FC2ブログ

桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

                 桜田門外の変「情念の炎」ホームページはこちら
本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

FC2ブログランキング
←ご協力お願いします

水戸市立博物館、妙雲寺(武田耕雲斎の墓)を訪問

旗指物に注目

  先週土曜日、友人と水戸市立博物館を訪ねました。今年は、天狗党筑波挙兵から丁度150年の佳節にあたるため、当館ではその関連の展示をしているとのことでした。当日は茹だるような暑さでしたが、人間は、何か目標があると何とか元気になるものです。
  久しぶりの訪問のせいか、間違って手前の図書館に入ってしまいました。しかし、そこから博物館への連絡通路があったため、無事、目的の場所に行け着けた次第です。展示室内には常設のものと、今回特別に借り上げたものがありましたが、大変見応えがありました。今回の特徴は諸生党関連の展示物が多く、天狗党関係のものが少なかったように思いました。
  元治元年10月の那珂湊合戦の絵図は、大変良く出来ていて参考になりました。ただ、誰が描いたのかが記されていなかったのが残念でした。嘗ての水戸城(三階櫓)の写真も数枚掲げられていて眼をひきました。写真関係では、北越戦争に関する遺跡が数多く展示されていました。人物では、有名な市川三左衛門の軍装姿の写真が一際目立ちました。更に諸生党の隊員が使った紺色の旗指物があったのには大変驚かされました。真新しいものでしたので、多分、複製したものと思われますが、そこには水戸藩を示すマーク(白抜きの丸印)と数字の(十)が記されていました。数字の「十」は十番隊を意味するのでしょうか? さらに縦長の白い布が縫い付けられ、そこに姓名が墨で書かれていました。戦場に出る時には、敵味方を識別するためにこのような旗指物を身に着けるのが一般的だったのかも知れません。余談になりますが、鯉渕本家には鯉淵要人が使用した旗指物が残されており、そこにも水戸藩を表す○印と神官を表す「祠」、及び姓名が同じように記されています。旗指物については、追鳥狩絵図屏風(部分)にも綺麗に描かれています。
  展示物を見学した後、一階の事務所に立ち寄って学芸員の方としばし懇談する機会に恵まれました。大変親切な女性で、お話をしましたら天保期の水戸城下絵図を一枚コピーして下さいました。

  次の訪問地は、市内見川町にある妙雲寺です。その日は水戸の「黄門祭」で交通規制がかけられていたので、少し遠回りをして現地に向かいました。以前から見学したい場所の一つだったのですが、ついつい伸び伸びになっていました。
  現場に着いたのは3時頃でしたが、車外に出ると蒸し風呂の中に入ったような暑さで閉口してしまいました。境内に入ると、直ぐ左手に一際目立つ大きな碑が建っていました。それには、井伊大老の首を持ち帰ったと伝えられる内容が記されていました。数年前、歴史専門家のK先生からもこの話を伺いましたが、果たしてどこまでが真実なのかは知る由もありません。井伊大老の首を最初に預かったとされる遠藤但馬守邸では、これを厳重に保管し、後で幕府役人(徒目付、小人目付)の検視を済ませてから井伊家に返し、井伊家では藩医岡島玄達によって胴体と縫合したということから推測すれば、俄かに信じがたい話ということになります。もし、この話が事実とすれば、薩摩藩士有村次左衛門が討取った首を途中で別人のものとすり替えたということになります。果たして「真実はいかに」ということですが、井伊家にとっては甚だ迷惑な話のように感じました。

在りし日を思い起こさせる武田家の墓地

  いよいよ本命の武田家の墓地を探すことになりました。入口から順番に墓石を見て行きましたが、なかなか発見することが出来ませんでした。そのお陰で、他の有名な方々の墓地がたくさんあることが分かりました(下記水戸商工会議所記事参照)。最後の頃になってようやく武田家の墓地を発見することが出来ました。最初に見た大きな碑の奥にあったため、順番としては最後の方になってしまいました。
  墓地の面積が非常に広く、入口に水戸市教育委員会の大きな看板(水戸市指定史跡・武田耕雲斎の墓)が建てられていました。早速、中に入って行くと、右奥に「贈正四位雲斎武田彦九郎正生(まさなり)」と大きな文字が記された場所に武田耕雲斎の墓石や燈籠等がありました。仲間と共に手を合わせ、やっとお参り出来たことをご報告させていただきました。この墓地には武田一族の墓石があります。敦賀で難を逃れ、後に京都地方裁判所検事となった武田源五郎猛、遠島を赦されて水戸に戻ってきた武田金次郎蓋をはじめ、水戸で処刑された家族の墓石も全て残されており、感慨深いものがありました。後で新聞を見て分かったのですが、前日の金曜日には敦賀市の小学生代表16名が水戸市内の小学生代表と共にこの地を訪れたことを知りました。これを契機に、150年前の水戸の歴史についてしっかり研鑽していこうと思いました。

参考(水戸商工会議所ホームページより)

  武田耕雲斉(1804〜1865)は、名は正生(まさなり)、字は伯道(はくどう)、通称は彦太郎、彦九郎、のち修理。如雲と号し、致仕(隠居)して耕雲斉と称しました。斉脩公(なりのぶこう)(哀公(あいこう))の死後、公の弟紀教(のりたかたか) (後の斉昭公)を九代目の水戸藩主として擁立する運動に協力、斉昭就封(しゅうほう)後は藤田東湖などと共にいわゆる改革派として活躍しました。そのため、藩の重職に列しながらしばしば免職・謹慎の処分を受けるなど、斉昭公と浮沈を同じくしました。
 藤田小四郎等が筑波山に挙兵したときは執政職に在りましたが、罷免・謹慎処分を受け、次いで、水戸藩の内輪もめを収めようと水戸に向かった宍戸藩主松平頼徳に随行して藩政混乱の打開を目指しますが果たせず、那珂湊に戦い、遂に藤田等の筑波勢と合流、いわゆる天狗党西上軍の首領に推されます。大子から進軍した一行は、各地で幕府軍と戦いながら冬の木曽路を越えて苦難の行軍を続けましたが、頼みとする徳川慶喜が追討軍を発したのを見て遂に降伏、反幕府の罪人として同士と共に敦賀で斬罪に処され、首級(しゅきゅう)は水戸に梟(さら)されました。
  最後は悲劇に終わりましたが、その志は死なず、島崎藤村の『夜明け前』に、馬籠(うまごめ)の宿を通る一行のことが出てくるように、通過した地域では今でもその様子を語り伝え、一行を顕彰し遺跡の保存に心を配っています。明治24年正五位を追贈されました。 また、この妙雲寺には、頼房公の命令に背いて光圀公を誕生させ幼少時の扶育(ふいく)に当った三木之次(ゆきつぐ)・武佐(むさ)夫妻、光圀公の少年期に守役として誠心誠意尽くした小野言員(ときかず)、老女高尾(現在見川小学校の校庭の老桜樹は高尾の一周忌に光圀公が手ずから植えたと伝えている。)、さらには、史館員であり篆刻(てんこく)に勝れた伴香竹、斉昭公時代に活躍した桑原信毅《のぶたけ》、桜田烈士の一人広木有良《ありよし》など、水戸藩関係者の墓があります。
 ※人名の読み方で不確実なものは、ふりがなを《 》でくくりました。
武田耕雲斎のお墓
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

11月6日に…。

11月6日
妙雲寺へ初めて行って来ました。
午前10時ぐらいに同寺に到着し、少しマニアックな話しも尋ねようかと思ったのですが、同寺の住職さんがどこかへ出掛ける様子で駐車場にて、互いに会釈程度でした。
今度、水戸市立博物館も見学しようと思います。
鯉渕先生のブログを勝手にではございますが、参考とさせて頂いてます。
ありがとうございます。

Re: 11月6日に…。

> 11月6日
> 妙雲寺へ初めて行って来ました。
> 午前10時ぐらいに同寺に到着し、少しマニアックな話しも尋ねようかと思ったのですが、同寺の住職さんがどこかへ出掛ける様子で駐車場にて、互いに会釈程度でした。
> 今度、水戸市立博物館も見学しようと思います。
> 鯉渕先生のブログを勝手にではございますが、参考とさせて頂いてます。
> ありがとうございます。

今度、水戸に来られる時は、ご一報下さい。
何かのお役に立てるかも知れません。
プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
 「情念の炎」下巻
この本を購入する
茨城県内一部店舗で販売しています
義援金募集
FC2「東北地方太平洋沖地震」義援金募集につきまして
FC2はユーザーの皆様から募金を募り義援金として支援を実施いたします。
映画「桜田門外ノ変」
桜田門外ノ変映画予告編 桜田門外ノ変メイキング 主題歌alan/悲しみは雪に眠る
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
リンク
検索フォーム
QRコード
QR