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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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ブログ更新の一時休止について

日頃は、当ブログにアクセスしていただき誠に有難うございます。通常は月2回のペースで更新してまいりましたが、諸般の事情によってそれが出来ない状況にあります。12月9日開催のシンポジウムが終わる間まで、ご容赦下さるようお願い申し上げます。
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市川勢壊滅の地(千葉県匝瑳市)を表敬訪問

  過日、潮来「水戸烈士顕彰会」事務局長の石津氏のご案内で匝瑳市を訪問しました。これには地元ひたちなか市から小生を含む「楽歴会」メンバー3人と、小生の先輩で茨城大学名誉教授のN氏が加わりました。N氏は退官後歴史に興味を持つようになり、あちこちの史跡を訪ね歩いていると伺っていたので、丁度いい機会と思ってお声をかけたところ、是非同行したいということで一緒に行くことになった次第です。
  その日は時折小雨がちらついていましたが、潮来に着いた頃は雨も止み、午前10時過ぎ石津氏の車に乗せていただいて匝瑳市に向かいました。最初に案内されたのは、匝瑳市飯高にある飯高檀林跡(飯高寺)で、天正8年(1580年)から明治7年(1874年)まで294年にわたって、法華宗(日蓮宗)の学問所がおかれた寺です。
(※檀林とは栴檀林の略語で、僧侶の集まりを栴檀の林にたとえ、寺院の尊称であると共に仏教の学問所を意味する。最盛期には600~800人の学僧が集まり、多くの名僧を輩出。廃檀当時のまま保存され、その中の総門、鼓楼、鐘楼、講堂は国指定の重要文化財となっている。また、境内全体は県指定史跡に指定され、うっそうとした杉林が歴史の重みを感じさせてくれる)

  次に、八日市場の「福善寺」案内されました。この場所は、明治元年10月初旬、弘道館の戦いで敗れた市川勢が昼食を取るために立寄ったところです。城山と呼ばれる山の南斜面にある由緒ある寺で、辺り一面は木々に覆われています。折よく若い住職がいらっしゃったので、期せずして本堂内を見学することが出来ました。拙作「烈士たちの挽歌」に登場する火伏開運大黒天のことを尋ねたところ、当初は渋っていましたが、倉庫の中に保管してある実物を見せていただくことが出来、大変感動いたしました。
その後、近くの食堂へ移動し、5人で昼食を取りました。案内人の石津氏は歴史に大変精通していて、食事中も熱弁をふるって興味深いお話を沢山してくださいました。お陰様で今まで知らなかったような細かいことまで知ることが出来ました。

  次に向かった先は、松山戦争で市川勢が壊滅した「浪人塚」と呼ばれる場所で、地元の方々の善意で綺麗に整えられておりました。現在は道路も整備され、周囲にたくさんの建物が並んでいるため、往時の面影はあまり感じられませんでした。私たちがここを訪れる前、水戸の関係者が同じようにバスでこの地に来たことが新聞で報じられておりました。お線香やマッチなどが置いてあり、何時でもお参り出きるようになっていましたので、香を焚き、皆で手を合わせ戦死者たちの霊を弔いました。150年の出来事ではありますが、同じ藩内で敵味方に分かれ、凄まじい戦闘で多くの尊い命が失われたことに複雑な思いが脳裏をかすめました。
  帰途、石津氏の配慮で香取市牧野にある観福寺に立寄り、伊能忠敬の遺髪墓をお参りさせていただきました。ブログで連載中の「幕末動乱の地を行く」の著者松宮輝明氏は、伊能忠敬研究会の東北支部長を務めております。

  潮来に戻ってから、ガイドをしてくださった石津氏のご自宅にお邪魔し、自慢の書、掛け軸などを見せていただきました。勝海舟、山岡鉄舟など、幕末の有名人が認めたものが多数あり、大変感動させられました。石津氏は郷土史家であると同時に骨董品の収集家でもあり、今後のご活躍を期待しております。本当に有難うございました。帰りの車中でも歴史談議に花が咲き、N先輩も大変喜んでおりました。今後は更に研鑽を積みたいと意気込んでおりました。

タイトル 幕末動乱の地を行く(5)
       サブタイトル 安政の大嶽 ①    伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

  幕末の歴史を大きく変える桜田門外の変を引き起こした原因は何であったか。
  安政5年(1858)「安政の大獄」が始まる。大老伊井直弼は一橋派の蘭学者を弾圧した。吉田松陰、渡辺華山(田原藩家老)、橋本左内(福井藩士)、頼三樹三郎(頼山陽の三男尊王攘夷論者)らが死罪になった。伊井直弼は水戸藩の徳川斉昭に国許に永蟄居、水戸藩主慶篤に差控(登城を禁じ自宅謹慎)、一橋慶喜に隠居謹慎を命じた。水戸藩の重臣の家老安島帯刀に切腹、芽根伊予之介(右筆頭取・現官房長官)、鵜飼吉左衛門(京都留守居役)を死罪、鵜飼幸吉(吉左衛門の子)を獄門に処した。宮家に対しては有栖川、青蓮院、鷹司、近衛、三条、一条、久我家などの家臣三十余名を逮捕した。
  御三家の水戸藩が徳川幕府をつぶすという陰謀説が噂され前藩主徳川斉昭と大老伊井直弼は対決する。
  徳川斉昭を幕府参与から排除することに怒った水戸藩士は万延元年(1860)春の3月、雪の桜田門外で水戸藩を脱藩した関鉄之介ら浪士と薩摩藩士有村次左衛門18名が登城する大老伊井直弼を襲い首級を揚げ、多くの彦根藩士を殺害した。「桜田門外の変」は水戸の斉昭が黒幕だと噂された。その年永蟄居の斉昭は復権することなく無念の気持ちを抱き61歳で亡くなった。死因は心臓発作と云われている。
  南紀派に擁立されて大老に就任した井伊直弼は、将軍継嗣問題と日米通商条約案の勅許拒否という問題に直面していった。南紀派は井伊直弼を筆頭とする大名や会津藩主・松平容保、高松藩主、紀州徳川家家老、大奥などに支持されていた。徳川家定は病弱かつ暗愚で、若年にもかかわらず長命や嗣子誕生は絶望視されていた。自然後継者問題が勃発するが、家定の近親であることを重視して紀伊藩主徳川慶福を推したのが南紀派である。(ただし一橋派にも開国志向の大名は島津斉彬など多数いた)。井伊直弼は一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)を担ぎ上げた一橋派と対立した。
写真 35万石9代水戸藩主徳川斉昭公 省略

小説「烈士たちの挽歌」出版記念シンポジウムの実施大綱決まる

奮ってのご応募をお待ちしています!

  先日、「小説『烈士たちの挽歌』出版記念シンポジウム」の第二回実行委員会が開かれ、開催日時、場所、内容などが決定しました。会場となる県立歴史館「講堂」は、定員が200名となっているので、果たして全席が埋まるかどうかが最大の課題となりました。少しでも多くの方々にこの行事があることを知らせるため、地元紙などに協力を依頼することになりました。また、ポスター、パンフを作成し、開催会場をはじめ、歴史愛好家が集まる場所に掲示することに決まりました。

 内容は、第一部として「基調講演」を行い、第二部で「公開座談会」を行うことが決まりました。基調講演は、幕末の水戸藩に詳しい那珂市歴史民俗資料館の仲田昭一館長にお願いしました。仲田先生は、8年前に開催されたシンポジウム「今、何故桜田門の変なのか」の際にも基調講演を担当していただきました。第二部の公開座談会では、水戸史学会副会長の久野 勝弥先生、茨城地方史研究会会長の久信田喜一先生、県立歴史館学芸部主任研究員の石井裕先生が登壇することになりました。いずれの先生も茨城を代表する歴史の専門家であり、当日を楽しみにしています。進行役は私鯉渕がやることになりましたが、事前準備をしっかり整えて、参加された方々が満足できるような内容にしてまいりたいと決意しています。

 今回のイベントは事前申込制になりますが、是非とも多くの方々に申し込んでいただけるよう祈るばかりです。具体的応募方法は、下記のポスターを参照してくださるようお願いいたします。

ポスター_convert_20181002215253

 【申 込 先】 〒312-0011 ひたちなか市中根882-3  実行委員会事務局 鯉渕 義文
         FAX:029-274‐1458                  TEL:090-8818-6592    
        メールアドレス:y8823k@yahoo.co.jp


戊辰戦争150周年記念 タイトル 幕末動乱の地を行く(4)
             サブタイトル 桜田門外の変 ②   伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

  桜田門外の変の襲撃はどのように行われたのであろうか。伊能図を基に検証してみよう。
  当日の早朝、一行は決行前の宴を催し一晩過ごした東海道品川宿(品川区)の旅籠相模屋を出発した。東海道(現在の国道15号)に沿って進み、品川の大木戸を経て札ノ辻を曲がり、網坂(港区、慶應義塾大学付近)、神明坂、中之橋(現在の首都高速都心環状線)を過ぎ、芝愛宕神社(港区)で襲撃隊の同士全員が待ち合わせす桜田門へ向かう。
  水戸藩にはあらかじめ井伊大老襲撃の届けが出され脱藩を願い出ていた。そして、彦根藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から内堀通り沿いに登城途中の井伊直弼を江戸城桜田門外で襲撃した。現在の警視庁前の桜田門交差点である。不穏な状況にあり井伊家には襲撃の警告が届いていたが、直弼は護衛の強化することはかえって失政のそしりに動揺したとの批判を招くと判断し、あえて登城の護衛の強化をしなかった。

  桜田門外の変が起きた日は、3月3日桃の節句である。当日は朝から季節外れの雪で視界は悪く、すでに3寸(9センチ)ほど積もっていた。鉄之介は降りしきる雪を見て「天佑だ」と思った。井伊大老の登城を護衛する供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況だった。
  江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲うなどという発想はなく彦根藩側の油断を誘ったのである。襲撃者たちは『武鑑』を手にして大名駕籠見物を装い、大老井伊直弼の駕籠を待っていた。武鑑とは、江戸時代に出版された大名や江戸幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などを記した年鑑である。駕籠が近づくと、まず前衛を任された水戸藩士の森五六郎が書面を掲げ直訴を装い行列の供頭に近づき、取り押さえにきた彦根藩の日下部三郎右衛門をやにわに斬り捨てた。
  こうして護衛の注意を前方に引きつけておいたうえで、関鉄之介が合図のピストルを駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始された。鉄之介により発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまった。襲撃に驚いた丸腰の駕籠かきはもちろん、太平の世に慣れた彦根藩士の多くは隊列を乱して応戦した。
 写真 芝愛宕神社に建つ水戸烈士の碑(旧NHK愛宕山放送局)-省略-

平成30年度ギャラリー展 第一期「結城寅寿 ―仕掛けられた罠―」 (3)最終回

<参考資料4>より 
 ― 結城寅寿、最期の姿―

  結城寅寿の末期の姿は、さまざまに語られてきた。処刑の翌日付で作成された水戸藩庁の報告書には、長倉松平家の役人が寅寿に自決をすすめたが受け入れず、目付の久木直次郎と伊藤孫兵衛らが罪状を読み上げると、先非を悔いたのか、すでに自殺していたとある(「探奸雑書」徳川ミュージアム所蔵)。しかし、後年の史料には、藩庁の公式の報告書とは異なる様々な寅寿の最期の姿が描かれている。

  山川菊栄(水戸藩儒学者・青山延寿の孫)の『覚書 幕末の水戸藩』(1974年)では、長倉陣屋跡の番人の話として、いきなり侍が3~4人、人夫に粗末な棺桶を担がせながらやってきて陣屋内へ入っていった。しばらくすると「ただの一度のご糾明もなく」、「執政まで仰せつかった拙者を、ただの一度のご糾明もなく」という寅寿の叫び声が聞こえてきたが、ドタバタとかけまわる音がして、あとは急にひっそりとした。やがて久木らが出てきて番人に金5両を渡し、「いいか、今日みたことを人に話したら命はないぞ」と厳しく云われたという。
  また、寅寿の腹心・友部好正の孫鉄軒が著書とされる「水戸藩党争始末」(1893年)では、伊藤らが寅寿に死罪を申渡すと、寅寿は顔色を変え、「(嘉永6年の)禁錮以来、ただの一度も糾問がなされていない、訴人と証拠を突き合わせて吟味をせよ、私の無罪は明白である。浮説と流言により突然死罪になるとは到底受け入れがたい」と反論した。伊藤は「いつ頃議論するも無益なり、首さへ斬れば我役目は済むへし」と決心し、「無法なり、非道なり」と叫ぶ寅寿を皆で押倒して首を斬った、という。

  これらは、いずれも第三者が伝聞にもとづいて記したものだが、高瀬真卿編『古老実歴水戸史談』(1904年)には、当事者である久木が「只今より上意を申し伝える」と言うと、寅寿は両手をついて頭を下げた。罪状申渡しの途中で長倉松平家の介錯人・太田勘太夫が刀を振り下ろしたが、寅寿は首を縮めていたので一太刀では切り落とせず、三太刀目でようやく前にのめったが、すでに死んでいた、というものである。
  寅寿がすすんで自決したのか、久木らが寅寿を押し倒して無理やり首を斬ったのか、それとも長倉の介錯人が斬首したのか、今となっては真相は判然としないが、寅寿が自らの無罪(または死罪に相当する罪科はない)と信じ、最後の瞬間まで正当な吟味(=罪状の調査)を要求しつづけたことは、おそらく確かであろう。
  寅寿は「吟味なし処刑」という非法に対して、「国家将来の爲めにも亦甚た愁ふへきことに候はすや」と激しく反論したというが、実際に幕末の水戸藩は党派対立と両派による復讐(「吟味なし処刑」)の応酬で衰弊し、明治を迎える頃には、藩内は混迷を極めることになる。(終わり)

  これまで3回に渡って石井裕先生が作成された資料を紹介してきましたが、皆様はどのように感じられましたでしょうか? 石井先生のご指摘どおり、この結城寅寿の一件がのちのちまで尾を引き、やがて眼を覆いたくなるような惨劇が繰返されることになったように思われてなりません。長い間、水戸藩の幕末がアンタッチャブルな世界として語られてこなかったのは、この辺りに事情がありそうです。この悲惨な歴史は、現代の私たちに何を語りかけているのでしょうか。

  今回、有志の発案によって、これらの問題について語り合う「小説『烈士たちの挽歌』出版記念シンポジウム」を下記のとおり企画しています。正式に決定次第、改めてご案内申し上げます。

                              記

   小説「烈士たちの挽歌」出版記念シンポジウム

      時代の波に
         翻弄された
       水戸の先人たちを偲ぶ


   □ 開催日時 平成30年12月 9日 (日)   午後1時30分~4時30分
   □ 県立歴史館 講 堂
   □ 主催 小説「烈士たちの挽歌」出版記念シンポジウム実行委員会
   □ 内容
      第一部  【基調講演】
                仲田 昭一先生  那珂歴史民俗資料館館長
      第二部  【公開座談会】
                 久野 勝弥先生  水戸史学会副会長
                 久信田喜一先生  茨城地方史研究会長
                 石井  裕 先生   県立歴史館学芸部主任研究員
                 仲田 昭一先生   那珂歴史民俗資料館館長   
                ◇司会進行◇   鯉渕 義文  小説「烈士たちの挽歌」著者

                



平成30年度ギャラリー展  第一期 「結城寅寿 ―仕掛けられた罠―」(2)

<参考資料2>より 
 江戸での密談 ― 庄兵衛の証言 ―

  宇和島伊達家に伝わった史料「水戸一件、結城寅寿事件」(宇和島伊達文化保存会所蔵)は、庄兵衛と菊池為三郎を預かった宇和島藩主伊達宗城が「水老(=徳川斉昭)より借用、写」したものである。同史料には、斉昭派へ寝返った寅寿の用人・庄兵衛が弘化2年(1845)11月18、19、21,23日に江戸の酒屋などで「紙長」の番頭らと密談した記録、弘化3年1月16日と同19日付の寅寿の「紙長」および紙長の番頭「貞之助」宛の書簡の写し、同年2月と3月に庄兵衛が寅寿の悪事を密告した肉筆証言の写しなどの、驚くべき内容が含まれている。

 同史料によれば、弘化2年8月に江戸の「平蔵と申す者」から「紙屋長兵衛と申す者、御国さんぶつ(産物)会所願度(ねがいたし)との申し出を受け、「旦那(=寅寿)に取次いだ、とあり、この頃から斉昭の「罠」が仕掛けられたようだ。その後、「中納言様(=斉昭)を打ち果して腹を切ると云ふ者が三人ほど相違なく御ざる」(庄兵衛)、万一(斉昭を)仕損じ候上は家屋敷迄打ちなけ御心腹二在之、……余程大腹の者になくては事柄行き届きかね候と見込み居り候故、先ハ結城様を大腹と見込んだ故、取り入り候」(番頭)などと、斉昭暗殺の策謀を確認し合った両者は、同年12月初旬に水戸へ下って寅寿と面会した。しかし、翌年2~3月に庄兵衛の血判入りの証書を入手したことで、「紙長」になりすました斉昭の秘密工作は終りを告げることになる(庄兵衛は「紙長」を最後まで実在の商人と認識していた)。

 同史料は、口語体で記されており、秘密工作の緊張感や臨場感がひしひしと伝わってくる。紙幅の関係で全文とはいかないが、下記にその一部を意訳して掲げよう(括弧内は引用文)。

〇 弘化2年(1845)11月18日、江戸・牛込払方町の酒屋での密談(庄兵衛の証言)

  11月8日、酒屋の二階で「旦那」(寅寿)と面会しました。早速「紙長」からの申し出を伝えましたが、旦那は「天狗之廻し者二ハないか」と疑念がぬぐえないようで、「夫ハ大丈夫」と伝えると、旦那は「とうして左様な人と心易くなつた」と問いつめてきました。私が「此人(=紙長)は三十年斗(ばかり)前より懇意の人」なので、「中々廻し者抔(など)と決てござらん」、先月も「江戸表へ登り紙長と申す家を見届けました」と答えると、旦那はようやく話を信じ、「夫レでは大丈夫だらふ、夫ハ手前能(よ)き者二懇意になつた、夫ハ大久保今助同然の者だ」、「御国産会所」のことだから「中々十万二十万の事でハない」、「水戸など二ハ此位のものハないな、まさかに江戸だなァ、庄兵衛」と喜んでおりました。……

(注1 御国産会所―藩の特産物生産を奨励し、江戸や大坂など、藩外への販売を行うために設けられた機関。物産方などの藩役人と城下の富裕な商人から攻勢された。 
(注2 大久保今助―久慈郡亀作村出身の商人、水戸藩郷士。多額の献金を行い、8代藩主斉脩に取立てられ、水戸藩の勘定奉行などを歴任した。斉脩死後の継嗣問題で清水恒之丞の擁立運動に関わったことから、斉昭の藩主就任後に失脚した。鰻丼の考案者ともいわれる。

〇 弘化3年(1846)3月付、庄兵衛の血判入り証言書
   (冒頭に「結城寅寿家来肉筆之写 此者返り忠(=寝返り者)也」と付記あり)

 弘化元年11月に寅寿様が水戸へお下りになったあと、藤咲兄弟や岡田熊太郎様といった腹心たちがたびたび参って、夜分に極秘の内談を行なっておりました。その際は12~13人の者が不寝番にあたり、鉄砲にも玉をこめておりました。また寅寿様は「今後、天狗が騒ぎたて、我らの知行の千石をつぶすかもしれない。もしそうなれば『(水戸藩の)三十五万石もつぶし申すべし』と、弘化元年12月3日の夜に話されたこと、私は確かに聞き届けました。……
 (「水戸一件、結城寅寿事件」(甲 宗城公直書98号)、宇和島伊達文化保存会所蔵)

 これらの史料をみると、失脚した斉昭があらゆる手を駆使して結城寅寿の罪を暴こうという執念が伝わってきます。まんまと罠にはまった寅寿は、嘉永6年(1853)終身禁固を命じられ、長倉陣屋(常陸大宮市長倉)へ幽閉されることとなります。この時、斉昭の腹心・藤田東湖は、決して寅寿を処刑しないよう進言しますが、安政2年10月の江戸の大地震で死去し、斉昭を諌める人は誰もいなくなってしまったといいます(つづく)

戊辰戦争150周年記念 タイトル 幕末動乱の地を行く(3)
 サブタイトル 桜田門外の変 ①           伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

  黒船来航から戊辰戦争まで15年の短い年月で時代が大きく変遷した。
  水戸藩の歴史では、桜田門外の変、坂下門外の変、天狗党の乱、戊辰戦争と時代の先駆を走り抜けた。そして多くの優秀な人材を失い明治政府を支える官吏がいなくなった。水戸藩の別荘偕楽園の入り口に常盤神社がある。大学の学舎水戸を訪れるとき必ず常盤神社を参拝し、水戸藩開府410年の歴史に思いを募らせる。常盤神社史料館には水戸藩主の三名君と仰がれた2代徳川光圀公(黄門)、9代斉昭公、徳川十五代将軍慶喜公の史料が展示されている。

  偕楽園より東方を望むと千波湖が広がる。水戸開藩400年にあたり湖畔には江戸城桜田門のオープンセットが再現され「桜田門外の変」の映画の撮影が行われた。歴史小説家吉村昭の原作で主演は襲撃現場の指揮者水戸藩士の関鉄之介(大沢たかお)、妻ふさ(長谷川京子)、息子の誠一郎(加藤清史郎)、徳川斉昭(北大路欣也)、井伊直弼(伊武雅刀)ら豪華俳優陣が脇を固め名画が完成した。
  安政7年3月3日(1860)、雪にけむる江戸城桜田門外に轟いた一発の銃声と激しい斬りあいが、幕末の日本に大きな転機をもたらした。安政の大獄、無勅許の開国等で独断専行する井伊大老を暗殺したこの事件を機に、水戸藩に起こった幕政改革をめざす尊王攘夷の思想は、倒幕運動へと変わって行く。

  指揮官の鉄之助は総勢十八名が実行部隊を率い、短銃の発射音を合図に斬り合いが始まった。多くの仲間の死をもって、ついに井伊大老の首級を取ることに成功したが、大老襲撃と同時に挙兵するはずの薩摩藩内では挙兵慎重論が持ち上がり、幕府改革計画は瓦解した。幕府はもちろん、かつての同胞・水戸藩士からも追われる立場となった鉄之介は薩摩藩による幕府制圧に参戦すべく京都へと向かうが苦難の逃避行が待っている。
  その後、薩摩藩などを頼って近畿・四国方面の各地を回ったが、受け入れられず水戸藩領へ戻り、文久元年7月9日(1861)に袋田村(現在の久慈郡大子町)に入り、知人の桜岡家にかくまわれた。しかしそこも危険が迫り、水戸藩領内を転々と潜伏した後、越後へと逃れたが、湯沢温泉(現在の岩船郡関川村)で遂に捕らえられた。水戸で投獄された後、江戸送りとなって、日本橋小伝馬町の牢において斬首された。享年39歳。維新後贈従四位が贈られた。
  写真 江戸城桜田御門のオープンセット(省略)






プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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