢が水戸をあとに脱走したことで終わりを見た。若松城を出た時には二百五十人ぐらいだった市川勢も、この時にはおよそ五十人足らずになったという(史談会速記録)。また下総方面へ落ち延びたのは二百人ぐらいだったともいい(天保明治水戸見聞実記)、その差は大きい。
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

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