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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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新聞記事から 「市川勢の軌跡 18・19」

落城の危機脱出に貢献

  《冬坂峠を守備した市川勢百五十人は、翌八月二十三日、新政府軍が城下に向かって進撃しているとの知らせを受けて他の部隊と合流し、会津城に入った。城内には、ほかの市川勢二百人余が理門近くの三の丸にあって東北隅を守備していた。藩主松平容保は、このうち高田彦助ら約二十人に西出丸を守らせた。このとき会津城は藩兵の多くが藩境守備についていたため手薄となり、落城の危機にあった。救ったのは市川勢といわれる。押し寄せる敵を撃退、城を守り、藩に感謝された。
  八月二十五日、会津城周辺を新政府軍に囲まれて、入城できない家老内藤介右衛門隊を援護するため、市川勢の二十六人は小田山の山頂に登り発砲。敵方の注意を引きつけ、その間に内藤隊は入城した。これで城内の守備体制を整えることが可能となり、会津藩はあらためて持ち場を決めた。》

会津城攻防

  《市川勢は、西出丸にいた高田ら二十人がその西北隅に、三の丸の百八十人余は八幡社から北側の理門までを、また三の丸の南側にある南門の外に位置する延寿寺辺りを残りの市川勢が白虎隊らと守る。九月三日、会津藩の飯田大次郎は、それまで分かれて城内の守備についていた市川勢四百人をまとめて城外に出し、米代四ノ丁の栃木邸を屯所に、南町門と花畑門の守備に当たらせた。九月五日、花畑門の西側にある河原町門を新政府軍が襲い、会津兵らだけでは守りきれず、市川勢が加勢に駆けつける。他の部隊も次々に到着し、敵は敗走した。
  連日の戦闘で城内は食糧不足が深刻化。そこで新政府軍の食糧を奪おうと九月七日、会津藩家老佐川官兵衛を隊長に朱雀隊や市川勢など千人が出撃。各地で新政府軍を打ち負かし、食料や武器弾薬を奪う。
  九月八日、市川勢、会津藩木元隊と長岡藩兵は飯寺村で敵と遭遇。濃霧で視界が悪かったこともあり、退却した会津藩兵を追撃してきた宇都宮藩兵を市川勢と勘違いした長岡藩兵は、敵陣の中に入ってしまった。隊長の家老山本帯刀以下十数人が捕縛され、殺された。残された長岡藩兵は、その後、市川勢と行動を共にし、水戸、銚子と転戦することになる。市川勢のうち朝比奈、筧の部隊は九月十日、永井野に陣を敷いた。だが、翌日には会津藩隊長佐川官兵衛の命により、会津藩兵とともに高田に至る。目的は、敵と戦うと同時に食料の確保だった。》


水戸藩追討軍が間近に

  《九月十六日、会津藩兵とともに高田から戻った市川勢の朝比奈隊は永井野村南方の山腰を固め、筧隊は東方の高橋川沿いに陣を敷いていた。新政府軍との戦いは、一進一退だったが、やがて会津藩が有利な展開となり、新政府軍は南方の上甲村に敗走した。
  そこには水戸藩第二次追討軍の二小隊がいた。小池千太郎・鳥居沖之允の両隊で、高崎藩兵らが敗走してくると、反撃に転じようと鳥居隊は上甲村から尾岐窪に進軍。小池隊は分かれて小山から仁王を攻撃する。このとき追討軍の本隊は、塔寺の守備についていた。武田金次郎らは、まだ長岡にいた。鳥居・小池隊の攻撃で会津藩は陣地を離れるが、盛り返し、両隊は上甲村に引き返す。その際、小池隊は敵方の銃器を奪ったが、そのなかに市川や朝比奈らの兵器と文書数点を発見。市川勢が近くにいることを知り、本隊に通報する。

会津藩降服

  一方、市川勢は水戸藩の追討軍がすぐ近くにいたことを知らずに、会津藩家老の隊長佐川官兵衛の退却指示により永井野村からさらに南方の大内村に行き、十九日には会津田島に至る。そして三日後の二十二日、会津藩が降伏した。会津戦争は、約一カ月の籠城戦を中心に、死者数千人を出した悲惨な戦争だった。飯盛山での白虎隊の自刃、家老西郷頼母の家族九人の自害など悲劇的な話が多く残されている。
  戦いの悲惨さを黒崎雄二が証言している。白虎隊と別れ、会津城に入ろうとして門前払いされた黒崎は、仲間とはぐれてしまい、砲弾が飛び交うなか、ようやく一人で南門そばの東照宮にたどりつく。そこは会津藩の守備範囲だった。黒崎は疲れと気の緩みから、社前で熟睡した。目が覚めると周囲にはたくさん人が寝ていた。起こそうとすると、みんな死体だったという。黒崎はこのあと南門の番人に頼み、城中に入れてもらい、三の丸の守備についていた市川勢と再会した。兄にも会えた。
  会津藩降伏が田島に伝わったのは二十五日。行き場を失った市川勢は、協議の結果、水戸に戻ることを決め、佐川に別れを告げ、会津藩以外の兵(旧幕府軍、新撰組、長岡藩など)とともに直ちに水戸に向け出発した。》
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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