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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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説得性に欠けたテレビ番組 「歴史探偵―桜田門外の変」

 先日、親しい友人からの勧めもあり、NHKテレビ番組「歴史探偵―桜田門外の変(4月10日(水)22:00~22:45)」を視聴した。番組表には「新史料で大調査、井伊直弼暗殺の真相! 知られざる内戦の危機」というキャッチフレーズが躍っていた。
 
 順を追っていくと、次のようになる。
<始まる前>
 井伊直弼の桜田門外の変ですね。
 どんな新説が登場するのか楽しみです。
<あらすじ>
 桜田門外の変。新史料が発見され、従来のイメージが大きく変わろうとしている。
 井伊直弼暗殺にかかわったピストルと事件直後に起きた内戦の危機。
 幕末の大事件を調査する。
<目 次>
 プロローグ、事件現場で見えてきたもの、新史料発見、桜田門外の変の後、感想。

○スタジオ
 佐藤所長 「超有名な事件で、井伊直弼が暗殺されました」
 新たな資料が見つかり、見方が大きく変わりました。
 1860年3月3日、大老の彦根藩主・井伊直弼が水戸藩の浪士たちに暗殺されます。
 河合先生 「初めて調査に行きました」
<事件現場>
 ○桜田門 当時から場所は変わっていません。
 ○井伊直弼の屋敷跡  井伊家の屋敷が距離にして400m、桜田門の直ぐ側にありました。
 ○事件発生  安政7年(1860年)3月3日、天気は大雪、籠に乗って江戸城に向かいます。彦根藩の行列はおよそ60人、襲撃者は18人、彦根藩の3分の1に届きません。井伊直弼は新心新流の居合の達人で、すごい腕前でした。不可能に思える暗殺計画をどのように実行したのでしょうか。
 ○襲撃犯はどこにいた?
水戸浪士には身を潜める方法がありました。大勢の見物人が集まり、見物人のための出店までありました。襲うには格好の場所だったのです。警視庁の別名を桜田門といいます。警視庁の眼の前で襲撃されたと言います。
 ○午前8時頃  彦根藩行列が見え、水戸藩士のリーダー関鉄之介が、行列を遮るため仲間に指示を出しました。直訴状を差し出します。一発の銃声が鳴り響きます。それを合図に一斉に斬りかかる浪士たち・・・。
 彦根藩の行列に異変が起こります。次々に逃げ出しました。井伊直弼の籠は置き去りにされました。彼らはアルバイトだったので、命を捨てるまでの覚悟はありませんでした。人材の斡旋業者のリストまでありました。
60人の行列のうち、半分が逃走し、26人にまで減りました。ところが、彦根藩の人たちは次々と倒されていきます。寒さで手がかじかみ、刀が抜けず一人ひとり斬られました。

○スタジオ
 佐藤所長 「複合的な理由が重なったんですね」
 河合先生 「3月3日は上巳の節句で、大名が将軍に挨拶するため江戸城に行かなければならない日でした」
 桜田門外の変が起こった背景を見ていきます。
  1853年、ペリー黒船来航
  1854年、日米和親条約締結
    ・開国派:井伊直弼  ・攘夷派:徳川斉昭
 河合先生 「徳川斉昭を井伊直弼は永遠に謹慎していなさいと水戸に封じ込めています。だから桜田門外の変が起こるのです」
 佐藤所長 「居合の達人である井伊直弼が、そんなに簡単にやられるのが疑問です」

<新史料発見>
○鳥取県立博物館の来見田博基さん  『安達清一郎日記』 水戸藩士を匿った際の聞き取り記録です。
 襲撃のリーダー・関鉄之介  事件の2ヶ月後に書かれたもので、信憑性の高い記録です。
 「ピストルの弾が籠の中の人物の胸先にあたって亡くなった」
 なんと、井伊直弼は最初の銃撃で命を奪われていたのです。居合の達人が抵抗もせず亡くなったのもこれで理解できます。非常に新しい発見として注目されています。関本人は鉄砲を撃ったとは言っていません。彼以外に実行犯の存在が居たと考えられます。

○実行犯の存在
 大阪市東成区  澤田平さん(古式銃研究家) 事件に使用された拳銃を箱の中からおもむろに取り出す
 「桜田門外の変で使われた銃と鑑定しています」
 木箱の裏に、森五六郎の名が書かれている。  
 森は、直訴状を掲げた浪士で、尋問書の『細川家書取』記録によれば、現場に2丁のピストルが持ち込まれていたことになります。
 森五六郎が鉄砲を籠に向けて撃った、と記されています。
 桜の花が刻まれた装飾、鉄砲は日本で作られたものでした。
○コルト1851ネイビー(アメリカ製)が画面に映し出される。
 日本に持ち込んだのはマシュー・ペリーです。 
 『ペリー提督日本遠征記』には、20 army pistols, Emperorへ献上したと書かれています。
 幕閣、当時の幕府の高位の者に贈呈しています。それを見本に水戸家で作られた。
 それが何らかの形で森五六郎にわたったとみられます。
○国内で生産できたのか?
 水戸市  永井博さん(茨城県立歴史館)が登場
 常磐神社義烈館内の様子 
 永井さん 「これが斉昭の時代に作られた大砲です。水戸藩は、斉昭の元で攘夷のために軍備を増強していました。銃を作っていたのは矢倉方という部署でした。ペッパーボックス拳銃という連発銃、葵の御紋が水戸徳川家で作られていたことを示しています。
 水戸藩史料が映像に映し出される。 その文書に「小銃などの武器の販売を許可する」と書かれている。
 永井さん 「矢倉奉行の下役である森山という人物が事件に参加していて、そういったルートから入手していたのかもしれません」
 櫻田門外の変の図には、銃を持つ森山繁之介の姿が描かれています。
 新しい時代の暗殺事件だったのです。
 関鉄之介、森五六郎、森山繁之介 少なくとも3丁の拳銃が持ち込まれていたことがわかりました。

○スタジオ
 佐藤所長 「(従来の)侍同士の切り合いのイメージが覆されました」
 水戸藩では、ピストル以外にも様々な武器が作られていました。戦車です。安神車(あんじんしゃ)、牛で引いていた牛に鎧をつけていました。
 佐藤所長 「銃はもっと持ち込まれた可能性はあったのですか?」
 河合先生 「その可能性はありました」
 この事件、もう一つのある特徴がありました。神職、鉄砲鍛冶が加わっていました。
 河合先生 「厳しい処分に憤慨して、自分たちも立ち上がろうと武士ではないのに刀を持ちました」

<桜田門外の変の後> 
 日本は内乱の危機に
○明治大学博物館  落合弘樹さん(明治大学)登場
 宮崎県延岡藩『内藤家文書』が映し出される 
 落合さん 「延岡藩は井伊直弼の弟が藩主を務めていました。狼藉者が襲ってきて井伊様が9人ばかり取り押さえたと書かれています」
 なんと井伊直弼は殺されておらず、襲撃犯を撃退したとあります。これは幕府の公式の情報でした。
○なぜ生きていることにされたのでしょうか?
 最も頭を悩ませていたのは徳川幕府でした。幕府の屋台骨を支える両藩がぶつかり合う前代未聞の一大事でした。当時の『武家諸法度』には、跡継ぎを決めずに大名が横死した場合には、御家断絶というルールがありました。井伊大老は突然命を奪われたので、跡継ぎを決めていなかったのです。
 落合さん 「藩はお取り潰しになり、絶対に復讐する。それをまず抑える必要がありました」
 幕府は忠臣蔵の再来を恐れました。幕末の忠臣蔵を未然に防ぐために、井伊直弼は生きていると触れ回り、跡継ぎを決めさせる策に出たのです。
― 以下、省略 ―

 以上、大まかに番組内容を振り返ってみましたが、これを視聴された方々はどのような印象を持たれたのか、大変気になって仕方がありません。 
 冒頭で紹介したように、本番組の見出しには「井伊直弼暗殺の真相」とあり、今まで語られてきた内容とは違った視点で真相に迫るのかと思いきや、全く期待を裏切るような内容で、がっかりさせられたというのが率直な感想です。井伊直弼が水戸浪士から襲撃をうけた際、銃創を負って動けなくなったことは、小説(吉村昭著「桜田門外の変」)を読んだり、映画(佐藤純彌監督「桜田門外ノ変」2010年作品)を観た人なら誰でも知っているのではないでしょうか。<但し、「死んでいた」とは表現していないが・・・>
 桜田事変の現場指揮役の関鉄之助が、鳥取藩士安達清一郎に事件当日の様子を語ったとされる新史料の日記が鳥取県立博物館で公開されたのは2年前(令和4年3月)のことです。鉄之助から聞き取ったという日記には、「乃(そこで・その時)駕ノ戸を開ケハヒストンの玉(短銃の弾丸)胸先ニ中(あた)リテ死シ居リヌ、乃(すなわ)チ引出シテズタズタニ斬付ケ、首ハ薩州ノ有村打取リテ所持ス」とあります。
 現代語に直訳すると、「そこで(鉄之助が)駕籠の扉を開けてみたところ、ピストルの弾が(井伊の)胸に命中して死んでいた。そして(井伊を駕籠の中から外に)引き出してずたずたに斬り付け、首級は薩摩藩の有村が打ち取って自らが所持した」ということになります。
 つまり、番組で『新発見』と言いたかったのは、「撃たれた時点で井伊は『すでに死んでいた』のです」ということを強調するねらいがあったように見て取れます。鉄之介の証言を記した安達日記の記述をそのまま鵜呑みにすることが、果たして真実と言えるのでしょうか。大いに疑問です。
 これまでの内容を見ただけでも、「あれっ?」というような事柄やいくつもの疑問が浮かび上がってきます。井伊直弼の死因を含め、放送された内容の一つひとつを詳細に検証してみる必要がありそうです。

◇疑問1 
 「襲撃犯はどこにいた」のコーナーでは、襲撃者たちは一般人に紛れ込んで出店等に潜んでいたと指摘していますが、それだけでは十分ではありません。町人姿に変装したことや、肝心の『武鑑』を手にして見物人を装ったことなどには全く触れられていません。残念ながら、重要なポイントが抜け落ちています。
◇疑問2 
 番組のはじめの方における語り、「徳川斉昭を井伊直弼は永遠に謹慎していなさいと水戸に封じ込めています。だから桜田門外の変が起こるのです」という短絡的なコメンテーターの指摘は、これも本質からかけ離れていると言わざるを得ません。確かに、赤穂浪士のように元の主君の恥を晴らすという一面が全くなかったとは言えないにしても、果たしてそれだけの理由で水戸浪士は決起したのでしょうか。
 仮に大老暗殺が私怨を晴らすだけの目的であったとするなら、合理的に説明できない事柄が数多くあります。その端的な例が首謀者の行動です。その一人である高橋多一郎はこの大事件が起こった時、嫡男を同伴させて大坂に向っています。同じく金子孫二郎は品川の旅籠で井伊大老打ち取り成功の報告を待ち、成功した際は生き残った水戸浪士と合流して大坂方面に行く準備をしています。
 つまり、大老暗殺だけが主目的であるなら、同志と共に西国へ向かう必要性など全くありません。この辺りの状況も、前述した映画「桜田門外ノ変」を観た人、或いはその映画の原作となった吉村昭著の同名小説を読んでいる人ならば誰でも知っていることです。
 結論から言えば、大老暗殺(=東の決起)は攘夷のための環境づくり、つまりそれに見合った幕政改革(幕閣改造)実現のための手段の一つ(除奸)に過ぎず、もう一つが薩摩藩三千の藩兵による朝廷守護のための入京(西の決起)であったということになります。
 すなわち、水戸の領袖高橋、金子両名による大老暗殺計画のねらいは、東西同時決起の前半分として位置づけたものであり、後半の西の決起を促すために浪士一同は西国へ向かったというのが歴史の真実であることを確認しておきたいと思います。
 NHKの番組も含め、一般的には西国における薩摩藩の決起計画を除外し、東国だけの決起、つまり成功した大老暗殺の部分だけを切り取り、その評価を論じようとするところに大きな問題が生じてくるのでないかと思う次第です。もし、薩摩藩の挙兵計画が首尾よくいっていたとしたら、桜田門外の変に関する評価は全く違ったものになったのではないでしょうか。
◇疑問3 
  テレビでは、この番組の目玉である新しく発見された史料の文言を紹介して、額面通り「鉄之助が駕籠の扉を開けた時点で井伊は既に死んでいた」と断定していますが、よくよく同日の乱戦の流れを考えてみると全く辻褄が合いません。
 何故なら、敵味方入り乱れての戦闘中、しかも有村が井伊の首級をまだ切り離していない時点のことであるにもかかわらず、現場総指揮役の鉄之助が身の危険を冒してまでそこに近寄ることはあり得ない、という見立てが一般的ではないでしょうか。事前に取り決められた検視見届け役は鉄之助でなく、かれと同様に戦闘に加わらない岡部三十郎の役目であり、乱戦後に岡部が鉄之助に報告をしたと考えるのが自然ではないでしょうか。
 残された史料をどう読み解くかという基本的認識に問題がありそうです。安達日記をそのまま文言通りに解釈し、それがあたかも真相、真実であるかのように放送するのは如何なものでしょうか。宮崎県延岡藩『内藤家文書』の記述内容が、そのことを良く物語っています。
◇疑問4
 銃撃に使用されたという拳銃が画面に映し出されました。その拳銃が保管されている木箱と裏書も紹介されました。持主は大阪市在住のS氏で、古式銃研究家という肩書を持っているようです。S氏のテレビ出演はこれが初めてではなく、過去に数回同じような番組に登場しています。また、水戸発の映画「桜田門外ノ変」の制作が決まった後に来水して、例の拳銃を展示したことがあります。
 S氏は今回の番組で開口一番、「この拳銃は井伊直弼を撃ったものと鑑定しています」と告げ、その直後に木箱の裏側に記されている「森五六郎」の名前が画面に映し出されました。これをご覧になった方々は、どのように感じられたのか分かりませんが、筆者としては違和感を禁じ得ませんでした。
 以前にも、S氏が民放テレビに登場して同じようなことを話していますが、NHKとして、森五六郎が使用した拳銃という学術的裏付けを確認しているのかどうか、気になった次第です。
 番組では、コルト1851ネイビー(アメリカ製)が映し出され、「これを日本に持ち込んだのはマシュー・ペリーです」と紹介したあと、「ペリー提督日本遠征記には、20 army pistols, Emperorへ献上したと書かれています。幕閣、当時の幕府の高位の者に贈呈しています。それを見本に水戸家で作られた。それが何らかの形で森五六郎にわたったとみられます」と説明がなされます。
 そこから画面が水戸市に切り替えられ、茨城県立歴史館のN氏が登場して常磐神社義烈館内の様子が映し出されます。N氏は前述のように、「これが斉昭の時代に作られた大砲です。水戸藩は、斉昭の元で攘夷のために軍備を増強していました。銃を作っていたのは矢倉方という部署でした。ペッパーボックス拳銃という連発銃、葵の御紋が水戸徳川家で作られていたことを示しています」と語ったあと、水戸藩史料が映し出され「小銃などの武器の販売を許可する」という記述がクローズアップされ、「矢倉奉行の下役である森山という人物が事件に参加していて、そういったルートから入手していたのかも知れません」とコメントします。
 そしてタイミングよく「桜田門外の変」の図が映し出され、「この図の中に銃を持つ森山繁之介の姿が描かれています」とのナレーションのあと、「新しい時代の暗殺事件だったのです」という具合に進み、「関鉄之介、森五六郎、森山繁之介、少なくとも3丁の拳銃が持ち込まれていたことがわかりました」と結論づけがなされます。 
 これまでの状況をまとめると、大老襲撃に拳銃が使用されたことが歴史的事実であったとしても、それが水戸領内で製造されたという確証がないにもかかわらず、あたかも斉昭の指示で拳銃が複製されたかのような誤解を視聴者に抱かせ兼ねないストーリーは「百害あって一利なし」としか言いようがありません。
◇疑問5
 番組の進行中、スタジオでは次のように紹介されました。
 「この事件、もう一つのある特徴がありました。神職、鉄砲鍛冶が加わっていました」と言ったあと、コメンテーターが、「厳しい処分(安政の大獄)に憤慨して、自分たちも立ち上がろうと武士ではないのに刀を持ちました」と補足的に説明を加えました。歴史に詳しいはずの河合先生が、まさかこのようなコメントをするとは予想もしていませんでした。当時の水戸藩の実態と余りにもかけ離れているからです。
 確かに神職と武士は全く違った立場ではありますが、水戸藩では武士に準ずる郷士制度があり、神職であった斎藤、鯉渕、海後の三人も郷士という立場で追鳥狩などの軍事訓練に参加してきた経緯があります。しかも、鯉渕要人などは、若い頃から水戸の私塾で成沢村にあった「日新塾」で剣術の稽古を積んでいました。
 それらのことを調査せずに、「武士でもないのに刀を持ちました」などと平気でコメントすることに大いに驚かされた次第です。
 順序は逆になってしまいましが、「神職、鉄砲鍛冶が加わっていました」とのナレーションには呆れるばかりです。鉄砲鍛冶とは一体誰のことを指しているのでしょうか。多分、「水戸藩で銃を作っていたのは矢倉方という部署でした。ー中略― 矢倉奉行の下役である森山という人物が事件に参加していて、そういったルートから入手していたのかも知れません」という茨城県立歴史館のN氏の説明を受け、水戸藩下級武士の森山繁之介がいつの間にか「鉄砲鍛冶の職人」に仕立てられてしまったのではないかと推測されます。
 水戸藩人物録には、森山繁之介について「天保6年生まれ。身分は低かったが両親が教育に力を入れ、学問も武芸も早く上達した。二十歳ごろ藩に仕えて矢倉方となる。その頃矢倉奉行となった高橋多一郎に認められ、水戸藩尊攘派の一員として行動する。井伊直弼襲撃が計画されると、その実行部隊に参加」と書かれており、放送で言うような「鉄砲鍛冶の職人」などではありません。
 今回の番組で、視聴者を最もミスリードさせかねない箇所は、「水戸浪士は厳しい処分(安政の大獄)に憤慨して決起した」という表現です。この認識、捉え方の底流に番組制作者の意図が隠されているとすれば大問題と言わざるを得ません。
 つまり、水戸浪士の決起を赤穂義士の討ち入りと重ねて見てはいませんか、ということです。事実、番組の後半部分で彦根藩士による報復を念頭に、「幕府は忠臣蔵の再来を恐れました」と説明していることからも容易に推測されるのです。
 今回の番組の担当プロデューサーの念頭には、水戸浪士の大老襲撃の背景には大老に怨みを抱く斉昭の存在があり、拳銃を用意させたのも斉昭、家臣(水戸浪士)を唆したのも斉昭という構図が描かれ、それに沿ってシナリオが組み立てられ、出演者は台本どおりに番組を進めていく、俗にいう「やらせ」ではないかという思いが脳裏をかすめたというのが実感です。
 これが単なる思い過ごしであれは良いのですが、かつて筆者の友人が「桜田門外の変」に関してNHKの番組関係者からインタビューを受けた際、すでに台本が出来上がっているかのように、「この質問にはこう答えて欲しい」と執拗に言われて断った、という話が頭にこびりついているせいもあってか、なかなか素直には受け入れられないのが現実です。
 少なくとも公共電波を使っての放送なら、もう少し説得性、納得性、妥当性のある番組構成であって欲しいと願わずにはいられません。次回、折を見て「桜田門外の変」が起こった背景や浪士たちの心情に迫っていければと思っております。
安達清一郎の日記


 
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山内昌之「将軍の世紀」― 「本当の幕末」 徳川幕府の終わりの始まり

(5) 大塩平八郎の乱

 5、坂本鉉之助の誉れと大塩のシベリア亡命風説

 生前の大塩は、漢の高祖劉邦を補佐した張良をいたく尊敬していた。それは、帷幄で謀をめぐらす張良の知に魅かれたのではない。むしろ博浪沙で秦の始皇帝を狙って失敗しながら逃げおおせた勇気に感動したのである。大塩の蹶起は失敗したが、彼が「万一海上へ乗出し大島・八丈島等へ引籠り候はば容易ならざる儀」と、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門英龍は遠くから危惧した。江川の洞察力には感心する。また、大塩が外国の様子にも穿鑿が行き届いており、「シベリヤ辺りえ渡海つかまつり候ては実に大変これあり候」と思わせた点でも幕府の危機感は深かった(「浪華騒擾記事」。天保八年松浦静山宛江川太郎左衛門書状『坂賊聞記』終冊)。さらに渡辺崋山は江川宛に、安房の漁民が大塩は海上のアメリカ船に潜んでいたと噂する「房州風聞」を伝えている(天保八年十月二十九日付書状、別所興一訳注『渡辺崋山書簡集』)。大塩の蹶起は、腐敗まみれの家斉政権を脅かし幕府瓦解を促す意味では十分に目的を達したといえよう。

 江戸幕府は、幕権を回復するために二つの対策を図った。その一つは坂本鉉之助を武士の鑑としてひたすら称揚し、大塩の乱鎮定のスターとして口さがない大坂町人たちの幕府批判の口をふさぐことであった。第二は大塩と格之助妻みねとの密通疑惑をことさらに煽り立て大塩の乱の意味を矮小化しようとしたことだ。

 坂本は事件の翌年、天保九年八月二十二日に、大塩勢に鉄砲を打ち立て大筒を扱う者を「矢庭に討ち取り候につき、忽ち散乱に及び候段、抜群の働きに候」と賞せられ、大坂御鉄砲方なる新たな職に任じられ、「御目見以上之末席」つまり旗本身分に上げられた。銀百枚に加え大塩使用の大筒を一挺下された。これは坂本が発砲を阻止した梅田源右衛門の仕掛筒だったらしく、一発で三、四十人を連殺できた逸品だと静山は記録している。坂本の褒賞はこれで終わらない。天保十年六月に出府を命じられ、七月一日に「入御(にゅうぎょ)の節、御通かけ、御黒書院御勝手」で将軍に拝謁した。とても将軍に単独で会える身分(独礼)でないので、家慶が表に略式で出御するという形で黒書院の御入側の外あたりで目通りを許されたということか。「もっとも格別の御懇命を蒙り奉り、恐懼仕(つかまつ)り候」「殊更の御懇命を蒙り、ありがたき儀」とあるので家慶からの言葉かけもあったのだろう。大坂で坂本と連携した本多為助も「御譜代」に列せられ褒美として金五十両を貰い、坂本と本多に従った同心の山崎弥四郎も「御譜代」を許され金三十両を与えられた。もう一人の同心・糟屋助蔵には「上下格」が与えられ金二十両の褒美が下される。坂本以外は江戸に呼ばれていない(『阪乱聞蘇』甲、『甲子夜話三篇』5、巻五十四の一。『藤岡屋日記』第二巻、第拾壱)。

 坂本がとくに高い評価を受けたのは、いわば先陣を切って大塩勢に突入し十匁手筒で奮戦しただけでなく、部隊の指揮や京橋口の広瀬との折衝の仕方も際立っており、暗示的には東町奉行の跡部をきちんと戦列に引き出した功績のせいであろう。おかしいのは、賞詞に「山城守馬前に進み」とあり、さながら跡部が坂本らを整然と指揮したようになっていることだ。さすがに跡部は、堀と連名で大坂城代に出した書上(かきあげ)では、坂本の戦場差配に詳しく触れ、「炮術鍛錬の上、格別に励(はげ)しく働き仕り候」と評価を惜しまず、自らの虚名を飾らない。また、大坂定番・遠藤胤統は下文や感状を出し、平素の炮術鍛錬の成果が現れ、「抜群の働き、畢竟平生の心掛宜しき故の儀、最も神妙の至りに候」と誉めちぎった(天保八年酉二月廿一日付書上、同三月廿日付感状『坂賊聞記』終冊)。坂本は万事に冷静なのである。十匁手筒の打薬(火薬)の薬量を減らしたのは、甲冑武者二人を撃ち抜く力をもつ薬量では市街地で射程が延びて住民を巻き添えにする危険があり、一人を倒すのに足りる打薬の量にしたというのだ。また乱後、遠藤に対して大筒と小筒の性能と用途について諄々と諭し百匁筒を市街地で使う非を説き、「鉄炮の事は術者に御任せくだされたく御不案内なる御指図にはさりとは困り入り候」と、跡部だけでなく遠藤にも憚らぬ発言をしている。また坂本は、京橋口同心の秋山新太郎の虚言を鋭く見抜いた。秋山は広瀬らから孤立しても、坂本らに近い場所で銃を六回発射して勇戦した「実事ならぬ」「偽言」を述べ立て、坂本から厳しく反発された(「咬菜秘記(三)」『舊幕府』二巻十二号。「咬菜秘記(五)」『舊幕府』三巻四号)。秋山といい、雪駄履きで戦場に出て来た広瀬治左衛門といい、いずれも京橋口の与力・同心であり、坂本や本多の玉造口とは士風と練度が違っていた。この相違が「御賞美」として金七両を貰った同心が玉造口では六十人、京橋口では三十人という差につながったのだろう(『阪乱聞蘇』甲)。

 6、生田万の乱と有平糖の橋

 坂本鉉之助を武家の華、幕臣の鑑に仕立てあげ低落した幕威の回復に努めたとすれば、幕府は大塩平八郎の名誉と人格を損ない、大塩の乱の歴史的意味を民衆の目から隠すために、格之助の子で二、三歳の弓太郎を不義の子と貶めた。静山は今も当時もいちばん俗耳に入りやすい話を紹介している。「母は、塩賊(平八郎)が養子格之助が妻にして、みねと云しに、賊姦通して生れたる子なり。積悪不善の種子なれば、かかる罪劫も有べけれども、此子の因果は憐れむべきこと也」。このために弟子たちが大塩の門から立ち去ったというのだ。天保九年九月の日本橋捨札(すてふだ)一の札は、「表に謹厳の行状を飾り、文武忠孝の道を講じながら(中略)みねと奸通に及ぶ」からまず始まり、平八郎の塩漬死骸を引き回して磔にするという布告で終わる高札であった(『坂乱聞蘇』甲・乙)。

 静山は、天保十年八月十一日、江戸に参じた坂本に事実を尋ねると、「あれは同心某の言に拠し也。まことはさは無きか」と否定している。別の機会に坂本は、平八郎の一挙を密告した元門人の「犬の遠吠」にすぎず、大坂市中の者で大塩を「有難かる者多きゆえ其人気をくしく為か」と見抜いている。今度の罪科は「反逆」が本質であり、密通のごときは「枝葉」にすぎず、一々書くこともなく、ましてや「事実にもあらすは猶更なり」と坂本の高い見識を示している。平八郎・格之助父子の慈愛と孝行にあふれた人間関係に関する坂本の細やかな描写にも彼の情と人柄がしのばれる(『阪乱聞蘇』乙。「咬菜秘記(二)」『舊幕府』二巻十号)。いずれにせよ、「家法最モ厳ニシテ閨門ノ内宛モ官府ノ如シ」というのは、大塩贔屓の誇張した表現にせよ、幕府が捏造した可能性の高い話にこれ以上こだわる必要はあるまい(石崎東国(酉之允)『大塩平八郎伝』国会図書館DC一〇一コマ)。

 幕府政治の腐敗は信賞必罰原則の弛緩にも及んでいた。そもそも大塩の乱という大坂東町奉行所与力・同心らがやむにやまれぬ心情から起こした蹶起について、大きな責任を負うべきは奉行の跡部良弼のはずだ。しかも彼には、坂本や本多の度重なる督促がなければ大塩勢と対決する覚悟もなかった。当然、江戸表から戒飭(かいちょく)処分を受けても仕方がない。しかし事件後、懲戒されないどころか、跡部の禄高は天保八年六月十日に元高(拝領高)二千五百石のほかに、余高六百三十七石五斗余を組み込むという形で三千百三十七石余になった。これは加増にほかならない。しかも江戸城芙蓉之間で老中列座の上、江戸不在の跡部の名代に言い渡したのは、実兄の老中・水野忠邦である。松浦静山は、跡部のことは大塩の乱の前から人の褒貶が少なくなかったが「遂に賞声を蒙て」と皮肉交じりに加増の沙汰を紹介した。さらに、八月二日に跡部の名代は同じ手順で金五枚と時服二を与える沙汰書を受けた。その理由は、大坂表の米買上に「冬以来格別の骨折」をしたからだというのだ。大坂はじめ上方に難儀をもたらし大塩に蹶起を決意させたのは一事であり、江戸廻米で飯米を大規模に確保したのは他事として表彰されたのだ。こうした跡部評価の背景に水野忠邦の影がちらつくのは幻のせいではないだろう。世間の驚きと不快さを控えめに代弁するのは、松浦静山の感想であろう。「世は風波の如き者か。平穏なる水、忽ち崎嶇(けわしさ)を生ず。跡氏の浮沈、奈何(いか)ん」(『坂賊聞記』終冊。『藤岡屋日記』第二巻、第拾壱)。人生には波のように浮く時と沈む時もありますよ、とは何とも痛烈な嫌味ではないか。

 大塩の乱直後の三月にも大塩の余波で摂津・西成で米価騰貴に怒る打ちこわし(三十人逮捕)、備後・尾道で大塩の乱に影響された百三十人が浄土寺山に嘯集(しょうしゅう)して「火をたき、ほらがいを吹き立て、一夜騒動いたし候」という不穏、摂津・尼崎でも小前百姓が屯集して八百屋・菓物(くだもの)屋に押しかけ四、五人が逮捕される不穏、摂津・兵庫湊では米価騰貴に抗議して人びとが摩耶山に登るなど不穏な行動が相次いだ(青木虹二「都市騒擾年表」『百姓一揆総合年表』)。周防・岩国でも「大塩ノ乱ヲマネシ」て大家に放火しようとした者も現れた。なかでも長州藩の領内では、萩城下の騒擾だけでなく、下関・三田尻・小郡などでも騒動が頻発し、盆踊りや芝居で大塩に同情しながら彼の衣裳や武器を真似して踊る様が人気をさらい、皆が笑いに興じる光景が繰り返された(中瀬寿一・村上義光『民衆史料が語る大塩事件』)。

 それでも大塩の乱が失敗に終わったのは、大坂市中住民と周辺農民との大規模な結合が実現しなかったからだ。もし大坂の市中とそれに接続する「町続在領」、周辺農村部、畿内在郷町(平野郷や八尾など)に大坂入津米に依存する飯米が行き渡らなければ、飢餓と食糧問題に抗議する都市民と周辺の綿作・青物作など米生産者以外の農民それに非農業的下層民らを含めた結合が大塩の乱を拡大させた可能性も否定できない。しかし皮肉なことに、跡部良弼はじめ町奉行所による市中飯米の徹底的維持政策の成功は、市中から蜂起に参加する者を少なくした。また、大坂に近接する「町続在領」とくに堂島米の購入が許可されていた大坂南郊の天王寺はじめ十か村では事件後に処分を受けた者を一人も出していない。平野郷と八尾からも乱の処罰者は出ていない。彼らは大坂の米穀供給の安定の受益者だったのである。こうして大塩の熱烈な信奉者でありながら米販売者でもある上層農民(名主・庄屋)は、米購入者の下層農民の不満を十二分に動員できず、大塩の乱の持続力を弱めてわずか一日足らずの未完の蜂起に終わらせたのである(「大塩の乱と大坂周辺の米穀市場」)。

 大塩の乱から深い影響を受けた事件が各地で多発するなかで、幕藩体制を否定する動きは越後・柏崎でも起きた。国学者・生田万(よろず)の蜂起である。彼は上野・館林藩士の家に生まれ平田篤胤に入門したが、藩政改革の提言書『岩にむす苔』一巻が藩当局の忌諱に触れて文政十一年に追放された。縁あって柏崎に招かれた天保七年の越後は、翌八年とともに飢饉に見まわれていた。桑名藩飛地領の代官は救済策を示さず、却って米価の値上げを図って暴利をむさぼる有様であった(『日本近世人名辞典』)。天保八年六月一日、朝の六ツ(六時)、柏崎陣屋に生田はじめ牢人六人が三十名の「雑人」を召し連れ、「大塩平八郎党」を名乗り、飛道具・槍・長刀などで身を固めて乱入した。生田一党の火付で門と仮番所は焼失したものの、役人たちも応戦して指導者ら三人と旗持一人を討ち取り、手傷を負った者二人が逃走した。浜で絶息した者のうち一人は首がなく、他は逃げてしまった。切り込み七人、うち死者六人という説もある。討ち取られた生田の妻子三名も捕縛され入牢後すぐに縊死して果てた。事件の一日前、五月晦日夜八ツ(二時)頃、桑名藩領・柏崎の隣の刈羽郡荒浜村に「大塩平八郎門弟」を名乗る侍たち十三人が姿を現した。ここは井伊家与板藩領である。二軒の家を襲い、一軒から有金十両余を出させると、往来に金を投げ出して「窮民え拾ひ取候よう」と呼びかけたという。六月一日午の刻(十二)に与板本藩の援兵が着いた時には、救民の志をもつ者たちは藩領を越えて柏崎陣屋を襲っていた。荒浜村と柏崎陣屋に現れた集団は、生田万の同じ一党と見てよいだろう(『坂賊聞記』終冊。『浮世の有様』3、巻五後之六、国会図書館DC一一七~一一八コマ)。この一挙は「奉天命誅国賊」(てんめいをほうじこくぞくをちゅうす)などの旗を掲げて、大塩の檄文に通じる「落し文」を公にしている。それによれば、「困窮を救ふの一心よりの所為(しょい)」とした上で、「民は国の本にて、民の貧富により国の貧富するは天の道理なり」と指摘する。それ故に、平時と戦時を問わず、「民の富めるを肝要に致す者なり」と断じる(『民衆史料が語る大塩事件』)。
 これは桑名藩の白河楽翁こと松平定信の『国本論』にもどこか通じる考えである。

 定信は『国本論』出だしの一で『易経』剥の象

 スクリーンショット 2020-09-07 9.12.48 の「上もって下を厚くし宅を安んず」を引いて、君主が下民に厚く恵みを施せば、君主の地位も「危亡のわざわひなし」と道理を説いた。
 また、二では益の象スクリーンショット 2020-09-07 9.13.23 の「上を損して下を益す。民説(よろこ)ぶこと疆(かぎ)りなし」(上を損して下を益すれば民の喜びは限りない)に寄せて、上でなく下民を豊かにしないと却って損をすると説く。さらに定信は「百姓が足らば君誰とともに足らざらむ」(万民が満足しているというのに殿様は誰と一緒に不満足だというのでしょうか)という『論語』(顔淵第十二)を引いている。それは、凶作の時には「徹」(収穫物一割の税)にすべきだという孔子の教えにほかならない(神沢杜口『翁草』巻之百二十七、『日本随筆大成』第三期第22巻所収)。 

 こうしてみると、生田万がわざわざ「柏崎、楽翁様以来国の御政事常に此義を第一と致され候」と定信を称揚したのも偶然ではない。その一方、飢饉に苦しむ百姓を心配しながら穀物から酒粕まで所領の外に持ち出さぬように厳重に申し付け、これを破る者は首を刎ねて町に晒すべきであり、この禁制がなければ「国に制度は更になし」と厳しく断言した。定信を評価する一方、生田万は或る手紙で大塩について「実に大造なることに御座候」とスケールの大きな構想と行動に共感していた(『民衆史料が語る大塩事件』)。

 松浦静山は、天保十年五月に浅草三筋町の元木祐芳なる軍学・柔術指南が幕府に逮捕された事件を記録している。子の松之助は幕府徒目付であり、大塩と似た乱を図った嫌疑で同類七人とともに捕縛されたという。十九日には御殿山で蜂起するために、武器・煙硝をたくさん貯えていたという説の真偽は不明である。手鎗三千本、七人持の大砲三挺、五匁筒二十五挺、十匁筒二十五挺、種ケ島三挺を隠匿し、徒党は三千人にも及ぶという話を聞くと静山もさすがに眉唾ではないかと疑っている。静山は大塩このかた「反逆も聞古したり」とし、この謀議について世間の噂も聞かず、水野忠邦あたりの指図ではないかと臭わせる(『甲子夜話三篇』5、巻六十の四)。要は大坂の屈辱を江戸で晴らす暗い陰謀の臭いがするということなのか。

 半世紀近く将軍職に君臨した家斉は、大塩自害の翌月、天保八年四月に家慶に職を譲り、西之丸に隠居し大御所となった。新しい天井は袞龍(こんりゅう)や雲龍の彫物で美しく飾る贅沢さであったが、どことなく「御魂屋」(みたまや 霊廟)に似ていると皮肉られた。また、凶作で倒れて死ぬ者が出ているのに、「アルヘイ」(有平糖)で長さ五間・幅二間の「果子の橋」をつくる奢りをするのだから、下々の事をまったく知らないと噂をされたものだ(『三川雑記』天保七年丙申)。もはや家斉は庭番(隠密)を使いながら蝦夷地問題など政務にも真面目に関与した精励さを失っていた。側用取次が家斉の耳に正しい情報を入れず、珍奇な盆栽や変り鯉を入手すれば満足する大御所の周辺はますます腐臭を強めていく。文政十一年(一八二八)に書物奉行・高橋作左衛門景保が国禁を犯して日本地図をシーボルトに譲った事件が起きると、「昼夜眠ラセザリシ」と苦悩した。そこで奥向の側近たちは、大塩の乱についても百姓一揆を処理する与力の仕方が悪かったと事件を「軽ク申上タリ」と世の動きを正確に上申しなかったのだ。老中たちは大塩の乱が幕政の将来にもたらす重大性を慮ったのに、側用取次はじめ御側に近侍する役人たちに止められた。彼らは家斉が気前よく振舞った加増を返上するのを憂慮したからだという。また天保七年の凶作についても家斉は知らなかったようだ(『三川雑記』天保七年丙申、八年丁酉)。

 しかし、将軍になった当座の家斉は、天明七年(一七八七)に起きた江戸の打ちこわしを「世上ただ御静謐とばかり申上し」た側用取次の横田筑後守準松(のりとし)に「欺れ給ふ」と憤り、直ちに解任している。大田南畝(蜀山人)の言を借りるなら、「常々万民の患苦これなきようにして取らせたき思召しの厚きといへども」、佞人が御側にいて万事を取り繕って言上するのを「御正直の余り」に許せなかったというのだろう(『一話一言補遺』巻四、『日本随筆大成』別巻6所収)。家斉の「御仁心」は大塩が蹶起する頃になると、もはやかけらさえ残っていなかった。 (連載了)


 

山内昌之「将軍の世紀」―「本当の幕末」 徳川幕府の終わりの始まり

(5) 大塩平八郎の乱

3、大塩の蹶起と豊臣の遺産

  大塩は幕府の公文書や関係者の手紙では、しばしば「塩賊」「平賊」「奸賊」と呼ばれ、その一挙は「塩暴」「塩賊作乱」「塩乱」「坂乱」と蔑称された。松浦静山は、大塩について幕府関係者・大坂詰家臣・大坂商人から熱心に文書・証言・落首・噂話を収集し、『甲子夜話三篇』各巻に収めた史料集は『坂賊聞記』や『阪乱聞蘇』と名づけられている。しかし、劉裕が「風骨常ならず。けだし人傑なり」(『宋書』巻一)と謳われたように、大塩は「塩賊」や「平賊」と片づけられる小器ではなかった。大塩勢と戦った幕府勢の指揮官たちや、幕末きっての剣豪から静山の家臣に至るまで大塩の器量をこぞって褒めているほどだ。

 大坂天満の自邸で挙兵した大塩勢と、平野橋に近い平野町筋、北船場の淡路町や瓦町と堺筋とが交叉する中心部で衝突した大坂定番玉造口与力らの証言は紹介に値する。平野町筋で衝突した本多為助は、大塩について「同人儀中々凡人にはこれなく、文武才力は勿論、人物行状等抜群の者にて謀叛一揆等企て候ものとはゆめゆめ心付かず候」と江戸から来た神道無念流剣術指南の斎藤弥九郎に語った。蜂起は失敗したにせよ、大塩ほどの人物に油断はならず、「再び旗を挙げ候」ことを「甚だ心配致し候」と大塩の粘りを警戒していた(「浪華騒擾記事」『新定東湖全集』)。堺筋の四辻で大塩勢に十匁筒を打ち込む坂本鉉之助俊貞も、本多と同じく大塩に限って左様の振舞をするとは思えず、最初の砲声を聞くと大塩邸襲撃の打ちこわしや百姓一揆を平八郎が迎撃した筒音だと推測したほどだ。江戸の儒者・佐藤一斎に至っては、大塩蹶起の知らせを信じず、これこそ曾参(そうしん)殺人だろうと感想を洩らした。孔子の弟子・曾参が人を殺したという嘘を何度も聞くと、母でさえ誤報を信じて機織りを止め外に飛び出たという故事だ(坂本鉉之助述「咬菜秘記(二)」『舊幕府』二巻十号。『三川雑記』天保八年丁酉)。坂本は大塩から書籍を借り、主著の『洗心洞劄記』を贈られた人物である。「至極礼節等は正敷、万端の話も至極面白く、其の度に益を得ること多く、文も武も貞(鉉之助)より遥に優りし人と思ひし」と高い評価を惜しまない(「咬菜秘記(一)」『舊幕府』二巻八号)。

 大塩事件当時の平戸藩大坂屋敷詰だった葉山左内(鎧軒 がいけん)は、『平戸藩士聞書』において事件背景をすこぶる客観的に説明している。静山の家臣たる葉山は、「大塩平八郎殿事」について「政事方などに於て実に天下の一人とも申すべき人傑」であり、飢饉に際して、大坂が「日本一の繁華の地」であり「日本国中の金銀凡そ七分通り」が集まるのに多数が餓死する無慙さを見かねて、大塩は大坂東町奉行の跡部良弼に提言したと説明を始める。天保七年から寒気が強く大坂だけでも、一日に三、四十人が飢えと寒さで死亡し、天保七年冬から八年正月には四、五千人ほどが死ぬ惨状を呈した。大塩は長く務めた東町奉行所与力の職を養子の格之助に譲っていた。葉山は、大塩の意見によれば米相場を上げれば各国各大名の米が大坂にもっと集まり、余裕をもって消費者に安く売る二重価格制の導入も可能だと跡部に提言したのに拒否されたと明言している。

 そこで大塩は、鴻池・加島屋・三井の主人らと談じ、富商十二家から五千両ずつ借りれば六万両となり、これで何とか八月半ばまでの「飢渇」をしのげるとも説いた。「左様候はば此の陰徳いかばかりに御座候」と「しばらくの処御取替」を頼んだのである。大坂天満の武家だけに、船場の富商を説得するために、この金でどれほどの米が買えるかを細かく算定した。金子六万両は、銀六十匁の替で代銀三千六百貫となる。大坂で一日入用の小売米はおよそ四千石であり、新米生産による価格下落も多少見越し、一石につき銀一匁と定めると一日あたり四貫目つまり一か月分で百二十貫、一か年で千四百四十貫、三か年で四千三百二十貫つまり七万二千両の計算となる。六万両あればしばらく引き合いが成り立つというのだ。加島屋久右衛門は同意したが、三井と鴻池は反対した。それどころか、その内報を受けた跡部は大塩に、隠居の身でこれ以上申すと「曲事」として「強訴の罪に処すべし」と荒々しく言い渡した。大塩は、かような時節には上から「仁政」を施すべきなのに、「苛政」をそのままにし、上下のために心を砕く自分を入獄させようとは何事かと憤慨した。縄目の恥辱を受けるよりも、諸民のために潔く一命を捨て「我が計らひ事を行ふべし」と蹶起したというのだ(中瀬寿一・村上義光編著『民衆史料が語る大塩事件』)。ちなみに加島屋が出した金子は千五百両という説もある(『三川雑記』天保八年丁酉)。

 葉山左内の分析報告は、蜂起に至った実情を公平に説明するだけでなく、大塩に対する武士の情も滲み出ている。静山としては、さすがに松浦党よ、平戸武士よと自慢してもよいはずだ。しかし、どういうわけかこの史料は人の目に触れる『甲子夜話』には入っていない。いずれにせよ静山は、大坂の葉山左内などから二月二十九日から連日、櫛の歯を挽くように届く報告を読んでいた。なかでも、二月二十日付町便り出所知らずの「大坂大変」という記事は、天満の東照宮少し北の東与力町から出火し、大塩ら与力七、八人が百姓七、八十人らを率いて大筒五、六挺ほどを車に載せて同志ならぬ与力屋敷に打ちかけ、一時に燃え上がった東与力町の六十軒に続き西与力町も六十軒残らず焼亡し、町家や寺社など天満一面が火になり大騒動となる模様を淡々と描いている。その結果、東照宮・建国寺・天満宮などが類焼し天神橋も切り落とされたので、天満の西南を迂回して難波橋を渡り、今橋筋の鴻池善右衛門宅に大筒を打ちかけ、そこから三井と岩城の呉服店も攻め、平野町の平野屋鉄五郎宅にも放火し町中が大火となる大騒動に発展したことがよく分かる。市中はまことの戦が始まったと周章狼狽し、「皆々近在へ逃走り候者ばかりにて」「女小児の泣き叫ぶ声目もあてられず」という光景が江戸の静山にも知らされた。昨夕七ツ(十六時)頃に曲者が捕縛されたと知らされると、民心も少し落ち着き、船場と天満の火事も今朝ようやく鎮火したというのだ(『坂賊聞記』乾、『甲子夜話三篇』3、巻四十の一)。

 「難波津に聞くやこのたび不意をうち 何をあてにか焼や此度」とか、「難波津のあしき道とは知りながら ふみ迷ふてやなどいりにけん」という歌は、大塩事件とその失敗をどこか同情している風情がある。後者は、葦(あし)を刈る路は平常往来するが、思わず路に迷い、邪(あしき)路に入ってしまったと言いたいのだろうか(『坂賊聞記』乾・終冊、『甲子夜話三篇』3、巻四十の一、同4、巻四十二の一)。大坂では市街地から多くの民衆が焼け出された。大塩憎しの感情が高まるはずなのに、むしろ反対に共感や喝采を博する現象が見られた。将軍の威光を借りて江戸の武家風を吹かしたがる城代や町奉行をいかにも冷やかす町柄らしい。大塩は蹶起の際に、「救民」や「天照皇大神宮」の旌旗と一緒に大塩家が今川家の末裔だと誇示する五七の桐に二つ引きの紋を掲げた。すると豊臣秀吉の五七桐の太閤紋と勘違いした大坂人は、むかしの浪華風俗を思い出してやんやと喝采した。「きつひやつの、きつひやつの」(えらい奴だ、えらい奴だ)と大塩大好きの判官贔屓が広まったのである。

 静山は、大塩の乱を憐れむ者はいても「官の御仁恵は知る者なし」と、葉山左内らの寄せる情報に接し、大坂の風俗が秀吉の「遺臭」を喜ぶ落首・狂歌・童謡を「天言」だと一つの歌を紹介する。「大坂天満のまん中で、天草もどきにしてやつた、こんなつよい者な見たこたねへ、釣鐘小鐘ただすつた」(『坂賊聞記』坤)。大塩の乱と天草島原の乱を比較するだけでも大胆なのに、「こんな強い者」は豊臣秀吉以来出たこともなく、寺の釣鐘も坊間の小鐘もせわしげに連打したという歌は明白な幕府批判である。そうこうするうちに、東海道筋から江戸にかけても大塩人気が高くなり、山田三川は誰もが大塩の乱を「心地ヨシ」と思うにつけても「ごまめノ歯ギシリ」(力のない者がくやしがること)だと地団太を踏むかのようだ。「サレバ恐レ多キ事ナガラ今マデノ御政事ニ尤ノ事ナケレバ大塩ノ云事ガ尤ツクナリ。コマリタル世也ケリ」。もはや幕府の権威と信頼感は三都の一角・大坂では消え失せようとしている。「江戸中ノ人心ミナ大塩ヲアハレミヒイキス」。江戸の幕府も安閑としていられない(『三川雑記』天保八年丁酉)。

4、十匁手筒の市街戦

 江戸幕府は、大坂城守衛と西国大名監察のために大坂城代はじめ、大坂定番(京橋口・玉造口)や大坂加番を設けて譜代大名を派遣していた。定番には地付の与力三十騎と同心百名が付けられた。ほかに、旗本・御家人の職として、大坂在番の大番頭・大坂鉄炮奉行・大坂弓奉行・大坂具足奉行・大坂船手・大坂在番の大番衆などの番方、大坂町奉行・大坂目付・大坂蔵奉行・大坂金奉行・大坂破損奉行などの役方が任命され、大坂町奉行の麾下には東西各与力三十騎、同心五十名が配属されていた(『江戸幕府大事典』)。

 大塩の乱以後に大坂で幕権が失墜したのは、町奉行はじめ与力・同心の無力ぶりを露呈したことが大きい。大塩平八郎は東奉行所の現職与力だった当時、大坂定番玉造口与力の坂本鉉之助俊貞にしきりに学問の大切さを説いていた。大塩は、天満の奉行所与力六十一人には学問のできる者が皆無であり、玉造口と京橋口の定番与力でなければ学問はできぬとあきらめ顔だった。これは、軍役として万石以上の大名が就く定番には相応の家臣団も随行してきたのに、三百俵から五百俵の小身が務める奉行には譜代の家臣も少なく平常の公務に慣れた者を家来に入れるからだと大塩はお寒い内情を話していた。大塩は、奉行所の限界と東町奉行の跡部良弼の不器量を見透かして蹶起したふしもある(「咬菜秘記(一)」『舊幕府』二巻八号)。

 静山は、大塩の乱とは「武士の鍼砭」(しんぺん)だったと総括する。「鍼砭」とは、患部に針を刺して治療するように人の急所を押さえて戒めることだ。静山は、自分の家臣も常に武器を傍らにおくが、いざとなれば事なかれと祈るばかりだと自戒する(『坂賊聞記』乾)。それほど大坂の幕府出先は足腰が弱くなっていた。有事の際に町奉行所は機能せず、城外に出役した大坂定番の与力が先頭に立ってようやく大塩勢を抑えたにすぎない。かろうじて幕府の面目を保ち、武家の名誉を維持したのは、玉造口定番の近江三上藩主・遠藤但馬守胤統(たねのり)とその家来・畑佐秋之助であり、玉造口与力の坂本鉉之助と本多為助などの奮闘であろう。

遠藤はやがて若年寄に昇進した。幕府の内情に通じた旗本の母・井関隆子は、大塩が「いたくあらびたりし時」、玉造口を守って「いさを(功)を有けりなど、其ころきこえたりき」と高い評判を記している(『井関隆子日記』中巻、天保十二年八月十日条)。

他方、事件の原因をつくった不名誉な責任者は、大坂東町奉行の跡部山城守良弼である。悪事を働いた大物でもないのに、森鴎外の『大塩平八郎』で取り上げられたばかりに、大坂武士の名誉を怯懦で汚した京橋口同心支配の広瀬治左衛門も似たようなものだ。さほどの不可もなかったのは、大坂城代の土井大炊頭利位(としつら)と西町奉行の堀伊賀守利堅(としかた)であるが、土井はやがて老中に昇進する。

 さて定番の遠藤は、大塩の蹶起による天満の火事を知り、手際よく同心支配役一名と同心三十人の出動を命じた。ここで坂本は同じ玉造口御先手与力の本多為助と一緒に三十人の同心を二列縦隊に揃えながら東奉行所の警固に赴いた。坂本の冷静沈着ぶりは、大砲を使っている大塩への鉄砲使用を遠藤の用人経由による口頭許可だけでなく、遠藤の直達を貰おうとしたことでも分かる。もう一つは、市街戦がいつまで続くか分からない時点で、水に浸した風呂敷に飯を包んだ腰兵糧と一寸大の備前壺に梅を入れて持参する念の入れようである(「咬菜秘記(二)」『舊幕府』二巻十号)。

 遠藤但馬守の預りとなっていた京橋口の同心支配役の広瀬治左衛門は、坂本と一緒に行動すべきところ、城警衛を任とする者が町奉行所警固とは「何分迷惑あり。御断を申し度し」と出動を断った。そこに丁度駆け付けた遠藤の家臣・畑佐秋之助が広瀬を督戦し、西町奉行の堀伊賀守も到着して城代の出撃命令が下ったと告げ、広瀬へ先頭に立てと命じた。広瀬は軽武装もしていない。足を草鞋で固め鉄砲を所持する火事装束姿の玉造口の坂本らと大違い、雪駄履きのまま小筒も持たなかった。ともかく堀を先導する広瀬らがようやく島町から御祓筋の辺りに押し出した時、大塩勢が高麗橋を東に渡って来るのを見て、堀は鉄砲の打掛を命じた。ところが堀は、突如の轟音に驚いた馬から落されてしまう。すわ奉行即死と早とちりした広瀬ら京橋同心たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。総指揮者の堀は仕方なく御祓筋の会所に難を避けたが、町奉行を置き去りに四散する同心たちの見苦しさは、大坂町人の間で幕府への侮蔑感を改めて高めたに違いない。これは、大塩勢が北船場を南に下り商家に火付をした後、平野橋から高麗橋に向けて再び北上した大塩養子の格之助の手勢と堀直率の部隊との銃撃戦であり、「格之助初陣ノ功名」を挙げさせる結果になった(「咬菜秘記(四)」『舊幕府』三巻一号。石崎東国『中斎大塩先生年譜』)。

 譜代同然の組が町奉行支配に入るのは不得心という広瀬の「本心になき偽言」は、怯えから危険な場所に出たくない本心を飾った言い分にすぎない。こう坂本に見抜かれた広瀬は、配下の同心たちが四散した後、それを再集結させるわけでもなく、東町奉行所の脇に雪駄掛けのまま所在なげに立つのみだった。誰も集合しないのは「平生惰弱なる組風」であり、四散するのを大塩勢に見られずによかったと坂本は述懐している(「咬菜秘記(五)」『舊幕府』三巻三号)。

 実戦での見苦しさでは東町奉行の跡部もひけをとらない。玉造口御先手与力の坂本鉉之助・本多為助・蒲生熊次郎は十匁手筒(口径約十九ミリ滑空式火縄銃)のいわゆる中筒、同心三十人は三匁五分筒(口径約十三ミリ)のいわゆる小筒で武装して東町奉行所の支援に回った。すると跡部は大塩の用いる大筒の音が気になると見え、しきりに三十匁筒(口径約二十七・五ミリ)の大筒を城から持参するように所望した。坂本や本多のような銃砲の専門家からすれば、三十匁を使えば、破片は敵陣を越えて町中の民家や大坂城内にまで着弾する危険があり、市街戦では十匁手筒で十分と説明したのに跡部は承知しなかった。そこで熊次郎を引返させ城から三十匁を取り寄せることにした。その間にも屋敷から市中を見下ろすと放火黒煙があがり大筒の音が響いており、容易ならぬ事態なのに、跡部は幾度催促しても出馬しようとしない。すこぶる臆病なのである。先年の甲州一揆では甲府勤番が城中に籠って市街地を焼かせるままにして批判を浴びたが、大坂でも市中放火を眺めるだけとは不甲斐ないと二人が憤激しても、「山州(跡部)は余程臆し候様子にて、元気もこれなく候」。そこで坂本と本多は切り札を使った。天満の東照宮が類焼して御神体に万一のことがあれば御家はただで済みませぬぞ、と。さすがに跡部はきっと表情を改め、馬印(纏)を先頭に出馬となったが、時はすでに八ツ(十四時)を過ぎていた。事変勃発から五時間以上も経った後である(「浪華騒擾記事」『新定東湖全集』。「咬菜秘記(五)」『舊幕府』三巻四号)。 

 『中斎大塩先生年譜』によれば、跡部の本隊は平野橋の東、内骨屋町筋から内平野町角に差し掛かった時、大塩勢の大砲の音と鯨波を聞いて、少しも敵とまみえぬうちに内淡路町方面に潰走したという。これは八ツ半(十五時)過ぎだったようだ。跡部の馬が主人を振り落としたのは、この時という説と、その前に甲冑具足で身を固めた跡部の重さに慣れず逸散に駆け出したという説がある(『坂賊聞記』坤)。いずれにせよ、怯懦な跡部の失策を補い幕府の権威を何とか守ったのは、定番・遠藤の家臣・畑佐による差添・督戦と、松屋町まで進出した坂本の一隊が、大塩勢を平野橋の西に追い返したことだろう。こうして、大塩の乱最大のクライマックスは、七ツ(十六時)頃に北船場の淡路町と堺筋が交わるあたりで生じる。

 坂本は思案橋を渡って瓦町を西に進み本多や蒲生もやや離れながら続くと、すぐ北で瓦町と並行する淡路町を大塩勢がやや先に進んでいた。両者は見え隠れしながら、対峙するに至らない。坂本は堺筋に出てようやく相手を視認した。坂本は辻から二十間(約三十六メートル)ほど北に進み、淡路町から砲車を西へ進めようとした黒羽織の男に狙いを定めた。するとすぐ東側の天水桶から大塩勢の猟師金助が坂本を撃ったが、その陣笠の端を撃ち抜いたにすぎない。本多は坂本に注意を促しながら、金助を撃ったが命中しなかった。坂本は金助を意に介さず、紙屋の戸口に置かれた荷物を小楯にしながら、十匁手筒で大塩勢の砲術方を射撃した。命中して絶息したのは後に彦根牢人と知れた梅田源右衛門である。坂本はその後も何度となく発砲しながら、火縄を指に持ち玉込をいつでも出来るように身構えて四辻に駆け出した。この勇猛は衰えゆく幕府では稀有のものであり、蹶起した大塩の勇気に匹敵したといえよう。梅田も砲車を捨てずに沈着に後退しようとした様は戦場の勇者の姿である。しかし、大塩勢の奮戦もここで力が尽きた。
                                                                 ーつづくー
                                                          

山内昌之「将軍の世紀」 ― 「本当の幕末」 徳川幕府の終わりの始まり👌

(4) 将軍の収賄犯罪

  幕府高官の機微に通じた『しづのおだまき』は、老中・水野忠成が「学識もなく、当時あての才気」だけなので文武は地を払い和歌・蹴鞠・乱舞のみ盛んになり、三佞人のうち若年寄・林肥後守忠英と側用取次・水野美濃守忠篤も忠成と同じで賄賂が流行った様を、西晋の風刺文学者・魯褒の『銭神論』でいう孔方兄(こうほうひん)万能の時代に変えたと凝った表現で厳しく咎めている。孔方(銭)に親しむ様子はまるで兄に親しむのと同じであり、これを失えば貧弱、得れば富強、翼が無くても飛び、足が無くても走るという表現が『銭神論』に見られる(『続日本随筆大成』12所収)。たとえば、盛岡の南部家は少将の官位を得るために三万両を費やし、水野忠篤だけでも三千両を遣ったという(『三川雑記』)。

 三佞人の残りは、小納戸頭取・美濃部筑前守茂育(もちなる)である。石翁は隠居なのでそこには入らない。長崎奉行・大坂町奉行・堺奉行といった利権にからむポストが空くと、人びとがそわそわする様子に人事を左右する要路を絡めた歌は、腐敗の興味深い。「大手の爺さん(水野忠成)、林の叔父さん(林忠英)、駿河台の坊さん(中野石翁)、小川町から桜田辺り(側用取次・水野忠篤らの屋敷)を、まごつき歩行て、のめつてころんで、勤た計ぢや、今時きやいけすの、鯉や鰻は、おんてもない事、一寸時候の、御見廻なんどか、羽二重縮緬、(金の)五疋十疋、菓子折、袴地、なんのかのとて、名目計りで、お金でにぎらせ、百や二百の、小判はチヤアフウ」。この歌を紹介した幕末きっての外務官僚となる川路聖謨は、水野忠成が幕政を担った文政以来十余年のうちに綱紀が大きく乱れても、大久保加賀守忠真が老中にいたので何とか幕府も長らえたが、忠成の死に続いて忠真が天保八年に病死することで「国脈の長短に拘らんこと必定す」と、忠真の死が国家(幕府)の命を一挙に縮めた原因としている。山田三川は「コレヨリ御政事ハ必賂(まいない)行レテ下レル世トナルベシ」と正確に幕府政治の堕落を予見している。こうした見方は、藤田東湖も含めて同時代の人びとが多く共有していた(『遊芸園随筆』八。『三川雑記』天保八年丁酉、十年己亥。『丁酉日録(天保八年)』三月廿七日)。

 石翁が賄賂を取るのは家斉の自由になる遺棄金(つかいすてきん)の不足を補うためだったという説がある。歴代の将軍はひと月、二、三百両であり、多くても綱吉が六百両を使ったのが目立つくらいで、家斉の八百両は破格であった。また大奥の老女が賄賂を貪るのも御台所の小遣銭をつくるためだったというのだ。天保八年の頃、多くの少将任官者が出た時、石翁は千両取っても八百両は大御所の内へ消えていく算段だと内情を打ち明けたことがある(『想古録』1、三九四。同2、六八一、八〇二)。

 ありそうなことだ。長年の君臣関係のアヤからも家斉は石翁の収賄に気づかぬはずがない。それどころか、収賄の一部を上納させていたとすれば至高の君主が売官汚職の共犯者だということになる。譜代大名の家では藩主の老中など幕府要職への就任や加増の御礼だけでなく、「内願」「内々」の段階から家齊の嗜好にかなう品を用意せねばならなかった。加えて、家斉のほうから珍品の鯉や松の鉢や椿の花などを平気で所望した。その希望を大名に取り次ぐことで三佞人と石翁が権勢を振い、時には大名の官位昇進を左右するシステムが成立していた。古河藩主・土井大炊頭利厚は老中首座でありながら、しばしば「内々」に石翁を通して家老や用人に伝えられる家斉の希望を叶えた。たとえば、文政三年九月二十九日に中野から「松御鉢植御内々御望」と伝えられた。すると土井家では十月四日に「御望の松、平作に申し付け御風呂や口へ相廻し候」と早速に届けた。平作とは中野石翁出入りの植木屋でありながら、家斉所望の品々を石翁の命で時には安房で鯉、駿河で真竹をわざわざ得るなど、家斉への献上品を調達する役割を果たした。また、「御風呂や口」とは江戸城奥の「風呂屋門」を指し、その玄関は石翁の御小納戸番部屋や同西部屋のすぐ前であった。いずれも将軍の寝所「御休息」と御座之間に近いことは言うまでもない。石翁は手ずから将軍に所望品を届けるシステムを平作を利用しながら作り上げていたのだ。もっとも家斉は献上品なら何でも受けるほど軽くない。たとえば、文政四年三月五日、石翁の使いとして平作が古河藩邸に来て、椿の上花を「数品御望ニて御ねたり」の由を伝えた。すぐに植木屋たちに手配したが上花はもはや入手できず、石翁が見る分として届けたところ、家斉の「思し召しに叶い候品にはこれなく」、何故か鶺鴒を替りに献上すると気に入り、受け取ったというのだ。旬を過ぎた椿が気にいらない時の備えを先回りして考えておかないと権力者の側御用は務まらない。馬鹿々々しいことだが、体制が衰亡するとはそういうことだ。

 天保十二年十月頃に御膳奉行が川路聖謨に語るところでは、家斉はこれまでになかった琉球芋を加えた御鉢や、御吸物も何もかも、材料は諸大名からの献上品であり、「御買上といふもの一品もなかりし」ということだった。しかも献上の干魚や「かれたる貝」ではなく、或る時は浅野家に嫁いだ末姫献上の蛤を使おうとした。すると奥医師から朝御膳には初茸もあり、食い合わせが悪いとあった。家斉に尋ねると、それでは干鮑を薄くつきて御吸物に使えとの御意である(『遊芸園随筆』十一)。晩年の家斉は毎食の献立にも五月蠅くなっていたのだろうか。江戸近辺で新鮮な素材を求めるため、「おねだり」は続柄の大名家にも負担であった。おねだりは『邦訳日葡辞書』の「ねだれ」「ねだるる」に通じ、それは「猫かぶりで詐欺を常習」を意味した。家斉の時代でも、少なくとも無理に請求する・ゆすり求めるのニュアンスは残っていたのではないか。おねだりは文政五年に家斉秘蔵の鯉が替り(変り)数多く死んだのでその替りを「御ねたりの御沙汰仰せ下され候」につき吟味して鯉三匹を早速上覧に供したところ、一匹だけ手元に留めたという記述にも出てくる。さて、花や鯉や小鳥や植木だけでなく、掛物や火鉢までもほとんど石翁を介して家齊に献上されている(「御内用日記(文政三~同七年)」文政三年二月一日、二日、文政四年九月五日、十月二日各条)。その都度、家斉は鯉一匹くらいでは「御満足之旨」「御満足之段」と安易に満足を表すことはない。しかし、中野はよく家斉のツボを心得ている。家斉が鯉を一匹だけ手元に置いた四日後、古河藩は石翁の手から家斉に変り鯉を八匹献上すると、ようやく家斉は七匹を手許に留めて「殊之外御満足之旨」を表した。真竹の斑入(ふいり)が駿河にあると聞いて平作を遣わすと金明竹だったという笑えない苦労話も含めて、進物の「おねだり」と献上は、大名家にとって真剣な営みであった。果たして、この真竹の斑入騒ぎのすぐ直後に土井家は一万石の加増を受けている(「御内用日記(文政三~同七年)」文政五年三月十六日、廿五日、廿八日各条)。石翁や平作を介した土井家の意思伝達や献上は、あきらかに内々の賄賂的な性格をもつやりとりであった(荒木裕行『近世中後期の藩と幕府』)。

 将軍も形式的とはいえ、下賜品を与えることで一方的な収賄でなく互酬的な装いをもたせようとした。家斉は、石翁を介して、吹上で育てた金魚一桶を土井家に下賜している(「御内用日記(文政三~同七年)」文政四年七月四日条)。とはいえ、家斉の貪欲ぶりには際限がない。土井家から林忠英を介して献上された枝珊瑚樹を気に入った家斉は石翁に「一品別段ニ御望の旨」を命じた。いやもおうもない。土井家はすぐ四日後に献上すると「殊之外御満足之旨」が伝えられた。枝珊瑚は古河藩が「御加増ニ付御内献」とあるように御礼の意味合いが強かったのだろう。逆にいえば加増の礼物追加を将軍が催促したといえなくもない(「御内用日記(文政三~同七年)」文政五年四月八日、十二日、五月一日各条)。

 こうした機転や献上のタイミングは、家斉の気質や機嫌に通じた石翁なればこそ可能であり、植木屋平作を御用聞の腹心として役立てる濃密な利権ネットワークを十全に活用した。老中首座でさえ将軍と個人的に親密な関係をもつために、奥の側用取次や小納戸頭取の取り持ちを欠かせなかった。もちろん、石翁くらいになればもらうだけでない。相応の返しもしている。天保十年に居屋を類焼した松浦静山の見舞にすぐ駆け付けた石翁は、間青色(オナンドチャ 御納戸茶)の縮緬と浅黄裏に葵御紋を小型に染め出した小袖、萌黄と白糸縦横なる小格子の縮緬に浅黄裏をつけた小袖、素(シロ)の琥珀地に紫で二引輌を織り出した帯を見舞として届けた。小袖は家斉、帯は将軍家慶からの拝領物である。静山は先年西之丸火事に際して家斉見舞として石翁と「謀り、其内慮に随て」小判金二百枚を献上したので、あるいは大御所のお返し見舞いかと喜んだところ、そうでなく碩翁の懇ろな配慮からだと分かった。それでも、この非常の機会に「尊者の貴服を獲しは天なり」と図に描いて喜んだ。新築祝いとして石翁が贈った刀架は凝っていた。干網の形に作り、つなぎを霞の象(カタチ)として、鵆(ちどり)の群れ飛ぶ状を、白木で彫った「頗る美物」だったという(『甲子夜話三篇』5、巻六十五の一〇『甲子夜話三篇』6、巻七十二の一三)。

 奥の役職者が家斉と築き上げた濃密な人間関係の綾には、老中や若年寄でさえ及ばなかった。中野石翁と林忠英はともに明和二年の生まれであり、忠英が小納戸役になった二年後の天明三年に石翁も小納戸役となった。忠英は寛政九年に小姓頭(取)になるまで十年間も小姓役職に留まった。同七年には忠英の四女が中野の養女となったように、二人は私的にも密接な縁戚であった。しかも、林家は上臈御年寄の高岳や万里小路の宿元であり、中野家はお美代の父として将軍の閨閥に連なった。大奥の二つの実力者ともいえる側室と老女の核心を握ることで、互いの役割を分担し特権領域を侵さなかったともいえるだろう(『徳川政権下の大奥と奥女中』)。

 隠居した松浦静山でさえ、お美代の方には「世に連て、折には石翁に憑て進物抔せしことなりし」と語っている(『甲子夜話三篇』6、巻七十七の十五)。三百俵取から出発した中野石翁は、文政十年には二千石の新番頭格を最後に、天保初年に時服三領と御手元金より黄金二百両を拝領して引退した。石翁と号した後にも、幕府役人としては異例にも白服白綸子の十徳を着て出仕して夜直までした。坊主や医師・画工の黒十徳とまぎれぬようにと家斉の命で白十徳を着たというから威勢は強まるばかりだ。すると、「猪の隼太鵺を捕へて当番日」と石翁の当番日、亥寅巳申を記憶する歌が流布した。この実力者との出会いで幸運を掴もうという輩が引きもきらなかったわけだ。面白いのは、その註である。「猪(亥)の隼太曰く。鵺の状は、頭は猿(申)、尾は蛇(クチナワ 巳)、足手は虎(寅)の如くなり」と。陽は隠居であっても、陰は権力者の石翁の妖怪ぶりを巧く言い当てている(『しづのおだまき』。『甲子夜話続篇』5、巻五十七の三。同6、巻七十の一二)。家斉の側にも手許金や贅沢品の調達で石翁を重宝する理由があった。家斉の時期になると、大名たちも賄賂と認識して品物を授受する感覚を汚らわしいと思わぬようになったのではないか。越前の松平春嶽は、家斉の甥で田安家の出身であったが、拝借金を願うために将軍家慶(従兄弟)の上臈御年寄・姉小路への「賂賄」として贈る多葉粉盆を実見したと日記に書いている(「政暇日録」弘化二年十一月二日、『松平春嶽全集』第三巻)。

 林忠英は、父・忠篤が家治・家斉の二代にわたって大奥で権勢を振った高岳のマタイトコであり宿元であった。何人もの女中の身元保証と宿を引き請けたなかでも、京都の岡崎三位の娘・初代万里小路は家斉の将軍期を通してずっと御年寄と上臈御年寄を務めた大奥の実力者である。二代万里小路は、忠英が上総・貝渕藩一万八千石の大名になり若年寄に累進すると、ふちという小上臈を上臈御年寄にして万里小路を名乗らせた人物である。忠英は表の若年寄と奥向を兼帯し、大奥を支配する政治装置として由緒ある老女名が必要だったからだ。つまり、官職の上昇や加増の実現のためには、どうしても表と奥と大奥を貫く人脈と権力を築く必要があったのである。家格制度が崩れて、将軍あるいは大御所が内願の可否を判断する時代は、内願による賄賂の横行を必然化させたということだ(『徳川政権下の大奥と奥女中』)。優秀な廉吏といってよい同役の堀田摂津守正敦は退役に際して、林忠英を我意が強く御為にならず、これまでは自分が抑えてきたが、これからは必ず羽翼を伸ばすので早期に罷免あるべしと強く主張したほどだ(『想古録』2、七七八)。

(5) 大塩平八郎の乱【最終回】

1、大塩平八郎とハワーリジュ派

 大塩平八郎の乱は、三都の一角、大坂から公然と反幕府の烽火を上げた事件である。小規模ながら旗本・御家人が出兵した市街地の実戦であり、寛永年間の島原の乱このかた二百年ぶりの合戦でもあった。天保八年(一八三七)の蹶起の中枢は、陽明学者・大塩の弟子だったとはいえ、現役の町奉行所東組(跡部山城守組)つまり東町奉行所の与力・同心たちであった。府内の治安と警察を預かる役人が幕府に叛旗を翻した意味は大きい。加えて、大坂定番与力や弓奉行所など、幕府の西国統治機構の責任者たる大坂城代の下役人たちからも蹶起に加わる者が出た。さらに大塩勢の捕捉に手間取り、平八郎・格之助父子を生け捕りにできなかったことは、幕権の低下と幕威の凋落をまざまざと示した。大塩の乱ほど武威の基礎になる士道の低落を農工商の民衆相手にさらけだす事件はこれまでになかった。そのうえ、幕府の旗本・御家人に連なる下級武士や牢人・神主だけでなく、淀川左岸村々の名主・庄屋はじめ上層農民も大塩に感化されて武装蜂起に加わった意味は見逃せない。これは、やがて幕末の変革を促した草莽崛起(名もなき志士の蹶起)の原形を浮かび上がらせただけでなく、明和事件や宝暦事件と異なり百姓一揆や打ちこわしのエネルギーを反幕から倒幕へ転換させうる可能性を示した。しかし、大塩の乱は大坂市中で起った米騒動的な打ちこわしだったにもかかわらず、乱の全処罰者八百六人のうち市中の処罰者は少なく、「大坂市中」「無宿」「武士」「家族・奉公人」を合わせても全処罰者の一三・八%にすぎない。しかも、天明の打ちこわしの発火点となった町続在領(大坂に接続・近接する地域の農村)の処罰者も少なかった(本城正徳「大塩の乱と大坂周辺の米穀市場」『高円史学』11)。これは何を意味するのだろうか。

 私はこれまで大塩の蹶起を考える時、ハワーリジュ派という初期イスラームの過激派をつい連想しがちであった。自らの考えを絶対視し他者をすべてムスリムでないと信じ、意見聴取を試みてハワーリジュの徒でないと分かれば直ちに殺害する独善的な分派集団さえ生み出した。彼らは、ほとんど玉砕を覚悟しながら蹶起し、敵や体制と妥協する曖昧さを少しも許さず共同体から「出て行く者」(ハーリジー)と称された。カリフさえ無謬でなく、誤ちを犯せば暗殺されても当然と見なし、第四代のアリーを平然と暗殺している。大塩が無謀とも思える蹶起に突如踏み切ったのは、ハワーリジュ派のような行動的少数派にありがちな衝動に見えたのである。大塩は天と人の内面と社会秩序を連続してとらえる江戸時代の陽明学者はじめ儒学者のなかでも、とりわけ「心太虚に帰す」と、心は虚にして霊だとして、天と一体化することで至高の存在となり、高揚する自我意識のなかで、救民のための幕府への反乱を導きだした(大塩中斎『洗心洞劄記』自序。宮城公子『幕末期の思想と習俗』)。

 大塩平八郎は頼山陽とともに、明治維新によって幕府の官学・林家やその係累らよりも名を上げた人物である。徂徠学や陽明学など反朱子学の学問に「近代的思惟」の誕生を見出して評価する傾向が強くなったからだ。明治の哲学者・井上哲次郎は主観的唯心論ともいうべき陽明学を高く評価し、佐藤一斎、山田方谷と並んで大塩に近代的個人の在り方を問う哲学を見ている。こうした日本の陽明学評価は、朱子学を前近代的な学問と考える国民国家形成期の近隣東アジア諸国にも輸出されたほどだ(眞壁仁『徳川後期の学問と政治』)。

 しかし、大義や名目が何であれ「大塩焼け」は大坂市中の五分の一を焼き尽くし、類焼家屋は一万八千二百四十七軒に及び、大坂の人口約三十六万人の五分の一に当たる七万人が焼け出された。焼死者は少なくとも二百七十人以上に上っている。犠牲者の多くは町人庶民であり、大塩の理想と使命感は政治の結果責任から免罪されるわけではない。『浮世の有様』の著者は大坂・斎藤町の医師らしいが、急を聞いて駆けつけ桜の宮で船を降りた時の光景を記録している。「桜宮の辺には逃来れる者取分多く、何れもいささかの荷物を堤の上に積上げて、呆れたる顔して火を眺むる有れば、恍惚(うっとり)として気抜けせし如き有り。泣き叫ぶあれば労れはてて打倒れる有り。病める人の哀れげなるなど、何れも目も当て難き有様なり」(国会図書館DC、3  巻之六 七〇コマ)。

 大塩と同じく凶作や飢饉を案じながら、渡辺崋山のように、三河・田原藩年寄役末席となって天保五年に農学者・大蔵永常を雇い、甘藷・砂糖黍を栽培奨励し、その翌年には飢饉に備えて義倉(報民倉)を設置、大塩の乱が起る八年には藩主心得を説いた『凶荒心得書』を書き農民にも諄々と布告で諭す者もいた(日比野秀男『渡辺崋山』)。凶作や飢饉への対策を現実的な解決の文脈で考えるか、理想実現に向かって体制変革へ急進的に直進するかの違いであろうが、この穏健な崋山でも大塩との通牒容疑で天保十年に投獄されるのは時代の暗い断面である。大塩が庶民の犠牲も顧みず過激な一挙に出たのは、やはり議論を呼ぶところである。蜂起は、彼らなりに練った東西両奉行の暗殺計画が味方の返り忠(裏切り)で事前に漏れ、坐して死を待つ消極性を斥けた結果である。大塩の乱を見る者には、さながら無計画で無謀な行為に踏み切ったハワーリジュ派を批判するように、大塩を嘲弄・批判する者が江戸時代から後を絶たなかった。次のような落首や川柳は、大塩の乱の歴史的意味を急いで否定したい幕府の言説と無関係とはいえないだろう。

 我為か人の為かはしらねども何したんやら切支丹やら
 大塩が書物を売て施行して跡はむほん(謀反・無本)で何かわからん
 論語読のろんごしらずで大塩し(大笑止)
 (『坂賊聞記』終冊、『甲子夜話三篇』4、巻四十二の一)

 かなりの悪意を込めた落首めいた歌にも詠みこまれたように、大塩が蹶起前に貴重な蔵書を売り払った代金を、およそ一万人に一朱ずつ配ったのは(『浮世の有様』巻之六。『坂賊聞記』坤)、後述するように豊かな大坂商人たちから米価高騰に苦しむ庶民への義捐金拠出を求めるには、自らも身銭を切ることで素朴ながら真摯な意志を示したかったからだ。「無本で何かわからん」という皮肉は的はずれである。さらに、天保八年二月十九日の明け五ツ半(九時頃)に大塩平八郎が乱を起こす数日前から、摂津・河内・和泉・播磨の村々の庄屋・年寄・小前百姓たちに宛てた檄文が各地の神前などに貼られた。一読すれば、当時の心ある日本人なら秘かに抱いていた幕府統治への幻滅と将軍家斉の放埓さへの怒りが静かに駆り立てられたに違いない。

 文字を読める農民なら、世の中が困窮すれば天から授けられた幸福は永く終わりを告げるという出だしの言葉から一挙に本文に引き込まれたであろう。「小人に国家を治めしめば災害並び至る」と聖人が後世の君臣を戒めたように、東照神君(徳川家康)は配偶者を失った男女、老若の孤独な男女に憐みを加え仁政の基礎とした、と家康以来の徳川の恩顧も忘れない。しかし、この二百四、五十年太平の間に、「追追(おいおいに)上たる人、驕奢とて驕りを極め、大切の政事に携り候諸役人共、賄賂を公に授受とて贈り貰ひ致し」とは、あからさまに家斉の贅沢三昧と水野忠成の汚職政治文化を批判したものにほかならない。 

 さらに歴史認識として的確なのは、大奥と政治との関係である。「奥向女中の因縁を以て道徳仁義もなき拙き身分にて身をたて、重き役に経上り、一人一家をなし候工夫のみに心を運らし、其領分知行の民百姓共へ過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚敷に苦しむ」とあるのは、三佞人と中野石翁を中核とした奥向(奥)と大奥との枢軸に依拠した家斉の権力構造を正しくとらえ、贅沢の原資を農民に転嫁する様を描いている。面白いのは、「追追上たる人、驕奢とて驕りを極め」と家斉を露骨に非難する個所は、松浦静山の『甲子夜話三篇』(3、巻四十の一)の『坂賊聞記』(乾)には見えるのに、『藤岡屋日記』(第二巻)の同じ史料では割愛されていることだ。史料の一部を分かりやすく読み下した部分もある。

 大塩によれば、天皇は足利以来、「御隠居御同様賞罰の柄を御失ひに付、下民の怨何方(いずかた)へ告愬とてつけ訴ふる方なき様に乱れ候に付」、人々の怨気が天に通じてたびたび地震・火災・山崩れ・水溢れなどによって、「色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相なり候。是みな天より深く御戒しめの有難き御告に候へども、一向上たる人、心も附ず、猶小人奸邪の輩大切の政事を執行ひ」と、天災に天の譴告を読み解く天譴論を引合に出しながら、将軍と幕閣の責任に触れる。大坂の奉行や役人は「万物一体の仁を忘れ、得手勝手に政道を致し、江戸へは廻米の世話も致し、天子御在所の京都へは廻米の世話を致さざるのみならず」、五升一斗くらいの少量を買いに来た者さえ召し捕るのは、古代夏王朝の葛伯(かつはく)が人のために食物を運んできた小児を殺害して食物を奪った悪事にも等しいと怒る。大坂でも裕福な「遊民」だけを大切にするのは厚かましくも不届きだというのだ。「何れの土地にても人民は徳川家御支配の者に相違なき所也」である以上、土地で分け隔てをするのは奉行の不仁にすぎない。金持ちばかりを大事にするのは、大坂商人が大名貸しをしているからだ。商人らを大名の家老・用人格に取り立て、揚屋茶屋での遊興し放題は、古代殷帝国の紂王が長夜の酒盛をするのと同じだと厳しい。

 大塩は、此度の一挙について、日本では平将門・明智光秀、漢土では南朝劉宋の劉裕、五代後梁の初代皇帝・朱全忠の謀叛に擬える批評者を予想しながら、天下国家を「簒盗」する欲念から起こす蜂起でないと強調する。むしろ、殷の湯王・周の武王・漢の高祖劉邦・明の太祖朱元璋のように、「民を吊し君を誅し、天罰を取行ひ候誠心のみ」と文章をまとめる(『坂賊聞記』乾、『甲子夜話三篇』3、巻四十の一所収)。

2、凶作・飢饉・米穀調達

 大塩の檄文は、彼の教養の広がりと無駄のない文章力、抑制した憤激と内に秘めた情熱が混然一体となって独特な魅力を醸し出す。政治史的にいえば、家斉の徳川統治体制を告発する内容に間違いはない。しかし大塩は、反乱の背景となる天保七年の全国的な凶作・飢饉の性格と、幕府の救恤政策と大坂町奉行所とくに東町奉行・跡部山城守良弼(よしすけ)の飯米施策を全国的視野との関係で見ていない。簡単にいえば、天保七年の大凶作を受けた東北・関東各藩は大坂から九州まで米の調達を図らねばならぬほど切実な危機感に動かされていた。たとえば、相馬藩では凶作に怯えて「資ヲ東都ノ富豪ニ請ヒ食ヲ大坂秋田等ノ遠国ニ求」め、大坂でようやく米二千石の買付に成功している(今野美壽『相馬藩政史』上巻、巻之三、国会図書館DC 一一二、一一五コマ)。

 御三家の水戸藩でさえ米の調達に苦しんだ。京都に派遣された江戸勘定奉行の川瀬七郎衛門教徳は、大坂で天保七年十一月に一万八千十一両を費やして米五千八百七十一石一斗四升を調達した(『水戸藩史料』別記上(巻十)国会図書館DC、二六七コマ)。川瀬は天保八年三月に大坂から肥前に出かけたが、これは八千石の米を肥前佐賀で手に入れたからだ。藤田東湖は大塩の乱直後に藩の同僚から、上方米を積んだとおぼしき藩船が浦賀を経ずに那珂湊に入ったことで「此度に限り見すみにはなるまじきや」と浦賀奉行に内済にできないかと相談を受けている。東湖は奉行から老中に報告が上がり、閣議もたやすく決しないと見通しを冷静に分析し、奉行宛に率直に伺いを出した方がよく、自分が手紙を書くと述べている。この慎重さは「浦賀の法」だけでなく、天保四年と七年に大坂で出された「米穀他所他国売差略令」に反する買付をした後ろめたさから来るかもしれない。この令は差略(制限)と名づけていても、堂島の米仲買に他国売を事実上禁止していた(天保八年三月廿日、廿二日条「丁酉日録」『新定東湖全集』)。

 水戸藩に限らず各藩が大坂堂島の米市場取引米から飯米を確保することは、とりもなおさず大坂市中と周辺の畿内農村とくに摂津・和泉・河内の恒常的な飯米販売圏への米供給量が減ることを意味する。近世後期の大坂周辺農村では農民的商品経済が発展し、米作を止めて綿作・青物作に転じる農家が増え自家消費用の飯米需要が増えていた。また、綿業などに下層農民が吸収されながら小商人か賃労働者に職を変えるなら、彼らもいきおい飯米を購入せざるをえない。レーニンが『ロシアにおける資本主義の発達』で紹介したクスターリは、市場目当ての家内仕事に従事する農民的手工業者でありながら農業からまだ分離していない者であったが、似たような人びとも現れ始めたに違いない。大坂のクスターリらも次第に飯米を必要とするようになったはずだ。大坂市中だけでなくこうした米需要を充たすのが大坂町奉行の仕事であり、天保七年の米穀他所他国売差略令は跡部良弼の町奉行時代に出された。同時に跡部は同年でも堂島から京都に毎日五百二十石の米出荷を認めており、それは出荷高全体の八〇%にあたる。差略令下でも京都は優遇されており、大塩の言うことは数字の事実から見れば正しくない。また、幕府と跡部は大坂という最重要の直轄都市での米騒動がアナーキーじみた打ちこわしに発展しないように、大塩の乱(天保八年二月十九日)の直前に堂島米相場抑制令(二月四日)を出していた。跡部はまったく無策だったわけではない。「米価高直ニて、諸人難渋ニ及ヒ候ニ付、仲買ども心ヲ用ヒ、平準の相場取続候よう、追々申し諭し候(略)俄ニ米価高直ニ相成候てハ、人気騒ぎ立ち、容易ならざる次第ニて」と危機感もひとしおだったのである(「大塩の乱と大坂周辺の米穀市場」)。差略令があっても大坂での調達が止まなかったのは、大坂の米価が江戸はもとより京都や中国・北陸よりも安かったからだ。大塩の乱が起きる直前の天保七年秋の米相場で一石あたり、江戸では銀一九七・八〇匁なのに大坂では銀一五八匁、乱直後の天保八年春には江戸で銀二三一・二五匁、大坂で二〇五匁であった(平川新「文政・天保期の幕政」『岩波講座日本歴史』近世5)。

 また大坂町奉行は普通の遠国奉行と違い畿内一円にも米を供給する堂島米市場と米仲買の所管者として、堺奉行や伏見奉行や奈良奉行さらに堂島米方年行事などとも連絡を行い各地への出荷高を調整していた。また、畿内在郷町と呼ばれた住吉の平野郷、若江の八尾、東成の天王寺はじめ大坂南郊十か村にも出米が行われていた。大塩は跡部による江戸廻米を厳しく批判しているが、二つの点だけは指摘しておく必要がある。まず天保七年の凶作は、幕府の膝元であり諸藩の勤番侍や膨大な町人の住む巨大消費都市・江戸の飯米をどうするかという難問を幕府につきつけた。安中藩の儒者・山田三川は奥羽・関八州ほかの国々の凶作に触れたあと、「五畿内凶作の事ナレバ自国ノ食ニ他ヘ出スベキ事アルベカラズ」「サレバ何方ヨリ江戸ヘ米出ベキヤ覚束ナシ」としていた(『三川雑記』天保七年丙申)。 

 幕府は天保四年十一月の町触で「江戸表米払底」、五年正月の大目付への達しで「陸奥・出羽稀の違作ニて、江戸廻米これなし」、同年三月の大目付への達しで「江戸表米価高直ニて、市中難儀に及び候」と米不足を連年心配していたが、七年に入ってさらに値上がりしたので、米問屋だけでなく「素人」も手元にある米を江戸へ送ってよいと命じている(『御触書天保集成』下、六〇六六、六〇六七、六〇七二)。また、米を大量に使う酒醸造についても、天保七年七月の大目付への達しで天保四年以前の酒造量の三分の一に減らすように命じただけでなく、十一月の達しでは場所の事情によって酒造を禁止してもよいと沙汰をした(『御触書天保集成』下、六一六八~六一六九)。このように幕府が上方米を必要としたのは事実であるが、江戸への廻米は堂島で取引される大坂米である必要はない。跡部は幕府高級官僚として老中の命にも服さなくてはならないが、それは大坂東町奉行の職責から外れて大坂市中・郊外の町人・民衆の飯米を犠牲にする強権発動であってはならない。彼が与力・内山彦次郎を使って江戸市中への廻米として確保したのは、兵庫津から出した1398石の兵庫米であり堂島米ではない。文化文政期以来、兵庫津は納屋米(商人米)の集積地として発展しており、大坂のライヴァルになると同時に、兵庫米の一部は大坂の消費者にも提供されていた。彼が水野越前守忠邦の実弟である事実は、江戸廻米に熱心な動機になったのだろうか。確かなのは、兵庫米の江戸回航に協力したのが兵庫津の北風家であり、この他にも天保七年十二月二十日までに二十五便・約三万石、大塩の乱が起きた八年の五月までに総量三万七千三百四十七石を江戸へ移出したことである(「文政・天保期の幕政」)。こうしてみると、大塩の檄文はアジテーターとして秀逸の修辞に溢れ、跡部悪玉・大塩善玉を強く印象づけるのに成功したとはいえ、史実として慎重に再考すべき余地をまだ残しているといえよう。ーつづくー









山内昌之「将軍の世紀」―「本当の幕末」 徳川幕府の終わりの始まり

(2) 三方領知替と続柄大名――幕府の不公平

  江戸後期の儒学者・松崎慊堂(こうどう)は天保十一年(一八四〇)十一月朔(一日)の日記にそっけなく書いた。「松平大和守は庄内鶴岡に移封す。酒井左衛門尉は越後長岡に徙(うつ)る。牧野備前守は河越に徙る」(『慊堂日暦』6)。これは川越・庄内・長岡の三方領知替のことだ。天保十一年十一月に発令された領知替は露骨な「続柄」の優遇策にほかならない。酒田港と豊かな庄内平野を支配する酒井家の表高は十四万石であるが、実高は三、四十万石に上ったといわれる。「続柄」「続合」の川越藩松平家がこの領有を望み、格段の失政もない庄内藩酒井家を長岡に移し、玉突きで長岡藩牧野家を川越に移す大型転封であった。

 三方領知替は、幕藩体制の根底を揺るがす思いがけない反応を引き起こした。それは出羽国田川郡・飽海(あくみ)郡の百姓たちが酒井家の所替沙汰に反対し、国境を越えて仙台藩伊達家領で追々に三百人も滞留しはじめたことだ。彼らの主張は「庄内領惣百姓より仙台え願出の趣」という文書から知ることができる(『藤岡屋日記』第二巻、天保十二年五月)。それによれば、二百年前に酒井左衛門尉家が入国して以来、多湿地を水災のない新田に変え、「変難」のある年には百姓に手当を施し、とくに巳の年(天保四年)の「前代未聞の大凶作にて一統餓死にも相及(あいおよ)ぶべき候ところ御領内御役場に於て御家老中様方格別の御精力を尽なされ」、余米や買上米で百姓に手当し、精力がつくように干肴や古着を与え、餓死者や他領逃亡者も出なかったというのだ。確かに、八月に秋田藩や弘前藩では米価高騰、盛岡藩では飢饉と米買占に反発して打ちこわしや御蔵と富家土蔵の襲撃が起きている。翌五年二月にも秋田藩領では米価高騰から騒擾が起きた(青木虹二『百姓一揆総合年表』)。酒井家では年貢が納められなくても、手当を下さるなど「御恩徳重畳ありがたく感涙を流し、一統農業に出精まかりあり」。そこに思いもよらぬ国替の知らせが舞い込んだ。「老若男女一統愁傷歎(なげき)に沈み」、公儀への駕籠訴、伊勢・塩釜・鹿島の神社に参詣するつもりでやってきた。「御執成」(おとりなし)を愁訴された仙台藩も困惑したであろう。しかし、元はといえば、家斉の続柄大名への依怙贔屓を伊達家としても内心不快に思っていたに違いない。

 伊達家の措置は情誼にかなっている。その説得にもかかわらず、ただ涙を流すのみで一言も申し開きをしない百姓たちに、ともかく三人だけ残り後の者は帰領するように諭した。百姓たちの願書を受け取るわけにいかずそのまま差し戻したが、「大勢挙げて領内え相越し悲歎・哀慕の情懇は容易ならざる儀にこれあり候」と仙台藩の同情を庄内藩に伝えている(六月廿一日付大浪太兵衛より庄内への御紙面、『藤岡屋日記』第二巻)。

 そのうえで仙台藩主・伊達陸奥守斉邦は大老・井伊掃部頭直亮に書状を送り、酒井家の二百二十年に及ぶ善政、飢饉の救恤などで君恩を忘れず本領再復を求める志は「神妙の企て」であり、仙台藩の郡代らはその素志は逐一主人(陸奥守)に伝え、公儀へ言上するのでまず帰国して安否を待つように申し聞かせて引き取らせたと伝えている。陸奥守は庄内藩の百姓らの「君恩報じたき旨の誠肝石胆、一朝一夕に砕くべくに御座なく」、「三軍も帥を奪うべきなり匹夫も志を奪うべからざるなり」と『論語』を引いて庄内の百姓たちの決意の固さに触れた。このあとで伊達斉邦は驚くべきことに公儀の決定に異を称え、外様第三の国主とはいえ幕政に大胆に介入するのだ。「匹夫」つまり百姓たちの「不撓の義気は良民尋常の企てにはこれ有まじく」、このような所に川越から松平大和守が新たに入国しても安定と平和のうちに領地支配を維持できるのか、できないのか、覚束なく存ずるので、所替の件はひとまず御猶予いただき心を安らかにし、後から御沙汰をするのが然るべきかと存ずると、幕府の政策決定の撤回を公然と求めた。大和守とは川越の松平斉典のことであり、斉省を養子にとらせた大御所・家斉の依怙贔屓と恣意を間接的になじっているのだ(六月紙面写、『藤岡屋日記』第二巻)。

 伊達家の姿勢は、他の外様大名にも共通しており、天保十二年閏正月の家斉死亡を機に鬱積していた不満が一挙に噴き出した感がある。譜代大名でさえ官職や家格上昇のために、善し悪しはひとまず措き莫大な冥加金を幕府に献納し、要路に鼻薬を嗅がしていたのに、続柄大名は何の苦労もなく特権や加増を手にするのだから面白くない。大和郡山の柳沢家は溜之間詰になるために天保五年に四万両を幕府に献納したが効果なく、次に中野石翁の歓心を引くために屋敷に歌舞伎舞台をしつらえ名役者を堺町から呼んだばかりか自家の美少女たちを茶屋女に仕立て上げ終日接待したという。感じいった石翁は柳沢のために尽力したがうまくいかず、ますます熱を上げた柳沢は再び四万両を幕府に献上してようやく従四位下侍従の地位を射止めた。これが四代目の美濃守保泰(やすひろ)か、その子の保興か、事蹟が混在する部分もあるが、大事なのは官位や殿席の上昇は尋常一辺倒では実現しなかったことだ(『想古録』2、一一三八)。

 大広間席の外様大大名たちは家斉が死ぬとすぐに「大広間外様方」の名で老中に伺書を出した。そこには、先祖より代々拝領の城地は、家々の格や、徳川家への御奉公が抜群だとして拝領したのに、近年になって「御老中・御出頭の御方へ、内願等申し入れ候大名衆御座候」と続柄大名へのネポティズム(身内びいき)をあてこすり、先祖代々の屋敷や城地を何故に取り上げて「願いの者」へ下賜し国替を命じるのかと疑問を呈し、私どもは理由を是非知りたいとたたみかける。庄内の酒井といえば、榊原・井伊・本多と並んで徳川家では、「御取立も格別に御座候家」ではないかと外様ながらに心配するのは皮肉以外の何物でもない(『荘内天保義民』前篇)。また同時期に「国主外様」から出された伺書や、「諸大名組合の御旗頭御役」だった藤堂和泉守高猷(たかゆき)留守居の伺書も領地替の理由を知りたいの一点張りである。そのうえ譜代として幕命を請けざるをえない酒井家でさえ、家光の時代に附家老とされた松平甚三郎家を前に出して水戸徳川家を動かそうとする。本来なら老中たちに上申すべきだが、この一件に限らず上様から出された案件について、「一々御旨申し上げ、少なくも御諫奏致し上げ候御方様あい聞こえず候」、老中に何を語っても「無益の至」と存ずるので、憚りながら水戸中納言様に「御憐慮」いただきたく願うというのだ(五月、中山備前守幷山野辺主水正宛松平甚三郎紙面写『藤岡屋日記』第二巻)。幕府の箍がゆるんできたどころか、幕藩体制のきしみが聞こえてくる。

 外様の国主大名だけでなく水戸家や田安家までが領知替に異議を唱えるか、酒井家に同情するというのであれば、とても順調に行くはずのない話なのだ。それでも、家斉亡き後、老中・水野越前守忠邦が新将軍・家慶の下で三方領知替を強行しようとしたのは、忠邦の個人的思惑を越えて、幕府の令を撤回でもしようものなら、幕藩制国家の支配原理が崩れるからだろう。大名領地の転封は将軍の基本権限であり、いかなる由緒や家柄であっても従うべきだと水野は考えた。外様大名らが一致結束して幕命を批判するのは謀叛に等しく、ましてや百姓領民の反対運動が幕議を覆えさせる行為はあってはならない。幕藩制秩序からの逸脱に厳しい水野によれば、「たとひ賢相功臣の家筋に候とも、御代々の思召次第にて、松前蝦夷の端々え所替仰せ付られ候とも、聊かも違背仕るべき筋は毛頭御座なく候」であり、「加削は御当代思召次第の処」なのだ。しかも、庄内酒井家は溜詰格という幕府中枢を支える家柄なのに、幕府の権威を貶めるのは論外と言いたいのだろう。

 しかし家慶は父や兄弟らの面子に関わっていられなかった。御三家御三卿の身内から国主大名まで幅広く批判が出るようでは、改革政治を進めるどころではなく、領知替を撤回せざるをえなかった。水野の危惧は間違っていない。一度幕府が出した令に背く前例ができれば、転封を拒否する大名も出てくる。それは天保十四年の江戸・大坂近辺の上地令が挫折に追いこまれることで再現された。また、アヘン戦争で対外危機を痛感した水野が日本海方面で新たな海防体制を試みたのも事実としても、幕府による中央集権的な実行を妨げる大名の既得権益の強さと幕府の力の低下をまざまざと示したのが三方領知替の失敗だったといえよう(藤田覚『幕藩制国家の政治史的研究』)。

 これで終われば庄内義民と酒井家との封建体制を越えた日本人ならではの美談ということになる。庄内藩主・酒井忠器が「人品アシク」と悪評を立てられたのは何故だろうか。彼が他の大名家を初めて訪れる時には、二、三百疋(金二、三分)くらいの狩野探幽ら名人のまがい物を持参して、礼金に二、三十両を取り込み、客席の珍器を無心するなど「アツカマシキ事甚シ」というのだ。また役者を集めて芝居をさせ自分で幕を引いたともいう。しかし噂は三方領知替失敗の腹癒せに幕府や川越藩あたりが意図的に流したのかもしれない(『三川雑記』天保十二年辛丑)。美談をすべて正当化する必要はない。むしろ美談を成立させるために醜聞を隠すには及ばないのではないか。

(3)聖堂雨漏るべし、感応寺起さざる可らず――「おねだり」の政治

  三方領知替のように「御続合の者ばかり能き事これある段」は、松平越中守定信・松平伊豆守信明・酒井讃岐守忠進(ただゆき)の執政時代にはなく、水野出羽守忠成の登用の頃から起きたことであり、大塩平八郎の蹶起も「公義の悪敷より事起り申し候」と家斉の将軍末期と大御所晩年の失政から生じたと非難する落文も流布した(『荘内天保義民』前篇)。

 田沼意次であれば役職や官位を求めて贈賄した人物たちに対して事が成就しないと返金したのに、忠成は同じ役職の競争者から金を全部とりこんだというから老中や側用人の職を汚す点では際立っていた。藩主になってすぐ水戸斉昭は忠成を収賄や「色々の不正」で田沼より甚だしく、若年寄・御側・勘定奉行らも同類であり、根を絶てば枝葉は枯れると老中・大久保忠真に告発したが、具体的な証拠や罷免の道筋を提起できないあたりにこの人物の限界があった(『水戸藩史料』別記上、国会図書館DC二七コマ)。忠成はある日、町奉行に台附なる手軽な富籤の取締を厳命したところ、もっと大きな富籤を禁止せずに、小前の台附を減らせるはずもないと陰口をきかれたという。これは富籤がもともと湯島天神・芝神明・感応寺に限られていたのに、忠成への賄賂の効き目で三十三箇所にも増えた結果、正業を極める者が減り商売も不景気になった点をあてこすったのだろう。台附は一文でも二文でも買え、一文で当たる時は八文となり、八文が六十四文となる勘定でおおいにはやった。親の富籤がなくならないのに、子の台附がなくなるはずもなく、まずは社会悪の本尊の富籤興行厳禁をと同僚に迫られても、忠成は放置せざるをえなかった。忠成の道理に合わない政治は予算支出にも表れた。湯島聖堂の修繕費八百両足らずを認めずに、感応寺の建立新築費の十八万両の大金をすかさず認めるといった塩梅である(『想古録』1、一三三。2、九四四、一一二五)。それでは、日蓮宗に戻すなら年間三十万両を幕府に献納すると約束しつつ運動した霊験あらたかなのか、新規建立が認められた感応寺とはいかなる仏閣なのだろうか。ここに半世紀に及ぶ家斉の長期権力の腐臭と汚濁の原因を探る手がかりが潜んでいる。

 雑司ヶ谷の鼠山感応寺はもともと谷中にあった長耀山感応寺の流れを引く。元禄十二年(一六九九)に、『法華経』の信者でない者の布施を受けず与えもしないという日蓮宗不受不施派問題のあおりをくらって天台宗に改められた寺であるが、桜桃の二花で春爛漫となり人気を博していた。かつて会式(日蓮追悼)が行われ「貴賤群集なしける」賑わいだった(『江戸名所図会』五。『新訂東都歳事記』下)。家斉の愛妾・お美代は池上本門寺四十八世の日萬の意も受けて、溶姫付老女・染嶋を頤使しながら、東叡山から感応寺を奪おうとした。一つには、富籤の巨大利権を手に入れたかったからだろう。この欲得は鞍馬寺を滅却して比叡山を破壊するがごとしと寛永寺から強烈な逆ねじをねじこまれた。富籤の利権の取得には失敗したにせよ、ともかく感応寺という寺号を返してもらい、天保五年(一八三四)五月に雑司ヶ谷村鼠山の三万坪に及ぶ土地に新感応寺の伽藍を建立させた。老中・水野忠成の気前よさによることはすでに述べた。将軍家菩提寺の上野寛永寺に掛け合うだけでも相当に腹を括らなければならない。熱心な法華信者の多い大奥を押さえたお美代は、ただ「沈魚落雁閉月羞花」(月が雲間に隠れ、花が恥じてしぼむ)の美女だっただけではない。怜悧捷給とは彼女にこそあてはまるのだろう。頭の働きが鋭く話し方が巧みで応対がすばやい様は、まるで幕政を動かしていた四高官の家老用人の才気を一緒にしたようだと褒められた。老中・水野忠成の用人・土方丹下(縫殿助)、若年寄・林忠英の家老・広部広平、側用取次・水野忠篤の家来・黒田仲左衛門、側用取次・土岐朝旨(ともむね)の用人・保田茂左衛門はいずれも利け者として通っていた(『三田村鳶魚全集』第一巻)。

 お美代の信じた日蓮宗の人気は大奥で他を圧した。感応寺建立の「おねだり」は、お美代が日頃切った家斉の手足の爪を三つの日蓮像の腹に入れて、身延山と大奥と新寺に安置したいとのことだった。家斉実父の一橋治済重篤の時にも日蓮宗僧侶は祈りを続けたが、その甲斐なく死去した。その時の言い分が振るっている。

「祈りはききたれども御寿命はなき時節なればぜひなし」と。それでも祈料二百金を求めたというから図々しい。さすがに一橋家は死去したのだから払わないとあしらった。「そのとき寿命なり」としつこく食い下がったらしい(『三川雑話』天保八年丁酉、九年戊戌)。

 鼠山の方は、天保七年から十二年まで六年間に、本堂・客殿・庫裡・玄関・惣門が建てられた。御三家・御三卿はじめ、お美代が生んだ溶姫の嫁いだ加賀前田家や末姫の安芸浅野家はもとより、家斉の子女の続柄となった大名たちはこぞって祈禱や寄進に熱心であった。お美代らは、本堂竣工・家斉隠居・西之丸移徙など大行事の度に何かとこじつけて、祈禱や代参や奉文を通じて感応寺と大奥ひいては将軍・大御所との関係を強めて幕府から寺領三十石を拝領する強盛ぶりだった。開堂供養の七日目施主を勤めたお美代は、大奥の日蓮宗勢力をまとめて、天台宗寛永寺、浄土宗増上寺と並んで日蓮宗感応寺を将軍家菩提寺にしようと企てたようだ(畑尚子「宗教・信仰と大奥」『論集 大奥人物研究』)。

 大奥は、水戸斉昭が天保六年四月に老中・大久保忠真に明言したように私の見聞する限りでも「莫大の御費」なのだから、私の知らないことにどれほどの費えがあるのか計り知れない。斉昭は、大奥に限らず奢侈を抑えるだけで「格別の御益これあるべく候」と提言していたが(『水戸藩史料』別記上、国会図書館DC三一コマ)、実現の道筋を具体的に描けなかった。これは、大御所・家斉が生きている限り、大奥を仔細に取り調べるなら火の粉は必ず家斉にも及ぶからであった。斉昭は天保九年九月の書状で老中・水野忠邦を相手に、しきりに「牝鶏の害」(女性が政治に口を出す悪行)とか「後宮権を弄び候婦女」(大奥で権勢を振う女性たち)を批判した上で、「万一後宮の婦女奸僧へ党与致し候事にも候ハバ厳重糾弾すべき事に御座候」と大奥の女性と破戒僧或いは売僧(まいす)との結びつきに警戒心を促している。しかし、大奥が幕府政治の癌たることは政務を執る老中なら誰でも知っており、規制の筋道を描けないから歴代の執政は苦労したのだ。定信のように予算削減でプラグマティックに対処するか、忠成のごとく大奥の意を迎えるか、やがて登場する阿部正弘のように妥協しつつ政策貫徹をはかるか、いずれかの道しかない。斉昭は「たとひ二、三の婦女老女(引用者補足)また死に候ても、また二、三の婦女代りて権を取り申すべくいつ迚も陰気増長いたすべし」と憂えるのはよいとして、牝鶏から羽翼もぎとる証拠を握り罪を鳴らして「群陰退散一陽来復の大機会」が到来と楽観視できただろうか。斉昭の書状が出された天保九年は大御所家斉が老いてもまだ実権を手放していない。斉昭が政策項目として、贅沢三昧の中止・貨幣改鋳による物価騰貴・閣老の政道不明・側用取次の専権などを批判的に列挙しても、いずれも家斉の奢侈と遊興を支える上で必要とされた政策だから、大御所が逝去しない限り「一陽来復」の機が来るはずもない。また、「女謁専ら行ハれ候事」と大奥の女性がひそかに大御所・将軍にねだることは、それを許した君主の狭量あるいは雅量こそ問題にすべきであり、儒学道徳で女子にすべての政治的失敗を押し付けられてはたまらない。

 さらに感応寺建立についても触れているが、これも家斉の裁許によるものだ。しかも斉昭は、往時の護持院と似ているが「法華の盛なる勢同日の論にこれなく候」と綱吉と比べても家斉が格段に強い将軍・大御所権力を行使したと示唆している。また斉昭は、「後宮権を弄び候女子」が増上寺安国殿を参拝してから病になり毎月家康の命日十七日に体調を崩したと酷評している。斉昭は自注でこれを老女・野村とし、その者と飛鳥井と瀬山は権勢があり表役人の任命も賄賂で決めただけでなく、将軍御側の小姓や小納戸の希望者は三人に頼んだと明記する(『水戸藩史料』別記上、国会図書館DC四四コマ)。

 さて、この野村は第十代将軍・家治の時から本家付老女を務め、家斉から家慶への代替わりに際しても上臈御年寄になる飛鳥井と一緒にずっと本丸で仕えた。他方、瀬山は家斉が大御所になるとその御年寄となり、死ぬと本丸に戻って飛鳥井、野村とともに家慶の大奥を仕切っている(『徳川政権下の大奥と奥女中』)。水戸斉昭は老女たちの名を公然と明かしても、時に「御直御願」と呼ばれる御台所・寔子(ただこ)の家斉への口頭での「おねだり」や、子を儲けた愛妾たちの「おねだり」に触れないのはどうしたことか。なかでも、家斉が晩年もっとも寵愛したお美代は感応寺建立の仕掛け人なのに、それを臭わせることすらしないのは何故なのか。

 お美代の身元はかなり謎に包まれている。公には、清水家小姓・内藤造酒允就相(よりすけ)が娘に貰い受け、小納戸頭取・中野播磨守清茂(致仕後に石翁)の養女として大奥に入った。本丸御次から御中臈に上り、溶姫・仲姫・末姫を生んだことはよく知られている。御上臈御年寄上座まで進んだ身分は、御台所を除けば大奥の老女たちの頂点である「お清」の上臈年寄を越える御方様にほかならない。その実父は、下総中山・法華経寺の智泉院(日蓮宗)住職の日啓とされてきた。そして、中山法華経寺は将軍家祈禱所となり、智泉院はその「御法用取扱」となっていたが、天保十二年の家斉急逝による政変で五月に智泉院を手入れした寺社奉行・阿部伊勢守正弘が大奥取締の役職・留守居宛に届けた「達し」によって、その資格を剥奪された。そのうえ、雑司ヶ谷の感応寺は廃寺となり寺領も没収となったと阿部正弘は伝えている。日啓(現・八幡別当守玄院)は「清僧」でありながら百姓の後家りもを尼・妙栄と名乗らせ「密通のうえ度々女犯に及び候次第」で遠島処分とされた。また子の現・智泉院住職の日尚は「清僧」で将軍御用の祈禱を勤める身分でありながら船橋の旅籠でその下女ますに酒の相手をさせ、「密通のうえ度々女犯に及び候段」で晒し(江戸日本橋)となった(『藤岡屋日記』第二巻、第拾三)。感応寺は巨費を投じて建立したのに、解体など人足費用が七百両もかかるので、いっそ雨天の日を選んで焼き捨てるかという物悲しい話になる。いくらなんでもこれはひどく、阿部正弘は池上本門寺の願いで本堂ほかを取壊して木材を引きとらせる形式にした(『遊芸園随筆』十一)。家斉とお美代の壮大な無駄遣いは幕府の寿命を縮めたにすぎない。

 押込めを命じられた妙栄やますは気の毒にも思えるが、二人はとんでもない政治の渦にまきこまれたのだ。また、清僧とは肉食・妻帯をせず品行方正な僧を指し、どことなく大奥の「お清」を思い出させておかしい。日尚とますとの行為は「住職以前の義には候えども」罰せられたのは、智泉院・感応寺と大奥との関係を表に出さず、構造的に大奥と僧侶との間で繰り返される醜聞を「清僧」による後家・下女への破戒行為にすり替えたかったからだ。この背景は、『藤岡屋日記』の阿部正弘の「達し」のすぐ後に付された一文書を仔細に読むと浮かび上がってくる。「下総国葛飾郡 正中山法華経寺塔中 智泉院」から始まる日啓と日尚などの続柄に関する文書は寺社奉行が関係者への処分通知に添付した可能性を排除できない一方、その史料的性格を厳密に判定しきれない要素を残している。たとえば、「於美代方、溶姫君様御腹」と家斉の子を産み加賀前田家に嫁がせた側室と破戒僧との近親関係を公然と書けたのは何故かという疑問である。しかも、十六年前に病気で退院した住職(法号不詳)の二男二女のうち一人が日啓で女一人を於美代(おみよ)とするなど貴重な情報を含みながら、両親の名を明らかにしていない。二人の母が同じかどうかも分からない。日啓とお美代が親子でなく、兄妹である事実はこれまで証明されていない。さらに、お美代のもう一人の兄は船橋で旅籠屋を営む市兵衛であり、「右お美代の方」は市兵衛の「宿請」で石翁方に奉公し、「後又石翁の養女ニ致し、大奥え御奉公ニ出、追々昇進致して御中臈ニなる也」と記しているのはほぼ間違っていない。寺社奉行史料だとすれば、女性と不義密通を重ねた咎で遠島処分を下した日啓の子がお美代であっては、さすがに家斉の威光にもかかわるので不義色を少しでも薄めるために妹と記録したのかもしれない(『藤岡屋日記』第二巻。『日本都市生活史料集成』二所収、『藤岡屋日記』天保十二年条)。いずれにせよお美代は不義の子である可能性が高い。事情通の『燈前一睡夢』は、「その実の素性は、感応寺の邪淫に出生せし児也」と遠慮がない。そのうえ、日啓のために「殊に日蓮宗ゆへ、肉食女犯は勝手次第と申すこと」とまで法華の徒に手厳しい(『鼠璞十種』下巻所収)。 

 ほぼ事実として、お美代のおねだりで文化七年頃(文政三年説もある)に智泉院は将軍家御祈禱所となり、天保四年には本丸大奥女中の中山法華経寺参詣が実施された。天保六年になると日啓は徳ケ岡八幡別当守玄院住職となり智泉院は一人おいて実子・日尚が住職となったのも間違いない。大御所時代になると、お美代と日蓮宗の力はますます威をふるい、感応寺や智泉院への代参がはやった。大八木醇堂は祖父からつぶさに聞いた話として、感応寺の住僧の不行跡はとても延命院日道らの「はるかに踵及ぶべきにあらず」、「住職を初め、伴僧等申し合せ、各自に競争して不義を行ひ、これに姦通し」という行いが目にあまるようになったという(『燈前一睡夢』)。延命院事件は享和三年に日道が坂東三津五郎、市川男女蔵ら歌舞伎役者四名を寺で大奥女中に取持ち、日道らも女中らと通じた廉で斬首となった事案である。阿部正弘はお美代ましてや家斉の権威に累が及ばないように智泉院事件を巧みに日蓮宗僧侶親子の女犯にすりかえたのだ。延命院事件を摘発した寺社奉行・脇坂中務大輔安董(やすただ)、智泉院・感応寺事件を処理した寺社奉行・阿部正弘はいずれも老中まで昇進するパワー・エリートである。その彼らをもってしても大奥という聖域に立ち入るのはむずかしかった。それは、将軍を中心とする権力が大奥の側室・老女の小宇宙、奥(中奥)の側用人・側用取次という別の小宇宙を軸に排他的な人脈によって成立していたからだ。将軍或いは大御所の表の役人といえども、大御所らの「御思召し」なる御用の実施を妨げ予算支出を拒否することはできない。勿論、政務を仕切る表はかなり完成された官僚制の小宇宙であるが、いかに将軍の大命を受けても三つの空間のすべてにまたがる幕府という大宇宙の統御者ではない。そのすべてを結び付けられるのは将軍をおいていない。賢明であれ暗愚であれ、将軍の意志なくしてそれぞれの空間が自律的に動くことはない。

 老中であれ、寺社奉行であれ、感応寺や智泉院の醜聞を大奥との関連であばけないのは、そこに家斉との関係が出てくる惧れがあるからだ。何故なら、いわゆる三佞人と中野碩翁は、奥で勤務するか、機嫌伺いに現役同然に出仕するだけでなかった。彼らは大奥に縁者や養女を送ることで大奥老女もしくはお美代のような側室を自らの分身ないし代弁者として丁重に扱ったのである。

 実際、お美代が将軍の内意や下賜品を養父石翁や幕府役人を通して大名たちに通したことは、古河藩の「御内用日記」からも知ることができる。たとえば、文政四年(一八二一)八月に家斉は浜御殿で取れた冬瓜三個を「此の節の御薬」(夏バテ対策の食品)として土井家に贈り、先日下賜した金魚はその後成長したか、と「中野様御娘女様」(お美代)を介して尋ねてきた。そこで当主・土井利厚(実は老中首座)は直筆で御礼口上書を出している。文政六年十一月には御庭の菊苗一鉢を土井家に遣わすようにお美代に沙汰があり、御錠口から石翁に渡された。御錠口とは、大奥と奥をつなぐ二本の鈴廊下のうち下鈴御廊下の方であろう。厳格に性が隔離された両空間をいともたやすく往来できたのは家斉の威光があればこそではないか。土井家は利位(としつら)に代替わりをしていたが、すぐに拝領御礼に植木鉢二、かハり鯉一を「内献」している(「御内用日記(文政三~同七年)」、文政四年八月十日条、文政六年十一月廿四日、十二月三日各条、『鷹見泉石日記』第一巻所収)。

 古河藩が大奥のなかで恒常的に品物や金を贈っていたのはお美代だけだった。御三卿の一橋や清水、側近の中野や林と並んで「大奥御勤之御娘様」「御息女様」が初めて日記に出るのは、文政三年九月廿一日の縞縮紫紅二反と御裏地紅一疋を献上した時であるが、文政五年正月廿日の縮緬三反箱入、四月二日の紅白縮緬三疋、六月八日のすきや縮三反箱入と続くのは、十二月に新藩主・利位が老中への登竜門たる奏者番の心願をまず雉子橋(御三卿の清水斉明)に提出したのと無縁ではない。奏者番に次いで寺社奉行兼帯を目指して、大奥の好意的な取りまとめをお美代に期待したと思われる。お美代にはそれだけの辣腕と伎倆があったのだろう。他方、『燈前一睡夢』の言葉を借りれば、彼女は禍心をもって「長舌の厲階を為せしも多かるべし」(婦女のおしゃべりで怒を招く悪の緒を多く作ったに違いない)。

 阿部正弘はこの構造を知っており、政治生命の喪失が怖くて大奥や奥の全面摘発をできなかった。将軍を囲繞する側室・側近を核とし、大奥と奥を中心に表の政治空間に連なる排他的人脈とまず友好関係を築かねば、定信は無論、水野忠成も、水野忠邦や正弘さえ老中になるのは難しかった。家斉以降の将軍権力は、もはや徳川吉宗の藩屏ともいうべき御三卿や、家康以来の御三家はたまた三河以来の門閥譜代ではなく、将軍と大奥の側室・上臈上席者と、それにつながる奥の側近集団(側用取次・小納戸頭取など)の連携した少数派に握られたといっても過言ではない。この構図を作ったのは家斉であり、その排他的発言権は家慶や家定の時代まで残り、大老・井伊直弼を登用し一橋慶喜を斥けて第十四代将軍に紀伊慶福(家茂)を押し立てる原動力となった。斉昭がいくら正論をぶってみても、そのエスプリ・ザニモーを嫌った大奥は将軍と側近集団と結束しながら、権力中枢に入ろうとする斉昭ひいては一橋派を排除したのである。大奥に倹約を実行させ、幕府財政の改革に協力させるのは定信でさえ絶望的に困難であった。本丸大奥御右筆から出す文箱は、長さ九尺ほどの総(ふさ)のついたフクサ糸の紐で巻かれていたが、紐の簡素化を求めると、これは御寿命紐というのであり上様の御寿命を縮めよとの御心かと一本とられた。(関口すみ子『御一新とジェンダー』)。

 大奥の経費は一か年におよそ二十万両であった。定信は、幕政を仕切った寛政元年から五年にかけて、納戸などの八か所役所経費を除いた奥向経費(女中合力・扶持方)の一年平均を二万六千両余に削減した。大奥金方全体では七十%も削ったといわれる。しかし、家斉が親政を始める文化十一年になると、奥向経費は五万両に増え、その後も上昇を続ける一方であった。家斉死亡の三年後、弘化元年(一八四四)の米方の場合、奥方合力米・女中切米扶持が六千三百石、ほかに前田家に嫁いだ溶姫、浅野家に出た末姫、水戸家の峯寿院(峯姫)などに合力米六百五十石余が出されていた。溶姫と末姫はお美代の方の娘である。総計が六千九百六十石余で幕府全体の米方総支出の一・一%である。しかし金方になると幕府の負担がぐんと上がる。奥方合力の三万両余はじめ、「奥向別段御入用」が八千四百両余、天保十五年に死んだ広大院(家斉正室・寔子)の「御遣金幷被下金」(おつかいきんならびにくだされきん)一万二千三百両余、同人の葬儀・法事費用四千六百両、納戸などの八か所役所経費二十四万八千九百両、これらを合わせて金方支出の総計は三十四万五千両余となり、貨幣改鋳の原資を除いた幕府全体の金方総支出の十五・五%に上昇する(飯島千秋「大奥の財政」『徳川「大奥」事典』)。

 定信の大奥改革はその経費の三分の一まで減らしたが、女中の不満は大きく、倹約は「奥から壊(くず)れて来た」「いつでも奥の方から壊れて来る」と回顧している(『旧事諮問録』上)。大奥とはそれほど難しいところだったのである。明治も末になってからでも最後の将軍・慶喜は、「大奥の情態を見るに、老女は実に恐るべき者にて実際老中以上の権力があり、ほとんど改革の手を著くべからず」と述べたほどだ。また、大奥の改革に着手したことがあるかとの問いにも、「いや、無い、手を著けてはむずかしい」と答えている。正直なところだったろう(渋沢栄一編『昔夢会筆記』)。大奥改革は容易ならぬことであり、父・斉昭のような直情径行の士からはいちばん遠い世界であることを最後の将軍は理解していたのである。 ー つづく ー





プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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