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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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水戸藩尊攘派の特質  2 

小四郎の野口哲太郎宛て永訣の手紙

  小四郎が尊攘運動に挺進する決意を固め、父祖の遺訓に遵い皇室を尊び外虜の侮りを防ぐことを痛感したのは、文久三年二月、主君慶篤公ら従って京都に上った時でした。この時は、山国兵部の部下として上京しました。
朝廷は、将軍や主な大名を召して攘夷実行について策を協議し、翌三月には順公が江戸へ下るに当り、激励の勅詔を賜りましたので、小四郎は感激に堪えず、そのまま筑波義挙三総裁の岩谷敬一郎ら同志と共に京都に留まり、水戸侯の姻戚鷹司卿及び諸卿を歴訪して大いに尊攘について建議しました。長州の桂小五郎や久坂玄瑞にも会い、その翌四月初め、一橋公が詔を奉じて東下するとき、小四郎も共に江戸に戻り、又外交時事等を熟議しました。ところが、時の老中小笠原長行が生麦事件の措置を誤り、詔旨を遵奉することが出来なくなってしまいました。
小四郎はこのことを非常に憤慨し、再び上京、決死の建議をせんとし、同年六月江戸に赴き親戚故旧に訣別を告げました。その後、再び水戸に入り、久慈太田の瑞龍山なる水戸家累代の廟墓に参詣して決意の程を義烈両公の英混魂に暇乞いしました。その帰途、太田の加納甚三郎方へ寄り、これに託して野口哲太郎に永訣の一書を認めて贈ったのであります。  
  野口哲太郎は、父東湖の門下生で、学問武術にすぐれ、詩歌もよくし、その塾頭をつとめ、幼年の小四郎を背負い児守りしたり、学成りて県北町田郷校の校守となり、又、県南の玉造郷校勢と共に長岡村に屯した重要なメンバーの一人であります。密勅奉還を不可として、その防止の急先鋒となって活躍しましたが、武田耕雲斎の説得に応じ、自訴するために建白書を懐にして評定所に出向きました。反対派の首領市川三左衛門は、直ちにこれを鶯谷の密獄に投じ、幽固三年にして病を得漸く獄を出て家郷に戻ってきました。この一書は、その消息を加納から知った小四郎が、哲太郎に贈ったものです。

  哲太郎は童謡民謡の詩人として親しまれている野口雨情の父や、風俗画報の勝一の叔父に当り、父の哲斉は御目見格の郷医で、嘉永五年五月には吉田松陰が東北遊歴の際、彼の家に一泊しています。その祖先は楠七郎正季の二世正建より出で、水戸家より特に優待をうけ、元禄中には義公がその邸を訪ね、観海亭の称号を賜わり、現在野口雨情生家として観光遊覧に供しています。
  因みに、昭和五十年の夏、関東甲信越の保育研究大会の記念誌の表紙に滝平二郎科博の切り絵と雨情の七ッ子の詩を載せるについて、野口家の諒承を求めに野口家を訪ねました。ところが門標のところに菊水の紋がはってありましたので、早速雨情の御子息に伺いましたところ、「私の家は楠氏の系を引きますので、紋は菊水です」と申され、奧の部屋から雨情の遺言書を持ってこられて提示されました。平常親しんできた雨情のイメージとは別な楠遺族としての厳格な遺言を拝見して驚嘆したことがありました。
  さて、話を松陰に戻しますと、楠公にならい「七たびも生かへりつつ夷をぞ攘はむこゝろ吾忘れめや」と遺言した松陰は、五月廿二日は長久保赤水の墓に詣で、その後磯原に向い夜は哲太郎の家に泊まりました。日記にはその時の詩が記してあります。

 「海楼酒を把(と)って、長風に対す。顔紅(くれない)に耳熱く酔眠水濃(こまや)かなり。忽(たちま)ち見る 万里雲濤(うんとう)の外(そと) 。巨鼈(きょべつ)海を蔽うて艨艟(もうどう)<戦艦>来たる。我吾が軍を提(ひっさ)げ来たりここに陣す。貔貅(ひきゅう)<軍隊>百万髪上(はつじょう)衝(しょう)す。夢断え酒解け灯も亦た滅(き)えし。濤声(とうせい)枕を撼(うご)かして 夜鼕々(とうとう)<太皷の音がやかましいこと>」
 【※〈詩意〉海辺の旅館の高殿で酒杯を手にして沖からの風に吹かれていると、顔や耳は赤くほてり、つい深酔いしてしまった。 たちまち夢で遥かかなた雲のように広がる海上を、巨大な海亀の如き外国の軍艦が押し寄せる。私が軍隊を率いてこの地磯原に陣を布くと、わが百万の将兵たちは大いに怒り、髪を逆立てて奮戦する…。いつしか、夢はとだえ、酔いもすっかりさめて灯が消えると、波の音が旅の枕を揺り動かし、夜の闇の中にドドーンと響くばかり】

  その年の二月から三月にかけて外国船が対馬や五島沖に出没し、六月廿四日には露船が下田に来航し、オランダの風説では来年米艦隊が日本に来航することを予想して風雲急を告げていましたので、兵学家を継いだ松陰にとっては夢安らかならぬものがあり、磯原の涛声が外国艦隊の来襲の音に聞こえた夢を見たのでしょうか。その十月、府中では一代の芸聖都々一坊扇歌が幕政を批判したため東都を追放されて「都々一も謳いつくして三味線枕、楽に私は寝るわいな。今日の旅、花か紅葉かしらないけれど、風に吹かれてゆくわいな・・・」と。
  又、「菊は栄えて葵は枯れる、西にくつわの音がする」と時代の大勢の流転を肌で感じながらこの世を去って逝きましたことは前記しましたが、丁度この頃のことでした。

  いよいよ本題の小四郎永訣書を次に記しますが、これは巻物となっていて約一米半位の長文で、私が戦後まもなく、東京の古書展で掘り出し、当資料館が愛蔵する手紙です。

 「此度
 瑞龍参拝の心得て東下、加納生へ立ち寄り候処、料らずも兄の安否承知致し、御無事の由大慶々々、就ては種々御浮沈の様子も傳聞、さてさて御察申候、野生も近日西行の心得にて、よそながら此地と訣別のため両三日逗留の積りに候、過日も色々御談し申候処方々の勢とても征夷府(幕府)の攘夷は覚束なく、つまり攝海え御引付の上拒絶に相成候事と存ぜられ候、
夫れとても其の総帥は他藩に譲り候も甚だ遺憾の至り是非々々
 君公御始め
烈公御遺胤(遺業)
天朝を御輔佐徳川氏をば全くし遊ばされ候より外か策之れ有る間敷く候、就ては右の処
天朝より御用御立遊ばされ候様相成らず候てはとても行はれざる事に候間何卒ぞ其極に致され度く、能わざる時は定て、御親征にも致せられ其の期に会し匹夫と雖ども傍観の時には有る間敷く、暴勢も前件之次第、当分正議之輩沢勘七郎も俿職(解職)の余り拱手して侍形の姿、つまり又々京師へ迫り天下之有志を鋤の事に至る可く候はヾ、坐ながら拱手も甚だ悲憤の至り因て前件西行之策を決し候、勿論此のたび脱藩の心得にて候間家兄へも対面致さず候間、若し拙宅御出の節は宜しく御伝声渇望々々尤も一書を以って兄へも意中相寄候心得に候へども呉々も此処宜しく希候、先君子の門下唯兄のみ野生に於いては種々御激励に預り実に感激の至りに堪えず、此度訣別前一面せず何分千載の遺憾に御座候、随分御自愛成さる可く候、早々不筆前後混雑御推覧成さる可く候  以上
 七月一日
一木豈支大厦僵 笑他東北来往忙
請見狂生胸裏事 既任腰際百練霜
 例乍ら野調胡廬(笑いが喉につまる様)に供し候
野口哲太郎 殿    藤田小四郎
   用   事

  末尾の詩は、「一木豈大厦の僵るるを支えんや。他を笑う東北来往忙しと。請う見よ狂生胸裏の事。既に任ず腰際百練の霜」と読み下すことが出来ます。
 東湖が楠公五百回忌の詩も「大厦誰か知る一木の支うるを。中興の成否南枝に繋る。勤王の義は結ぶ金剛の壘、逆賊の膽寒し、菊水の旗。闕に還りては復た豺虎の径に當る。鞠躬奈(いかん)ともする無し廟堂の機。空しく餘す一片精忠の氣。凛烈長く百世の師爲り」(湊川神社宝物蔵)
 前者の小四郎の詩と後者の東湖の詩も共に楠公の孤忠精勤を鑑としての詩でありますが、野口哲太郎は楠七郎正季の系に属し、小四郎も又楠公を鑑として壮途に出発のために楠一族の後裔に贈った永訣の詩であります。これこそ、父東湖の志を継ぎその心から自然に詩となったもので、その起句が全く類似するのは当然でありましょう。
<参照>淺見絅齋先生『靖獻遺言』
一木、豈に能く大厦を支へん。三軍、空しく長城を築かんと擬す。
(一本の柱では、大きな家を支へ切れるもので無く、拙者一人、忠義を盡したとて、國家の運命を守り通せるものでは無いが、雲霞の如き敵の大軍に對し、空しいと知りつゝ、萬里の長城となつて、之を食ひ止めようとした事であつた。)


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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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