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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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水戸藩尊攘派の特質1

  前回、水戸藩尊王攘夷激派の行動規範というテーマでその特質について触れましたが、今回は、もう一つ違った視点から彼等の行動の背景にあったものを考えてみたいと思います。これにつきましては、最近読んだ「筑波義挙旗揚-尊王攘夷と楠公崇拝」の著者である渡辺宏氏が判り易く述べていますのでご紹介したいと思います。

楠公崇拝の伝統 

 『大楠公崇拝は、水戸黄門として親しまれている水戸光圀公以来の郷土常陸の伝統であります。徳川光圀(義公)は十八歳の時、中国の『史記』を読み、白夷叔斎の高義にいたく感動し、我が国にもこのような歴史書があればと一念発起して、大日本史編纂の大志を立てられました。その後、資料の編集にともない大楠公(楠正成)の誠忠に深く感激し、ついに自ら筆を揮い、その墓碑に『嗚呼忠臣楠子之墓』と書き、更に賓師として招いた明の遺臣朱舜水の格調高い賛文を碑陰に刻み、元禄元年、これを湊川の楠公墓域に建立したのであります。そしてこれが、やがて志士たちを発奮興起させ社会人心に偉大な感化を及ぼし、欧米列強の侵略から日本を守るため尊王攘夷の旗のもとに遂に明治維新の原動力となったことは余りにも有名であります。天狗党志士の筑波義挙は史上稀有の悲惨な最期でしたが、義公以来の常陸における伝統を受け継いで、天下に魁ける大きな役割を果たしたのであります。』

  筑波挙兵の大義は、幕府に攘夷実行を迫ることであり、その際自分たちが攘夷の先鋒たらんことを願ったのです。彼等にとって横浜鎖港は喫緊の課題であり、8.18の政変による劣勢を挽回する必要があったのです。筑波挙兵の中心人物は、藤田東湖の四男小四郎ですが、彼の心中にはどのような思いがあったのでしょうか。以下、渡辺宏氏の小四郎に関する内容を見て行きたいと思います。

藤田小四郎

 『幼児教育の先覚保母第一号の豊田芙雄子女子とは従兄にあたりますが、彼女が九十四才の晩年において、小四郎の幼少年時代の思い出を次のように物語っています。
 「小四さんは私よりも二つ年上でしたが、子供の頃、鬼ごっこ等をしていても、井戸の中に隠れ込んだりして随分危ないことをする人でした。色は白く、キビキビと大胆でいわば才子です。天狗騒動の少し前でした。藤田家で多分、小四さんを持て余していたからではないかと思いますが、藤田家から小四さんをあずかってくれとたのまれましたが、宅では預からず、私の生家桑原家が預かったことがありました。その頃、小四さんは桑原家から毎日弁当持ちで彰考館へ通っておりましたが、そのうち暇乞いもせず出奔して筑波山へ立篭ったのでした」
と、栴檀は双葉より香んばしと申しますが、幼少の頃から彼の敏英さと波乱に富んだ運命が定まっているように感じます。東湖、幽谷を父祖に持つ彼は自然、尊攘に殉ずる覚悟が養成さていました。
  東湖は、「湊川を捨てゝこそ橋のかぐわしき名も世に流れけり」と楠公を崇拝敬慕の和歌を詠み、佐久良東雄の「天地之依相の極武士の人乃鑑と成れる君かな」に和して咏じております。又、「我は慕う楠夫子、雄略古今無し。誓って回天の業、感激して其の軀を忘る。廟堂遂いに算無く、乾坤忠義は孤なり、空しく留む一片の気、凛々として誣(し)う可からず」と吟じ、楠公の至純を敬仰しております。西郷南洲は平生「先輩では藤田東湖先生を後輩では橋本左内君を推す」と、門下生に諭しておったそうですが、幕末の志士にして東湖の感化を受けなかったものは無かったと言われております。況や眼の中に入れても痛くないほどの子煩悩な東湖が、特に嘱望した四男(庶士)小四郎に影響は絶大なものがあったと推測して憚りません。湊川神社宝物館には、前にもふれましたが、我が家の襖に書かれた「楠公五百年忌辰の詩」書額が陳列してありました。則ち、「大厦誰か知る一本の支うるを」で起句する漢詩であります。それに烈公が「楠正成」の「五百回忌にあたれりと聞いてよめる」と題して
  五百年のむかしながらも いまに我 臣の臣たる友と契らむ
と詠まれ、誓って楠公の心を心にせんとしておられます。』

  以上の内容を見ますと、筑波義挙の中心人物である藤田小四郎は、その父親である東湖の楠公崇拝の影響を強く受け、例えどのような劣勢の状況下におかれても、楠公のような自分でありたいと願っていたように思えてなりません。つまり、そこからは成敗得失を度外視した生き方が浮かんでまいります。次回紹介する先輩の野口哲太郎宛ての書面からは、その小四郎の並々ならぬ決意が伝わってくるようです。

※参考「大楠公の歌」落合直文 作詞 奥山朝恭 作曲 明治36年
-桜井の訣別-
1.青葉茂れる桜井の  里のわたりの夕まぐれ
  木(こ)の下陰に駒とめて  世の行く末をつくづくと
  忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に  散るは涙かはた露か
2.正成(まさしげ)涙を打ち払い  我が子正行(まさつら)呼び寄せて
  父は兵庫に赴かん  彼方(かなた)の浦にて討ち死せん
  汝(いまし)はここまで来つれども  とくとく帰れ故郷へ
3.父上いかにのたもうも  見捨てまつりてわれ一人
  いかで帰らん帰られん  この正行は年こそは
  未だ若けれ諸(もろ)ともに  御供(おんとも)仕えん死出の旅
4.汝をここより帰さんは  我が私の為ならず
  おのれ討死為さんには  世は尊氏の儘(まま)ならん
  早く生い立ち大君(おおきみ)に  仕えまつれよ国の為
5.この一刀(ひとふり)は往(い)にし年  君の賜いしものなるぞ
  この世の別れの形見にと  汝(いまし)にこれを贈りてん
  行けよ正行故郷へ  老いたる母の待ちまさん
6.共に見送り見返りて  別れを惜しむ折からに
  またも降りくる五月雨の  空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
  誰か哀れと聞かざらん  あわれ血に泣くその声を
-敵軍襲来-
7.遠く沖べを見渡せば  浮かべる舟のその数は
  幾千万とも白波の  此方(こなた)をさして寄せて来ぬ
  陸(くが)はいかにと眺むれば  味方は早くも破られて
8.須磨と明石の浦づたい  敵の旗のみ打ちなびく
  吹く松風か白波か  よせくる波か松風か
  響き響きて聞ゆなり  つづみの音に鬨(とき)の声
-湊川の奮戦-
9.いかに正季(まさすえ)われわれの  命捨つべき時は来ぬ
  死す時死なでながらえば  死するに勝る恥あらん
  太刀の折れなんそれまでは  敵のことごと一方(かたえ)より
10.斬りてすてなん屠(ほう)りてん  進めすすめと言い言いて
  駆け入るさまの勇ましや  右より敵の寄せくるは
  左の方(かた)へと薙(な)ぎ払い  左の方より寄せくるは
11.右の方へと薙ぎ払う  前よりよするその敵も
  後ろよりするその敵も  見ては遁(のが)さじ遁さじと
  奮いたたかう右ひだり  とびくる矢数は雨あられ
12.君の御為(みため)と昨日今日  数多の敵に当たりしが
  時いたらぬをいかにせん  心ばかりははやれども
  刃(やいば)は折れぬ矢はつきぬ  馬もたおれぬ兵士(つわもの)も
13.かしこの家にたどりゆき  共に腹をば切りなんと
  刀を杖に立ちあがる  身には数多の痛矢串(いたやぐし)
  戸をおしあけて内に入り  共に鎧の紐とけば
14.緋おどしならぬくれないの  血潮したたる小手の上
  心残りはあらずやと  兄のことばに弟は
  これみなかねての覚悟なり  何か嘆かん今さらに
15.さはいえ悔し願わくは  七度(ななたび)この世に生まれ来て
  憎き敵をば滅ぼさん  さなりさなりとうなづきて
  水泡(みなわ)ときえし兄弟(はらから)の  心も清き湊川
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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