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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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福井県史から見た幕末の動向 (7)

諸藩の動向

  前述の福井藩を除く丸岡・大野・勝山・小浜など若越諸藩の動向に触れることにする。丸岡藩は、藩主有馬道純が元治元年四月十二日老中を退くと、間もなく京都の伏見街道稲荷山辺の黒門口の警衛を命ぜられ、同年六月には、江戸表の麻布善福寺のフランス軍隊屯所の警衛に当たった。第一次長州出兵では、同元年十一月、出雲意宇郡竹屋(矢)村に出兵し、安楽寺を本陣とした。作事小屋を武具置場にあて、番所を四戸、四間に10間の夫人足部屋も二つ設けた。出陣の際は、丸岡近辺の村方から夫人足を集め、兵粮や武器の輸送を行った。また別の一隊は、出雲郷村宗淵寺に陣取り、山田兵部の統率する総勢750人をそれぞれ部署につけ、ゲベール銃など新鋭銃器で装備した。しかし、長州軍と戦火を交えることなく、翌慶応元年一月四日出雲をたち、同月二十七日丸岡城下に戻った。
  次いで第二次長州出兵では、慶応二年三月、藩主道純が藩兵を率い、摂津兵庫に出向いて警備に当たった。家老は皆吉民部、御用人は林田三平、足軽支配は高木主税で、本陣を真光寺におき、五か所に分宿した。将軍家茂の大坂進発を前にして、同二年五月八日夜、兵庫一帯に百姓一揆が勃発した。とりわけ「湊川先へ多人数屯集し、貝・太鼓を打ち交わし鯨波相発る」有様で、「凡そ千人余も竹槍・棒様の物相携え、湊川総門へ競い来る」(『有馬家世譜』)という猛勢をみせたため、丸岡藩兵はその鎮圧に当たった。この時、一揆勢の死者は30人、負傷者は5、60人に上ったが、藩兵には被害がなかった。一揆勢が四散したのちも、その再発に備えて警備をいっそう厳しくした。その後「長州再征」の停止にともない、同年十月には警備の任が解かれた。
 
 大野藩は、第二次長州出兵に当たり、慶応元年十一月十八日、京都所司代松平定敬より「京師へ胡乱の者入込候も計りがたく候につき、御警衛仰付られ候間、嵯峨・太秦辺へ人数差出し置、改方厳重に致すべく候、尤も時々見廻として、御目付差遣すべく候間、その意を得べし」との通達をうけたので、直ちに藩兵を京都に差し出した(土井家文書)。すでに内山介輔・服部与右衛門の両人が在京し、御目付兼勤についていたが、差し当たり、二小隊ほどの藩兵が嵯峨・太秦方面の警衛に当たった。
  勝山藩も、第一次長州出兵では藩兵を京都に出動させるにとどまり、第二次長州出兵では大野藩と同じく京都所司代の統轄下に入り、慶応元年十二月から嵯峨・太秦方面の守備に当たった。勝山藩兵は、直接戦闘に加わらなかったが、「征長」終結後幕命で大坂に転進し、同三年四月再び京都に出て、竹田街道を警備した。
  小浜藩は、第二次長州出兵の際、長州からの軍船の来襲に備え、船手250人分と川崎町浜台場113人分の炊き出し方を、町方の有力町人に命じている(『小浜市史』通史編上巻)。なお同藩では、藩主酒井忠義の京都所司代勤務中の出費、京都・山崎辺の警備や相次ぐ不時の出兵などで、著しい財政難に見舞われ、しばしば御用金を領内に課さざるをえなかった。慶応元年八月には、「一統ニも略承知之通り、近年世上甚不穏、所々戦争も有之候ニ付、京都御警衛者不及申、八幡山崎辺俄ニ出張、殊ニ御警衛ハ永々之事ニ相成」る、との趣意書を出した(団嘉次家文書)。領内の町在に計二万両の軍用金を課しており、幕末の厳しい政治社会情勢にあって、同藩では極度に逼迫した財政難をかこったのである。

高まる社会不安

 「長州再征」の幕長交戦を間近にひかえた慶応二年(一八六六)五月、一揆・打毀しが江戸時代を通じて最大の高揚をみせる。一揆・打毀し勢の主体は、貧農・都市下層市民に広汎な中層農を糾合したもので、その特徴はまさしく「農村から農村へ、農村から都市へ、都市から農村へと、自然発生的ではあるが、きわめて早い速度で波及する様相が著しく見られたこと」である。
  こうした深刻な社会不安の実相は、さきに春嶽が指摘したとおり、とくに第二次長州出兵による物価騰貴と、農民や都市民に対する幕藩領主層による貢租や軍役などの過酷な賦課によるものである。とくに米価の値上がりが目立ち、例えば大坂での肥後米の石当たり値段は、中沢弁次郎によると、十数年前の嘉永(一八四八~五四)年間までは、銀100匁を超えることがほとんどなかったが、慶応元年一月には207・5匁、二月は239・9匁、さらに将軍が江戸を進発した五月には646匁、次いで幕長間に戦端の開かれる翌二年六月には895匁と、平時の約9倍にも急騰している。
  このような異常な社会不安の情勢は、「征長軍」による糧秣の需要や、諸藩が戦乱の拡大を予想して糧米を貯蔵したこと、それに長州藩の下関閉鎖によって諸国物産の大坂輸送が中絶したことなどによるとみられる。そのため、とくに大消費地の大坂や江戸で米の在庫が欠乏し、その機をねらった米商人の買占めなどがさらに値上がりに拍車をかけた。
 「長州再征」が停止されたあとでも、一揆の余波が各地でみられた。慶応二年九月下旬、江戸では下層民を中心に、老中水野忠精と出兵を強引に推し進めた勘定奉行小栗忠順の屋敷への襲撃が呼びかけられ、これは町奉行の手でようやく鎮圧された。江戸市民の下積み層にまで、幕政担当者に対して、「征長」の責任を厳しく追及する意識が働いたものとみられる。

  春嶽は、「征長」停止後の慶応二年九月十四日の建白書のなかで、「畢竟幕政ノ御失体より起候義にて、上奉悩宸襟、下士民を困究ニ為陥候ハ、全ク幕府ノ御失策」(「松平大蔵大輔建言」『松平春嶽全集』)によるものと、少しもはばかるところなく幕府を糾弾している。
 小浜藩領でも、米価はもちろん諸物価高騰により領民が生活苦にあえいでいるため、藩は慶応二年十二月十六日、銀300貫を与えて窮民の救恤を図った(大和田みえ子家文書)。これより前の八月二十六日には、従来の米穀の津留措置にもかかわらず「竊ニ津出シ致候様之風聞も有之」とし、改めて津出し厳禁の布達を行っている(同前)。また「米穀格段高価」に加え払底する窮状から、八月酒造業者に対し、当年は「関八州之通り銘々株高之四ケ三相減、四ケ一酒造可致候、若シ隠造過造致シ候者於有之者、酒株取上ケ厳敷可申付候」と、大幅な酒造制限の措置をとった(熊川区有文書)。このように、「長州再征」後も依然として続く米価高騰による深刻な社会情勢は、小浜藩領民にまで波及していた。
 大野城下でも、慶応二年十月、町庄屋が連名で藩に対して用捨米(八〇〇俵)の願書を差し出しており、そのなかで「前代未聞之米直段」に加え凶作のため、百姓は難渋の極に達し、「御百姓相続之程如何可相成哉」の窮状にあえいでいると訴えている(宮澤秀和家文書)。


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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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