桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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歴史あれこれ

 本日午後、昨年より自治会仲間数人で取組み始めた恒例の「歴史研修会」がひたちなか市内のCafe 月兎耳で行なわれました。これは原則として月一回第三水曜日に開催されることになっています。資料作成および講師は中根自治会役員のY氏が担当し、途中途中で質問の出た事柄について話合う形式をとっています。主要テーマは江戸時代の水戸藩で、郷土の歴史をより深く掘り下げて勉強したいという有志の発案によって始められました。
  水戸藩の歴史に精通しているYさんが講師役を引受けて下さったので、参加者の皆さんは毎月この日を楽しみにしています。最初は四人からのスタートでしたが、現在は二人増え、都合六人になりました。そのうちの一人は、たまたま我々が研修している姿を隣の席で耳に、自分も加えて欲しいとの要望で仲間に加わった次第です。もう一人は、この研修会があることを仲間のIさんから聞き、先々月から参加するようになりました。

  講師のYさんは三重県ご出身の方で、仕事の関係で数十年前からひたちなか市に住むようになったとのことです。当地に落ち着くまでは、いくつかの県外勤務も経験されたとのことですが、私が感心したのは、その土地その土地の歴史を勉強してきたということです。自治会の会合で顔を合わせている内そのことが分かり、歴史を勉強する会を立ち上げようということで出来たのが「月兎耳」会です。
  Y氏は日本史だけでなく世界史にも長けていて、広い視野の中から日本史を見ているので毎回大変勉強になります。研修会では様々な質問が出ますが、ほとんどのことは答えられるので参加者は大変満足しています。歴史関係本に多く接してきたことで、驚くほどの知識があり、私としても大変勉強になります。

  毎回の講義内容はY氏にお任せしているのですが、段々幅広く専門的内容になって郷土史から遠ざかってしまったので、もう一度郷土に目を向けようということになり、今回から再び水戸藩に関する内容に戻ることになりました。資料を拝見しましたら「徳川斉昭その1」となっていたので安心致しました。水戸藩のあるいは日本の幕末史を勉強する上で、徳川斉昭という人物の存在は決して欠かすことは出来ないと思います。
 一般的に水戸では神様扱いされていますが、県外出身ということもあり優れた面とそうでない部分を同時に取上げて説明するので、議論が深まっていくのが面白いところです。今回は斉昭の寺社改革を巡っていろいろな意見が出されました。何故、反対を押し切って強引にこれを進めようとしたのか、次回が期待されます。いろいろな事実をもとに真相に迫られればと期待しているところです。

  私事になりますが、今月は「水戸藩の光と影」というテーマである研修会の講師に招かれ、自分なりに幕末混乱の水戸藩に関するお話をさせていただきました。何故水戸藩が分裂し、党派間で血生臭い争いが起きたのか、多くの人が一番関心を寄せている点です。しかも、今もってそのしこりがあると言われていますので、どちらかというとタブー視されてきたように思われます。
これらの悲惨な歴史をどう伝えていけば良いのか、そのような思いもあって今回招かれたと承知しています。先日主催者から感想を聞く機会がありましたが、いままで疑問、謎であったことが少し解けたということを伺い、少しはお役に立てたのかなと有難く感じているところです。
  歴史は、人間の心の奥深い部分にあるものと密接に関係しているのではないでしょうか。何故悲惨な処刑が繰返されたのか、憎悪の根底に何があったのが、それらの背景にあったものを考えて行くことで少しずつ真実に迫ることが出来るのではないかと考えています。
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幕末維新、水戸藩の光と影

  昨年末、水戸藩の幕末維新を題材とした小説の下書きを作ってみましたが、構成その他の点で多くの不備があり、少し頭を冷やしてから再度見直し作業を進めています。総ベージ数もかなり多いので、どこの部分をカット、あるいは簡略化するか日々悩みながら取り組んでいるところです。また、小説と言っても正確さが要求されますので、改めて確認しながら進めていますのでかなり時間がかかりそうです。
  折角、長い期間をかけて取り組んできたので、何としても完成させなければならないと思っていますが、60歳代とは違って体力も気力も減退していますので、なかなか大変です。文章も手直しを始めると際限がありませんので、適当なところで切り上げなくてはなりません。更にどのような形で出版するかどうか、これも頭痛の種となっています。

 さて、今年は有難いことに「桜田門外の変」に関する講演依頼が続いていて、こちらの方へも力を注いでいます。これまでにも何回となくお話をさせていただきましたが、一回も納得できるような内容ではなく、毎回反省の連続です。折角の機会ということでどうしても力み過ぎてしまうのが欠点のようです。
  先日は小生の出身高校のある県北地区の同窓会総会でお話をさせていただきましたが、開催時間が夕方のため、文字が見えなくて一苦労致しました。会場がホテルのため、照明が薄暗くなっているのです。また同窓会長である常陸太田市の市長をはじめ、錚錚たる方々が参加されていたので、肩が凝ってしまいました。

 来週は、これも高校の同級生(元県教育次長)からの依頼で、水戸地区退職校長会総会終了後の研修会でお話をさせていただきことになっています。こちらの方は、今までとはテーマが大きく違い、幕末から明治までの水戸藩の歴史を共に研修することになっています。最初はお断りしたのですが、専門家の方より素人の話の方が良いと説伏せられ、引受けることに致しました。
  水戸では観光事業も含め、現在水戸弘道館周辺の整備に力を入れているようです。今月からは大手門の復元工事が始まり、茨城国体前の完成を目指すようです。今回の講演依頼のきっかけとなったのは、天下の魁であった水戸藩が何故、明治新政府に人材を送り出せなかったというような素朴な疑問に答えて欲しい、ということでした。

  確かに、この問題はどこに行ってもよく耳にする言葉です。水戸人として残念な思いを共有する方々が多くいらっしゃるということの裏返しかも知れません。無論、小生自身も最初はそのように感じていた一人です。事実、水戸士族は廃藩置県後、明治政府に「物申す」という行動を起こしています。これは水戸城火災を機縁に正院へ文書を送り付けていますが、当時の人々の思いを代表する意見と思われます。
 実は、その文書の行間に「天下の魁」を果たした水戸藩の事績を少しも顧みていないというようなことが滲み出ています。現代ばかりでなく、当時の方々もそう感じとっていたのです。しかし、歴史を紐解いていくと、当時の茨城県官員(旧水戸藩重役)では、あからさまにそのような事を言える状況にはなかったとも考えられますし、実際、そう思った人物がいたかどうかは大いに疑問が残るところです。
  水戸出身の元将軍慶喜が謹慎している中で、そのようなことを直訴する雰囲気でもなかったろうし、いろいろ複雑な思いがあったように思います。茨城人物評伝の中の一節(酒泉彦太郎)にそれを裏付けるような一文が書かれています。
「桜田門外の変」の後、有志ではありますが、あの有名な「成破の盟約」での水戸藩の役割を考えますと、水戸側は飽く迄も「破」、つまり破壊的な行為を行って世情に混乱を起こし,長州が「成」,つまり正しいと信じる姿の世につくり変えていくというものでしたから、水戸侍としては、最後までその信念を貫いたように考えられます。
 当時、水戸出身の香川敬三(元本圀寺勢)という方が新政府に入っていましたので、あるいはそれと同じ道を進むことを「よし」としなかったのかも知れません。

戊辰戦争の激戦地を行く (3)

水戸藩高炉と三春藩士熊田嘉門 ②

  茨城県の那珂湊の高台にある溶鉱炉は地下からの高さが21メートル、地上15メートルの巨大な西洋式高炉である。反射炉脇に登り窯があり、耐火煉瓦を焼いた。反射炉には耐火煉瓦約四万枚が使われている。耐火煉瓦の原料は栃木県馬頭町の粘土を用いた。大砲の形成には砂型鋳造の技法が用いられている。現鉄は岩手県釜石産の南部鉄と鳥取県の雲集鉄が使われた。
  28門以上の砲身の長い大砲(カノン砲)が鋳造された。柳沢の水車場で加工され品川沖のお台場へも献上された。ここで造られた大砲は長州の萩や伊豆韮山の反射炉で造られた砲より性能的にすぐれていたと言われている。砲弾は直径12,7センチ、装填火薬304グラム、飛距離1233メートルとの記録が残されている。

  水戸藩那珂湊に西洋式高炉を造った三春藩士熊田嘉門について明治37年発刊の田村郡郷土史は「水戸公その労籍し銀百枚及び日本史一部を賜る。後会津藩に招かれ鉄鉱溶解の事を託され一年にして帰り、更に相馬藩に招かれ鋳造の事を託され事竣て帰る。会津相馬二藩より各金若干を賜りてその労を謝す。
  慶応二年三春藩学校句讀師に補せられ師弟教育に従事す。慶応四年京師騒然に際し山地立固と謀りその状を察せとことを藩老に説き相携え京師に至り岩倉公(岩倉具視)に拝謁して三春藩情を具陳す。官軍大挙東下するに際し百方周旋藩主をして早く帰順せしむ事平定するにおよんで藩白鞘刀一口を賜うてその功を賞し、更に文学教授に似んぜられ、明治四年七月廃藩置県に際し藩校もまた廃止、諸生等方嚮に迷うを慨し有志謀り養才義塾を設立し子弟教育の任務を持続す。
  明治六年三春小学校を置くに及んでその教師に聘せられ、尋て磐前県第二中学校を三春に置くに及んでその教師に聘せれれ中学校廃止するに及んで家塾を設け子弟を教育すること前後十有余年にして明治二十年一月歿す。時に七一歳天澤寺先瑩の域に葬る。」と記している。

  三春藩は戊辰戦争は11歳の幼君映季侯を擁し、伯父秋田主税が後見人を務め、いち早く奥州越列藩同盟を脱退し西軍に組みした。そして二本松藩を攻めることになる。 三春藩に熊田嘉門のような広い見識をもった藩士がいたので、二分する藩意をまとめ朝廷に恭順の意を示し、三春の町を戦禍より救ったのであろう。

吉田松陰先生終焉の地 ③

 嘉永7年(1853)1月16日前年の予告通り、ペリー率いる7隻の艦隊が来航し、江戸湾小柴沖に停泊した。3月三日幕府の井伊直弼は日米和親条約調印(神奈川条約)に調印した。三月二八日吉田松陰と金子重之助は伊豆、下田沖に停泊していたペルー提督のアメリカをめざして小船を乗り出した。しかし軍艦の乗組員は2人の若者の話しを取り合わなかった。松陰と重之助は自首した。4月5日吉田松陰は「下田踏海事件」に連座して、松代藩士で松陰の師佐久間象山も逮捕される。松陰、重之介は長州に護送された。
  9月18日幕府、吉田松陰、佐久間象山を蟄居処分とした。12月15日長州藩は吉田松陰を出獄させ、蟄居とする。九月長州藩、吉田松陰に私塾主催を許可した。身分に関係なく約80人が塾生とさせた。松下村塾の門弟には伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等明治維新の大業に功績のあった著名の士を多く輩出している。

  安政5年4月将軍家定が井伊直弼を大老に任命した。井伊大老は越前藩主松平慶永を隠居の上謹慎、徳川斉昭を謹慎、水戸藩主徳川慶篤、一橋慶喜を登城停止処分にした。そして宮家公家の家臣30余名と水戸藩家臣が逮捕され安政の大獄が始まった。
  4月吉田松陰は江戸に護送され取調べを受け伝馬町の牢屋敷に繫がれた。10月7日吉田松陰(30歳)、頼三樹三郎(35歳)橋本左内(26歳)が伝馬町牢屋敷で処刑される。安政7年3月3日桜田門外において大老井伊直弼が暗殺された。大伝馬町の屋敷跡にある大安楽寺の高野山真言宗準別別格本山中山弘之住職を訪ねると「松陰先生、橋本左内、頼三樹三郎がここで処刑されました。
  処刑執行人は山田浅左衛エ門(首切り浅左衛エ門)でした。江戸時代伝馬町牢座敷に収監された罪人は数10万人で多くの侍が処刑されました。町民や農民は鈴が森や小塚原の刑場で処刑された。明治八年牢屋敷は市谷囚獄署(防衛省跡)に移転するまで約270年間伝馬町牢屋敷が存在しました。
  敷地は2618坪ありました。移転後伝馬町牢屋敷跡には人は住まず、夜になると人魂が出没します。2人の若者が怨霊を鎮めるための議論をしていたのを高貴な方がじっと聞いていて、高貴な方はここにお寺を建てて供養するのがよいと話された。そして二人の若者によって高野山別山の「大安楽寺」が建てられた。筆者の問いに住職は高貴な方は山階宮で二人の若者は帝国ホテル、帝国劇場などを設立した大倉喜八郎と東京大学の安田講堂を造った安田財閥の安田善次郎です、と話された。

 伝馬町牢屋敷跡に建つ大安楽寺「揮毫は山岡鉄舟筆により為囚死郡霊離苦得脱(いしゅうしぐんれいりくとくだつ」と記されている。(おわり)

戊辰戦争の激戦地を行く  (2)

 江川太郎左衛門とお台場

  嘉永6年7月1日老中阿部正弘がペリー持参の国書を示しアメリカの要求について諸大名、幕臣らに意見を求めた。7月3日高家以下布位以上の有司の意見を聞いた。そして、幕府は前水戸藩主徳川斉昭(烈公・徳川慶喜の父)を海防参与に任命した。幕府は国論を統一し日本を外国の侵略よりいかに守るかに苦心する毎日であった。 
  7月18日プチャーチン率いるロシア極東艦隊が長崎に来航する。
  8月6日幕府は砲術家高島秋帆の禁固を解いて、韮山代官江川太郎左衛門英龍の配下に置いた。江川家は名家で多くの人材を排出している。太郎左衛門の父英豪は伊能忠敬の地理学天文学の弟子で親交が深く、伊能測量で伊豆韮山の江川代官所に滞在している。また、英豪は伊能忠敬に依頼し幕府天文方より亜欧堂田善の「新訂万国全図」を譲りうけている。
  太郎左衛門は湯島の鉄砲鋳造場、及び韮山の鋳造場で大砲の製作にあたった。そして、12月太郎左衛門は、韮山に本格的な製鉄製造のための反射炉を建造し大砲、軍艦を造るべく軍備面の強化を図り奔走する毎日であった。
 また、幕府は8月15日、大砲50門の鋳造を佐賀藩に命じた。
 8月24日幕府は、太郎左衛門の指揮のもと、江戸湾品川沖に外国船の浸入を防ぐため11基の「お台場」の築造を始めた。

  11月27日安政に改元し、激動の時代が始まる。12月品川沖お台場5、6番が完成。しかし四番、七番は未完成のまま、8から11番は着工せず、資金不足で計画は中止となった。品川沖のお台場は六基まで完成した。現在第4お台場は品川区2丁目に埋もれ、第一と第五お台場は品川埠頭に入り、第6お台場は海中に孤立し第3お台場は公園として入ることが出来る。
  安政2年(1855)1月16日心半ばにして江川太郎左衛門は死去した。
  江川太郎左衛門は歴史上の人物で昌平坂学問所教授安積艮斎や蘭学者渡邊崋山、高野長英、外国奉行川路聖謨、絵師の谷文晁等と交友のあった幕末の英傑である。優れた政治家は一方のみの意見に偏ることなく広く意見を聞き将来を見据えて政治判断をすることの出来る人物であったと思う。嘉永6年8月29日薩摩藩主島津斉彬は幕府に軍艦建造、武器・兵書の購入を要求したが、幕府は、武器・兵書の購入は認めず薩摩藩に建艦のみを許可した。そして9月18日幕府は大船建造禁令を解除した。このことにより大藩は大型船の建造を始めた。

水戸藩の高炉と三春藩士熊田嘉門①

 嘉永6年9月23日NHK大河ドラマ「篤姫」の第13代将軍徳川家定が本丸に入り、10月23日に朝廷より徳川家定に将軍宣下があった。 10月20日徳川斉昭はロシアとの和親不可を建議。一方一関藩の漢学者でお台場を造った江川太郎左衛門の門人大槻磐渓は、幕府に親露を献策する。後に盤渓は戊辰戦争で奥州越列藩同盟の文章を起案し東軍に戦いを挑むことになる。11月12日幕府は水戸藩に大船建造を命じる。
  江戸幕府の海防参与であった水戸藩九代藩主徳川斉昭は,武装強化による国防の必要性を強調していた。このような状況の中、幕府から資金援助を受け那珂湊の吾妻台に鋼製の大砲を造るため反射炉二基を築造した。反射炉はオランダの技術を用いたもので、建造には南部藩の鉱山学者大島高任、薩摩藩の竹下清右衛門、三春藩の熊田嘉門を技術者として招聘した。
  そして、安政3年(1856)3月4日鉱山学者大島高任らは反射炉で銑鉄溶解実験に成功した。この溶鉱炉は巨大なもので那珂湊高等学校の隣の小高い丘の上に復元されている。この高炉造りに三春藩士熊田嘉門が関わっていることがわかった。水戸藩が那珂湊に高炉を作り製鉄を始めたことは大学時代に水戸学講座の中で斉昭公の業績のひとつとして知っていが三春藩の熊田嘉門(淑軒)が製鉄に従事したことを知り一層興味を持った。
  熊田嘉門について明治37年発刊の田村郡郷土史によると嘉門は都路村岩井沢の人渡邊興市の6男として生まれた。そし て熊田家の養子になった。熊田氏は代々三春藩秋田侯の藩医師であった。嘉門は南部藩の某氏について医術を学び嘉永年間江戸に遊び、諸大名の門に出入りしていた。
  以下原文の史料をもとに書きのべると「医業を研究すること数年嘉永6年米国の水師提督彼理(ペリー)浦賀港に来たりて互市を請うに会す。物情騒然幕府は衆に諸侯伯を召集し警備すこぶる巌なり。衆皆曰く浦賀談判の一挙は和戦の諸侯伯は皆使臣を浦賀に這わし、その状を探知せんとす。秋田侯もまた、使臣を派せんとす。偶々江戸在番の諸士中当器の人に乏し。即ち医師吉井某及び淑軒(嘉門)を遣わしその任にあたしむ。以来二人の医業を停止し、各事務に就かしむ。更に淑軒をよんで求給人格に進む。これにおいて藩の兵学師範今泉可八に従いて兵学を修む。また、巨砲鋳造法を研究す。安政三年水戸烈公反射炉を築き領内寺院の梵鐘を徴して大いに巨砲を鋳造するに際してその招きに応じ水戸に到り砲銃鋳造掛を嘱託せらる。居ること五年にして帰る」と記している。(つづく)



戊辰戦争の激戦地を行く (1)

  あさかの学園大学講師、伊能忠敬研究会員の松宮輝明先生が平成20年に執筆した「戊辰戦争の激戦地を行く」の記事が阿武隈サロンに連載されましたので、何回かに分けてご紹介させていただきます。

ペリー提督の国書と安積艮斎

  嘉永6年(1853)6月13日東ペリー提督の東インド艦隊は那覇へ向けて江戸湾を離れる。安積艮斎は嘉永6年(1853)7月18日にロシアのプチャーチンが持参したロシアの国書も翻訳している。そして幕府の求めに応じ外交意見を提出した。
  10月にはロシアへの回答の原案を艮斎が作成し、林大学頭が起案した。この時期艮斎は幕府学問所昌平坂学問所(東京大学の前身)教授で門人に吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎、幕府勘定奉行の小栗上野介などの歴史上の人物が多く集まっていた。
 「安積艮斎門人帖」には商工会議所の創立者であり東京日日新聞の創立者福地源一郎、福島県令になり安積開拓を遂行した安場保和らがおり、艮斎門人帖3千余名は郡山の安積国造神社の宮司安藤家に保存されている。嘉永5年5月艮齋は12代将軍徳川家慶に政治状勢を進講している。
 嘉永7年3月には一橋慶喜に進講し、外交文書翻訳についての功績により賞を賜わった。長男文九郎も将軍に拝謁し[山吹の間御目見]となり幕府の官儒者として高い地位にあった。艮斎の師は幕府儒官佐藤一斎である。安積艮斎は蛮社の獄で逮捕された蘭学者高野長英や、逮捕され自刃した渡邊崋山、安政の大獄で処刑された頼三樹三郎や、幕府の外交官で井伊直弼を批判し罷免された川路聖獏等との交遊が深かった。
 艮斎は寛政3年(1891)郡山の安積国造神社の三男として生まれた。幼児より利発な子供で郡山に来る行商人の持ち物(柳行李)をみてどこの国の商人であるかを言い当てたと云われている。16才で今泉家の婿となった。しかし、一年足らずで離縁された。
 郡山市の今泉家は「今泉三家」と呼ばれる家柄である。今泉本家(名主・本陣地紙屋は戊辰戦争で自衛団を組織した。)、上の今泉家(荒池の名主・晩年の小林久敬の庵跡)、下の今泉家がある。下の今泉家の子孫今泉学園・今泉女子専門学校の今泉玲子校長は「艮斎先生の母親は今泉家から安藤家に嫁ぎました。
 艮斎先生は幼少より聡明な方でしたが不器量で今泉家から離婚されたのです。」と答えられた。筆者はその意見に異論がある。不器量で男は離婚されない。17七歳の艮斎は学問の志やみがたく今泉家から身を引き、三月単身江戸に向かった。艮斎はあわせ2枚、煮豆2升ほどをやぶれた風呂敷に包み、四書五経の抜粋本1冊を懐に入れ、たった一人奥州街道を南へと歩いていった。旅すがら煮た豆をかじりながら江戸を目指した。江戸には林大学頭の学塾取締江戸一番の儒学者佐藤一斎がいた。一斎の門をたたき入門を許されたのである。
プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

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