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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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新聞記事から 「市川勢の軌跡 26・27」

八日市場の戦い②

 《八日市場松山の戦いで壊滅した市川勢だが、行方不明になった四十人は、その後どうしただろう。隊長の市川は、白兵戦のなか獅子奮迅の戦いぶりをみせたという。しかし、味方が次々と倒されていくなか、生への執着を示した。死んでなるものかと草場に隠れ、谷津田を走り、戦場を離れる。戦場から南西方向に一里ほど行ったところに高野村がある。市川は、そこに住む知人の剣客大木佐内を訪ねる。》

大木佐内、市川かくまう

 《右腕に深手を負った市川は、手当を受けたあと、人目につかぬよう夜になってから大木宅から湿地を船に乗り、松林に渡り、その中に小屋を造って過ごす。大木は時々、食事を運んだが、住民に知られ、二人は唐辛子売りに変装して東京を目指す。市川(市川市)まで来たところで役人の探索が厳しくなり、大木は高野村に帰った。市川は首尾よく東京に潜入した。その後、大木は密告で捕まり、水戸に送られ、赤沼の獄で拷問を受けるが、口を割らず、大正時代まで生きる。
  黒崎雄二は、兄藤右衛門や片山牛之助ら五人で逃走。登戸駅に出る。そこで髪を商人風に整え、衣類もこざっぱりした。新政府軍の兵士たちの尋問を受けたが、「成田参詣に烏山から来た」と答えて納得させた。黒崎兄弟は無事、東京に入った。逃亡に成功した者もいれば、捕まり、処刑された者もいる。千葉では久留米藩兵に七人が殺された。(その内)五人は大嶺総七郎ら水戸者、あとは守山藩と新撰組だった。豊栄村では傷を負った三人が首をはねられた。また、十月十一日には多古村で多古藩士に一人が捕まり、水戸藩に引渡され、水戸で処刑された。
  十月六日、市川勢に勝利した追討軍は、九日まで八日市場に滞在した。その間、地元民に乱暴狼藉を働き、反感を買う。それが市川勢への同情となり、翌明治二年五月の供養塚建立につながったといえようか。供養塚は激戦地中台にあり、建てたのは中台村の人々と言われている。追討軍は、銚子に戻っても豪商宅に抜刀して押し入り、強盗まがいのことをしている。高崎藩記によれば、田中玄蕃など有力者七人と宿泊先の宝満寺から合計一万三千七百両のほか、衣類、刀剣類を強奪。市川勢の多数の首とともに水戸に持ち帰った。》

市川勢の構成

 《市川勢は、慶応四年三月から十月(九月八日に明治と改元)まで八カ月間、北越、会津、水戸、八日市場と約一千キロを徒歩で転戦した。人数は水戸を出発した時に五百人以上いたとみられるが、最後の戦闘地、八日市場では八十人に減っていた。減員の多くは戦死。確かな資料がないので概数だが、北越で約百六十人、会津で十五人、水戸で八十人、八日市場で三十人、そのほか方府田、千葉、大子など合わせて五十人ほど。全体で三百人を超える。捕まり、処刑された者は七十人。自刃、病死は二十人。途中、分かれた者や行方不明が百人以上。分かれた中には、会津戦争で本隊と連絡がとれなくなり、止む無く個別に庄内藩に逃れた二十六人がいる。同藩は水戸藩の引き渡し要求を拒み、東京に逃がしたという。》

消えた隊長伊藤辰之助

  市川勢の顔ぶれは、藩の重臣から下級藩士、郷士および農民、医師、神官、職人など多彩だ。全体の指揮官は家老の市川三左衛門。また、家老の朝比奈弥太郎、佐藤図書、筧助大夫、大森弥三左衛門も指揮をとった。だが、彼らが陣頭指揮していたかは不明。部隊構成もはっきりしない。筧に従った黒崎雄二は、十人で一組だったという。そうであれば、いくつかの組を集合した部隊があり、それを家老らが分担して指揮をとったとも考えられる。北越戦争の資料(戊辰役戦史、会津戊辰戦史など)をみると、市川勢を「水戸藩脱走兵」と表現し、主に会津藩の指揮下で戦ったことがうかがえる。また、隊名として出てくるのは市川隊、朝比奈隊、筧隊のほかに伊藤隊。この伊藤は三人の家老より多く文献に登場する。伊藤辰之助という。
  辰之助は、水府系纂によれば元治元年の天狗諸生の戦いで活躍。那珂湊など各地で戦功をあげ、十月二十四日に百石を賜り馬廻組となっている。北越戦争でも新政府軍を打ち負かしたことが、文献に載っている。ところが、市川勢が会津藩兵とともに、北越から会津に引き揚げる時期を境に文献から名前が消える。諸生派名簿には「行方不明」と記載されている。市川勢にあって北越の地で最も武功を挙げた辰之助は、なぜ会津を目指さなかったのだろう。気になるところだ。》
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

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