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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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水戸天狗党関係取材の旅 (1)

  10月14日から17日までの4日間、天狗党関係の取材のため、友人3人と共に福井県敦賀市と美浜町佐柿を訪問してきました。とは言っても、交通手段の関係で、実質は一泊二日の旅というのが正確なところです。主な日程は、次の通りです。 

 10月14日(火)夜8時、茨城空港発、夜9時、中部国際空港着。空港内ホテル宿泊
 10月15日(水)
     午前8時、レンタカーでホテル出発、10時30分、敦賀着         
           鳥取の森本映画監督ら5人と松原神社で合流
          ① 松原神社及び鰊蔵見学、②松原公民館訪問・懇談、③武田耕雲斎の墓見学
               ―昼食―
      午後、①永厳寺訪問  ②新保宿散策(武田耕雲斎本陣)及び地元の方と交流         
          ③葉原宿散策及び地元の方と交流
              夕方、美浜町へ移動、民宿
 10月16日(木)
    午前 ①美浜の若狭国吉城歴史資料館訪問(学芸員、地元有志と合流)
        ②徳賞寺及び准藩士屋敷跡見学
             敦賀へ移動
        ③敦賀市内で水戸烈士顕彰会の方と交流
              昼 食(昼食後、鳥取のメンバーと別れる)
    午後  敦賀から高速道路で滋賀県長浜市へ
        ④「長浜城歴史博物館」見学
     夜、中部国際空港内ホテル着、夕食
 10月17日(金)午前8時10分 中部国際空港発、9時、茨城空港着

 当初、台風の関係で飛行機が飛ぶかどうか危ぶまれましたが、台風一過の青空となり、無事、予定通りのコースを回ることが出来ました。
 10月15日(水)午前十時半過ぎ、約2時間かけて敦賀の松原神社に到着し、待ち合わせをしていた鳥取のメンバーと再会を果たすことが出来ました。当地では、鳥取の映画監督ご夫妻、H氏の他にも、京都、滋賀県からも山国隊関係の方が合流し、この日は、合計9人で行動を共にすることになりました。
最初の見学地は、松原神社及び鰊蔵でしたが、松原公民館のご配慮で特別に鍵を貸していただき、鰊蔵の内部も見学することが出来ました。この蔵は、外観も内部も、ほぼ当時の物と同じ状態で保存されていたので、大変感慨深いものがありました。想像していたよりは少し広く感じられましたが、ここに50人もの人数が監禁されていたことを考えますと、身につまされるような思いが致しました。内部には、当時の様子が分かり易く理解できるよう説明資料などが整っていたのが印象的でした。「松原」の名の如く、神社の周囲には松林がたくさんあり、手入れも行き届いているのに感心させられました。改めて、敦賀の皆様方に深く感謝申し上げたいと思います。

 道路を挟んだ反対側には、松原公民館があり、その奥に水戸浪士塚が高く盛り上げて作られておりました。その手前に武田耕雲斎の像があり、両側には石燈籠が二基建っていました。石燈籠をよく見ると、右側には備前、左側には因幡の文字が彫ってあり、その下に数人の名前が刻まれていました。
 特に鳥取の森本監督は、因幡の下に掘られた名前に注目しておりました。そこには初代鳥取県権令を務めた河田佐久馬の弟の名前など、合計数人の名前が刻まれていたからです。河田家の先祖は、代々鳥取藩の京都留守役を務める家柄のようで、所謂尊攘激派に属する藩士であったと言います。文久3年8.18政変の前日には、有名な因幡二十士事件が起こっています。石燈籠の側面には「慶応元年九月永厳寺取次」と刻まれていました。これらのことは、水戸藩尊攘派と鳥取藩及び岡山藩尊攘派の深い関係を示すものとして注目されそうです。石燈籠の近くにあるボタンを押すと、BGMとともに水戸天狗党に関するアナウンスが流れ、参拝者に分かり易く説明が聞けるようになっていることにも大変驚かされました。

 階段を数段上がると、西上軍に加わって処刑された方々の名前が刻まれた墓石が沢山並んでおりました。参加者一同、手を合わせて故人の冥福を祈らせていただきました。
 この日は、もう一つの注目材料がありました。偶然にも鳥取のH氏が、浪人塚の手前の左隅に倒れていたもう一つの石燈籠で、そこにも鳥取藩関係の名前が刻まれていたのです。このまま放置できないということになり、後で元通りに修復しようということになりました。(つづく)
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真善美の探究

【真理と自然観】

《真理》

結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。



《志向性》

目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。



《思考》

『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』

思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)

『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』

『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』

考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。

愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。

しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」

神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。


善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活活とした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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