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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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わたしゃ立つ鳥 波に聞け  水戸の天狗に刃向かう奴は

 七

 われわれは北へ向かって前進を開始しました。おたがいに軍議を交わしているいとまもありませぬ。この時点においては、やはり敗軍の姿でござりました。
 どこへゆくのか、その先に何が待っているのか、一切知らなかったこと、千鳥のむれ以上でござりました。
「おい、僕たちはあれのそばについてゆこう」
 その中で、いい出したのは武田金次郎でござりました。例の二挺の駕籠のことであります。
「うん」
 と、私は同意しました。
 それはいまとなっては私たちの守護神となるものでしたが、ふしぎにそうとは考えなかった。
 実はこの一ト月ほどの間、その二人の女のことは絶えず頭の隅にひっかかっておった。それにいま、ふたたびめぐり逢うことができて、何だかほっとしたような感じがいたしたのであります。
 われわれは行進し、瓜連村で昼の兵粮をとり、午後、その北方の大宮村にはいろうとして、大砲を撃ちかけられました。それが木で作った百姓の大砲で、しかもこいつに味方の一人が戦死させられたのであります。
 われわれは百姓を追い散らし、その夜は村民のだれもいない大宮村に宿泊いたしました。
 二十四日。
 大宮村を発して、やがて大沢村にはいろうとして、峠からまた農民の狙撃を受け、ここでも一人負傷者が出ました。その夜は大沢村に泊まりましたが、これまた無人の村となっておりました。しかも全員宿泊できるにはほど遠い村で、ほとんどが野営の状態でござりました。
 二十五日。
 大沢村を出て北上中、またも山上から鉄砲を撃たれ、大子村の入口では、ここでも百姓が木砲三十挺をならべて撃ちかけて参りましたので、これも追い払って村にはいりましたが、ここでもまた一人戦死者を出しました。大子村でも野営同然と相成りました。
 つまり、これまでの三日間、われわれに抵抗して来たのは、みな農民ばかりだったのでござります。彼らがともかく木砲まで作って自衛態勢をとっていたのは、これまで常陸北方でゲリラ戦をやっていた田中隊の行為のためでござりました。彼らは、天狗党来たると聞いて、それだけでわれわれを敵視したのであります。
 この間、肝心の幕軍や奸党軍はどうしていたか。それが追尾して来ているのはわかっておりましたが、べつに攻撃はして来なかった。われわれの逃げ足が早くて、まだ向こうの態勢がととのわなかったということもありましょうが、たしかに及び腰といった気配でもありました。
「あれのおかげじゃな」
 と、山国兵部が、二挺の駕籠を見て、髯の中できゅっと笑いました。
 大子村は常陸北端に近い村で、那珂湊から二十里以上はあるでござりましょう。ここまでを私どもは、三日間で行軍して来たわけでござります。
 さて、かくのごとく、われわれを農民と戦わせるもとを作り、一方では敵の追撃をひるませたかに見える人質を残してくれた、あの田中愿蔵という男はどうなったか。
 当時私たちはまったく知りませんでしたが、彼はすでにこの世の人間ではなかったのでござります。
 のちに判明したことですが、あのとき別れた田中は、その足で助川城へ帰っていった。これは家老筋の山野辺|主水正《もんどのしよう》という人の小さな城ですが、これが戦乱のために城を出て右往左往している間に、その空巣にちゃっかり田中隊がはいり込んでいた。そして、愿蔵だけがあのとき水戸へ潜入していたのですが、また部下のジャンギリ組の待つ城へひき返した。
 しかし、そのすぐあとに幕軍がおし寄せて来たので、ジャンギリ組は逃げ出しました。
 そして、こんどこそ常陸西北端の八溝山に追いつめられ、山中で饑餓のため全滅状態になり、田中は山小屋で捕まったのです。これが十月三日のことで、私たちと別れてから、わずか六、七日後のことでござります。
 聞くところによると、彼は、包囲した代官所の捕手たちに、「ご苦労」と挨拶して笑ったが、それがあまりに若くて美しい青年であったので、それまで彼を鬼神のように思っていた人々はひどく意外に感じたという。
 田沼の命令が水戸から来て、彼が久慈川上流の塙下《はなわしも》河原で斬首されたのが十月十六日のことであったと申します。処刑されたときの態度は実にあっぱれなものだったそうですが、とにかく田中愿蔵は、殺されるために助川城へひき返したようなものでござります。しかし、それは彼の望むところであったでござりましょう。戒名は「精威猛勇信士」と申します。
 とにかく、はじめから攘夷を行なうには幕府を倒さねばならぬと明確に認識し、天狗党中もっとも激烈に戦ったこの天魔のような革命青年は、ここに燃えつきました。
 あとに残ったわれわれ敗残の天狗党の手に、美しい二人の人質を投げ捨てたまま。――
 さて、われわれは、明日どこへゆくのか、――その明日のことは、また明日お話しすることといたしましょう。

水戸の天狗に刃向かう奴は

  一

 那珂湊の砦を脱出した天狗党はどこへゆくのか。
 昨日、私は、元治元年十月二十五日、天狗党が常陸北辺の大子村へ逃げのびた事実まで申し述べました。
 われわれはここに宿営し、翌日になっても出発はひとまずとりやめました。何しろ三日間に二十里以上という急行軍なので、疲労困憊していたせいもあったのですが、また、敵がまだまとまって大挙追い討ちをかけて来る態勢にないらしいと判断したからでござります。それどころか、味方のうちの落ちこぼれや、潮来《いたこ》など湊以外の場所でゲリラ戦を展開していた連中がなお加わって来て、総勢はふたたび千余人に回復しておりました。
 大子村は久慈川上流の中心地ですが、何といってもものさびしい山中の村であります。村民はことごとく逃散しておりましたが、それでも千人は収容できず、半分は野営というありさまで、その状態で二十六日の午後、軍議をひらきました。
 われわれは、これよりいかがすべき。
 軍議は最初のうち、さすがに沈痛悲壮なものでありました。第一の論は、これからまず北方の奥羽にはいり反撃を計ろうというもので、これは筑波勢ならぬ山国兵部が唱え、筑波勢の多くが賛成しました。第二の論は、そんなことは事実上不可能だ、それよりここで、追撃して来る幕軍市川軍と最後の決戦をやり、はなばなしく全滅しようというもので、これは筑波勢の田丸稲之衛門が唱え、武田勢の多くが賛成しました。まあ、混乱状態といってよろしい。
 父耕雲斎は黙って聞いておりましたが、やがて、
「……ただ、賊名を負って死ぬのが残念で喃《のう》」
 と、つぶやきました。
 そのときに、藤田小四郎が顔をあげていい出したのでござります。
「いっそこのまま京へいったらどうじゃ?」
 みな、あっけにとられました。田丸稲之衛門が訊きました。
「なんのために?」
「われわれは義兵であることを天子さまに申しあげるために」
 と、小四郎は凜然と答えました。
「いうまでもなくわれわれは、攘夷の勅に応えて旗を挙げたものです。そのことを直接闕下に伏して奏上し、天下に明らかにしようではありませんか」
 みな、顔を見合わせました。あまりにも放胆な提案だからであります。
 しかし、だんだん一同の顔色がかがやいて参りました。なかんずく光に満ちて来たのは、父耕雲斎の眼でございました。
 この年、武田耕雲斎は六十一歳でござります。
 ……考えてみればえらいもので、四男の私が当時十五歳であったことはさきに申しあげましたが、私の下にまだ同腹の九歳と二歳の弟がありました。これはまだ幼いので、母とともに水戸に残し、そのために市川党に捕えられ、赤沼の牢に投げ込まれていたのでござります。同腹の、と申しますのは、やはりこの天狗党の戦いに加わっておりました長兄の彦右衛門、次兄の魁介とちがい、私は後妻の子でござりまして、母はまだ三十九歳でありました。ですから九歳や二歳の子供があったのですが、さらに父には、ほかに十七歳の妾さえあったのでござります。
 六十を越えて十代の妾を持つというのは、旧幕時代には決して珍しいことではない――とくに父のように、ともかくも大藩の家老職まで勤めた人間にはむしろ当たり前の慣習ではあったのですが、ただ父に関するかぎり、このことが、悲哀とともに、私にはいささか滑稽感を催させるのであります。
 悲哀とは、むろん父の妾となったために、あるいは幼くして父の子に生まれたために、彼らが受けることになった運命のいたましさを思ってのことですが、滑稽感は、あの父が、あの道徳の権化のような父が、と考えるからでござります。六十近くなって子供を生んだり、十代の妾を持ったりしてもおかしくはない、とはいうものの、あの父が、と思うと、やはりおかしい。
 父はまさに君子でありました。あとになって私は、武田耕雲斎は、押し出しも弁舌も堂々としているが、それにしても、異常に名分にこだわり、変てこなくらい威儀をつくろおうとするところがあった、という評のあることを知りました。たしかにその面はあったでありましょう。しかし、それだけにその日常、すること、いうこと、私にはまさに「大夫」にふさわしい父に思われました。当時十五歳の私には、父の子でありながら、雲煙のかなたに厳然と坐っている尊貴な老人に見えました。もっとも、押し出しのよさは昔どおりとはいうものの、六十を越えて、背は高いが鶴《つる》のように痩せ、顔のあばた[#「あばた」に傍点]がかすかに浮き出して、やはり老いの翳《かげ》は覆うべくもござりませなんだ。
 しかも、天狗党の戦いに加わって以来、父は急速に老け、その顔は愁いの雲につつまれているように見えました。
 それがただ戦塵の苦労ばかりではなく、賊軍という名を幕府からも奸党からも、そして水戸の民からも受けたことに対するやり切れなさから発していることは、私にも感じられました。
 藤田小四郎は、その父の悩みを見てとったようであります。
 こちらは、若いだけに颯爽としております。若いせいばかりでなく、もともとが人一倍颯爽とした人物なのです。
 きのう申しあげた私の縁戚《えんせき》の久木直次郎という人が、笑いながら私たちに話して聞かせてくれた話がある。
 久木が東湖先生と座談をやっていると、そのころ七つか八つの小四郎が庭にはいって来て、縁側に近づいて「お父さん」と呼んだ。
「いまね、面白いもの見たよ。あそこの杉の木の下で、蛇がね、雉を一羽グルグル巻いてるんだ。これはたいへんだ、助けてやろうとしてるとね、雉が二つ三つ羽ばたきしたんだ。するとね、蛇はバラバラに切れちまったよ」
 大まじめな顔でいうので、久木はほんとうかと思って、「どれどれ」と立ちかけた。すると東湖先生が吐き出すように、
「また親を馬鹿扱いにするか」
 と、叱りつけたので、やっとそれがホラ話だとわかった、ということです。こういう話はよくあったと見える。
 それからまた、同じころのべつの日に、東湖先生と酒を飲んでいて、先生が手を打った。奥さまが襖をあけて、「何ご用でございますか」というと、縁側で遊んでいた小四郎が、
「お母さん お手が鳴ったら 銚子とさとれ」
 と、唄い出してはねまわったので、東湖先生が、「親に向かって無礼なやつだ」と、鞭をとって追っかけたという話も聞きました。
 とにかく子供のころから、これほど眼から鼻へぬけるいたずら小僧であったのです。
 正直に申しまして、年齢のせいもあり、私など寒巌のような老父より、この小四郎のほうによほど親近感をいだいておりました。
 こういう奔放不羈《ふき》の少年が青年になって、独断専行で筑波山に攘夷の旗挙げをやった。小四郎としては彼なりの成算があったのです。長州の桂小五郎とも同時蜂起を打ち合わせていたという史料もある。攘夷は水戸がその密勅を受けているのみならず、その思想は日本じゅうを震動させている。ただ自分が火をつけるだけで、それは大爆発を起こすにちがいない。――
 これに対して、私の父武田耕雲斎は、もとより攘夷には共鳴するけれども、いましばらく時を待て、単独のはね上がりは成功しないのみならず、水戸を困難に陥れるばかりだ、それよりまず水戸の藩論を一つにする必要がある、水戸藩が藩として攘夷の運動を起こしてこそ、はじめてものになるのだ、という考えでありました。だから、最初は小四郎の運動を止めようとさえした。
 で、小四郎が筑波山に旗挙げをし、果たせるかなその余波で藩中の天狗派が謹慎を命じられたとき、その元老たる耕雲斎もそれに従って謹慎しておった。が、そのうち奸党の威たけだかぶりにたまりかねて、ついに一党をひきいて小金まで出かけましたが、それは出府して主君の慶篤公に働きかけるためで、決して藤田小四郎の行動に参加するためではなかった。……それがヒョンなまわりあわせで、とうとう筑波勢と運命を共にするのやむなきに至ったのです。
 だから、耕雲斎としては、同藩内の奸党にこそ対抗心は持っていたものの、幕府を敵とするなど思いもよらなかった。その意識が、松平大炊頭さまほど甚しくなかったにせよ、那珂湊の戦いぶりにもチラチラ現われて、筑波勢から不満の眼で見られていたほどなのであります。
 しかし、耕雲斎の危惧はあたって、ついに幕府からも藩からも、賊の名をもって呼ばれることになった。――
 小四郎としては、自分がまちがっていたとは思わないまでも、大義名分を第一とする耕雲斎という人間を知っているだけに、その老人を自分と同じ運命にひきずり込むことになったのは、何とも気の毒だ、という思いがあったのでしょう。
「上洛して天子さまに、われわれの志を聴いていただく」
 という破天荒な着想は、彼自身のためというより、耕雲斎のためにきざしたに相違ない。
「それに、慶喜さまも禁裏守衛総督として京におわすのだ」
 と、小四郎はさけびました。
「おう、そうじゃ、慶喜さまがおわす!」
 鸚鵡《おうむ》返しに耕雲斎もうなずきました。
 天子さまに何とかする、と聞いたときはやや唖然《あぜん》としていためんめんも、これには納得のいったどよめきをあげました。
 慶喜さまは、主君慶篤公の弟君でござります。七男でおわすため、一橋家に養子にゆかれましたが、父斉昭公のご英邁の血をもっともたしかに享《う》けられたお方として、水戸家を離れられてからも、水戸の侍たち、とくに天狗派の希望の星でござりました。
 水戸から離れられた――どころではない。おととし慶喜公が上洛されたとき、わざわざ実家たる水戸家の耕雲斎をお名ざしで、耕雲斎以下天狗党の侍たちを護衛兵として借りられたというほどご信頼を受けていたのであります。
 ……ちなみにいえば、この上洛の折り、耕雲斎は天子さまにご陪食を仰せつかり、そのとき天皇さまお召し上がりのお箸を頂戴したのを、以来奉書紙につつんで家宝とし、げんにこの陣中にも、守り神のごとく捧持しておりました。
「京へ!」
 と、田丸稲之衛門が大声でいい、しかし、すぐに、
「ここから、どうして京へゆく?」
 と、問い返し、これには才気煥発の藤田小四郎も、はたと困惑した顔になりました。

     二

 田丸稲之衛門は、水戸町奉行をやっていたのを、筑波勢の頭領になってくれないかと頼まれ、安全な地位を捨ててたちどころに受けてくれた快男児でござります。快男児といっても、もう五十九、色の黒いふとっちょで、なんと歯はもう一本か二本しかない、しかも眉も眼じりも下がって、実に愉快な面相の老人でありました。そのくせ、何ともいいようのない活気が全身にあふれているのです。
 しかし、さすが陽気な彼も、フガフガ声で、ここからどうして京へゆく、という疑問を提出せずにはいられなかった、と見えます。
 それも道理、水戸から京にゆくには、むろん江戸へ出て東海道を上るのですが、むろんこの場合、江戸はおろか水戸へもひき返すことは出来ないのです。この常陸と磐城の国境近い山の中から、どこを通って京へ上るのか?
「なあに、地面つづきである以上、西へ西へと歩いてゆけば、そのうち京へゆけるわい」
 と笑ったのは、山国兵部でありました。
「ちがいない!」
 と、全海入道が手を打ち、みな哄笑《こうしよう》しました。
 山国兵部は、実に田丸稲之衛門の兄でありました。もともと水戸藩の兵学師範でしたが、さきに申した松平大炊頭さまの軍師役につけられて、大炊頭さまご降伏のとき、それと行を共にせず、武田軍に参加した人ですが、このとし七十一歳という大変なご老人で、その髪の毛はおろか眉もない。ただし血色はよく、これまた実に元気がいい。
「しかし、いまに幕軍や市川党が追撃して来るでしょう」
 と、訊いたのは、私の長兄の彦右衛門でござります。
「そりゃ、追っ払うよりほかはない。それに……例の人質がある」
 兵部は、きゅっと口をすぼめて笑いました。この老人は、すでにここへ来る途中、その手で追撃隊の先鋒を撃退したのであります。
 次に尋ねたのは、私の次兄の魁介でござります。
「途中の国々は? 諸藩が黙って通しますか」
「それじゃがな。諸藩といっても、東海道とちがって大藩はない。とにかくこちらは、千人もの比較的大軍となっておる。おまけに大砲までひきずっておる。これが決死の勢いで通過すれば突破できぬことはあるまい。その軍略は、はばかりながらこの兵部にまかせてくれい」
 と、兵部老人は、木の瘤《こぶ》みたいなこぶしで胸をどんどんとたたいて見せました。
「天狗党上洛! 天狗党上洛!」
 全海入道が吼えて、起ちあがり、耕雲斎に訊きました。
「このこと、みなに告げてよろしゅうござりますか?」
「よかろう」
 全海は、棒をかかえて飛び出してゆきました。
 すぐに、村じゅうのあちこちから、どっと喚声があがり、波濤のようにひろがってゆきました。戦い、敗れ、目途を失い、意気銷沈をまぬがれなかった兵たちは、上洛して天子に志を述べるという天来の着想に、起死回生の思いをなしたのでござります。
 つまり、後々まで沿道の語り草ともなったいわゆる天狗行列は、この大子の村まで追いつめられて、はじめてきまったことなのでござります。
 この軍議は、無人の村の庄屋らしい家の大きな囲炉裏を切った座敷で行なわれました。火はあかあかと燃えておりました。十月二十六日、というのはむろん旧暦でござりますから、あとで調べましたところ、今の暦では十一月二十五日に相成ります。火を焚くのも当然でござります。
 この季節に、京に向かって幾山河を越えてゆく怖ろしさを――追って来る敵や、迎え撃つ敵よりも、もっと私たちを苦しめた寒気の辛さを、しかしそのときにおいては、私どもはよく考えなかったのでござります。
 また考えたとて、どうなりましょう。私たちは、京へゆくよりほかはなかったのです。私と武田金次郎と野村丑之助は、その隣り座敷に坐って、この天狗党の幹部連の軍議を眺めておりました。
 私たちの背後には、二挺の駕籠がそのまま置かれて、中にいま山国兵部がいった敵の人質が二人はいっておりました。私たちは、その人質の世話と護衛を命じられていたのでありました。
 ここで武田軍筑波勢が合流したということもあって、これから先の進軍にそなえて新しい部隊編制が行なわれました。

 総大将  武田耕雲斎
 補  佐  武田彦右衛門
 大軍師  山国兵部
 本 陣  田丸稲之衛門
 補  翼  藤田小四郎
        竹内百太郎
 竜勇隊隊長 畑弥平
 虎勇隊隊長 三橋金六
 天勇隊隊長 須藤敬之進
 義勇隊隊長 朝倉弾正
 正武隊隊長 井田因幡
 奇兵隊隊長 武田魁介

 それから、軍規も定められました。
    軍令状
 一、無罪の人民をみだりに手負わせ殺害いたし候事。
 一、民家へ立ち入り財産を掠《かす》め候事。
 一、婦女子をみだりに近づけ候事。
 一、田畑作物を荒し候事。
 一、将長の令を待たず自己不法の挙動をいたし候事。
 右制禁の条々、相犯すにおいては断頭に行なうもの也。

 「軍律違反の者は斬れ。容赦なく斬ってしまえ!」
 と、藤田小四郎は各部隊長に命じました。これは田中愿蔵による天狗党の悪名によほど懲りたせいもあったでしょうが、まさに秋霜烈日の印象があって、見ていた私たちも粛然としたほどでありました。
 しかし、同時にそれは武者ぶるいでもありました。いま私は、京へゆくよりほかはなかった、と申しましたが、むろん主観的には、希望とよろこびのみがあったのです。京都には、いままで私たちが戦って来た意味の源泉たる天皇がおわし、この敗走を一挙に逆転させる魔法の力がある、と信じました。そこへゆく懸軍万里の道は、まぶしいまでの栄光の道に感じられました。
「京まで何里あるのですか?」
 丑之助がそっと尋ねました。
「わからん」
 と、私は首をふりました。
「何百里あってもゆくんだ」
「また帰って来れるのでしょうか?」
 心細げな丑之助の声に、私は腹をたてました。
「そんな心配をするなら、お前ここから帰れ」
「お前、おふくろが気になるんだな」
 と、金次郎が顔をのぞきこみました。丑之助は頬を真っ赤にしましたが、私のほうをにらみつけました。
「ぼくは帰りませんよ、ぼくはみんなといっしょにどこまでもゆきます」
「丑之助、われわれは帰って来るよ」
 金次郎は、やさしく、また元気よくいいました。
「必ず帰って来る。そして、きっと奸党の連中をたたきつぶしてやる」
 しかし、そのあとで金次郎はちらっと二挺の駕籠のほうをふり返り、声をひそめて申しました。
「源五郎。……京都まで、あれも連れてゆくんだろうか?」
「さあ?」
 私も吐胸をつかれました。
 上洛する、ということもその日はじめてきまったことだから、人質を京都へ連れてゆくなどということは考えてみたこともなかった。
 まぶしいまでの栄光の道、といっても、それが物見遊山の旅ではあり得ないことは、私といえども承知しておりました。その行軍にあの女性二人を従わせるということは少しひどい、と思いました。しかし、さればとてそれをここに捨ててゆくというのは――人質を放棄するという不利はさておいて――なぜか、たえがたいさびしさを私は感じたのでござります。(つづく)


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わたしゃ立つ鳥 波に聞け

     四

 むろん、以上、そっくりに、丑之助が語ったわけではござりませぬ。申すまでもなく、のちになって私の想像を加えたなりゆきでござりまするが、まず実際にほとんどまちがいはなかろうと存じます。
 あどけない、といってもいい十二の丑之助の話に、しかし金次郎はあきらかに感動しておりました。
 彼はなんども、遠くうしろからついて来る二人の女をふり返りました。
「それじゃあ、あの女たちは、だまされて来たんじゃない。自分の意志で来たんだ」
 と、つぶやきました。
 それからまたふり返って、女たちのそのまたうしろからやって来る雲水姿を眺め、
「しかし、このまま那珂湊へゆくのかね」
 と、不安そうに申しました。
「どうして?」
「田中さんもいっしょだぜ」
「あ。――」
 私も気がつきました。田中愿蔵が味方から総スカンを食っているのをはじめて思い出したのでござります。
 田中が田沼の妾をさらう、といい出したときは、さらった人間をどこへ連れてゆくか、といったことまで私たちはよく考えておりませんでした。ただ、田中が自分たちに逢う前からその誘拐を企図していたらしいので、おそらく田中隊がいるという助川城へ連れてゆくのだろう、と、漠然と考えておりました。
 しかし、いま、この奇妙な行列は、なるほど私たちの先導のもとに、那珂湊へ歩いてゆきます。
「とにかく那珂湊へゆくとして」
 と、金次郎はつづけました。
「あの二人は、どうなるだろう?」
「さあ?」
 私は、そのとき別の心配にとらえられていました。
「おい、こういうことをやった以上、父上も僕たちの水戸ゆきを叱られることはあるまいなあ? 大手柄だと、ほめてくださるだろうなあ?」
「さあ?」
 こんどは金次郎が首をひねりました。
「お祖父さまのことだから、女などさらって来て何じゃ、と、やっぱり大眼玉をくらうかもしれないぜ」
 実際、そういう怖れもある父の耕雲斎でござりました。
 もういちどふり返ると、二人の女は――いや、ここらあたりまで来ればもう安心と思ったのか、田中愿蔵とおゆんは二人ならんで、何か話しながら歩いて来ます。それと、こちらとのまんなかあたりを、お登世はひとりでトボトボ歩いて来ます。
 おゆんという人は、むろん私たちははじめて見たのですが、お登世のほうは、対立する市川の娘ですが、なんといっても同じ藩のことですから、いままで何度も見たことがあります。十五の私にも、あの剛腹な三左衛門に、どうしてあんな娘が生まれたのだろう、と首をひねったほど、やさしくきれいな顔だちの娘でござりました。それが私より二つ年上だ、ということまで知っておりました。つまり金次郎と同年の十七歳ということになります。
 なぜか私は、愿蔵とおゆんがもとの「色おんな」云々の仲をここでむき出しにして、平気なようすをしているのに怒りをおぼえ、いかにしてかまんまと連れ出された市川の娘に哀れをおぼえました。最初その二人を見たときの、「――やった!」という躍りあがるような感情が消えているのがふしぎでござりました。
「あれほどの恨みを受けている田沼や市川の身寄りの女が、とうてい無事にすむとは思われんが。……」
 と、金次郎は申しました。
「おれだって、にくいよ!」
 と、私は、いま市川の娘に感じた哀れみを見ぬかれたように思い、あわててさけびました。
「おれだって、あいつら、ただでおきたくない!」
「いかん!」
 金次郎は首をふりました。
「それはいかん。さっきあの田沼の妾がいったことを聞いていたか。二人が人質になれば内輪喧嘩をやめるきっかけになりはしないか、と、二人とも承知で出て来たといってたじゃないか。市川の娘も、そう覚悟してのことなんだ。そう覚悟して自分から飛び込んで来た鳥をいじめるのは、これは卑怯というものだ」
 あまりのけんまくに、私はびっくりして黙ってしまいました。
「……ぼくは、わるいことをしたのでしょうか?」
 しばらくいってから、丑之助がぽつんとつぶやきました。
 金次郎はあわてました。
「いや、わるくなんかない。お前は大手柄だ。きっと田丸さまも、出かした丑之助とおほめになるよ」
「ぼくは。……」
 茸《きのこ》のお化けみたいな大きな笠の下で、丑之助は溜息をつきました。
「ほんとをいうとね、あんなことをするより……いちどだけでいいから、やっぱりおふくろに逢って来たかった」
 私たちは別として、彼は逢えば逢える母親に、ついに逢わずじまいで那珂湊へ帰ってゆくのです。
「おいっ」
 ゆくてに、大入道が現われました。
「無事に帰って来たか。心配しておったぞ」
 全海入道でござりました。気がつくと、そこは、けさ別れた水車小屋に近い場所でござりました。
「赤沼牢へ近づけたか。家族に逢えたか」
「いや」
 金次郎と私は首をふり、そのほうへ駈け出しました。
「その代わり、田沼総督の妾と、市川の娘をさらって来た」
「なんだと?」
 全海は大眼玉をむいてゆくてを眺め、
「やあ。……あれはだれだ」
 と、さけびました。女二人に対してはむろんのこと、雲水姿の男にもただならぬ直感をおぼえたらしい。
「田中さんです。田中さんがやったんです」
 みなまで聞かず不動院全海は走り出し、お登世をのぞきこみ、さらに走って、雲水とおゆんの前に立ちふさがり、
「ほんとうだ!」
 と、大声をあげました。
「そうだ、田中愿蔵だ」
 と、雲水は笑いながら答えました。
「それから、あんた、坊主のくせにさかんに紀州屋に出入りしてたから、おゆんも知っておるわなあ。……」
「貴公、この二人の女を、どういうつもりで。――」
「那珂湊の藤田への土産だよ」
「土産? すると貴公は、湊の天狗党に加わろうというのか。そりゃいかん! そりゃ駄目だ!」
 全海入道は顔をのびちぢみさせて、手をふりました。
「これは何とも、信じられんほどの土産じゃが、しかし貴公はいかん。田中愿蔵の悪名はあまりにも高すぎる。湊じゃ、とうてい貴公を受けいれる空気じゃない!」
「おれが湊へはいるとは、だれもいっていない」
 と、愿蔵は申しました。
「土産だけ渡して、玄関口で帰るということもあるんだ。おれの部下は助川城で待っている。――おれはそこへゆくからな、とは、もうおゆんにもいってある。おれは間もなく死ぬだろうから、この二人をたねに敵ととりひきしているひまはない」
 全海だけでなく、私たちも口をポカンとあけておりました。
「これは藤田への贈り物なんだ。小四郎がどう扱うかはあれの勝手だが、しかし何かと役には立つと思う」
「こりゃ、どういうつもりだ?」
 全海はいよいよ昏迷した眼で、おゆんの顔を見やりました。私たちも、田中という人の心理がさっぱりわけがわからなくなりました。
「では、おゆんさん――いや、二人とも」
 田中愿蔵は、ちょっと頭を下げました。
「二人とも無事であることを祈る」
「ちょっと待ってください」
 と、突然、おゆんが呼びかけました。
「あなたは、わたしがどういうわけでここへ来たかご存知?」
 田中はけげんそうにふり返りました。おゆんの眼は、にっと笑っていました。
「あなたは、わたしがあなたに惚れているから、あなたのいうことは何でも犬のように聞く、と思っているんでしょう。そうじゃあないんです」
「なに?」
「わたしにはわたしの考えがあるんです。あなたはあなた、わたしはわたし。……それじゃあ、あなたは好きなようにお死になさい」
 田中愿蔵は、見えない棒か何かで殴られたような顔をしました。
 この女の別れの挨拶を、私たちは、意外、不可解の思いで聞きながら、同時に、白い秋の日に照らされて立ったそのお高祖頭巾の姿を、なぜか世にも怖ろしいものに感じたのでござります。

     五

 田中愿蔵は、狐につままれたような表情で立ち去りました。
 ともあれ、これで二人の人質のゆくさきがきまったわけでござります。
 那珂湊へ連れて来た以上、私はてっきり武田軍のところへ同行するものと考えておりましたが、田中が藤田軍へと依頼し、またこの誘拐の実行者は筑波勢の野村丑之助なのですから、そうするのが当然であります。
 もっとも、無理に武田軍へ連れてゆくといえばできたでしょうが、この二人の女を父のところへ伴うのは、何だがおっかない感じもした。大手柄だ、と、よろこんでくれるかもしれないが、女をさらって来て人質にするなどということは、武士の風上にもおけない、と叱られそうな気もした。
 父耕雲斎には、そういうところがあったのでござります。
 また、不動院全海という坊さまが洒落な人で――全海も私と同様なことを考えたのか、あるいは人質にとった以上、どっちだって同じだ、と判断したのか――べつに異も唱えず、二人の女を筑波勢のほうへ連行することになりました。
 前に申しあげたように、実は武田軍は筑波勢にまだ拒否感をいだいておりましたが、私たちと全海さんは、その中では例外的にそういう感情が比較的薄かったせいもござりましょう。
 筑波勢の陣営へいそぎながら、金次郎は丑之助に申しておりました。
「丑之助、お前、責任をもって人質を守るのだぞ」
 彼はなんども丑之助にそう念を押しました。
 筑波勢の陣営は、館山に劣らず惨澹たるものでござりました。ただ、ここも館山同様、その日わりに静かであったのは、敵味方ともに大炊頭の離脱事件に気をとられていたせいでありましょう。
 思いがけない一行を迎えて、本陣の総帥《そうすい》田丸稲之衛門と藤田小四郎が驚愕したことはいうまでもござりませぬ。とくに、おゆんに対し、小四郎はまるで幽霊でも見るような眼つきをしました。
 金次郎は、いままでのいきさつを説明したあと、
「田中さんは、藤田さんへのお土産だ、といいました。それでこちらへ連れて来たんです」
 と、申しました。
「それに、丑之助からお聞きになればわかると思いますが、あの女のひとたちは、どちらも進んで自分から人質になるつもりで出て来たんです」
「なぜじゃ」
 と、田丸稲之衛門が、しゃがれた声で訊《き》きました。
「この殺し合いをやめるきっかけになるだろうと。――」
 その陣営にならんだほかの天狗党のめんめんの眼が――とくに市川三左衛門の娘に、殺気に燃えてそそがれている中で、金次郎は頬《ほお》をあかくして申しました。
 二人の女は、むろんお高祖頭巾をとっていました。
 市川三左衛門の娘お登世、これは私たちも以前から知っておりましたが、ちょっと見ない間に、私から見ると、もう大人になったようで、しかもまるで白蝋《はくろう》を刻んだような美しさでありました。
 もう一方の、田沼総督の妾のおゆん。――田中愿蔵の「色おんな」でもあったそうですが、これははじめてその顔を見たわけでござります。
 身なりはまったく町娘の風に見えました。いえ、たしかに府中の女郎屋の養女らしく、どこか自堕落な感じがするのです。そのくせ、少年の私でさえ眼がクラクラするような、何と申しますか、さよう、豪奢《ごうしや》な感じがあるのです。
 藤田小四郎は、黙って立っておりました。色は白いが、俊爽《しゆんそう》――俊爽というより精悍な小四郎に、いまから思うと、異様な、怖れに近い何かを感じました。
 それに対して、おゆんの眼には、何やらからかうようなうす笑いの翳《かげ》があるのを見て、私は奇怪としかいいようのない印象に打たれたのでござります。
「よし、わかった!」
 大声でさけんだのは、水戸藩軍学師範の山国兵部という老人でござりました。
「心配するな、天狗党はその名にかけて、女には手を出さぬよ、なあ、小四郎?」
 と、笑って申しました。
「そもそも兵法のうえからも、大事な人質に危害を加えるなんぞ、下策の極じゃ、山国兵部、責任をもって人質は保護する、安心せい!」
 それから、その座にあった幹部連を見まわしていいました。
「ま、馬鹿者を出さぬために、ここにおる者以外には、人質の正体は秘密としよう」
 ――館山の陣にも、那珂湊の陣にも、この戦争には珍しい矢が数十本射込まれたのは、その夜のことでござります。
 矢文でござりました。そこに書かれた文字はみな同じで、
「赤沼牢を血の沼とするもせざるも、一に天狗党の覚悟にあり」
 と、いうのです。
 余人には、何のことかわからなかったでありましょう。
 ただ、金次郎と私から、昼間の途方もない冒険とその成果について報告を受けたとき、叱りもせず、褒めもせず、何とも判断を絶した顔をしていた父耕雲斎は、この矢文を見てつぶやきました。
「人質の女二人を殺せば、赤沼牢のこちらの家族はみな殺しだぞ、という威嚇じゃな。人質がこっちに来たことを、やっとつきとめたと見える」

     六

 右の事件が九月二十七日のことでござりまするが、それから十日ばかり、戦線は静かでござりました。
 大炊頭さまの離脱は残念だが、しかし同行者は三十五人の近臣だけで、大発勢の兵力そのものに変化が起こったわけではない。
 私はてっきり、あの人質のために、田沼総督や市川三左衛門の手が縛られたものと考えました。
 しかし、別の解釈をした者もありました。それが右の大発勢で、つまり大炊頭さまといっしょに来た水戸家の家老榊原新左衛門とその兵たちでござります。
 彼らは、人質のことは知らなかった。ただ、離脱した大炊頭さまが、江戸へゆくことは許されず水戸へひき戻されたことは聞いていたと思います。
 そのあとのことは知らない。
 大炊頭さまが水戸でどんな運命に逢われたか、その当座は私どもも知らなかったのでござります。
 そこで何ともいいようのない悲劇――いや、悲劇も二度目になると喜劇になると申しますが、むしろ惨劇ともいうべき事態が起こったのでござります。
 大発勢は千人ほどでしたが、榊原新左衛門以下、自分たちは何も水戸藩の佐幕派と戦う目的で来たのではない。いわんや幕軍を敵にするなど予想もしていなかったところだ。天狗党と同類視されるのは心外である、という意識は大炊頭さまと同様でござりました。
 ですから、大炊頭さまが、その真意を幕府に訴えるといって離脱されたあと、榊原もその首尾を首を長くして待っていたわけでござります。
 彼にしてみれば、たとえ大炊頭さまが水戸へひき戻されても、それでこちらの真意が田沼総督に通じて必ず吉報が来るはずだ、と信じ切っておりました。まさかその大炊頭さまが水戸でバッサリという目に逢われたとは想像もしない。
 だから、十日ほどの攻囲軍の沈黙を、実は右の期待に添うものと楽観的に考えていた。
 ところが、敵の攻勢がやがてまた再開された。大砲をつらねての猛砲撃で、しかもそれは主として大発勢に向けられたから、愕然《がくぜん》となりました。
 私たちでさえ、はてな、田沼や市川は人質をかえりみないのか、と、首をひねったくらいでござります。
 そして、十月二十日ごろになって、榊原のところへひそかに打診する者があった。「君が心ならずも天狗党に巻き込まれたことはよくわかっておる。何とかして君以下千人の大発勢だけは助けたいと念願している」それが、水戸藩では中立派の久木直次郎でござりました。
 以前佐幕派の結城寅寿を上意討ちした久木直次郎ですが、その後の天狗党の過激な行動には眉《まゆ》をひそめ、この当時久木は中立派になっていたのですが、それがこう説いた。
「ただしかし、こうなった以上、君にも責任はある。大発勢が助命された暁は、君は水戸から離れて北海道の開拓にでもゆかないか。市川はそれも許さないといきまくかもしれないが、私も君と運命を共にすることを条件に話してみる」
 さて、これがはじめから一杯食わせるための謀略なら知らず、久木直次郎は本気でこういう話を持ち出したから、榊原もひっかかった。これを承知するどころか、
「もしそういうことにしていただけるなら、こっちも幕軍と呼応して天狗勢を攻撃しよう」
 と、さえいった。完全な裏切りでござります。
 それで榊原新左衛門が命惜しさに裏切った卑怯者であったかというと、彼にいわせれば、そもそもはじめから自分たちは天狗党と同一ではない、と、それがいいたくてこの談判に応じたくらいなのです。にもかかわらずこの不本意ないくさに千人の部下を巻き込んでしまった。
 自分の命はともあれ、この部下たちを救いたいという望みだけで動いたらしいので、どうも人間とは、そう簡単に善玉、悪玉では割り切れないものです。実際に榊原は、判断力も穏当で、責任感もあり、よくできた人柄であったといいます。
 ただし、久木はともかく、その相談を受けた田沼玄蕃頭は、承諾したような顔をしていて、これははじめから、大炊頭同様、とにかく榊原を降伏させたら全部|誅戮《ちゆうりく》するつもりでした。柳の下の二匹のどじょうをすくう気であったのを看破しなかったのは、やはり愚かとしかいいようがない。
 だから、大発勢が右の所業をやって降参したあと、それまで幕軍に敵対した罪はまぬがれないとして牢にぶち込まれ、やがて榊原新左衛門以下四十三人の幹部は死罪、あとの兵卒たちも牢死するもの数百人に及ぶという始末になりました。これはもう悲喜劇を超えて、人間同士の約束というものがこの世にはあり得ないかに思われる、動物的惨劇というしかありませぬ。
 さて、こういうわけで、十月二十三日未明、幕軍を那珂湊におびきいれ、大発勢は、戈をさかしまにして天狗党に襲いかかる手筈になりました。
 ――大炊頭さまのときはまったくわかりませんでしたが、実は榊原のときのこの密約は、すでに二十二日の夜にこちらにわかったのです。大発勢の中にも、この降伏に反対者はありましたから、それが急報してくれたのでござりました。
 榊原新左衛門にも同情すべき点はある、など申しますのは、三十余年後のいまだからいえることで、そのときの私どもの驚き、悲憤はいかばかりか、思い出しても胸が煮えくり返るようでござります。全海入道など、「いまただちに大発勢に斬り込んで、榊原の首打ち取って参りましょう」と駈け出そうとして、父耕雲斎にとめられたほどでござります。
 ついに一つの終局のときが到来しました。
 そもそも那珂湊勢は、敵六万に対して総勢三千と称していたのですが、そのうちの千人が裏切ったとあっては、万事休す。
 全滅か、降伏か。
 父耕雲斎の決断により、筑波勢と連絡のうえ、この敵の動きが始まる前に、前線に出ている小部隊などを呼び集め、那珂湊から撤退にとりかかったのは、十月二十二日から二十三日へ越えた夜半でござります。
 闇夜の中の行動で、さいわい敵に感づかれず、午前十時ごろ、那珂湊の西北約五、六里の南酒出というところまで来たとき、前方に待ち受けていた筑波勢に合流しました。
 藤田小四郎の顔も見えました。田丸稲之衛門の顔も見えました。野村丑之助の顔も見えました。
 そして、その中に二挺の駕籠も見えたのでござります。
「あれです」
 と丑之助がささやきました。
「ぼく、ずっとあれを守って来ましたよ」
 二人の人質の女だ、ということはすぐに了解されました。
 あとで聞いたところによりますと、あれ以来一ト月、丑之助はほとんど二人のそばを離れず、彼女たちを守るとともに、彼女たちの日常の用事をきいていてやったらしい。
 いっときはわが武田軍も筑波勢も、それぞれ千人を上回るくらいの人数に達したこともあるのですが、数ヵ月にわたるいくさで、戦死者、病死者、捕虜、脱走者が出たうえに、なにしろ闇夜の脱出ですから相当な落ちこぼれがあって、いま勘定してみると、双方合わせても八百余名しかなかった。
 ともかくもこれだけが無事脱出してここで落ち合ったことを、しかし手に手をとってよろこび合ういとまもありませぬ。ようやく敵も気がついて追撃を開始し、その先鋒《せんぽう》の兵は早くも南方にチラチラ姿を現わしておりました。
「待て、だれか立て札を作ってくれい」
 と、兵学指南の山国兵部が命じました。
 そして、だれか急造した荒けずりの大立て札に、兵部は矢立ての筆で、
「花籠を血の籠とするもせざるも、一に奸党の覚悟にあり」
 と、墨痕淋漓として書き、それを道のまん中に突き立てさせました。
 いうまでもなくさきごろの敵の威嚇のお返しで、人質をもってこんどは敵を威嚇したものでござります。
 むろん味方の大半の者には何のことか意味はわからなかったでしょう。わかった者も、だからといってこれで敵の追跡がやむという安心感は持たなかったでしょう。
 ともかくも敗走に相違はありませぬ。砂塵の中になお騒然として混乱している天狗勢を鎮めたのは、そのとき朗々とうたい出した不動院全海の唄声でござりました。
「潮どきいつかと
 千鳥に聞けば
 わたしゃ立つ鳥
 波に聞け」
 それは大洗の磯節でござりました。みな、どっと笑い出しました。(つづく)

わたしゃ立つ鳥 波に聞け

   一

 奸党とは、いうまでもなく水戸藩の中の佐幕党のことでござります。
 これは私ども天狗党がいい出した言葉ではない。斉昭公みずからそう呼ばれたので、当時われわれもそういっておりましたし、いまでも水戸ではそう呼んでおります。
 しかし形容として「奸」ときめつけてしまえば公平を欠くと思われますので、私はいままでなるべく佐幕党と呼んで参りました。ただ、長年の癖として、ヒョイ、ヒョイと、奸党という名がいままで出て来たかもしれませぬし、これからも出るかもしれませぬが、どうぞお聞き流し願いとうござりまする。
 ここで、水戸の奸党なるものについて、ちょっとご説明申しあげたい。
 ただいま私、公平という言葉を持ち出しましたが、ともかく奸党について論ずるのに、公平という言葉を使うには、三十年の歳月を要しました。いや、三十年たったいまでも水戸では使えないでしょう。
 これでも私、長年判事という職を奉じて参りまして、原告に言い分があるように被告にも言い分があるということを認める習性を体しましたから、この事例についてもこの見方を適用してみようと努力したのでござります。しかしほんとうに公平に考慮できるやいなや、われながら心もとないところもござりまする。
 水戸における尊皇派と佐幕派の思想的な確執の歴史は古いものでござります。その根源は黄門さまにあるとはじめに申しあげたとおりでござりますが、これが先代斉昭公に至って、思想のみならず行動のうえでも、ついに分裂抗争する羽目に相なりました。
 斉昭公が攘夷を鼓吹され、幕府に進言され、一方藩においてもその事態に備えるためさまざまな革新政治をやりはじめられた。この心酔者群がつまり天狗党であり、この反対者群が斉昭公のいわゆる奸党でござります。
 ご自分の政策に賛成しないやつを、同じ家臣でありながら奸の字をつけて呼ぶとは、いかにも大天狗たる斉昭公ならではの傍若無人さで、そもそも、その奸党のめんめんが、最初に斉昭公が水戸家をつがれるときに反対したのも、そういう斉昭公の猛烈な個性を危険視したからでござりましょう。最初からの反対者であったから、以後斉昭公もこの派に好感を持たれるはずがなく、さればこそ奸党呼ばわりをなされた。
 むろん奸党がみずから奸党と称するわけはなく、「諸生派」と称しました。藩士大勢派というほどのつもりであったのでしょう。しかし実際は、昔から上級の家柄の者が多かった。保守の体質を持っていたのは当然でござります。
 彼らにいわせれば、ご三家の一つたる水戸家が、何の必要があって幕府の困る攘夷論などをさけびたてるのか、静粛にしておれば水戸はそのまま安泰であるものを、何の異常発作を起こしてきちがいじみた騒ぎを起こすのか、と、不審でもあれば、腹立たしくもあったでしょう。このままほうっておけば、水戸家そのものさえ滅亡するおそれがある、と恐怖したに相違ありませぬ。
 実際は、たとえ水戸家が静粛にしていても、彼らの安泰は保持できなかった。頼みとする徳川幕府という柱にはひびがはいっていたのであり、いずれ倒壊のときを迎える運命は迫っていたのであり、斉昭公は知らずしてその柱をゆさぶるという歴史的役割を果たされていたのですが、当時においては、そういう歴史の流れはわからない。保守派にはいよいよわからない。
 とはいえ、ともかく斉昭公がご当主である上に、その参謀が傑物藤田東湖でござりますから、彼らとしても当面は頭を低く下げて過ごさざるを得なかった。
 しかるに、ここに佐幕派に一人のホープが出現して参った。結城寅寿と申し、名門の出で、東湖より十二歳年下でありながら充分拮抗し、斉昭公でさえ一目も二目もおかれざるを得ない知力と胆力と政治力を持った人物で、しかも堂々たる美男でありました。これを首領として、保守派はみるみる力を回復しました。
 両派の権力闘争は、いよいよ熾烈に内攻しました。一面、一種の均衡を保っていたともいえます。ところが、突如安政二年の大地震で、一方の実力者東湖がこの世から消えてしまいました。
 それが結城寅寿の倖いとなったかというと、逆の目に出たのであります。
 東湖の横死を聞いて、寅寿自身、
「これでおれは殺される」
 と、さけんだそうですが、それは政敵が東湖なればこそ、いかに自分を憎んでも暗殺などというむちゃなことはやるまいが、その東湖が失せたあとになっては、もう自分の安全は保障できない、ということを予感したさけびであったと思われます。
 果たせるかな、それから半年後、結城寅寿は「君臣の大義に叛き」という漠然たる罪名をもって上意討ちになり、その関係者もみな処分されました。寅寿はわずか三十二歳の若さでござりました。
 斉昭公が、東湖なき天狗派と均衡をとるために、その抹殺を命じられたのです。
 寅寿を斬ったのは、東湖の妹の一人を妻とした目付久木直次郎という人であります。ちなみに申しますれば、私の長兄彦右衛門の妻、すなわち金次郎の母は、この久木の妻と姉妹にあたります。
 当時私は七歳でありましたが、その久木がうちへ来て、
「寅寿が、執政まで承った拙者を、ただ一度のご糺明もなく……と、抗議するのをかまわずに斬ったが、最後に、天狗党にたたるぞ! と、わめいたのが耳について離れぬ。……」
 と、水を浴びたような顔色で父に語ったのを憶えております。言葉はちがうかもしれませぬが、たしかにそういう意味でありました。父も寝覚めのよくない顔をしておりました。
 とにかく内争はここに重大な血のたねをまいたのでござります。結城寅寿の名は、天狗派には妖、保守派には惨の印象をもって刻印されました。
 それ以来水戸は、斉昭公が井伊大老と大衝突をして蟄居を命じられたり、京から攘夷の密勅を受けたり、それを幕府からさし出せという命令に対して抵抗運動が起こったり、さらに血盟した水戸藩士天狗派による桜田の変が勃発したり、天下を震撼させるような大事件を相ついで起こすにいたりました。諸生派から見れば、それ見たことか、と、いいたいところであったでござりましょう。
 そして、ついに斉昭公はお亡くなりになりました。
 地に伏していた諸生派は頭を持ちあげました。もともとが昔から代々家柄の者が多い派でござりますから、その力はなかなかしぶといものがあったのでござります。
 斉昭公のあとをつがれた慶篤公に、彼らは、天狗派こそ先年来水戸を動乱の渦に巻き込んでいる元凶であると訴えました。これに対して天狗派は、先代以来の政策の推進こそ、水戸藩の至上の使命であると訴えました。
 この慶篤公が、さきに申したとおりのフラフラ型でありまするから、そのたびに、両派の一方を登用したかと思うとまた罷免される、などいうことを繰り返しました。
 その春、藤田小四郎が水戸藩を離れてついに筑波山で旗挙げをしたのは、この収拾つかぬ泥沼のような内部抗争に、ごうを煮やしたこともあったのでござります。これに対して諸生派も、本格的に武器をとって決戦に乗り出したのですが、その中心人物が市川三左衛門でありました。
 たびたび申すとおり諸生派は主として上級家臣団で、その巨頭は五千石の元家老鈴木石見守と目され、それまで市川は第三か第四の存在と思われておりましたが、このときに至ってこれが前面に出て参りました。
 みずから陣頭に立って筑波勢攻撃の指揮をとったのみならず、幕軍の出動もとりつけた。天狗党こそ領民を悩ます国の賊であると宣伝して、農民兵を組織したのも彼でありました。水戸に在住していた天狗党の家族をことごとく投獄したのも彼でありました。そしてまた、江戸にある藩主の名代として乗り込んで来られた松平大炊頭さまの水戸入りを頑として拒否したのみならず、これに挑戦するという、常識的には叛逆ともいえる行為に出たのも実に彼でありました。
 天狗党こそ斉昭公以来水戸家の安寧と秩序をみだす獅子身中の虫、はねあがりのきちがい集団であると断じ、それを根こそぎたたきつぶす最初にして最後の、しかも最大の機会であると彼は見きわめたのであります。そのために、なまじ大炊頭さまのご仲介を受けて天狗党の息をつなぐことを彼は怖れたのであります。
 かつての首領結城寅寿を殺し、流血のたねをまいたのは天狗党だ、この際何千人の屍を積もうと、いままでの怨みをはらすべきときは来た、という復讐欲にもむろん燃えあがったことでござりましょう。
 市川三左衛門こそ、水戸の井伊大老とも呼ぶべき人間でござりました。彼はその年たしか四十九歳であったと記憶いたしております。
 春以来の内戦で、天狗党の敵としていちばん頑強ぶりを発揮したのは、市川部隊でありました。

     二

 むろん当時の私どもに、奸党には奸党としての論理があると認める余裕はござりませぬ。市川三左衛門には市川三左衛門としての信念があるなどとは存じませぬ。
 ただ、この元家老が自分たち天狗党への憎悪に燃えたぎっている怖ろしい人間であると承知しているだけで、従ってまたこちらも彼に対して憎しみの炎を燃やしているばかりでござりました。
 ですから、その怨敵市川の娘を――やはり敵の首魁である田沼玄蕃頭の妾とともに誘拐する、という田中愿蔵の痛快な作戦に、野村丑之助はたちまち「やります」と答え、私たちもそれをとめる気は全然なかった。
 やがて、小姓姿の丑之助が、水戸城の西南の角のすぐ下にある市川屋敷に一人で乗り込んでゆくのを、私たちは見送ったわけでござりますが、しかしさすがにあとでいささか心配にはなりました。あとになって思えば、実際とんでもない冒険で、こんなことは二十歳のゲリラ隊長でなければ思いもつかず、怖さ知らずの十二歳の少年でなければやすやすと引き受けることはなかったでありましょう。
 私たちは、約束の場所の藤沢小路の庚申堂のかげで、胸をドキドキさせながら佇んでおりました。そして、待つこと約四半刻。――向こうから、丑之助が澄ましてやって来た姿のうしろに、二人のお高祖頭巾の女を見たときは、いうべき言葉も知りませんでした。
「ここだ、ここだ」
 田中愿蔵は呼んで庚申堂のかげに連れ込みましたが、眼を大きくひろげておりました。
「これは、どうしたことだ。おれはまずお前さんだけに来てもらうつもりだったのだが。……」
「そんな手間をかけては、かえって難しくなるでしょう。はじめからご一緒に出て来たほうが早道だろうと考えて、お登世さまをお連れして来たのですけれど、いけなかったかしら?」
 と、一方の女が笑って答えました。お高祖頭巾の間からのぞいた眼だけでも、少年の眼にも、艶然、といった感じがありました。これがおゆんという女性でしょう。
「そりゃ、こんなにうまくゆけば、それに越したことはない」
 田中がそらうそぶいて、もう一人のやや小柄なお高祖頭巾に、
「ふん、ご存知かどうか知らんが、おれは悪名高いジャンギリ組の田中愿蔵だ。騒ぐと、ここでお命をいただくぜ」
 と、いうと、さきの女が、
「田の字さん、お嬢さまをおどすことはありませんよ。わたしは何もかもお嬢さまに打ち明けて、納得ずくで来ていただいたんですから」
 と、たしなめました。田中は狐につままれたような顔をしました。
「何もかも、打ち明けた?」
「そうなんです。わたしたち二人が人質になれば、田沼さまや市川さまの手がちぢんで、いまの水戸の恐ろしい戦争に少しは手綱がかかるだろうと、お嬢さまもそうお考えになったのですよ」
 田中愿蔵は鼻白んで、まじまじとその女――市川の娘を眺めやっておりました。
 その間、金次郎と私は、小姓姿の野村丑之助をもとの漁師の子供風に戻す作業をやっておりました。
 私たちは、田中が丑之助に託した手紙に何が書いてあったか知りませんでしたが、どうやらおゆんは、田中の要求以上のことをいっぺんにやってくれたらしい、と、感じました。おそらく田中は、自分の「色おんな」おゆんだけをまず呼び出し、それから相談のうえ、次に市川の娘も誘い出す手はずにしていたのを、おゆんがはじめから連れ出してくれたらしいのであります。
「やあ、ありがとう、ありがとう」
 と、田中はやっと気がついて、丑之助の肩をたたきました。
「ほんとうによくやってくれた。えらいぞ、野村君」
 田中はソワソワとしておりました。誘拐の目的を一応達してから、かえって恐怖にかられたようでありました。
「ここに長居は無用だ。とにかく、ゆこう。……ただし、坊主とお高祖頭巾の女と魚売りの子供がひとかたまりじゃおかしい。まず、子供たち三人、先へゆけ。少しおいて、女。……そのあと、おれがゆく」
 そして、命令しました。
「少年諸君、水戸を出たら、君たちが来た道を逆に歩いてくれ、それがいちばん安全な道だという証拠だから」
 私たちは、その隊形で水戸を脱出しました。
 私たちが来た経路を逆にたどれといわれても、敵の哨戒にひっかからなかったのは偶然だったと思われるふしもあって、自信はなかったのですが、実際それは敵の盲点ないし盲線になっていたと見えて、私たちはうまく抜け出すことができたのでありました。

     三

 私たちは、丑之助がこの途方もない冒険をみごとにやってのけたことに心から感心しましたが、丑之助はどこかポカンとしておりました。
 何とか聞き出したいきさつは、次のような次第でござります。
 市川屋敷の界隈は、すぐ前の往来を、騎馬武者さえ混じえた鉄砲部隊が行進しているといった騒然たる雰囲気《ふんいき》につつまれておりましたが、その中をチョコチョコと縫って、裃をつけたちっちゃな小姓姿が門番に、
「田沼総督からおゆんのお方さまへ、お急ぎのご書状を持参いたしました」
 と、告げた。
 丑之助も実は心中ヒヤヒヤしていたのですが、これを迎えた市川家の侍たちは、むろん彼の顔など知りませんでしたし、さきごろから水戸城内三の丸の弘道館に本陣を置いたばかりの幕府若年寄からの使者に疑心を起こす者など一人もありませんでした。
「あ、さようか、それではどうぞこちらへ」
 と、あわてながら、小さな使者を滑稽なほど鄭重に奥へ通しました。
 奥座敷で丑之助からその手紙を受け取ったおゆんの方は、表書きを見て首をかしげ、ちらっと丑之助を眺め、同じ部屋にいた二人の女中を遠ざけてから、封を切って中を読み出しました。
 実に長い間、その手紙に眼を落としていて、読み終えても、おゆんの方はじっと考えこんでいたそうであります。
 それから、顔をあげて、
「お前、天狗党かえ?」
 と、いった。丑之助は返事のしようがなかったと申します。
「ご苦労さまでした。……わかりました」
 と、おゆんの方は微笑しました。そして、手紙をしまい、手を打って女中を呼び、
「お登世さまはいらっしゃるかえ? いらっしゃるなら、申しわけないけれど、すぐここへおいでくださるようにいっておくれ」
 と、命じました。
 やがて、一人の娘がけげんな顔ではいって来ました。
 市川三左衛門の娘お登世です。
「お殿さまから妙なお手紙が参りました」
 と、おゆんはいい、女中をまた去らせたあと、しずかにいい出しました。
「お嬢さま、あなたは……この水戸の内輪喧嘩を恐ろしいことだといっていらっしゃいましたね。同じ水戸の人々が、どうしてこんな果てしのない殺し合いをはじめたのか、と歎いていらっしゃいましたね」
 腑に落ちないまなざしながら、お登世はこっくりうなずきました。
「それをやめさせる法が見つかりました」
「えっ、どうしたら?」
「このお使いは、田沼さまからではありません。天狗党からです」
 お登世ははじめて丑之助を見て、それがあんまり小さいので、眼をまるくしました。丑之助はむろん相手以上に仰天しました。
「天狗党が、あなたとわたしに来てくれないだろうか、と、いって来たのです」
「そんなことは!」
 と、お登世はさけびました。
「しっ、大きな声をたてないでくださいまし。もし聞かれると、この子供が殺されます」
「でも……わたしたちが天狗党へいったら……わたしたちが殺されるでしょう」
「いえ、そんなことはわたしがさせません。ご存知かと思いますが、わたしは府中の紀州屋の娘で……あそこはこの春まで、天狗党の方々が談合の場所にしていました。わたしは、みんな知り合いなのです。ですから、わたしにそんな手紙を寄越したのです」
 お登世は息をつめておゆんを眺めておりました。
「わたしたちは人質になるだけです。……ご承知のように、天狗党の家族の人々も、こちらの牢屋にいれられています。その人々を殺したくなかったら、天狗党もわたしたちを殺しはしないでしょう」
「…………」
「わたしたちは、たった二人。でも、あなたは諸生派の大将市川さまのお嬢さま。わたしは、いまは幕軍総督田沼さまの妾。まあ、あいこにはなるでしょう」
「…………」
「それでこそ、頭に血がのぼって殺し合いをつづけている敵味方の男の衆たちに水をかけることになるでしょう。この果てしのない内輪喧嘩をやめさせる――少なくとも、そのきっかけの一つになるとはお考えになりませんか?」
「…………」
「いえ、おいやなら、むろんわたしだけゆこうと思っていたのです。いまいったようなわけで出ていったと、あとでどうぞみなさまにお伝えくださいまし」
 おゆんの方のきれながの眼には笑いがあったといいます。
「わかりました」
 と、お登世はうなずきました。
「わたしも参ります」
 やがて、おゆんは、お登世と小さな使者を連れて玄関に現われました。
「田沼さまからの急なお召しで、これからお城に参ります」
 市川家の老臣は眼をまろくしました。田沼玄蕃頭が城へ愛妾を呼ぶなど、はじめてのことであったからでござります。
「お登世さまも?」
「はい、どうやら間もなく松平大炊頭さまがこちらにおいでになるので、そのご接待にお登世さまを欲しいとの仰せです」
 敵として戦った大炊頭ですが、何といっても主筋のご一族ですから、接待役にもしかるべき身分の女人を使うことは考えられます。
「しかし、そのお姿で?」
「とにかく急なご用で、支度はお城でするそうです。それから……わけあって、このことを外部に知られとうないそうで、二人だけ、供も連れずに忍びで参るようにとのお指図でした。わたしがついていますから大丈夫です」
 と、落ち着きはらって、おゆんの方は申しました。
 そして、三人が市川屋敷を出てゆくのを、老臣たちはあっけにとられて見送りました。
 市川三左衛門自身がいたら、むろんこの妙なお召しに疑惑をいだいたでありましょう。
 しかし、最初の小さな使者にさえ疑いを持たなかった人々でござります。
 当の田沼総督のご愛妾がそういって出かけてゆくのを、たとえ屋敷のお嬢さま同伴であることがいぶかしいにせよ、そのお嬢さまも心得た顔をしている以上、どうしてとめられましょうか。
 市川屋敷を出ると、二人の女は、お高祖頭巾をかぶりました。そして、堂々と濠《ほり》に沿って、大手門のほうに向かって歩いてゆきました。
 そちらは城のすぐ西側にあたる場所で、むろんそのあたりにも、形だけはものものしい武装兵たちが往来しておりますが、諸藩の混合兵で、ちっとも統制がとれておりませぬ。お高祖頭巾をつけた二人の女とゆきちがっても、怪しむどころか、野卑な奇声をあげる手合いが少なくありませんでした。
 しかし、大手門のはるか手前で、おゆんの方は左側へついと折れて、侍町にはいってゆきました。
 ――こうして三人は、藤沢小路で待っていた私たちの前に姿を現わしたわけであります。(つづく)

魔群の通過 (1) 湊に天狗がいるわいな

 六

 意外にも三人は、途中幕軍につかまることなく水戸にはいることができました。
 約一ケ月後、天狗党がげんに北方へ向けて突破したように、蟻一匹も逃さないと呼号していた六万の包囲軍も、実は幕軍や諸藩兵の寄せ集めで、実際に通行してみれば、案外網の目は粗雑だったのでござります。
 もっとも、二、三度、哨戒の敵兵がこちらを見て近づいて来たこともござりましたが、すぐ向こうへ行ってしまったり、なかには「早くゆけ」と、あごをしゃくった者さえありました。私たちをほんとに漁師の少年だと見たらしいのですが、私たちがなまじ逃げ隠れするような不審な挙動をとらなかったせいもあると思います。
 私たちははじめから決死の覚悟であり、かつまた、こうなったら、一刻も早く母たちのいる牢獄に近づきたいという望みに火のように煽られていて、ちょっとやそっとの危険などかえりみる気のなかったことが、逆によかったようでござります。
 水戸藩の牢は、昔から赤沼という町にあり、赤沼牢と呼ばれておりました。母たちがいれられているのもそこだということも聞いておりました。で、水戸にはいるや、私どもはひたむきにそこに急いだわけでありますが、その間にも町の変化はいやでも眼にふれずにはいられませぬ。
 もう秋の朝の白い光が町に満ちておりましたが――まだ朝だというのに、路地の軒下には濃い化粧をした女がならんで、けたたましい声で呼んでいるのです。その前を、槍をかかえて往来している侍たちも、もう酔っぱらっているのです。そして、空地には、鉄砲をほうり出した足軽連中が、車座になってサイコロばくちをやっているのでござります。
 猥雑といおうか、殺気横溢といおうか。――そのあたりは、この夏私たちが出発するまで、いかめしく物静かな侍町であったところです。斉昭公が、同じ樹木でも梅干と筍という食糧がとれる、と、おっしゃって奨励なさったので、水戸は梅と竹が多い町ですが、その竹林の向こうでは矢稽古の弦のひびきや、梅の花のこぼれる土塀の中では謡いの声くらいしか聞こえなかった場所が――厳しいけれど愉しい私たち少年の生活のあった場所が――何たることか。
 何よりショックであったのは、横行する武装兵たちの言葉の大半が水戸弁でないことでござりました。
 ――水戸学の聖地が……尊皇攘夷の本山ともいうべき水戸が。……
 雑踏の中を歩きながら、私たちは歯ぎしりしておりました。だれがこんなことにしてしまったのか。水戸にこんな幕軍や諸藩兵をみちびきいれたのは、佐幕派の連中だ。
 それはともかく、目ざすは赤沼牢でござりまする。
 金次郎と私は、その前に丑之助に向かって、
「お前は村のおふくろのところへゆけ、そして夕方にどこそこで待ち合わせて那珂湊へ帰ることにしよう」
 と申しました。しかし丑之助は、ともかくいっしょに赤沼へいって、その首尾を見とどけたうえでそうさせてもらう、と、いうのです。思えば十二の子供にしては、実にけなげなものでござりました。
 そのために丑之助は、思いがけない手柄と――私たちにとっても大変な戦利品を持って帰るめぐりあわせになったのでござります。
 赤沼町に近いある土塀の角をまわったとき、私たちはゆくての馬場沿いの大欅の下で一人の雲水が、一団の鉄砲足軽に何か訊ねているらしい光景を見ました。
 雲水は網代笠に手をかけて礼をいい、ついでに何か冗談でもいったと見えて、足軽たちはゲラゲラ笑いながら、向こうの角を曲がってゆきました。雲水は一人でお経を唱えながら、私たちのほうへ歩いて来ました。
 すれちがおうとして、ふいにその坊さまが立ちどまり、
「金次郎君」
 と、呼びかけたのには、私たちはぎょっとしました。
「ははあ、魚売りに化けて来たか」
 坊さまは笑っておりました。
「やあ、こりゃ源五郎君、ほう、丑之助もいるか。……しかし、大胆なことをする。万一奸党の知り合いに見つかったらどうするか」
 大胆不敵とはだれのことをいうのか。
 その網代笠の下の若い顔は、六万の敵のみならず、天狗党からさえ夢魔のように怖れられた人間の顔でござりました。それが悠々と水戸の町の中にいることすら信じられないほどなのに、どうやらいま見たところでは、敵兵と何やら談笑していたようではありませぬか。
 坊さまは、私の肩をたたきました。
「しかし、何しに来た?」
「田中さん……」
 私は息を切らしました。
「あなたこそ、大丈夫ですか?」
「どうだか、わからん」
 相手は爽やかな声で笑い、
「せっかく来たのだから、君たち田中隊へゆかんか」
 と、おどけた調子でいいました。
「田中隊はいまどこにいるんです?」
「助川城におる」
 助川城は水戸の北東十里ほどのところにある、家老筋の山野辺主水正どののお城です。なぜ田中隊がそんなところにいるのか、それより田中隊の頭領の田中愿蔵さんが、どうしていま水戸にいるのか、狐につままれた思いでしたが、何にしてもそれは、そのときの私たちの関心の外にありました。
「それより、君たち、何しに水戸へ来たって?」
 もういちど訊かれて、私たちは母や家族の様子をうかがいにこれから赤沼牢をのぞきにゆくつもりだといいました。
「そりゃ、いかん!」
 みなまで聞かず、田中さんは首をふりました。
「君たち、よくいままで見つからなかったものだと感心するが、赤沼牢はいかん。あそこには天狗党の家族の顔をみんな知りぬいた連中が眼をひからせておる。そこへ武田耕雲斎の子や孫が顔を出すなんて、飛んで火にいる夏の虫のようなものだ。これ以上、一歩も近づいてはならん!」

     七

 ここにおいでのみなさまは、むろん田中愿蔵の名はご存知でござりましょう。まことに彼の悪名は高い。常州野州においては、天狗党といえばその中のだれよりも、むしろ田中愿蔵という名が人々の頭に浮かんで、いまも恐怖と憎しみのまとになっております。
 それは私も承知しております。にもかかわらず、この悪名と、記憶にある彼の実像とのくいちがいが、実はいまでも私を大変悩ませておるのでござります。
 田中は、それ以前からよく知っておりました。筑波山以前に、藤田小四郎とともに、よく私の父の耕雲斎のところへやって来て、議論を吹っかけていたからであります。
 元治元年、藤田が二十二歳であったと申しましたが、この田中はそれよりまだ若く二十歳でありました。
 田中は藤田とならんで、非常な秀才でござりました。斉昭公は領内のあちこちに何々館と名づけるいくつかの藩校をお作りになりましたが、彼らはその若さで――しかも元治元年以前に――藤田は小川館の館長、田中は時雍館の館長を命じられたことでもわかります。田中の出身は藩医の息子でござります。
 ですから、二人が父に吹っかける議論も、烈しい攘夷論というだけで、詳しいことは当時の私などには理解できませんでした。もっとも、よく論ずるのは主として精悍な藤田のほうで、田中はむしろ穏やかなたちに見えた。実際にまた彼は、一見、女にもまがうスラリとした美青年でござりました。
 私たちから見ると、藤田は少々おっかない兄貴で、田中は実にやさしい兄さんでした。からかうことはあっても叱ったことはないし、だからいま、こうお話ししていても、実は田中さんと呼びたいほどなのでござります。
 ただそれではほかの人とつり合いがとれず、みなを「さん」づけで呼んでは話がまだるくなるので、あえて呼び捨てにいたします。
 さて、藤田と田中は親友でありました。ただ双方ともに攘夷思想に凝りかたまった秀才であっただけではなく、前年の春、主君慶篤公に従ってともに上洛し、上方に渦巻く天下動乱の風雲をともに吸って来たことで、いよいよ意気投合したものと見えます。
 その前年の秋ごろから、藤田小四郎が、府中――これは今の石岡であります――新地の紀州屋という女郎屋にたてこもって、藩内の同志や江戸で知り合った志士などを集め、攘夷の旗挙げについての談合をはじめたころ、田中愿蔵は江戸におりましたが、このことを聞いてたちまち馳せ参じました。
 かくて彼らが、いよいよ三百人ほどの同志とともに筑波山に屯集したのが三月の末でありましたが、四月はじめになって、日光に移動することになった。
 筑波で気勢をあげたのはいいが、たちまち幕府の鎮圧を受けては困るので、日光にいって東照宮を盾にして立て籠れば幕府もちょっと手の出しようがないだろう、という作戦を立てたのでござります。
 そこで筑波山を下りて、日光へ移動したのですが、これが実に馬鹿馬鹿しいなりゆきになった。
 日光奉行は、宇都宮藩、館林藩の出兵を求めて防衛線を張り、何しに来たか、と詰問しました。これに対して筑波勢は、ついうっかりと、
「攘夷の祈願をしに参ったので、他意はない」
 と返答してしまった。すると、
「それならみな脱刀して、十人ずつ参拝さっしゃい」
 ということになり、とうとうそのとおりにやるほかはない始末になった。
 そして、あっけらかんと日光からひき返して来ました。
 むろん、そんな馬鹿げたことをやりに日光へいったわけではないが、ものの気合いというものは妙なものです。
 もっともそうなったについては、彼らの旗挙げなるものに、どこか腰の坐らぬところがあったからでござります。つまり彼らは、ただ攘夷のデモンストレーションのつもりでやり始めたので、すると全国のあちこちに同じ共鳴運動が起こって、幕府も攘夷を実行せざるを得ないだろう、と考えての行動に過ぎなかったのでござります。
 筑波勢は日光から追い返されて、こんどは一応、栃木の太平山に拠りましたが、筑波山ほど有名でない山上でのデモンストレーションは非効果的だ、ということと同時に、他国での運動はどうもやりにくい、ということがわかって、五月の末にまた筑波山に帰りました。
 やりにくい、とは、主として徴発のことでござります。
 最初に旗挙げしたころは、多少の軍資金も用意しておりましたし、また筑波周辺の商人や豪農に、尊皇攘夷のための御用金だといえば、ともかくも同じ水戸領内のことだから、シブシブながらそれに応じてくれた。
 しかし、太平山は他領です。しかも、この野州を練り歩いている間に、諸国から浪人たちが馳せ参じて、もう千人以上の人数になっている。その毎日の食い扶持だけでも容易な量ではありません。
 やむなく近くの百姓から徴発したのですが、当然のことながら、苦情はおろか、烈しい抵抗が起こりました。
 こうして、筑波勢はまた筑波山にひきあげたのですが、この一見無意味な往復運動は、あとに凶々(まがまが)しい渦を一つ残したのでござります。
 それは、筑波勢から分離して野州にとどまった一隊でありました。田中隊でござります。
 総帥を田丸稲之衛門、中軍将を藤田小四郎とする筑波軍で、田中愿蔵は一隊長という地位を与えられておりましたが、以上の筑波勢の動きに徹頭徹尾不満でありました。
 ――なんだ、日光での醜態は。
 ――子供の使いじゃあるまいし、わざわざ筑波から砂塵をまいておしかけながら、十人ずつ参拝を許されて、しっぽを巻いて退散するとは。
 ――そもそも、はじめから東照宮を盾にしようという根性がまちがっておる。
 ――いったいこんなことで幕府への示威運動になると思っているのか。
 田中は、こう藤田を痛罵したと申します。
 以前の二人の仲を思うと信じられないようですが、田中愿蔵はこんどの挙に参加して以来、まったく人間が変わっていたのです。いえ、以前の仲といっても、それは私たちに、田中が藤田に従属しているように見えたというだけで、もともと田中は実に勇猛果敢な性質の持ち主だったらしいのですが、少なくとも子供の眼にはわからなかったのが、ここに至ってそのやさしい面貌をかなぐり捨てたのであります。
 藤田は攘夷を唱えるだけでまだ討幕を意図していなかったのですが、田中は幕府あるかぎり攘夷の実行は不可能だと見ぬいていて、はっきりと討幕を考えていたのでござります。
 天狗党の中で、過激派の藤田にくらべ、これはまた一段と極点へいった最過激派といえます。――そして、後世になってみれば、田中愿蔵の歴史的直感のほうが的を射ていたのであります。
 彼は、反対者があってあきらめましたが、そのまま一隊をひきいて野州から甲州へ迂回進撃し、甲府を奪い、さらに駿府まで占領して東海道を遮断しようという作戦まで立てたくらいです。
 まことに破天荒な考えのようですが、どうもあとで調べてみると、当時の幕府の状態では、この作戦を実行していれば、相当以上に成功の可能性があったらしい。
 実は藤田は、筑波一挙の前に長州の桂小五郎と、東西相呼応して攘夷運動を起こすことを打ち合わせていたので、これが七月になって京都における例の禁門の変で西の長州が敗れたことで、画餅に帰し、ひいては東の天狗党も潰えるという結果になったともいわれます。
 協同作戦のタイミングがくいちがったのですね。だから、その禁門の変以前に、もし田中が甲州まで占領していれば、こういう一手遅れの狂いが起こらず、あとの歴史の転回がまったく異なったものになったかもしれないという説もござりまするが、しかしこれはまあ、歴史によくある死児の齢を数えるに似た愚痴かもしれませぬ。
 さて、それはともかく、こうして田中愿蔵は藤田と喧嘩し、袂を分かった。そして、田中に同調する百数十人の浪人たちと野州に残った。
 ところで、これも現実の悲しさですが、右のような大志をいだきながら田中隊はたちまち資金的に隊の維持に困窮しました。そこで栃木町にはいって、そこの陣屋に軍資金の提供を申し込み、拒絶されて、戦闘をひき起こしました。
 このとき田中隊は、油樽を割り、篝火を投げ、松明を持って商家に乱入し、火を放ちました。そのために、当時野州第一といわれた栃木の町はほとんど灰燼《かいじん》に帰しました。
 のちのちまでも「愿蔵火事」と呼ばれたこの暴挙で、彼らは完全に民衆の敵となりました。
 筑波に帰った天狗党は田中愿蔵を除名し、田中隊とは無縁であることを宣言しましたが及ばず、民衆の恐怖と怨嗟は天狗党ぜんぶに向けられました。
 このことがついに幕軍の出動を呼び、水戸内戦をいよいよ深刻なものとし、さらに天狗党に賊名を与え、その末路を悲劇的なものとした大きな原因の一つとなったのでござります。
 やがて七月にはいって、筑波勢は、幕軍と、これに相呼応した水戸佐幕派と戦い始めるのですが、水戸に残した家族に迫害のかぎりをつくす佐幕派にこそ猛烈な敵意を燃やしたものの、幕軍に対してはやはりどこか遠慮があった。
 そして、応援に来た田中隊には、依然として拒否の姿勢を示しました。
 味方からも嫌悪された田中愿蔵は、とんと意に介しませんでした。彼が洩らしたという傲語は、そのころ筑波勢とともに戦っていた私たち武田軍にも伝わって来ました。
 ――水戸の家族にいまさら何の心配をするのか。すでに天下に叛旗をひるがえしたわれらは、はじめから家族など捨てて然るべきだ。甘いぞ、小四郎。
 ――幕軍よ来れ、幕兵を一人たりとも多く殺すことこそ、われらの目的に叶う。
 田中はこう呼号し、筑波勢とはつかず離れず、神出鬼没のゲリラ戦を展開しました。ゲリラ戦とは、ナポレオンに対するスペインの抵抗戦術から発しました言葉で、小部隊による遊撃戦のことでござります。
 彼の部隊は主として水戸人以外の浪人軍で、戦闘ぶりも筑波勢以上でしたが、戦場となった土地の農民や町人にも無慈悲でありました。
 他国人部隊のため掠奪ぶりも荒っぽかったが、彼自身、いくさのためには一切合財を犠牲にすることをいとわない風でありました。田中隊と聞いて抵抗する町や村は、容赦なく焼き払われました。
「刃向かうやつは殺せ、焼け、許すな」
 この白面の美しい隊長に、甘さは髪一筋もなかった。実際に彼は、配下の兵の髪を、戦闘に便利なようにチョンマゲを切ってすべてザンギリ頭としたので、一名「ジャンギリ組」とも呼ばれ、その名は敵軍のみならず、常陸全土に魔神のような印象の波をひろげたのでござります。
 田中愿蔵こそ、いわば革命の申し子でござりました。その歴史的直感は正しく、しかもその戦闘はもっとも勇敢であった。
 しかるに、さきほど農民までも武器をとって起ちあがったと申しましたが、それは主としてこの革命軍たる田中隊に対して起ちあがったのでござります。そして、筑波勢のもっとも強力な友軍でありながら、筑波勢に賊徒の汚名をかぶせたのもまた田中隊の所業だったのでござります。こういう矛盾が、客観的に見れば、歴史のアイロニーというものでござりましょう。
 むろん当時、武田軍にあった十五歳の私に、そんなことを面白がる余裕はござりませぬ。客観的に見る判断力もありませぬ。
 これは少年の私ばかりではない。武田軍のみならず藤田軍まで、みな一様に彼に対して憎しみをいだいておりました。
 それは、いまや最後の関頭に追いつめられつつある那珂湊の天狗党のすべてが、なお田中隊の合流を拒否しているほどの悪名でござりました。
 そのジャンギリ組の隊長田中愿蔵がここにいる。水戸の市内に、雲水姿で潜入している。

     八

 田中愿蔵は、私たちに、いかに赤沼牢に近づくことが危険であるかを、こんこんとして説きました。
 実は私たちは、右に述べたような田中隊の所業をまざまざと目撃したわけではありませぬ。ただ、常陸の野にひろがる憎しみの声と、天狗党の中の、
「きゃつ、天狗党の名をけがした。天狗党を賊にしてしまった元凶はきゃつだ」
 という痛憤の声を聞き、はじめ、「あの田中さんが?」と信じられないものに思い、やがてそれらの声に動かされて、その人に対して、同じ凶々(まがまが)しい印象を持ちはじめていたのでござりますが、いまやさしく誡されて、私たちは以前のなつかしい田中さんを思い出し、また昏迷におちいりました。
「いったい耕雲斎先生は、君たちのこんな行動をお許しになったのかね?」
「いえ、知られると叱られそうなので、まったくないしょでやって来たんですが。……」
「そうだろう、君たちも、もう戦争に参加しているんだ。戦士の一員なんだ」
 と、田中はきびしい顔色に改まって申しました。
「いまこのときになって、家族の安否をうかがいに来るなんておかしい。そんなものは捨てなければ、いくさには勝てんぞ」
「勝つ?」
 金次郎は問い返しました。
「田中さんはこのいくさに勝てると思ってるんですか?」
「戦争というものは、最後までわからんさ。いままでのなりゆきだって、意外の連続だ。われわれが旗挙げしたとき、水戸全域が戦乱の巷《ちまた》になるなんて想像もしなかったし、また幕府がこれまで六万の兵と五十万両の戦費を使って、まだ天狗党を鎮圧できず、総大将の田沼の罷免の噂まで流れているときに、突然こっちの大将の大炊頭さまが降伏するとも思わなかったよ」
「ですから、もう終わりだと。――」
「なに、絶望はまだ早い。戦争は絶望してはならんものだ。一日も長く頑張って、一兵たりとも敵を多く殺すようにあらゆる努力をしているうちに、何とか活路がひらける可能性が出て来るんだ。そのために、おれも水戸へ出て来たんだ」
「田中さんは、何をしようというのですか」
 私は、最初からの疑問を口にしました。
「敵の大将の田沼玄蕃頭の妾《めかけ》と、奸党の親玉市川三左衛門の娘を誘拐してやろうと思ってやって来たのさ」
 網代笠の下で、白い歯がニヤリとしました。
「えっ、市川の娘?」
「田沼の、メ――」
 私たちは、思わずさけびました。
「しっ、あまり大きな声を出すな」
 と、さすがに田中はあわてた顔をしましたが、
「おれはそのつもりでいる。もっとも、はじめはただ偵察に来たんだ。すると、きのう大炊頭さまが降参したというじゃないか」
 と、ささやき声でいいはじめたのでござります。
 私たちは、松平大炊頭さまの件については、まだそのことだけしか知らない状態でありましたが、水戸にいた田中は、その他にいろいろなことを探知しておりました。
 大炊頭さまは、田沼総督と直接交渉してではなく、前線の幕軍責任者との話し合いだけで降伏したらしく、水戸には寄らないで、そのまま南のほうを通って水戸街道にはいり、江戸へ向かって急ぎつつあるらしい。そのことを知った田沼が、勝手に江戸にゆかせては総督たる自分の面目が立たぬ、いそぎ水戸へ連れ戻せ、と命じて、市川三左衛門がきのう追跡に出ていったらしい。
「大炊頭さまはどういう条件で降伏されたのか知らないが、おれの見るところでは、どうせ甘い坊っちゃん大名だ。おそらくこれから、約束がちがう、と歯がみしても追っつかないことになるだろう」
「…………」
「ま、それはともかく、いま水戸は大炊頭一行をつかまえる騒ぎで、眼はみんなそっちへ向いている。それで思いついたんだ。田沼の妾や市川の娘をさらうのはいまだと」
「…………」
「田沼は本陣を水戸城内の弘道館に置いているが、いくら何でも妾を弘道館にいれるのははばかりがあると見えて、市川三左衛門の屋敷に泊めている。市川の娘とひとまとめにしてさらうには好都合だ」
「…………」
「と、思ったが、さすがにそう簡単にはゆかない。三左衛門はいまいったように大炊頭さま追跡に出ているが、屋敷は警戒厳重でちょっと手の出しようがない。思案投げ首でいたところへ、はからずも君たちに逢った。そこで天来の妙案がひらめいたんだ」
「…………」
「君たちに頼むことだ。市川屋敷にいる二人の女をさらうには、君たちの手をかりるよりほかない」
 口をポカンとあけていた私どもは、やっとわれに返りました。しかし田中は、さらにふしぎなことをいうのでござります。
「もっとも、いまおれが頼みたいのは、いちばん小さい野村君だがね……。野村君、手伝ってくれるかね?」
 十二の丑之助は、君づけで呼ばれたせいか、顔を真っ赤にして、
「ぼくにできることなら。――」
 と、さけびました。
「ありがたい。では、こっちに来てくれ。……いつまでもこんなところで立ち話をしているわけにはゆかん」
 雲水姿の田中は歩き出しました。人気《ひとけ》のない路地をえらんで歩きながら、私たちはこういう問答を交わしました。
「丑之助、君の顔を知っている者が、市川屋敷にあるかな」
「さあ。……わかりません」
「金次郎君や源五郎君の顔ならともかく、田丸さんの小姓をやってた十二の君を、まさか知ってるやつはあるまい。それにごった返している最中だから大丈夫だろう」
「それで、ぼくは何をやるんです」
「弘道館にいる田沼総督からのお使いだといって、田沼の妾に手紙をとどけてもらいたい」
 やがて私たちは、田中愿蔵に、ある場所に連れてゆかれました。
 水戸の町は、古くから上町下町に分かれております。上町は武家町ですが、私たちのいったのは、町人住居区域になっている下町の、ある路地の奥の一軒でござりました。
 そこには、素姓不明の、二、三人の男女がおりました。――いまや水戸じゅうの人間から敵と見られている田中愿蔵ですが、やはり同志の者をそんなところに持っていたと見えます。
 その人々を古着屋に走らせ、また手伝わせて、丑之助は、雀の巣みたいにモジャモジャにした髪を前髪立ちに直され、立派な紋付に着替えさせられ、よく古着屋にそんなものがあったと感心したのですが、小さな裃さえつけさせられたのです。
「さあ、手紙はこれだ」
 その間に書いた一通の封書を、田中は丑之助に渡しました。その表には、
「至急ゆんへ、田」
 と、書いてありました。
「田? ぼくは田丸さまの家来ですが、それじゃあ。……」
「田丸の田じゃない。田沼の田のつもりだ。幕軍総督が妾にどういう手紙を書くのか見当もつかんが、田沼の使者といって乗り込んだ以上、だれだって田沼の小姓だと思うだろう」
「ゆんへ?」
「おゆんというのが、妾の名なんだ……。すると、だな。九分九厘までそのおゆんが、手紙に指定した場所へ――藤沢小路の庚申堂のところまでやって来るんだ」
「ほ、ほんとうですか?」
 私たちは、眼をまるくしました。
「君たちに聞かれると恥ずかしいが」
 田中はニヤリとしました。
「田沼の妾は、府中の紀州屋という女郎屋の養女で、実はおれの色おんなだった女さ。そいつを田沼が府中に進駐している間に、自分の妾にしてしまった。しかし、その女はすぐに田中の田の字だと見ぬくはずだよ」
「…………?」
「それもふつうの女なら来んだろうが、あれなら出て来るだろう。なにしろ一風変わった女だからな」
 こういう次第で、丑之助は、奸党の首魁市川三左衛門の屋敷へ乗り込むことになったのでござりまする。(つづく)

魔群の通過 (1) 湊に天狗がいるわいな

    三

 内戦の経緯につきましては、皆さま大体ご承知のことと思いますけれども、まず一応ここで申し述べておきます。
 元治元年春、藤田東湖の遺児小四郎が筑波山に志士を集め、幕府に攘夷の実行を迫るために示威運動を起こした。これに対して幕府の討伐軍が出動し、かつ水戸藩の佐幕派も協力し、常陸西部でいくさが始まった。
 夏になって、江戸にあった藩主慶篤公が、自分のご名代として支藩の松平大炊頭頼徳公に、家老榊原新左衛門以下一千の兵をつけて、水戸へ派遣されて、これを取り鎮めなされようとした。
 この松平勢に、やはり攘夷派ではあるが、藤田小四郎の行為には賛同していなかった水戸藩元家老武田耕雲斎が途中で加わって、一緒に水戸に乗り込もうとした。
 しかるに、このとき水戸を押えていた佐幕派が、松平公の入国を拒否したのみか、この藩公ご名代に鉄砲を撃ちかけた。そこで松平公も応戦の止むなきに至り、対抗上那珂湊を軍の基地となされた。
 そこに筑波から藤田小四郎も馳せ加わり、一方佐幕派には幕府軍及び出動を命じられた関東諸藩の兵が加わった。その中心人物が、水戸佐幕派では市川三左衛門、幕軍の総大将が田沼玄蕃頭意尊であります。
 こうして夏から秋へかけて、三千の那珂湊連合軍と六万の幕府連合軍との間に、那珂湊を中心に、こんどは常陸東方で戦闘がつづけられました。これだけの兵力差があるにもかかわらず、両軍は一進一退といっていい戦いでありました。
 ところが、九月下旬に至って、那珂湊勢が主将と仰いだ松平大炊頭さまが、突如単独で幕軍に身を投じられた。ついで、十月下旬にその配下であった榊原新左衛門以下一千も同様に投降した。投降したのみならず、逆に味方を攻撃しようとした。
 これで戦争は終わりました。
 残った武田勢、藤田勢は、一時は全滅を覚悟したが、自分たちが乱臣賊子の汚名を受けたまま死ぬのは残念だ、せめては京へ上って、朝廷と、禁裏守衛総督一橋慶喜公に自分たちの志を知っていただきたいと望んで、残兵八百余人とともに、常陸から野州、上州、信濃、美濃と上洛の行軍を開始いたしました。
 以上が、いわゆる天狗党の義軍一挙の概略の顛末でござります。
 天狗党とは、いま一般には筑波山に旗挙げをした藤田小四郎軍のことを指しているようでござりますが、実はこれはそれ以前から、斉昭公によって名づけられた水戸藩中の、革新派、攘夷派のことでござります。斉昭公が、水戸の天狗とは、高慢者のことではない、志高き奴ばらのことだと申されておりまして、その代表者が藤田東湖だったのであります。
 しかし、当時幕軍及び佐幕派は、那珂湊勢をひとかためにして天狗党と呼んでおりましたが、何にせよ、那珂湊勢はよく戦いました。三千対六万という差がありながら、互角どころか局部的戦闘では互角以上の戦をやったのは、相手側が――特に幕軍や関東諸藩の兵がお勤め気分の烏合の衆であったせいもありましょうが、味方の那珂湊連合軍も、実は内部で分裂しておりましたから、約半年にわたって持ちこたえたのは、いま考えてみても不思議でござります。
 那珂湊勢が内部で分裂していたとは、第一が藤田の筑波勢、第二がこれに途中参加した武田勢、第三が江戸から派遣された松平大炊頭勢――これを大発勢と呼びましたが――の三つでござります。そして前者ほど闘志が旺盛で、逆に最後の松平大炊頭さまに至っては、敵のうち、幕軍とは戦うな、と命令されたほどでござりました。
 それが、六万の敵に包囲されながら、那珂湊の町の南側に大発勢、北側に筑波勢、西側の館山というところに武田勢が陣をかまえ、まことに信じられないことですが、お互いにほとんど交渉なく、それどころかそっぽを向きながら戦ったのであります。
 この元治元年、私は武田源五郎と申し、数えで十五歳でござりました。

     四

 大発勢が、味方の武田勢や筑波勢を排斥していたというのは、こういうわけであります。
 大将の松平大炊頭さまは、水戸の藩祖頼房公の第六男頼雄さまのお血筋で、常陸国茨城郡宍戸一万石の主で、水戸家にとっては支藩ということになります。この年三十五歳で、世に疑うことをご存知ない明朗の青年大名でいらした。
 これが在府の藩主慶篤公からの、水戸本国の内争をとり鎮めてくれないかとのご依頼で、実に気軽く引き受けられて、榊原新左衛門以下千人の水戸侍をひきいて、威風堂々水戸へお出かけなされました。
 大炊頭さまとて、水戸の騒ぎは、それ以前からの藩を二つに分ける攘夷派と佐幕派の確執が火を噴いたものだということくらいはご承知だったでしょうが、何といっても距離のある支藩ですから、その争いの根深さがお身にシミてはいなかったものと思われます。かつまた三十半ばのお若さであり、素直なご性格です。
 水戸へ下る途中、ちょうど水戸の元家老で攘夷派の武田耕雲斎が手兵一千人をひきいて小金まで来ている時に逢われた。耕雲斎は同じ天狗党ながら藤田小四郎と行を共にするのを潔しとせず、天狗党本来の真意を幕府に陳情するためにそこまでやって来て、筑波戦乱の余波で通行不能となって立ち往生していたものでありましたが、これが大炊頭さまに合流随行して、一緒に水戸にひき返すことになった。
 それをあえて大炊頭さまが拒否もなされなかったのは右に述べたごとく水戸の内争についてのご判断の深刻さがいまだしであった現われでござりまするが、まさか藩主慶篤公の名代として来た自分に、水戸の家臣たる佐幕派が弓を引こうとは夢にも考えられなかったのも当然でござります。
 水戸の町そのものは、筑波山の叛乱騒ぎのため天狗党全部が謹慎状態で、佐幕派が藩の権力を握っておりました。これが、水戸に入ろうとなされた大炊頭さまに向かって、
「大炊頭さまはよろしいが、それにお供をしている連中が気にくわないので、ご入国はお断わりいたしたい。もしたっての仰せなら、大炊頭さまお一人でお城におはいりくだされたい」
 という使者を寄越した。
 これで大炊頭さまは、ご自分の行列のしっぽに武田耕雲斎の一党がくっついていることに、改めて気づかれた有様ではなかったか、と思われます。しかし、それにしてもこの無礼にして非常識な使者の口上をそのまま、ああそうか、それでは、とお受けになるわけにはゆきません。
 大炊頭さまは無論ご立腹になり、余は慶篤公の御名代でまかり下ったものであるぞ、その門をひらけ、邪魔するな、と叱咤《なされ、無理にでも押し通ろうとあそばした。これを防ごうとする佐幕派の水戸侍と小競り合いになり、そのうちいきなり佐幕派のほうから発砲したのをきっかけに小戦闘が起こって、双方に死傷者が出た。
 事の意外に驚かれながら、大炊頭さまは、とにかくそのまま水戸にはいることは容易ではないということを、はじめてお察しになった。しかし、さればとてオメオメ引き返すことなど、ご面目にかけてもできることではない。それにしても、改めて談判するにも、実力を行使するにしても、城外に手兵を野宿させるわけにはゆかない。そこで一応の基地として、水戸の東方三里の那珂湊に移動なされ、ここに本陣をかまえられたのであります。
 のちに判明したところによると、水戸城のほうでも、主君のご名代のご入国を拒否するなどというむちゃなことにはみな逡巡があって、それを主張したのは佐幕派の幹部の一人市川三左衛門だけだった。だからそのとき、大炊頭さまが本気になって出てゆかれたらご入城は可能であったろう、ということでござります。
 それを、面食らって引っ込んで、那珂湊のほうへ遠廻りしたものだから、敵に居直り、立ち直る決断と余裕を与えてしまった。あのとき大炊頭さまが水戸城に入っていられたら、あとの事態の推移はすべて変わったと思うのですが、歴史というものはほんのちょっとした躊躇がとり返しのつかない結果をもたらすことがあるもので、これが一つの好例といえましょう。
 さてこれから、改めて水戸へ進撃しようとして、こんどは本格的な戦いとなり、ついには幕軍さえも敵とするにたち至りましたことは、先刻申しあげたとおりでござります。
 かくて松平大炊頭さまは、まったく思いもよらぬ戦にひきずり込まれなされたもので、お気の毒を絵に書いたようだ、というのはこのことであります。しかもこのお方の運命の痛ましさは、それにとどまりませぬ。
 私はこの天狗党戦争を考えれば考えるほど、歴史の無惨さということを痛感するのでありますが、このお方はその象徴であるかもしれませぬ。このお方こそ、天狗党にまさる犠牲者かも知れませぬ。
 こういうわけですから、大炊頭さまは、はじめから戦いたくなかった。特に幕軍とは戦いたくなかった。あれよあれよという間に那珂湊に包囲され、有無をいわさず戦いに追い込まれただけで、幕軍に抵抗するなど不本意千万な心境でおわしたのです。
 ですから、自分がこういう運命におちいったのも天狗党のせいだと思われたのも無理からぬことで、さればこそご自分を天狗党と同一視されることを怖れなされ、いっしょに戦いながら彼らと協同することを拒否なされたのであります。そしてこのご態度は、当然天狗党にもよい感じを与えなかったのはいうまでもござりません。
 そこへ、九月の末に至り、はじめて幕軍の密使と接触することができた。それは、旗本で目付の戸田五助という人で、大炊頭さまの心情と立場がよくわかったといい、ひそかに投降されれば、自分が責任をもって、今までの成り行きを幕府に弁明するため江戸へお帰りなされるよう、取り計らって進ぜましょう、といった。
 溺れる者がわらをつかんだとは、このときの大炊頭さまのお心でありましたろう。大炊頭さまが宍戸藩から連れて来た近臣三十五人とともに、那珂湊をぬけ出し、その南の夏海の幕営に投じられたのは、九月二十六日の夜明方のことでござりました。
 大炊頭さまにとって、またまた大意外事が起こったのはそれからであります。大炊頭さまはそのまま江戸への道を急がれたが、そこへ、水戸にあった幕軍総督田沼玄蕃頭から追手が来た。江戸へゆくことは罷りならぬ、こちらへ連行せよ、という命令でござります。
 そして大炊頭さまは、一言の弁明も許されず、幕府に刃向かった天狗党の賊魁として、十月五日には切腹を命じられ、随行した三十五人の家臣ことごとく処刑の羽目におちいったのでござります。
 そのご辞世は、
「思いきや野田の案山子《かかし》の竹の弓
 引きもはなたで朽ち果てんとは」
 というものであったと伝えられます。
 大炊頭さまは、まったくつじつまが合わない、と痛恨しつつ腹を切られたに相違ござりませぬ。しかし、みなさま、よくお聞きください、怖ろしいのは別の意味でつじつまが合わなかったことでござります。
 これが謀略にかかって死ぬことになったとしたら、まだそれなりにつじつまが合うのですが、そうではないのだから怖ろしいのでござります。
 実は目付戸田五助は、はじめから謀略にかけようとして降伏の斡旋をしたものではなかったのであります。全然善意をもってこのようなはからいをし、そしてその旨田沼総督に報告してあったのに、このことは一顧だにされず黙殺されたことでござります。
 しかし、ひるがえって思うに、これに似た行為は、存外日本人には多いのではありますまいか。昔からしばしば見られる「だまし討ち」の例もさることながら、日常の生活においても、相手側と約束したことを、その上司が「部下の手ちがい」といってそ知らぬ顔をする。あるいは、折衝の結果中央が相手と確約したことを、出先の者が平気で破る。――古来、契約ということに日本人は甚だ鈍感で、このためどれほどお互いに迷惑し、それも国内の話ならお互いさまのことでまだ我慢できるとして、外国相手にもしばしばこれに類した行為をやって、どれだけ日本の信用を失ったか計り知れませぬ。
 しかし、それにしてもこの田沼玄蕃頭の「背信」はあまりに酷すぎる、として、彼の先祖の田沼意次に勝るとも劣らぬ悪名を残すことになりました。玄蕃頭は、意次を初代とすればその六代目にあたる人物でござります。

     五

 松平大炊頭さまの単独降伏は、那珂湊に立て籠る天狗党にとって大衝撃でござりました。何といってもこちらが旗頭として仰いだお人でござりますから、当然のことであります。
 このなりゆきはまったく秘密に行なわれたので、われわれは主将の離脱を後に知ったのですが、それを知ったあと、全軍を吹き過ぎた蒼白い風のようなものを、私は忘れることができません。
 さきほど申したように、私は十五歳の少年でありました。ですから、以上申し述べたような経緯はまずほとんど知るところがなかったといった状態で、ただ父耕雲斎の動くままに従い、戦となってからは、無我夢中で伝令や弾運びなどに駈けまわり、ただ戦闘精神ばかり盛んでありましたが、大炊頭さま投降のことを聞いたときは、さすがに、
「もう終わりにちかい」
 と、感じました。そして、自分も近く死ぬことを覚悟しました。
 すると、突然、母や弟妹に逢いたくなったのであります。水戸に残してあった母や弟妹たちは、この夏から、天狗党の指導者武田耕雲斎の妻や子として牢獄に投げ込まれているということは、すでに耳にしておりました。
 水戸はいま幕軍総督田沼玄蕃頭が本陣をおいている敵地であります。しかし、そこはむろん私どもの生まれ育った土地であり、しかも那珂湊からたった三里のところにあるのです。
 母たちが投獄されたということを聞いたとき、私はそれをやった人間どもに血も逆流するほどの怒りをおぼえました。それを命じたのは市川三左衛門だと知って、いまに見ておれ、そのうち必ず敗北させて縛り首にしてやるぞ、と心に誓いました。同時にむろん泣きました。
 しかし、牢屋にいれられた家族は、私の母や弟たちだけではないのです。天狗党の人々の家族の大半が同じ目にあわされたのです。その涙は見せられません。
 そして現実には、敵の大軍に包囲されているのです。かりにそこを突破して水戸へ行ったとしても、牢にいる母たちに逢えるはずもないし、だいいちウロウロしているのを見つかって、即座に捕まるにきまっているのです。
 私は、母たちのことを頭からふり捨てようと努力して参りました。
 しかし、遠からず死ぬ、と考えたとたん、私は無性に母や弟妹たちに逢いたくなったのでござります。殺されてもいいから、何とか一目だけでもその顔が見たくなったのでござります。
 私は武田金次郎にそっと相談しました。大炊頭さま離脱の日の夕方のことでござります。
 武田金次郎と申すのは、実は私の甥にあたるのですが、私より年上の十七歳の少年でありました。
 父耕雲斎には男女合わせて十人の子がありまして、私はその四男坊になるわけですが、金次郎は長兄彦右衛門の長男でありました。その母、つまり彦右衛門の妻は、藤田東湖の妹でござりました。無論これも投獄されておりました。
「それは、僕も逢いたい!」
 金次郎は涙を浮かべてうなずきました。
「しかし、不可能だろう。……それに、お祖父さまに知られると、雷が落ちるぜ」
 金次郎のお祖父さまは、むろん私の父の耕雲斎のことでござります。
「やはり、駄目か」
 と、私は溜息をつきました。
 いま申したように、二人は血縁から申せば叔父と甥になりますが、叔父の私のほうが年下でもあり、かつまた金次郎は武田家の嫡孫にあたるので、ふだんは対等の言葉遣いをしておりました。
 すると、この問答をそばで聞いていた者があります。野村丑之助という十二歳の少年でありました。
 この春、藤田小四郎が筑波山に旗挙げをしたとき、主謀者はむろん彼ですが、何しろ年がまだ二十二の若さなので、父の東湖亡きあと水戸天狗党の指導者となっていた私の父の耕雲斎に、ぜひ大将となってくれるように頼み込んだ。しかし慎重な父は、首をたてに振りませんでした。父は、小四郎の直接行動は軽挙であり暴勇であると見ていたのであります。
 そこで小四郎は、こんどは水戸の町奉行をやっていた田丸稲之衛門に同じことを依頼した。稲之衛門は怖ろしく元気のいい老人で、たちどころに快諾し、筑波山へやって来てその大将となったのですが、その野村丑之助は稲之衛門の小姓をやっていた子供でござりました。
 実はいま申したような経緯で、藤田軍と武田軍も必ずしも意志相通とはいえなかったのですが、しかし大発勢との間柄ほど疎隔した仲ではない。何といっても同じ天狗党に相違なく、しかも父は、小四郎の父故東湖の親友であった人間であり、東湖の妹――小四郎の伯母を、長男の妻に迎えたほどの関係である。
 だから、作戦上、最小限度の連絡はしておりました。さきほど述べたように、藤田軍は那珂湊の北部に屯営し、武田軍は館山に布陣しておりました。館山とは、むろん千葉県の館山ではござりませぬ。那珂湊の西側の地名であります。
 ここへ、その野村丑之助は、何度か、田丸稲之衛門の使者としてやって来た。
 使者といっても、別にどうということのない走り使いですが、これが十二歳、こっちが十五と十七ですから、まあ同じ少年同士として親近感があったのでしょう。べつに用もないのに、よくわれわれのところへ遊びに来ました。遊びに来たといっても、キチンと坐って、私どものすることやしゃべることを、黙って見聞きしているだけですが、その眼は尊敬の光にかがやき、私たちもこの少年を弟みたいに可愛がっておりました。
 これが、その日もやって来て、私どもの話を聞いておりましたが、突然、片腕を眼にあてると走り去ってゆきました。
 あいつも、おふくろのことを思い出したのだな、と、私たちは考えました。
 ただし丑之助は、水戸に近いある村の郷士の倅で、その父親はすでに亡く母だけが残っていたのですが、まさか十二の子供が天狗党にはいっているからといって、その母親が牢にいれられることもなかったと見えて、これは無事村で暮らしているはずだが……しかし、おふくろが恋しくなったであろうことに間違いはない。
 私たちは、そのまま丑之助が那珂湊へ帰ったものとばかり思っておりました。
 ところが、しばらくたって彼は、不動院全海という坊さまを連れてひき返して来たのでござります。
 全海入道は、茨城郡上入野村の小松寺の住職の弟ですが、攘夷の思想に共鳴して耕雲斎のもとへ馳せ参じた坊さまでした。年は四十過ぎですが、まるで弁慶のような豪僧で、実際僧兵みたいに、いつも袈裟頭巾をつけておりました。
 これが大変な子供好きで、武田軍には私たちのほかにも何人かの少年兵がいたのですがいくさの間にはいつもこれといっしょになって遊んでいました。そして、ときどきやって来る丑之助も、全海入道をまるで父親みたいに慕っておりました。そこで、いま、この坊さまを探して連れて来たらしい。
「話は聞いた」
 と、全海入道はうなずきました。
「ゆきなさい。三人ともゆくがいい」
 まるで遊山の旅でもすすめるような調子でいうのでござります。
「しかし、耕雲斎先生には内緒のほうがいいだろう」
 こちらはかえってまごつきました。
「でも、包囲軍を突破できるでしょうか?」
 と、金次郎が訊きました。
「みんな、まあ子供だからな。工夫すれば、何とかなるじゃろ。……待て待て」
 全海入道はしばらく思案して、やがてこういう策を立ててくれました。それは三人とも、那珂湊の漁師の子に化けてゆく。これから夜になるが、そんな姿で夜歩けばかえって怪しまれるから、あした夜明方に出ていったらどうか、というのでござります。
 その翌朝、三人は、そのとおりの姿になりました。髪は雀の巣みたいにモジャモジャにし、漁師の子らしいつんつるてんの着物に縄の帯、それに魚までいれた籠にてんびん棒を二本、これをみな全海さんが用意してくれたのであります。それに、春から秋へかけての戦場暮らしで、みんな日に灼けて、顔色はどう見ても漁師の子ですが、しかし中で比較的それらしくないのは、いちばん年上の金次郎でした。これが女のような美少年なので、顔だちの優しさはどうしようもないのでござります。しかし、いまさらそれを気にしてはいられませぬ。
 全海さんは、味方の前線まで送ってくれました。二本のてんびん棒に二つずつの魚籠をぶら下げて肩にかつぎ、しぶい声で唄をうたいました。
「夕暮れに
 敵を見張りのかがり火に
 月も風情の峰の山
 沖に軍船見えるぞや
 あれ鐘が鳴る攻め太鼓
 湊に天狗がいるわいな」
 いつのころからか、陣中ではやっていた端唄《はうた》でござります。端唄「夕ぐれ」の替え唄でござります。それにしても水戸っぽにこんな粋な替え唄が作れるわけはないから、おそらく敵の――戦より三味線のほうがうまい旗本などが作ったものでしょうが、それがどういう経路で伝わって来たものか、味方でも面白がってうたう者が少なくなかったのでござります。
 いままで、別に何の感想もなく聞いていたこの唄を、なぜかそのとき私は、いかにも那珂湊の終わりの日が近いような不気味な印象で聞きました。
 軍船とは、天狗勢の脱出を防ぐために沖に浮かんでいる幕艦のことで、ときどきそれが砲撃します。
 まわりは、いたるところ土塁が築かれ、雨露をしのぐだけの小屋が散在しておりますが、地面に横たわった十何人かの人影も見えます。疲労困憊して眠るにも、もうその場所がないのか、それとももう死体なのか、夜明前の暗い蒼白い光ではよくわかりませぬ。
 この夏から毎日のように見馴れている眺めですが、それがいま、まるで死の世界そのものの風景のように、私の網膜に印象されたのでござります。
 この場合に全海さんが、のんきそうにそんな唄をうたって聞かせたのは、おそらく私たちの緊張を和らげるためだったろうと思いますが――やがて、ふと、
「どうだ、君たち、うまく水戸へゆけたら、もうここへは帰って来ないで、そのままどこかへ逃げてしまわないか?」
 と、とんでもないことをいい出しました。私たちは、あっけにとられました。
「どこへ逃げるのです?」
 と、私はいいました。
「水戸で見つかれば、私たちは殺されてしまう。そして、水戸よりほかの、どこに逃げるところがあるのですか?」
「僕たちは、そんなつもりで水戸へゆくのじゃありません。全海さんがそんなことをいうなら、やめます」
 と、金次郎も憤然として申しました。
 全海入道は、そのまま黙って歩いておりました。……いまになってみれば、この坊さまの考えていたことはよくわかります。
 全海さんは、この那珂湊にいても死、ここ以外の日本のどこへいっても、安全の保障される土地はない。大人はともかく、少年たちまでそんな立場に追い込んでしまった成行きに心をいためて、そもそも水戸へ家族の安否を探りにゆけといったのが、私たちを逃がすきっかけになると見たからに違いありません。
「和尚さん」
 いちばん小さな丑之助が、その腰のあたりでまるい顔をあげました。
「おれ、おふくろの顔をいっぺん見たら帰って来るよ。……おれ、きっと帰って来るからね。死ぬなら、和尚さんといっしょに死ぬよ!」
 全海和尚は、けくっ、と、ふとい喉の奥で変な音を出しました。頭巾の中の大きな眼が涙でいっぱいになっておりました。
「よし、帰っておいで!」
 と、全海さんはうなずきました。
「待っておるぞ」
 やがて、ここからは敵兵が出没するというギリギリの地点――ある小川の水車小屋のそばで、全海さんと別れ、三人は暁闇《の野道を歩き出しました。受けとった天秤棒と魚籠を、私と金次郎はかついでおりました。(つづく)
プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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