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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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新聞記事から 「市川勢の軌跡 16・17」

与板城の攻防

  《六月に入ると、市川勢の動きが見えなくなってくる。資料(戊辰役戦史、出雲崎編年史、会津戊辰戦争など)に足跡があまり残っていないからだ。伊藤辰之助隊が十二日と十九日に出雲崎近辺で戦ったことぐらい。この月、奥羽列藩同盟が新政府に対抗する政権の樹立を目指すともとれる動きを見せる。江戸・上野の戦闘から逃れて会津に六月六日に入った輪王寺宮を同盟の盟主に担ごうというもの。十六日に実現するが、宮は軍事の担当は断る。同日、新政府軍は平潟に上陸し、二十四日には棚倉城を占拠。大総督府は宍戸、松岡藩主らに市川三左衛門らを罰することを命じる。
 七月四日、会津藩の佐川官兵衛率いる朱雀四番士中隊や清龍三番士中隊とともに地蔵堂(寺泊と三条のほぼ中間地点)を出発した市川勢は、与板の北方岩方村から山に入り、与板城に連なる山間部に胸壁を築く。その後、筧隊の約八十人は近くを流れる信濃川の堤防の胸壁を守り、市川隊の約百二十人は堤防以西を守り、朝比奈隊の約百人は鷹ケ嶺以西の守りに就いた。》

劣勢の同盟軍、総退却へ

  《七月十三日、寺泊と出雲崎の中間辺りに位置する馬頭見張台で市川勢の十五人が討死した。この辺りでは六月中旬から連日のように戦闘が繰り広げられている。同二十五日、筧隊は会津藩兵とともに元与板の新政府軍陣地を攻撃。二十八日には市川隊、朝比奈隊が与板城を襲う。同日、水戸では水戸藩の第二次追討軍が北越に向けて出発した。そのなかには武田金次郎もいた。
  この頃、北越では同盟軍が劣勢にあり、七月十九日には、五日前に奪回したばかりの長岡城が再び落城した。また二十八日、新発田藩が新政府軍に寝返った。退路がなくなる恐れもあり、同盟軍は八月一日に総退却を開始した。市川勢は三条に至り、八月二日、佐藤織之助率いる新遊撃隊が一之木戸で新政府軍に砲撃されると、会津、桑名両藩兵とともに援戦。同盟軍は新政府軍の追撃をかわしながら退却を続ける。市川勢の多数は、翌日には加茂、四日は村松城に入るが、一部は戦闘のさなか別行動となり、会津藩に助けを求めている。同盟軍は会津を目指すが、新政府軍が後方に迫ってきたため、山間部で迎撃することとなる。市川勢は清龍三番士中隊と高石を守る。》


冬坂峠を守備

  《北越戦争に敗れた同盟軍にあって、市川勢は会津の指揮下に入り、新政府軍と戦闘を繰り返しながら会津を目指した。険しい山を越え、会津藩領の津川に着いたのは八月中旬。津川は新潟を目指した三月中旬に通過して以来、五カ月ぶりだった。山並みの景色も変わっていたが、市川勢の顔ぶれも変わった。家老佐藤図書をはじめ、百人以上が戦死、あるいは病死、行方不明となり、勢力は弱まった。一方、市川勢の追討に向けて七月下旬水戸を出発した武田金次郎らによる第二次追討軍約一千人は、笠間、小山、前橋から三国峠を越えて越後に入る。八月十七日、越後口総督府に新政府軍の編入を願い出て許可される。併せて市川勢の討伐も許可される。同二十日、追討軍は越後高田に到着した。このとき、市川勢はすでに越後を離れ、津川から会津城下に入っていた。
 八月二十一日、会津国境の要衝の一つである母成峠が、会津藩兵や大鳥圭介率いる旧幕府軍、土方歳三率いる新撰組の必死の防戦にもかかわらず新政府軍に破られた。連絡を受けた会津藩は軍議を行い、防御体制を決めた。市川勢のうち百五十人は冬坂峠の防御を命じられ、ただちに出発する。》

西郷頼母の配下となる

  《隊長は国家老西郷頼母。西郷は直情型で藩主松平容保と相性が悪く、意見が対立することも多かったという。容保の京都守護職就任に反対し、新政府軍のとの戦争にも否定的だった。五月の白河戦争で大敗した責任を取らされ、閉門中の西郷は、何故か容保に呼び出されて軍議に参加。その席で「こうなったのも藩主以下、重臣の責任。全員切腹すべし」と主張し、不評を買った。軍事的に重要ではない冬坂峠に配置されたのは、そのためという見方もある。
 新政府軍は、母成峠を破ると猪苗代湖畔をへて二十三日には戸の口に至る。会津藩は必死に防戦するが、各地で敗れる。白虎隊も敗れる。冬坂峠とは別の市川勢も敗走した。そのなかに黒崎雄二がいた。同年代の白虎隊と一時、行動を共にしたことを史談会速記録に残している。「白虎隊の一部と合しまして日向山という所滝沢峠から十丁ほど隔たった峠がございまして、其方に加わり」と。黒崎はその後、白虎隊と別れ、銃弾飛び交うなか城下に潜入する。》
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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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