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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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福井県史から見た幕末の動向(4)

浪士勢の処刑 
  浪士勢の幕府への引渡しが決まると、敦賀町内の警戒が厳しくなり、本勝寺・本妙寺・長遠寺の近辺や往来の入口は通行禁止となった。その外回りを彦根・福井・小浜の三藩が警備に当たり、夜間は各所にかがり火をたくという物々しさであった。こうしたなか浪士勢は、船町の鰊蔵一六戸に、一戸に五〇人ずつ収容された。土蔵の窓はすべて釘付けにされ、敷物は莚であり、土蔵中央に桶を置いて便所とした。また食べ物を渡すため、土蔵の出入口の戸に手が入るだけの穴が開けられた。武田耕雲斎等三〇人を除いて、左の足に足枷をかけるという苛酷な仕打ちであった。
  田沼意尊一行は二月一日敦賀に入り、永建寺を本陣とし、即日永覚寺に仮白洲を設けて、浪士等の取調べを開始したが、それはきわめて形式的なものであった。幕吏が浪士の断罪を終えて敦賀を発った直後の三月五日、加賀藩士が国元に報告した覚書(「諸事留」『加賀藩史料』)によると、「敦賀表浪士」総人数は八二八人で、そのうち二四人が病死、三五三人が死罪、一三六人が遠島、一八〇人が追放、一二五人が水戸藩渡し、少年九人が永厳寺預け、一人が江戸送りとなっている。なお、一八〇人の追放者は浪士勢の西上に従った諸国の軍夫で、また水戸藩渡しの者は同藩領下の百姓であった。
  処刑は、二月四日から町はずれの来迎寺境内の刑場で始まり、まず武田耕雲斎を初め二四人が斬首された。彼の辞世の歌の一つは、「咲く梅の花ははかなく散るとても 香りは君が袖にうつらん」というものであった。続いて、十五日に一三四人、十六日一〇三人、十九日七六人、二十三日に一六人が処刑された。武田耕雲斎・山国兵部・田丸稲之衛門・武田小四郎の首級は塩漬けにして水戸に送られ、三月二十五日から三日間水戸城下を引き回し、二十八日那珂湊にさらし野捨とされた。さらに幕府の厳しい処分は、彼等の家族にまで及び、残虐の極に達するものであった。
敦賀の禅宗永建寺・永賞寺・永厳寺や天台宗真禅寺は、処刑された浪士をとむらうため、役所の許可を得て、三月四日と十五日にこぞって法会を営んだ。
  その後の政治情勢の推移のなかで、慶応二年五月十五日、幕府は大坂において遠島に処せられた浪士を許し、小浜藩に預けることにした。このため同藩は、浪士の宿所を永厳寺に移すという寛大な措置に切り替えた。さらに、王政復古後の明治元年(一八六八)二月の北陸道鎮撫使高倉永祜下向の際、墓所所有者の西本願寺に墳墓の改修を命じた。また、同七年十一月、水戸で神社創設の儀がおこり、翌八年一月許可を得て、松原神社が創建された。境内には、常陸産の寒水石に滋賀県令篭手田安定の碑文が刻まれており、昭和二十九年(一九五四)には九〇年祭を記念して、かつての鰊蔵一棟がここに移築された。

第一次長州出兵と福井藩
  元治元年(一八六四)の第一次長州出兵では、福井藩は薩摩・土佐・宇和島などの諸雄藩とともに、同年七月の禁門の変に対する手厳しい責任追及の挙に出た。禁門の変とは蛤御門の変とも呼ばれ、長州藩の一部尊攘激派が、文久三年(一八六三)の八月十八日の政変で失墜した藩の力を挽回するため、京都に出兵して御所を守る薩摩・会津・桑名などの諸藩兵と蛤御門周辺で戦って、敗れ去った事件である。このとき、福井藩は堺町御門を守備し、長州藩兵との戦闘は熾烈をきわめ、軍監の村田氏寿も砲弾のため重傷を負った。三万戸近くの家屋が猛火に包まれ、賀茂河原は避難民でごったがえした。
  幕府は長州藩を徹底的に制裁しようと、中国・四国・九州などの二一藩に出動命令を下し、将軍自ら「長州征伐」に当たることを声明した。総督には初め和歌山藩主徳川茂承が、のちに代わって前尾張藩主徳川慶勝が任命され、副総督に福井藩主松平茂昭が当たることになった。元治元年十月、幕府は大坂城に諸藩の重臣を集めて、長州藩攻撃についての軍議を開き、十一月十八日を総攻撃開始の日と決めた。これにより、総督慶勝は広島に、副総督茂昭は九州の小倉に出陣し、長州藩の包囲態勢は、同月上旬一応整った。
  ところが、長州藩ではすでに八月五日から、前年の文久三年五月の攘夷決行への報復として英・米・仏・蘭四国連合艦隊の猛攻をうけ、四日間の戦闘でほとんどの沿岸砲台が破壊された。さらに陸戦隊の上陸・占領を許した。このとき同藩内部では、尊攘主義の「正義派」が後退し、代わって幕府への恭順を主張する「俗論派」が藩の主導権を握った。その機に乗じた「征長総督参謀」の西郷隆盛の画策により、禁門の変の責任者として益田・国司・福原の三家老に切腹を命じ、四参謀を処刑した。さらに藩主父子の謝罪書提出、長州在留の三条実美等五卿の他藩への移出、山口城の破壊など幕府側の諸要求を一切つらぬいた。これにより幕府軍と長州藩とは戦火を交えることなく、元治元年十二月総督は全軍に撤兵令を下した。
  福井藩の出兵については、「征長出陣記」「長防征伐略記」「長州征伐小倉陣中日記録」(松平文庫)などの諸史料に詳述されている。福井藩兵は、元治元年八月二十八日城下を出発し、翌慶応元年(一八六五)三月七日帰藩するまでの前後八か月の長期にわたって軍役を負担した。しかも藩主茂昭が「征長副総督」という大任を担った。もともと同藩は、禁門の変を起こした長州藩の策動を全く不届至極だとして決起したが、兵員はもちろん糧食、軍用品の徴発・輸送などに莫大な費用がかかった。そのため、福井出発の前日には達書を出して、軍費をひねり出すため、家臣団一同に大幅の「借米」を言い渡した(「征長出陣記」)。
  第一次長州出兵で、福井藩は多大の軍費を費やし、財政面でも大きな痛手を受けた。慶応元年四月二十二日藩主茂昭は自ら福井城本丸で、出陣した将卒に対して「昨秋以来小倉表ニ永々在陣苦労大儀ニ存ずる」と労をねぎらったが、いたく辛酸をなめたのは、たんに将卒ばかりでなく、糧食を徴発され、軍用資材・物資の運搬など種々の軍役を強いられた領民であった。例えば、出兵軍の一番手に所属する「御作事方改役」に大工七人・車力三五人・御家中幕持人夫一三人が、また大砲隊所属の予備山砲車三斤熕四門の弾薬持に人夫一六〇人が徴用されたことからもうかがわれる(「征長出陣記」)。





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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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