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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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新聞記事から 「市川勢の軌跡 20・21」

片府田の戦い

  《市川勢ら一行は、九月二十五日に田島を発つと、粟生沢から一気に険しい山越えを敢行、会津藩領を出て板室に入る。新政府軍の略奪に反発する田島周辺の農民は農兵隊を組織し、ゲリラ戦を展開していた。特に粟生沢農兵隊は優秀で、市川勢の山越えに協力的だった。板室から山を下り、百村に宿泊した市川勢が、新政府軍を避けるように高林、石上を経て片府田に到着したのは二十六日夜。近くには箒川が流れる平坦な地形に、それまで険しい山間部ばかり通行してきた市川勢は気持ちが緩んだ。一行は約三百人。そのうち三十人が宝寿寺に宿泊し、残り二百七十人は民家に分宿した。
  一行の動きは、地元の大田原藩につかまれていた。二十七日未明、大田原、彦根、阿波の三藩五百人は攻撃を開始した。朝食の準備をしていた市川勢らは慌てて応戦。激しい銃撃戦となった。白兵戦になると、阿波藩兵は動かず、大田原、彦根藩兵だけが戦った。不意打ちにあった市川勢は、戦況不利とみて二時間後には佐良土方面に去った。この戦闘で市川勢の九人が戦死した。いずれも宝寿寺墓地に埋葬されたが、弔う者もなく無縁仏となっていた。二十年後の明治二十一年九月二十七日、これを哀れんだ地元の女性たちが供養塔を建て、慰霊した。》

会津脱出し水戸目指す

  《佐良土では黒羽藩が待ち受け、戦闘となったが、夕刻には優勢の市川勢が箒川を渡り、黒羽藩は追わなかった。そのあと小川から那珂川を渡り、水戸藩領の馬頭村に入った市川勢は、三月に水戸を脱出してから初めて水戸藩兵と戦う。相手は宮村関門を警護する先手同心頭久米鉄之進率いる藩兵。戦闘は、多勢に無勢、市川勢が勝利する。
市川勢は、このあと獄舎を破り、罪人を手勢に加えている。馬頭に泊まった市川勢は、二十八日は二手に分かれて出発した。多くは水戸を目指すが、一部は小砂から左貫を経て大子に向かう。水戸に向かった市川勢は、高部から小野河岸に至る。那珂川を渡ろうとすると、対岸から鉄砲を撃ち込まれて思うように渡れない。最初に自ら櫓をこいで渡ったのは黒崎雄二。砲弾の雨をくぐり抜け無事に渡ると、敵陣に斬り込む。水戸藩兵は大砲を置いて逃走した。》 ※獄舎(馬頭村にあった郷牢)

水戸城下に入る

  《市川勢が水戸を目指していることを水戸藩が知ったのは、市川勢が領内に入る直前だった。会津城が落城した九月二十二日、城近郊の永井野にあった水戸藩追討軍本隊のなかで、市川勢の動向について「水戸に向かったらしい」「いや、北方に逃亡したようだ」と二つの風評が取り上げられた。隊長の山口徳之進は水戸の可能性が強いと判断。徒目付渡辺吉太郎を急ぎ水戸に走らせ、二日後、渡辺は藩庁に報告した。あわてた水戸藩は、市川勢が通行しそうな場所に藩兵を配置するとともに、支藩の宍戸藩、守山藩や松岡藩の中山家などに呼びかけ、守備固めに入った。馬頭村や小野河岸対岸を守備したのも報告を受けたからだろうが、いずれも少人数のため守れなかった。
  小野河岸を渡った市川勢は、二十九日石塚村(城里町)の守備隊も撃破した。黒崎雄二は「石塚で宿をとるとみせましてその実一泊もしませぬ。それからいよいよ城中に斬り入る内議であります。そのとき死を決して進むのに醜るしい風をして倒れては恥ずかしいから頭の髪を結い毛の伸びた者は剃るがよろしいと言うので風俗を改めましたが、如何せん衣服は穢うございます。若し不幸にして目的を果たさずんば瑞竜山に参って残らず割腹するという協議であります。それで一層力を得ましてその晩立ちまして水戸城へ参ったような訳であります」と明治三十九年の史談会インタビューに答えている。》

重臣ら40余人が処刑に

《石塚から飯富(水戸市)まで来た市川勢は、ここで三隊に分かれ、水戸藩の警護が厳しい金澤坂を避けて那珂川沿いに城下を目指す。一隊は、谷中の藩共有墓地の坂から本道に出て下金丁、上金丁、田見小路へ向かった。一隊は那珂川沿いを進み、ふろの下(水戸気象台下)から大坂を経て田見小路に。もう一隊はさらに那珂川沿いを進み、水戸城の北側にあたる杉山河岸から城内を狙う。途中、小競り合いがあり、双方に死傷者出た。
 一方、市川勢が迫って来たことで、藩内には恐怖と緊張が広がり、二十八日から十月一日にかけ、赤沼の獄にあった諸生派の重臣を次々と処刑。家老天野伊内、若年寄近藤儀太夫ら四十余人が斬殺された。》

◇ 参 考
・ 天保明治水戸見聞実記には「近藤儀太夫、菊地善左衛門等四十余人を斬る。軽罪の者にて幽閉を赦されしは遠山熊之介等四十余人あり」と記されています。
・ 本文中に出て来る天野伊内(景教)は、元治元年八月十日、松平大炊頭が江戸から水戸の薬王院に着いた折、市川三左衛門の使者として遣わされた人物です。交渉の直後、下町口を守備していた城兵が藤柄に向かい、吉田山に陣取っていた松平大炊頭の先衛隊に砲撃を加えました。ここから大発勢の悲劇が起こります。
・ 遠山熊之介は、改革派の鎮派に属していて、かなり人望があったようです。門閥派が政権を握っていた折、水戸に下向(慶応二年十月二十一日)した幕府目付堀錠之助から、内藤弥太夫とともに藩政改革を進めるよう迫られました。しかし、同年十一月十五日、門閥派の水戸藩家老鈴木石見らは、幕府の方針を不服として内藤弥太夫(耻叟)を江戸藩邸に拘禁し、更に水戸へ護送して禁錮しました。これは、幕府の力を背景とする内藤の巻き返しを恐れた市川派が、遠山熊之介、石川幹二郎らを禁錮するなどして、江戸・水戸双方の地で内藤派幹部を弾圧するものでした。
  前年の慶応元年十月には、門閥派が政権を握っていることに危機感を抱いた鎮派の有志が、藩政回復をはかろうと幕府へ歎訴する密計をたてましが、嘆願書が江戸への途中奪われて目論見が露見したため、桑原力太郎、三田寺善太郎が禁錮、豊田小太郎、渡井量蔵、加藤木賞三、関直之介らは水戸を脱走して江戸に潜伏、その後、西京、大阪の地へと逃れていきました。
  きのふの夢の筆者によれば、「天狗にもあらず市川にも服従せず、中間にあったのが近藤義太夫、内藤弥太夫、石河幹二郎、菊地善左衛門、久木直次郎の派」で、かれらは公平の議論をもって中間の立場ではあったようですが、当時の情勢では中立の立場を標榜していても、反天狗である限り市川派に近いと判定されたといいます。
・ 九月廿八日牢屋敷に於斬罪之者(水戸藩末史料より)
 藤谷春榮、菊地善左衛門、戸祭誠五郎、青木又三郎、佐々八次郎、佐野孫次郎、蔭山又十郎、野村喜左衛門、森秀之介、瀬尾弥一衛門、小山亀五郎、渡邊稲之允、天野伊内、近藤義大夫、藤谷省齋、安松左一郎、岡見彦五郎、藤咲金次郎、軽部熊太郎、小泉喜四郎、野澤三郎衛門、本郷精一郎、山崎□之進、高野九郎兵衛、根本清衛門、皆川左平次、横山九郎衛門、鈴木鈷太郎、鈴木順次郎、小川辰蔵、林傳三郎、栗原庄次兵衛、市川市次郎、齋田税之介、河方竹之介、内藤魁之介、小野瀬源蔵、津田孝之助、前嶋淳徳、鈴木健介、藤田久蔵、長山治十、市川市太郎、渡邊伊衛門、谷田部獅子之介、
  (兒玉薗衛門、大畠理八郎)両人生晒之上磔、牢死 太田十郎左衛門


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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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