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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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新天皇即位  「令和」の幕開け

新時代を明るい未来へ!

  本日、新しい天皇陛下が即位され、「令和」の時代が幕を開けました。新元号には「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められているといいます。普段はあまりテレビを見ることが少ない筆者であるが、ここ数日間は時間的にも余裕があったので、天皇、皇后に関する番組を興味深く見ることができました。象徴天皇というお立場がどのようなものであるか、そのことをひたすら摸索しながら行動されてこられたことに深い感動を覚えずにはいられません。一連の報道の中で取り分け印象的だったのは、民間から初めて皇后になられた美智子様のご奮闘ぶりでした。時に批判され、声も出なくなった苦難の時期を過ごされたこともありましたが、それを見事に乗り越えて最後まで天皇を陰で支えられた功績は誠に偉大であったように思います。強い支えがあったからこそ、天皇陛下も勇気を奮い起こされ、象徴としてのお務めを果たされてこられたのではないかと思う次第です。
  天皇・皇后がいかに世界の平和と国民の幸福を強く望んでおられるか、様々な映像を通してそのことが強く印象付けられました。私たち国民の一人ひとりが、この尊いお気持ちを察して今後どのように生きいけば良いのか、そのようなことをしみじみ考えさせられました。

本日、天皇陛下が即位後朝見の儀で述べられたお言葉

  「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。顧みれば、上皇陛下には御即位より、30年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽(さん)に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」

 「両陛下が確立した平成の皇室像に紆余曲折…乗り越えた右派の批判」
  4/30(火) 7:00に配信された放送大学教授・原武史先生記事を紹介します。

  天皇や皇后がひざまつき、被災者に話しかけるスタイルが確立された平成の皇室。全国各地で国民一人ひとりと直接つながることで、おのずと「国体」が強化されていった。一方で、これまでとは違う天皇像に右派から批判があったのも事実だ。放送大学教授の原武史さんがリポートする。
    *       *      *
  1962年5月の宮崎、鹿児島、熊本行啓からは、主に地元の青年男女を集めて懇談会が開かれるのが恒例となる。懇談会というのは、皇太子夫妻が泊まった施設や公共施設で、5~10人程度の人々とテーブルを囲み、1~2時間かけて各地方で起こっているさまざまな問題につき、直接質問したり意見を聞いたりする会合のことだ。昭和天皇は、東宮御学問所で帝王は言葉を慎むべきだとする儒教式の教育を受けたため、人々との会話に慣れていなかった。この点は香淳皇后も同様であった。一方、皇太子夫妻は長時間にわたり、人々と話し合える言葉の力をもっていた。一見、皇太子が司会の役割を演じながら、座が和んでくると美智子妃が主導したという。
  美智子妃は63年に第二子を流産するが、引きこもらず、皇太子とともに山口県を訪れ、懇談会に臨んだ。地元の保健婦や農村青年と話した時間は、合わせて2時間半に及んだ。言葉の力によって危機を乗り越えるのだ。懇談会は、タウンミーティングとしての意味をもっていた。地元議会に女性がほぼいなかったことを考えれば、美智子妃が若い女性の声をすくい上げ、その声が地方紙などに大きく掲載されることの意味は小さくなかった。だが右派にとって、天皇と皇后は決して対等であってはならなかった。彼らは昭和天皇のような神格化した権威を、次代の天皇にも求めようとしていたからである。「日本を守る国民会議」を中心とする右派が80年代から復活させたのが、提灯奉迎である。提灯奉迎というのは、ただ提灯行列を行うだけでなく、天皇や皇后に向かって人々が提灯を振り上げ、万歳を叫ぶ奉迎のことだ。
  昭和天皇の在位60年に当たる86年11月には、皇居前広場で提灯奉迎が復活した。88年には、昭和天皇の名代として皇太子夫妻が全国植樹祭に出席するため訪れた高松市のホテルでも、提灯奉迎が行われた。右派にとっては、人々から仰ぎ見られ、高みから提灯を振る天皇こそ理想の天皇であった。だが彼らの期待に反して、こうした天皇像が平成に定着することはなく、それとは正反対の天皇像が定着してゆくのだ。
  その姿が初めてあらわになるきっかけとなったのが、1991(平成3)年6月に長崎県の雲仙・普賢岳で起こった大火砕流である。天皇と皇后は、7月に被災地を日帰りで訪れた。災害の直後に被災地を二人で訪れたのは、これが初めてであった。テレビのニュースには、被災者が収容された島原市の体育館で、天皇と皇后が二手に分かれてひざまずき、同じ目の高さで一人ひとりに語りかける映像が繰り返し流れた。これは60年代から福祉施設で美智子妃が率先して行い、皇太子がならったスタイルにほかならなかった。昭和期には天皇と皇后の陰に隠れて見えなかった「平成」が、初めてあらわになったのだ。
  93年になると、昭和天皇と香淳皇后が住んでいた吹上御所に代わる新御所の建設を機に、「皇室バッシング」というべき現象が生まれた。宮内庁職員を自称する「大内糺(ただす)」という人物は、こう述べている。
「本来、ご皇室にとって皇后陛下は、あまり意味のある存在ではない。ご公務はもちろん、大抵の儀式も天皇陛下がおいでになれば事足りる。(中略)それなのに、最近では国際親善の場面にとどまらず、あらゆるところにご夫妻として参加されるようになってきているのである」(「皇室の危機」、「宝島30」93年8月号所収)
  ここには右派の本音が透けて見えている。彼らにとって、常に天皇に寄り添う皇后の姿は、目ざわり以外の何物でもなかったのだ。皇后は、この年の10月20日の誕生日に際して、「事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます」「事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません」などと反論する文書を公表した。言葉に対しては言葉で反論するという姿勢を見せたわけだ。 しかし精神的な苦痛からか、誕生日に倒れ、失声症になっている。だがこのときも、皇居に引きこもることはなかった。11月6日には、天皇とともに松山市の愛媛県身体障害者福祉センターを訪れている。

  「出迎えた県聴覚障害者協会長西原治見さん(中略)に、皇后さまが手話で『お会いできてとてもうれしいです』と話しかけられた。西原さんが、皇后さまの体を気遣って『がんばって下さい』と答えると、にっこりほほ笑まれたという」(「愛媛新聞」93年11月7日)
  皇后は、声を失っても手話で人々と会話を続けることで、危機を乗り越えたのだ。またしても言葉の力が発揮されたのである。95年1月に起こった阪神・淡路大震災でも、天皇と皇后の現地での振る舞いが右派から批判を浴びた。「日本を守る国民会議」の代表委員を務めていた江藤淳は、「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない。現行憲法上も特別な地位に立っておられる方々であってみれば、立ったままで構わない」などと述べている。(「皇室にあえて問う」、「文藝春秋」95年3月号所収)。
  しかし天皇と皇后は、昭和期に美智子妃が主導する形で確立され、平成になってあらわになったスタイルを変えようとはしなかった。宿泊を伴う定例の行幸啓では右派による提灯奉迎にこたえつつも、天皇の隣には常に皇后がいた。二人は全国各地の福祉施設で、そして被災地で時としてひざまずき、「市井の人々」に同じ目線で語りかけたのである。
  その人数を累積すれば、おびただしい数にのぼる。行幸啓を重ねれば重ねるほど、政府や議会を介在せず、天皇や皇后と一人ひとりの国民が直接つながる関係が強まったのだ。天皇と万単位の人々がひとつになる昭和の「君民一体」とはちがい、今度は一対一の関係で、天皇と「市井の人々」がひとつになる。これをミクロ化した「国体」の強化と言い換えてもよいだろう。


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「令和」時代を確かなる世界平和社会実現の第一歩に!

  30年にわたって続いた平成が間もなく終わりを告げ、新しい元号「令和」の時代を迎えることになります。戦後74年間、戦争がない平和社会の中で今日まで生きて来られたことに改めて感謝したいと思っております。これからの日本はどのような国づくりを目指すべきなのか、国民の一人として誰もが考えなければならない重要な課題ではないかと思う昨今です。
  人間が同じ人間を殺戮する戦争というものが、どれほど悲惨で残酷なものであるかは過去の体験や証言などから誰もが知っている筈ですが、世界に眼を転じてみると平和とは凡そ正反対の方向へ向かっている現実があるような気がしてなりません。現在の平和が保たれているのは、核兵器など軍事力の均衡であるなどとよく言われることがありますが、一体いつになったらこの世に大量破壊兵器をなくすることができるのでしょうか?

  筆者がこの世に生を受けたのは、終戦間もない昭和20年の秋でした。物心ついた頃に聞いた母の話によれば、食糧がなくて大変な思いをしたと言います。栄養不足のために母乳も満足に出なくて、赤ん坊であった筆者は母親の乳首を無我夢中で吸ったそうです。時に吸い方が激しく、乳首がもぎれそうになったともいいます。その後、弟二人が誕生しましたが、食糧事情は相変わらず大変だったことを子どもながらに覚えています。当時の御馳走の一つは、「生卵」でした。一個の生卵を割って醤油をたくさん入れ、兄弟三人で分けてご飯にかけて食べたことが今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。ご飯も今のような白米ではなく、麦ご飯と呼ばれるものでした。それでも当時「生卵かけご飯」を食べられるのは良い方だったことが数年前に分かりました。と言いますのは、北海道生まれ、北海道育ちのある大先輩から伺ったお話によれば、幼い頃口にしていたものは凡そ「人間の食べ物」とは程遠いものであったとしみじみ語っておりました。それほど生活に困窮した時代だったのです。

  筆者の小学校時代の楽しみの一つは、当時町に一台しかないテレビで「プロレス」を見ることでした。テレビのあるお寿司屋さんは、自宅から歩いて5分程の場所にありましたが、プロレス中継がある日は始まる数時間前から大人たちが酒を飲みながら開始時刻を楽しみに待っていたのです。店の主人は身体の小さい小学生のために道路沿いの窓のところに椅子を用意してくれ、その上に乗って部屋の中にあるテレビで当事プロレス界の王者であった力道山に声援を送りました。プロレス同様相撲も大人気で、地元茨城県平磯出身の大内山を応援したことが今でも懐かしい思い出になっております。我が屋に初めてテレビが入ったのは昭和34年春頃で、丁度その年の4月には明仁様と正田美智子様の成婚パレードの模様がテレビ中継され、多くの国民から祝福を受けました。
 歌好きの父親の影響を受けて流行歌が好きなこともあり、中学時代には三橋美智也、春日八郎などのベテラン歌手や当時デビューしたばかりの橋幸夫、舟木一夫などの歌をよくテレビで見たものです。今思い出すと滑稽な話なのですが、この頃テレビを賑わす大スターに憧れ、将来歌手になりたいと思って熱心に練習に張り込んだりしたものです。結果的にプロの歌手にはなれませんでしたが、当時一生懸命練習に励んだことが今でも時々役に立つことがあり、決して無駄にはなっていないと実感しています。

  高校に進学してからは、縁あって器械体操部に入部して練習に励む日々を送りました。運動能力のない自分にとっては大変でしたが、一つひとつの技を覚えるごとに喜びが涌き、大学進学後も教員になってからもずっと器械体操を続けてきたのです。この運動経験が今でも役に立っていることは言うまでもありません。心のどこかに「負けじ魂」が宿っているのかも・・・。ともあれ、今まで自分の好きな道を歩んでこられたのは、「平和社会であったればこそ」とつくづく思わずにはいられません。
 
  先日、「令和へ 次代を語る」と題するある新聞記事が眼に留まりました。その中で筆者は「『令和』は激動の時代になる。この先、北朝鮮がどうなるか分からないし、米国は『日本は勝手にやれ』みたいな態度だ。ただ付いていけば良いわけではない。国際環境は見通せない。そんな時代に過敏に反応し、危機意識を強く持ちすぎると、武張った強硬論や、『こうやれば全ては上手くいく』式のまやかし論にからめとられる。政治家にも国民にも、事態に距離を取ってみるという沈着な態度こそが必要だ。平成時代には諦め気分も漂ったが、物事の異変に右往左往しない落ち着いた気分、『平静』の芽生えがあった。この成熟した心の習慣が定着することで、令和の激動を乗り切ってほしいものである。若者が伸びていける社会の転換をもっと考えないといけない。子供を増やす方策、非正規雇用の改善、災害への備え、地方の衰退をどうするか。高齢者の力も大事だけれども、若い人だけのプロジェクトやチームに任せる試みがさらに必要だろう。
  平成は『改革と諦め』の時代だった。バブルが崩壊し、政治や教育もこのままではいけないと、衆院選への小選挙区導入や大学改革など、様々な改革が行われた。途中、民主党が政権を取ったが、思うような成果が出ないところに東日本大震災と原発事故という未曾有の災害が起きた。昭和までの『未来は今よりも良くなる』という『進歩・成長史観』は崩壊した。改革はうまくいかなくなり、経済もデフレ脱却ができず、諦めが漂うことになった。だが、長期停滞の中で人々は、現状維持であればまあ満足という気持ちになっている。欧米のようにポピュリズム(大衆迎合主義)が猛威をふるうこともなかった。否定面だけを見てはならないだろう―以下省略」と述べている。筆者とは社会学者の竹内洋氏であるが、さすがに学者だけあって目の付け所や分析力が違うなと感心させられました。

  昨年末に起こった韓国海軍によるレーダー照射問題などの例をみても、危機意識をあまり強く持ちすぎるととんでもない議論に発展してしまう恐れがあるように思います。国と国との間で起こる個々の問題を殊更に取り上げ、友好ムードを壊してしまってはならないと思います。尖閣諸島問題も解決しなければならない課題ではありますが、中国が日本にとって最大の貿易国である以上、粘り強い対話外交によって解決すべきであると感じています。
  日本の一部には、何か問題が起こる度に勇ましい事をいってナショナリズムを煽るような言動が見られますが、とても残念なことです。また明治初期以来、欧米列強のアジア侵略に抵抗するため,アジア諸民族は日本を盟主として団結すべきであるというアジア主義が生まれましたが、これも最終的には日本をアジアに浸出させる役割を果たし、新たな火種を生むことに至った経緯は歴史が如実に物語っているのではないでしょうか。
  この地球上から悲惨な戦争をなくすためには、今後人間生命の尊厳を説き明かした仏教の哲理に基づいた思想が鍵を握っているように思います。東洋思想の人間第一主義においては、地球上に住む全人類を運命共同体として捉えています。そのような視点に立っているのが「地球民族主義」です。この原理は「戦争は、国家と国家、民族と民族との抗争にほかならない。さらに、人類は原水爆という自らの滅亡につながりかねない大量殺りく兵器をもってしまった。その最終兵器もまた、国家に帰属しているのだ。ならば国家、民族という壁を取り払い、人類が「地球民族」という一体感に立たないかぎり戦争はなくすことはできない」というものです。これは、「自分は同じ地球に生きる”人間”であるという意識をもった『世界市民』を創出することを意味しています。

  結びにユネスコ憲章の前文を紹介したいと思います。
  この憲章の当事国政府は、この国民に代わって次のとおり宣言する。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信の為に、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。ここに終わりを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代りに、無知と偏見を通じて人種の不平等という教養を広めることによって可能にされた戦争であった。 文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、 かつ、すべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神を持って、果たさなければならない神聖な義務である。 政府の政治的及び経済的取り決めのみに基づく平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって、平和が失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かれなければならない。

二つの大きな仕事を終えて

  日常の雑事に追われ、ブログの更新が遅れてしまいましたことを心よりお詫び申し上げます。前回の更新が1月15日なので、半月以上そのままにしたことになります。言い訳になってしまいますが、「建国の記念日」に当たる2月11日、日本会議茨城から講演を依頼され、その準備に追われてしまいました。今年は明治維新から数えて151年を迎えるので、水戸の先人たちが果たした事績についてお話して欲しいと言われ、その資料づくりに専念することになりました。とは言っても、元々歴史については素人のため、参加者に満足いただけるようなお話をすることは出来ません。ただ、明治維新の魁となった「桜田事変」については多少勉強もしていたので、それを通して水戸藩の幕末・維新を振り返る方向で臨むことにしました。

 「県立青少年会館」を会場とした講演当日の日程は、第一部として日本会議茨城で企画した行事があり、それが終了した後、第二部として講演会の予定となっていましたが、第一部の行事が長引いたため、講演開始の予定時間が大分遅れてしまいました。夜には、自分自身が地元にもどって別の行事に出席することになっていたので、気分的に大分プレッシャーがかかってしまいました。第一部の行事には来賓として多数の国会議員、県知事(代理)、県議会議員等が招かれ、一人ひとり丁寧なご挨拶がありましたので止むを得なかったように思います。
  今回の講演主題は、「明治維新の原動力となった水戸の先人たちを偲ぶ」で、副題に掲げた―『桜田門外の変』を通して」―を中心に水戸藩の事蹟を紹介したいと思いましたが、制約された時間内で上手くそれを伝えられないまま終了してしまう結果となってしまいました。改めて講演の難しさを思い知らされたようで、冷や汗が止まりませんでした。
講演会後は、前回ご紹介した復刻改訂版「本間憲一郎先生の面影」の発刊に向けての校正作業が三回ほど続いたため、全神経をそれに集中しなければなりませんでした。そして、先月下旬、ようやく完成本が手元に届き、それを発行者である土浦の本間隆雄様にお渡しした次第です。

  3月3日(日)は、午後3時から土浦市真鍋の八坂神社で恒例の「桜田烈士祭」が斎行されることになっていましたが、折角の機会なので周辺の史跡巡りを計画し、午前中は友人4人とかすみがうら市中志筑にある「本堂氏の菩提樹・長興寺(市指定文化財)」、石岡市浦須の「佐久良東雄旧宅」、同市野田の「丸山古墳」を見学しました。その後、近くの店で蕎麦を食べたあと、つづら折れの細い山道を越えてつくば市に向かい、同小田にある「小田城跡」を見学しました。

  午後2時半過ぎには「桜田烈士祭」が行なわれる土浦市真鍋の八坂神社に到着し、社務所で受付を済ませました。その折、出来上がったばかりの復刻改訂版「本間憲一郎先生の面影」が手渡されました。休憩所となる社務所内は、既に4、50名の参列者が詰めかけていましたが、顔なじみの方も沢山いて旧交を温めることが出来ました。3時過ぎから拝殿に移動して厳粛に神事が執り行われたあと、詩吟に合わせた剣舞や居合抜刀術など恒例の奉納神事が披露され、参列者の眼を引きました。
  その後、再び社務所に戻ってから直会(なおらい)の宴が持たれ、冒頭代表世話人の本間隆雄様から桜田烈士に縁のある展示物についての解説がありました。参列者代表挨拶(国会議員、県会議員等)、来賓紹介、献杯のあと会食・懇談となり、それぞれ思い思いに雑談を交わしました。途中、私も指名され、桜田烈士の末裔として招かれたことに対して謝辞などを申し述べました。

  この「桜田烈士祭」は、大正15年、本間家の先代(憲一郎氏)から始まって94年間もつづいているというのですから驚きです。この背景には、桜田烈士・黒沢忠三郎の姉が本間家のご先祖本間玄調(水戸藩御殿医)の後妻に入ったことが縁になっていると伺っていますが、それにしても今日まで途絶えることなく執り行なわれてきたことに改めて深く敬意を表したいと思います。今回一緒に参加した友人のうち、初めての方が二人(私の先輩で茨城大学名誉教授N氏、自治会役員Y氏)いらっしゃいましたが、とても感動されていました。
  「桜田烈士祭」の代表世話人をされている本間隆雄様は私より10歳先輩になりますが、くれぐれも健康には気を付けていただきたいと心より願うばかりです。

今年の抱負 先ずは復刻版「本間憲一郎先生の面影を偲ぶ」の出版

  旧年度中は、多くの皆様方から当ブログにアクセスしていただき本当に有難うございました。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
  想い起しますと、60歳代には毎週のようにブログを更新してきましたが、年を経るごとに更新回数が減り、現在では月2回がやっとという状況になってしまいました。これではいけないと自分自身に言い聞かせるのですが、なかなか年には勝てないのが現実です。この9年間で第一作目の「情念の炎」上・中・下巻、および第二作目となる「烈士たちの挽歌」と合計4冊の小説を書き上げたことで全精力を全て使い果たしてしまったようにも感じられます。年賀状をいただいた方の中には、「次は何に挑戦するのですか?」というのもありましたが、一応自分としての目標は達成できたので、今年は少しのんびりしたいと考えております。その代わりといっては何ですが、昨年後半に手がけたものがあります。

  実は毎年3月3日、土浦市の八坂神社で恒例の「桜田烈士祭」が執り行われておりますが、数年前から私も子孫の一人として参加してまいりました。その世話人をなさっているのが宮司の本間隆雄さんです。江戸時代後期、第九代水戸藩主徳川斉昭の御典医(御殿医)として活躍された本間玄調<文化元年(1804年)~明治5年2月8日(1872年3月16日)>は本間隆雄さんのご先祖に当たります。最初にこのお話を聞かされた時にはびっくりしてしまいました。その本間家が何故「桜田烈士祭」をやるようになったのか不思議でなりませんでしたが、実は本間家と桜田烈士〇〇が親戚と聞かされ、またまたびっくりした次第です。
  本間隆雄さんの父親(養父)は「本間憲一郎」ですが、一般的には余り知られておりません。橘孝三郎や井上日召の名前は教科書にも登場するので有名ですが、本間憲一郎も同世代を生きた方で知る人ぞ知る人物の一人ではないでしょうか。ネットで検索すると次のように書いてあります。

  1889-1959 昭和時代の国家主義者。明治22年12月24日生まれ。陸軍通訳をつとめ,のち中国で陸軍の諜報活動にしたがう。昭和3年郷里茨城県に紫山塾をひらく。 五・一五事件に連座して禁固4年。14年「まことむすび社」を組織。戦後、新生日本同盟を結成。昭和34年9月19日死去。69歳。  東洋協会専門学校(現拓殖大)中退。
 
  この本間憲一郎の師匠というのは、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭・頭山満翁です。本間憲一郎は前述のように桜田烈士の一人と姻戚関係にあったことから、それまで靖国神社で執り行われていた「桜田烈士祭」を是非水戸で執り行ないたいと熱心に頭山に働きかけていたそうです。頭山翁はこの申し出を快諾し、はるばる水戸にやって来て常磐神社で第一回の「桜田烈士祭」が行われたのが縁で現在に至っております。

 本間憲一郎没後5年目となる昭和39年10月19日、東京虎ノ門の船舶倶楽部で「本間憲一郎先生五年祭」が執り行われましたが、その折、井上日象、橘孝三郎、天野辰夫、吉田益参、三浦義一、鈴木善一、久野益義、薄井己亥、白阪励、白井為雄、河上利治、小沼広晃、影山正治、中村武彦の14人が世話人代表となって「本間憲一郎先生の面影を偲ぶ」という題名の小冊子がつくられ、参列者全員に配られたことを昨年隆雄様から伺いました。当初500冊を用意したそうですが、200冊ほど不足したためすぐに増刷して参列者に郵送したとのことです。

 当時作られた小冊子は現在本間家に1冊しかないということなので、「是非復刻版を刊行してはどうか」と持ち掛けたところ快諾していただいたので、昨年5月小冊子をお借りして私がパソコンで原稿を作成することになった次第です。
 小冊子を拝見しますと、題名に「本間憲一郎先生を偲ぶ」とある通り、その人となりが私の胸を打ちました。現在、本間憲一郎の存在、人柄を知っている人はごく一部でしかありません。郷土の誇りのためにも是非多くの方々に知って欲しいと願っております。復刻版は今年2月末までに完成する予定なので、参列者全員に配布できることを楽しみにしております。またこれを機に、私自身近現代の歴史、郷土史についてもしっかり勉強できればと思っている次第です。

小説「烈士たちの挽歌」出版記念シンポジウム、盛会のうちに幕を閉じる。

 本年最後のイベントとなる「烈士たちの挽歌」出版記念シンポジウムが去る12月9日午後、県立歴史館講堂で開催されました。このイベントには県内各地より200名を超える方々が出席され、水戸藩の幕末史に関するお話や討論に熱心に耳を傾けました。大変嬉しいことに、参加者の中には真壁在住の菅谷中学時代の同級生、および高校の同級生などの姿もあり、感慨深いものがありました。

  会合は二部構成に分かれ、第一部では約一時間にわたり仲田昭一那珂市歴史民俗資料館長による基調講演(演題「明治維新と水戸」)が行われました。参加者は、受付で配布された8ページ版のレジュメに眼を通しながら真剣に聞き入っておりました。発表内容は7項目(1.五箇条の御誓文の発布 2.朝廷の復権と開国 3.他藩士と水戸 4.徳川慶喜の至誠 5.水戸徳川家の家訓の継承 6.慶喜の決意 7.根本 正 -水戸学の発展―)と「まとめ」からなっておりました。これだけボリウムのある内容をたった一時間でお話するのは至難の業でしょうが、経験の豊かさで上手くまとめていただきました。

  その後、十分間の休憩をはさみ、パネリスト役の久野勝弥水戸史学会副会長、久信田喜一茨城地方史研究会会長、石井裕県立歴史館主席研究員、仲田昭一那珂市歴史民俗資料館長の四人の講師の先生方が登壇し、水戸藩の果たした役割や事績などについてそれぞれの思いを語っていただきました。シンポジウムについては余裕をもち、全体で2時間ほど取っていたのですが、実際に始まってみますとアッという間に終わってしまった感があり、果たして参加者に十分ご満足いただけたのかどうか心配になってしまったというのが偽らざる実感です。本来、小生が務めさせていただいたコーディネーターというのは講師の先生方の持ち味を十分に発揮させる立場にある訳ですが、その責任が十分果たせたのかどうか、甚だ心許ないものを感じておる次第です。アンケート調査は実施しませんでしたので、参加者がどのように感じたか把握できなかったのが残念です。

  さて、今回のシンポジウムが開催できたのは、実行委員会を立ち上げてくれた高校時代の友人や地元ひたちなか市の「楽歴会」メンバーのお陰であると深く感謝しているところです。第一回実行委員会を開いたのが去る7月初旬で、当初は10月か11月に開催を予定していたのですが、7月中旬から例年にない猛暑が続いて第二回の実行委員会が持てず、一時は諦めかけておりました。9月に入ってからようやく第二回目の実行委員会を開くことができ、さらに第三回、四回と積み重ね、何とか今回の開催に漕ぎ着けることができました。本当にお世話さまでした。

  蛇足ではありますが、当初、小説「烈士たちの挽歌」出版記念講演会と銘打ち、私自身が執筆動機や経緯などについて講演する予定でしたが、それでは「人を集められない」との結論に達し、知名度のある専門家の先生方の協力を仰ぐことになった次第です。今回200名を超える方々にご出席をいただくことが出来ましたのも、講師を快く引受けて下った講師の先生方のお陰であり、この場を借りて厚く御礼申し上げたいと存じます。またご多用の中、お祝いのメッセージを寄せてくださった高橋靖水戸市長に敬意を表したいと思います。
  今回開催されたシンポジウムを大きなバネとして、今年実現できなかった単独の講演会を来年中に開催できればと願っております。


プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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