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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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新聞記事から 「市川勢の軌跡 11」

 新政府軍と戦闘

  《閏四月十一日、東北各藩の代表が白石に集い、会津藩に寛大な処置を願う嘆願書に署名。翌日、仙台・米沢両藩主は、岩沼に出陣していた奥羽鎮撫軍の九条総督に嘆願書を手渡した。同十七日、総督は嘆願書を却下。これに対し仙台・米沢両藩主は十九日、奥羽鎮撫軍の指示で手配した会津討伐の兵を引き揚げる旨を総督に届ける。さらに、二十日には鎮撫軍参謀の世良修蔵を仙台・福島藩士が暗殺。和平交渉は決裂した。一方、越後高田では十九日、黒田清隆、山形有朋、岩村精一郎が北越鎮撫について会談。東北を舞台とする本格的な戦争がいよいよ始まる。
  閏四月二十七日、柏崎の海岸鯨波付近で桑名藩が新政府軍と戦闘に入ったとの報を受け、出雲崎代官所に布陣していた市川勢は朝比奈、大森の部隊を派遣する。市川勢にとって初めての戦闘だ。大砲方七人も加わり、高田から進出した薩摩藩、長州、高田、加賀の各藩と激しい銃撃戦を展開した。桑名、会津両藩と市川勢は優勢に戦ったが、翌日になると形勢が逆転。市川勢は出雲崎方面に退却する。桑名藩の領地柏崎は、新政府軍に奪われ、桑名藩兵は会津軍などと柏崎より北側三里ほどの妙法寺に陣取り、新政府軍とにらみ合う。》

椎谷と宮川で初の戦死者

  《市川勢は五月三日、妙法寺の西1.5里にある椎谷藩(一万石)の陣屋に乗り込み、加勢を求める。小藩の椎谷藩は生き残るため、新政府軍に密使を送り、援軍派遣を要請。椎谷の南方八里ほどの宮川には薩長軍がいて、市川勢と小競り合いを行った。六日夜、雨の中新政府軍は椎谷と妙法寺に総攻撃を仕掛ける。不意を突かれた市川勢は奮戦するも、戦死者十七人、負傷者七人を出した。水戸を脱走して以来、初めての戦死だ。椎谷と宮川の戦死者の中には大目付地方三百石の荻昇介、大番組地方二百石の磯野長兵衛のほか、城代家老鈴木石見守の家来三人(鈴木鉄五郎ほか)などの名前がある。この戦いの直前の五月四日、寺泊で病臥にあった市川勢の幹部の一人で家老の佐藤図書が息を引き取った。四十四歳だった。寺泊の法福寺の過去帳に記載されている。》

◇参 考(水戸市史より)
  閏四月二十七日、柏崎の西端の海岸鯨波(くじらなみ)付近で戦闘が行われ、市川勢はここを守る桑名藩兵に加勢することになりました。柏崎は桑名藩の飛地で、反政府軍にとっては越後防衛の重要拠点です。桑名藩は「王政復古」以来会津藩と行動を共にし、鳥羽伏見の戦いに敗れて以来、藩主松平定敬(さだあき、越中守、容保の弟)も主戦派の兵士とこの地にあり、これを攻略しようとする新政府軍と対峙していました。高田(上越市)から繰り出した薩長や加賀軍との戦闘は、桑名藩の抵抗にあって一進一退の戦局でした。市川勢のうち桑名藩兵に加勢したのは、朝比奈弥太郎と大森弥左衛門配下の兵だったといいます(出雲崎編年史)。
 「相田日新録」閏四月二十八日の条には「曇夕方雨、鯨波合戦ニ付会津方敗北之由、宮川(柏崎市)ニて喰留可申外無く、若(もし)相敗れ候得ハ此辺如何可相成抔之趣ニ有之、町方荷物運びニて騒敷(さわがしく)候」とあり、戦いが始まった地方の住民の慌ただしい空気を伝えています。そして鯨波合戦でも、会津藩兵が加わってその主力と考えられていたことは、「会津方敗北」という表現からも察することが出来ます。この戦いは、結局新政府軍の多勢ののもとに、市川勢も退却しますが、犠牲者は出しませんでした。市川勢に初めての犠牲者が出たのは、本文で紹介されていますように、椎谷と宮川方面の戦いでした。
 柏崎を占領した新政府軍は、後退して妙法寺(柏崎の北東11キロ)にあった会津方の軍隊と対峙していましたが、五月三日、出雲崎方面から海岸道を宮川、柏崎方面に向って前進した市川勢は、椎谷藩の陣屋に押し寄せ、同盟軍に加担を迫りました。驚いた椎谷藩は、秘かに使者を新政府軍に送って来援を求めたため、新政府軍は五月六日を期して、椎谷・妙法寺方面を攻撃しました。この戦いで市川勢は、戦死者十七名を出すなどの痛手を受けることになりました。この中には、武士ばかりでなく水戸領出身の農民も交じっていたようです。(「水戸藩史料」下編、巻二十四)
 「相田日新録」は、「五月六日天気夜雨、水戸人数ハ椎谷、官軍ハ宮川ニ罷在両所之間ニて昨夜より戦有之、不意を被討水戸方敗北、痛人多分出来四ツ頃追々迯(逃)来候、殊ニより官軍押来可申哉ニて町方大騒、右ニ付衣類等荷物畳建具道具等土蔵ニ運入候」と、戦況や町の様子を伝えています。
 本文中、門閥派家老佐藤図書(信近)が寺泊の宿舎で病死したことが触れられていますが、このことは、市川勢の前途に暗い影を落とす出来事だったと言われています。近年、寺泊の法福寺の過去帳に「大乗院殿実相日信居士」という高い身分を意味する戒名が発見されました。それには、俗名は水戸藩信夫善次とあり、但し書きに「家老職佐藤頭正(図書の意か)四十四歳寺泊に追戦して病死」とありますが、墓はなく仮葬塚があるだけです。
  佐藤家は、頼房時代から水戸藩に仕えた譜代の名門で、図書(信近)は与力を付けられ家老の格式となり、要職を兼ねた門閥派の一人で、子の信好(主税)も越後へ同行し、父の死後も市川らと行動を共にし、八日市場で戦死しています。かつて、権力の座にあった門閥派の末路を物語っているようです。




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プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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