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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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福井県史から見た幕末の動向(1)

天狗党の挙兵

  幕末の水戸藩は、天保(一八三〇~四四)期の藩政改革以降、改革派と保守門閥派との対立が目立ち、しかも中央政局の政治情勢とのかかわりのなかで、激化の一途をたどった。天狗の呼び名は、水戸藩主徳川斉昭が天保期に藩政改革を実施した際、改革を喜ばない門閥派が、改革派藩士を誹謗したところから生じたものといわれる。改革派には中下士層が多く、したがって、成り上がり者が天狗になって威張るという侮蔑の意が込められていた。
  安政五年(一八五八)七月、前藩主斉昭が、将軍継嗣・通商条約調印のことで、大老井伊直弼と意見が対立し、謹慎処分をうけると、藩内では改革派の系譜をひく尊攘派を中心に、赦免運動が展開された。ところが、藩内の尊攘派は、翌八月の「戊午の密勅」の降下を契機に、密勅を奉じて諸藩に回達すべしとする「激派」と、密勅を朝廷に返納して幕府との衝突を避けようとする「鎮派」とに分裂した。そして、安政の大獄による「激派」への弾圧は、万延元年(一八六〇)三月、桜田門外の変を引き起こした。その後、文久(一八六一~六四)年間に入ると、「激派」の多くは、常陸行方郡玉造・潮来など水戸藩南部の郷校を拠点に、近辺の郷士・神官・村役人等を集めて軍事訓練を行った。
  文久三年三月、藩主徳川慶篤に従って上京した藤田小四郎(藤田東湖四男)は、滞京中長州藩の桂小五郎等尊攘派志士と交わり、東帰後江戸で鳥取・岡山両藩士等と往来し、尊王攘夷の志を立てた。小四郎は、攘夷の勅命をうけながらそれを実行しようとしない幕府に憤激し、強硬手段で幕府に攘夷の決意を促すべきだと考えた。
 藩地に戻った小四郎は、南部の郷校に拠る同志を誘うなどして挙兵の準備を進めた。そして、元治元年(一八六四)三月二十七日、小四郎を初め尊攘激派藩士・郷士・神官・村役人等六十余人は、斉昭の神位を奉じて筑波山に挙兵した。挙兵に応じた者は数日にして一五〇人を超えた。水戸藩町奉行田丸稲之衛門を総帥、藤田小四郎等三人を総裁とし、天勇・地勇・竜勇・虎勇の四隊編成とした。四月三日下野日光山に向けて出発し、東照宮に参拝して挙兵の成功を祈願し、そこで参篭しようとした。しかし日光奉行がこれを拒絶したので、下野太平山に移り、約一か月半滞在した。
  一方、反改革派の系譜をひく門閥派の市川三左衛門等は、尊攘「鎮派」が主流を占める藩校弘道館の諸生と提携して、反天狗派を結成した。彼等は諸生党と呼ばれ、藩政の実権を握った。こうして、両勢力の間で抗争が激化するなかで、元治元年七月、幕府は若年寄田沼意尊を常野追討総括に任じて、近辺の諸藩を動員して天狗党制圧に当たらせた。さらに八月には、水戸藩の支藩宍戸藩主松平頼徳が、水戸藩主徳川慶篤の名代として鎮圧に向かうが、諸生党から水戸城入城を断られ、やむなく那珂湊に宿陣し、諸生党の軍と対峠した。
  そこへ藤田小四郎の軍勢がきて、頼徳に従って那珂湊にいた元執政武田耕雲斎の軍と合流し、諸生党の軍や幕府軍に対抗した。天狗党勢は、その後次第に幕府軍や諸生党軍に押されて、十月末には那珂湊を退いて北行し、常陸久慈郡大子に集結した。

浪士勢の西上、諸藩への衝撃

  水戸藩内での抗争に敗れ、攘夷の決起にも不覚を取った浪士勢(天狗党)は、党の総力をあげて西上し、斉昭の七子で当時禁裏守衛総督として京都に駐在する一橋慶喜に対し、挙兵の素志を披瀝し、聖慮と藩祖歴代の英旨に報いることを決めた。それは十月二十六日のことであった。
 総帥を武田耕雲斎とし、大軍師に山国兵部、本陣に田丸稲之衛門、補翼に藤田小四郎・竹内百太郎を任じ、総勢八百余人を天勇・虎勇・竜勇・正武・義勇・奇兵の六隊に分けて隊伍を整えた。こうした矢先、浪士勢は諸生軍の襲撃にあい、その防戦に数日を費し、ようやく十一月一日に大子を出発した。
その際、次のような厳しい「軍律」(「軍令条」)を定めた。一、罪のない人民を妄りに手負せ殺害致候事、一、民家へ立入財産を掠め候事、一、婦女子を猥りに近づけ候事、一、田畑作物を荒し候事、一、将長の令を待たず自己不法の挙動致候事、右制禁の条々相犯すに於ては断頭を行ふ者也、浪士勢が西上の途につくと、幕府の常野追討総括田沼意尊は十一月六日にそのあとを追った。浪士勢は、那須野から南下し信濃路に出て、さらに内山峠・和田峠を越えて信濃下諏訪を通り、伊那谷を南下して、途中から中山道馬篭を経て美濃路を西に向かった。
 浪士勢は、あくまで素志を貫徹するまでは、西上の途上での諸藩との交戦を極力避ける方針をとった。しかし、上野甘楽郡下仁田での高崎藩との戦い(十一月十五・十六日)と信濃和田峠での高島・松本両藩との戦い(同月二十日)は熾烈をきわめたが、結局浪士勢の軍略が効を奏して、対抗勢力を撃退した。
 和田峠の戦い以後、沿道の大方の藩は、幕府に言い訳がたつだけの阻止的な態度をとる程度で、積極的に浪士勢に戦いを挑もうとはしなかった。浪士勢も、できるだけ間道通行を企て、そのため山また山、谷また谷の険しい道を辿らざるをえなかった。
 美濃路では、中津川・恵那郡大井・加茂郡太田を経て、各務郡鵜沼へ進むと、彦根・大垣両藩兵に行く手をはばまれた。そこで、尾張藩領を避けて、間道を北へ進み、十二月一日谷汲川を渡って美濃大野郡揖斐に泊まった。次いで本巣郡日当から同郡長嶺へ向かい、さらに大野郡大河原村で泊まった浪士勢は、四日に美濃・越前の国境である蠅帽子峠を越えて越前に入った。
 何分、降雪の厳しい時期であるだけに、その難渋は筆舌につくしがたかったに相違ない。そのときの事情を、一史料が「此峠は常に旅人の通行なき所にて、只一筋の樵径あるのみ、殊に暗夜積雪四五尺、行路東西を弁せす、三里程の難場なりしが、同勢八百余人、一同心を協はせ、大砲八門車台を取りはづし、其の隊々にて之を舁ぎ荷ひ、病人は肩輿に載せ、同志舁き助け、其の辛苦艱難言ふへからさりしも、同勢の精神、天神の擁護にやありけん、小荷駄二百余人と共に難なく、夜四つ半頃、越前国秋生村に着泊せり」(「波山始末」『福井県大野郡誌』)と伝えている。
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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