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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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令和元年度 「歴史研修旅行」 を終えて

  先月9月27日(金)から9月30日(月)まで、3泊4日の日程で四国の松山市、高知市の史跡巡りをしてきました。前年度までは鳥取や京都の仲間と一緒でしたが、今回は諸事情が重なり、水戸勢5人だけの研修旅行となりました。
年金生活者にとっては、如何に旅行経費を抑えられるかが重要となるので、航空券や高速バス券については出来るだけ早めに申込むことにしました。早割やネットを活用することによって、大分経費が抑えられました。また、今回、宿泊は朝夕2食付きでなく朝食のみとし、夕食は外食することにしました。飛行機も駐車場の関係(無料)で茨城空港発の便が一番良いのですが、四国への直行便がないため、止むを得ず成田空港発のジェットスターを利用することになり、それに合わせて車は成田空港近くにある有料駐車場に4日間預けることにしました。

〇主な旅行行程
  9月27日(金)
  午前7時30分 水戸市の友人宅集合 → 水戸大洗から成田空港近くの駐車場まで高速道路 → 送迎バスで成田空港へ
  東京/成田空港 搭乗便GK403 10:25発 → 松山12:10着 
     昼 食 「松山空港内」レストラン 
  昼食後、リムジンバスで大街道駅へ → 到着後、徒歩で宿泊先の「松山ニューグランドホテル」へ(荷物預け)
      休憩後、松山城へ移動
   (ロープウェイで山麓駅『東雲口』~山頂駅『長者ヶ平』へ)
      松山城見学後、電車で道後温泉へ(温泉街散策・入浴)
   入浴後、ホテル近くのレストランで夕食

  9月28日(土)
    午前 松山市内商店街散策 → 電車で喜多郡内子町へ移動
        情緒漂う懐かしい町並み、内子座などを見学 
         (内子町で昼食)
    午後 高速バスで高知市へ移動
       JR松山駅発15:35 → はりまや橋着18:20 伊予鉄5号             
       (走行距離161km  所要時間2時間40分 運転手1名・高知道経由)
        到着後、宿泊先の高知共済会館へ 
        チェックイン後、市内散策、夕食 

9月29日(日)
   午前 日曜市見学 → 高知城見学 → 龍馬の生まれたまち記念館へ
        昼食「こうち旅広場」
   午後 南国市へ移動 →「高知県立歴史民俗資料館」
         (長宗我部氏の居城であった国史跡・岡豊城跡にある歴史系総合博物館)
   宿泊先 ホテルエリアワン高知

 9月30日(月)
   午前 レンタカーで桂浜方面へ 
        → 途中、長浜の「長宗我部元親公初陣之像」を見学
         高知市浦戸城山到着後、「高知県立坂本龍馬記念館」→ 桂浜公園内の坂本龍馬像を見学
   午後 桂浜から高知空港へ移動 → 空港施設内で昼食
       高知空港発GK426 14:55発 → 東京/成田着16:25 
     空港到着後、送迎車で駐車場へ
         → 成田インターから圏央道で水戸へ

〇感 想
  小生にとって伊予松山も土佐高知も行ったことがないので、見る物全てが新鮮であり感動的であった。初めて見る松山城の威容、石垣の素晴らしさには圧倒された。今まではテレビでしか見たことのない道後温泉街は大変賑やかで、大勢の観光客で賑わっていました。時間に余裕があって喜多郡内子へも足を伸ばし、明治時代さながらの貴重な町並みを歩くことが出来たほか、喫茶店でコーヒーを飲みながら地元のご婦人方と交流のひと時が持てたことは幸いなことでした。当地で食べた日本蕎麦の美味しかったこと、最高でした。
  土佐の高知では、主に坂本竜馬や長曾我部元親に関する資料を展示する資料館に入り、いろいろなことを学ばせていただきました。偉人が育った場所で同じ空気を吸えたことは貴重な体験となりました。「高知県立坂本龍馬記念館」はリニューアルオープンしたせいか、とても綺麗な建物で、展示内容等も充実していたのが印象的でした。

  今回の研修旅行で一番気がかりだったのは天候でした。直前の予報では曇り又は小雨となっていましたが、結果的には全て好天に恵まれたことが一番良かったと思います。旅行期間中、毎日2万歩近く歩いたせいか、皆へとへとになってしまいました。今後は参加者全員、しっかり体力をつけて本番に臨むことが必要だと感じました。










 

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平和の詩 「本当の幸せ」

沖縄慰霊の日、いまを生きる小学生が問いかけた幸せの意味。
「お金持ちになることや 有名になることが幸せではない」


  6月23日(日)、沖縄県糸満市の平和祈念公園で開催された「令和元年沖縄全戦没者追悼式」の席上、山内玲奈さん(糸満市立兼城小6年)が朗読した自作の詩に深い感銘を受けましたのでご紹介したいと思います。

平和の詩「本当の幸せ」

青くきれいな海
この海は どんな景色を見たのだろうか
爆弾が何発も打ちこまれ 
炎で包まれた町
そんな沖縄を見たのではないだろうか

緑あふれる大地 
この大地はどんな声を聞いたのだろうか
けたたましい爆音 
泣き叫ぶ幼子 
兵士の声や銃声が入り乱れた戦場
そんな沖縄を聞いたのだろうか

青く澄み渡る空
この空は 
どんなことを思ったのだろうか
緑が消え 
町が消え 
希望の光を失った島
体が震え 
心も震えた
いくつもの尊い命が奪われたことを知り
そんな沖縄に涙したのだろうか

平成時代 
私はこの世に生まれた
青くきれいな海 
緑あふれる大地 
青く澄みわたる空しか知らない私
海や大地や空が74年前 
何を見て 
何を聞き 
何を思ったのか
知らない世代が増えている

体験したことはなくとも
戦争の悲惨さを 
決して繰り返してはいけないことを 
伝え継いでいくことは
今に生きる私たちの使命だ

二度と悲しい涙を流さないために
この島が 
この国が 
この世界が幸せであるように
お金持ちになることや 有名になることが幸せではない
家族と友達と笑い合える毎日こそが 本当の幸せだ
未来に夢を持つことこそが 最高の幸せだ

「命どぅ宝」
生きているから笑い合える
生きているから未来がある
令和時代 
明日への希望を願う新しい時代が始まった
この幸せをいつまでも


タイトル 幕末動乱の地を行く(7)
サブタイトル 安政の大獄 ⑤               伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明


  幕府は水戸藩に「戊午の密勅」を朝廷に返還すべきであると迫った。水戸藩の意見は二分し、戊午の密勅を戻す必要がないとの意見が激化し、有志たちは水戸藩境の2里8町(約9キロ)水戸街道の長岡宿(茨城県茨城町長岡)で街道を封鎖した。この長岡屯所は水戸藩上層部の工作により懐柔され失敗した。
  過激派の藩士たちは活動の中心を江戸に移した。以前より攘夷派の後に桜田門外の変を計画した高橋多一郎や金子孫二郎などの水戸藩士と、薩摩藩の江戸藩在中組の有村次左衛門は薩摩の挙兵により上京し、義軍及び孝明天皇の勅書をもって京都における挙義を断行し、幕政を一気に是正しようとしていた。
  しかし、薩摩藩は第11代藩主島津斉彬が急死してしまった。後に実権を握った弟の島津久光が、江戸での「挙義」を黙認しつつも薩摩藩の直接関与を避ける方策をとった。久光の子、最後の薩摩藩主島津茂久が直書で志士の「精忠」を賞賛したが後日のために脱藩することを思いとどまるように説諭した。異例の対応で攘夷激派を強引に沈静化させたのである。

  ここに薩摩藩の挙兵上京は不可能となり、京都における攘夷派の蜂起は破綻することになった。幕政是正のためには井伊直弼の排除が必要不可欠とする水戸浪士たちは、関東における挙義を単独でも実行する方針を固めていた。薩摩との合流のため水戸藩士高橋多一郎、金子孫二郎らは京へ上り、関東では水戸藩士関鉄之介率いる実行部隊が井伊大老襲撃を断行するとして分かれ、関東組へは江戸薩摩藩在中組のうち有村次左衛門が桜田門外の変に一人加勢した。
  鯉渕義文氏は茨城大学の後輩、桜田門外の変の烈士鯉渕要の玄孫である。鯉渕義文氏は「桜田門外の変」を描いた小説「情念の炎」を執筆した。「この桜田事変は今までタブー視され、一方では暗いイメージとして捉えられてきた経緯があります。しかし、よくよく調べてみると、襲撃を計画した水戸藩士も、襲撃に加わった下級武士たちも決してテロリストとして訓練されてきた人たちではなく、寧ろ、当時の緊迫した外交問題や内政問題を真剣に考え、真面目な生き方を貫いてきた民政家でありと、高い見識と教養と身に付けていた人物であったような気がしてなりません」と語られた。

戦争を「やめる」 憲法で明言

戦争止(や)める言葉

  今日の茨城新聞17面に興味深い記事が掲載されたので紹介したいと思います。筆を執ったのは、俳優、劇作家、演出家として活躍している野田秀樹氏63歳です。

  「自称平和主義者は、どんな争いも話し合いで解決できるというが、言葉によって戦争を止められるならばその言葉を教えてほしい」と若者に問われたならばどう答えるでしょうか? 私は自称平和主義者でもないし、どんな争いも話し合いで解決できるとは思わない。だが「言葉によって戦争を止められるならばその言葉を教えてほしい」との答えは知っている。……いきなり大風呂敷で始まった。

 さて、先のコトバを語った若者というのは、クリミヤ半島をロシアに奪われたウクライナ出身の留学生である。紛争地域の若者のコトバだけに説得力はある。「甘いこと言ってんじゃねえよ、現実に紛争や戦争が起こってみな、大変なんだぜ」ということだ。気持ちはわかる。だが若者特有の極端な問いかけだ。
  この発言は、憲法記念日の5月3日、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」などが開いたフォーラムでのことだった。「アメリカに押し付けられた憲法は美しくない!」と情緒的に騒いでいる人々が、ウクライナの若者の力まで借りて、憲法を改正している姿はまことに美しい。そして「言葉では戦争を止められない」と言葉の無力を訴えてまで改正しようとしている「憲法」が、実は「言葉」の産物だという矛盾には、その「美しい国」の人々は気がつかずにいる。-中略-

  「言葉によって戦争を止められるならばその言葉を教えて欲しい」というこの言葉の裏にあるものは「言葉は無力で、結局戦争が始まったら『力』で、すなわち『軍隊』で立ち向かわなければならない。だから現行憲法のような弱腰の言葉ではなく、はっきりと『力』を行使する。と明記しろ」ということだろう。
  「憲法改正」どころか、「戦争放棄の放棄」を訴えている。だが、「言葉によって戦争を止められるならばその言葉を教えて欲しい」の答えは意外にも簡単だ。「戦争をやめる」である。極端な問いには、極端的な答えでよい。1945年、日本は「玉音放送」という言葉で戦争を止めた。もちろんその前の「敗走つづき」と「原爆投下」を受けての「玉音放送」だ。だが、戦争は「言葉」で止まった。時すでに遅かった。だからこそ、戦後もう一度、日本は永久に「戦争をやめる」ことを憲法で明言したのだ。

  ウクライナの若者の言葉も重いのだろうが、われわれ日本人もその昔、軽々しく「戦争をやめる」と言ったわけではない。自称平和主義者ではない。とことん戦争をしてとことん負けた民族だったからだ。自虐史ではない。事実史である。


戊辰戦争150周年記念 タイトル 幕末動乱の地を行く(6)
               サブタイトル 安政の大獄 ④  伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

  安政の大獄の行われたもう一つの要因に、条約勅許問題がある。井伊大老は孝明天皇の勅許のないまま外国と安政の五ヶ国条約(アメリカ・オランダ・イギリス・ロシア・フランス)に調印した。条約反対派の一橋派の徳川斉昭や福井藩主松平春嶽は登城を禁じれされていたが無断で登城し違勅を非難した。そのため発言は封じられ処罰された。徳川斉昭が永蟄居の処分を受けた。

  更に幕府より「戊午(ぼご)の密勅」の朝廷返還を求められていた。戊午の密勅は安政5年8月8日(1858)に孝明天皇が水戸藩に勅書を下賜した事件である。「戊午」は下賜された安政5年の干支が戊午(つちのえ・うま)であったことに由来する。幕府の無断調印に激怒した孝明天皇は幕府と水戸藩に対して、勅書を下賜した。幕府への勅書は水戸藩の2日後である。
  「密勅」とは正式な手続を取らず関白九条尚忠の裁可を経ないままの下賜であった。前例のない藩への直接降下であるので密勅と呼ばれる。勅書は幕府に斉昭らの処罰の理由を問い、さらに御三家や諸大名は幕府に協力して公武合体を強化せよとの趣旨のものである。水戸藩への密勅へは、勅書の内容を水戸藩から御三家や諸藩に伝えるようにとの副書がついていた。

  密勅は九条関白の目を避け,8月7日深更,万里小路正房より水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門に下ったが、吉左衛門の持病が悪化していたため,子の幸吉知明が替わりに受領、名を小瀬伝左衛門と替え,東海道を下り、16日深夜に水戸藩家老、安島帯刀を介して水戸藩主徳川慶篤に伝えられた。幕府には10日に禁裏付の大久保一翁(後の徳川家会計総裁)を通じて伝えられたが、江戸より水戸に先着することを図っての時期であった。

  井伊直弼は、徳川斉昭の処分解除には幕府への恭順と同時に「戊午の密勅」の返還を求めた。さらに幕府自らが返還の勅命の草案を作り、孝明天皇に無理に認めさせるという行動に出て緊迫した状況に陥ったのである。幕府の勅書は「御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよ」との命令である。
  朝廷の権威により回復を図ろうとする一橋派は京都で運動を行い、「公武一和」のために京都の公家が井伊に屈したことで安政の大獄はさらに加速する。公武一和とは『公武合体』によって、尊皇攘夷運動を否認する危険性を緩和しようとした。14代将軍・徳川家茂と和宮(孝明天皇の妹)が結婚した『和宮降嫁』も、この公武合体政策の一つである。  つづく


新天皇即位  「令和」の幕開け

新時代を明るい未来へ!

  本日、新しい天皇陛下が即位され、「令和」の時代が幕を開けました。新元号には「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められているといいます。普段はあまりテレビを見ることが少ない筆者であるが、ここ数日間は時間的にも余裕があったので、天皇、皇后に関する番組を興味深く見ることができました。象徴天皇というお立場がどのようなものであるか、そのことをひたすら摸索しながら行動されてこられたことに深い感動を覚えずにはいられません。一連の報道の中で取り分け印象的だったのは、民間から初めて皇后になられた美智子様のご奮闘ぶりでした。時に批判され、声も出なくなった苦難の時期を過ごされたこともありましたが、それを見事に乗り越えて最後まで天皇を陰で支えられた功績は誠に偉大であったように思います。強い支えがあったからこそ、天皇陛下も勇気を奮い起こされ、象徴としてのお務めを果たされてこられたのではないかと思う次第です。
  天皇・皇后がいかに世界の平和と国民の幸福を強く望んでおられるか、様々な映像を通してそのことが強く印象付けられました。私たち国民の一人ひとりが、この尊いお気持ちを察して今後どのように生きいけば良いのか、そのようなことをしみじみ考えさせられました。

本日、天皇陛下が即位後朝見の儀で述べられたお言葉

  「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。顧みれば、上皇陛下には御即位より、30年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽(さん)に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」

 「両陛下が確立した平成の皇室像に紆余曲折…乗り越えた右派の批判」
  4/30(火) 7:00に配信された放送大学教授・原武史先生記事を紹介します。

  天皇や皇后がひざまつき、被災者に話しかけるスタイルが確立された平成の皇室。全国各地で国民一人ひとりと直接つながることで、おのずと「国体」が強化されていった。一方で、これまでとは違う天皇像に右派から批判があったのも事実だ。放送大学教授の原武史さんがリポートする。
    *       *      *
  1962年5月の宮崎、鹿児島、熊本行啓からは、主に地元の青年男女を集めて懇談会が開かれるのが恒例となる。懇談会というのは、皇太子夫妻が泊まった施設や公共施設で、5~10人程度の人々とテーブルを囲み、1~2時間かけて各地方で起こっているさまざまな問題につき、直接質問したり意見を聞いたりする会合のことだ。昭和天皇は、東宮御学問所で帝王は言葉を慎むべきだとする儒教式の教育を受けたため、人々との会話に慣れていなかった。この点は香淳皇后も同様であった。一方、皇太子夫妻は長時間にわたり、人々と話し合える言葉の力をもっていた。一見、皇太子が司会の役割を演じながら、座が和んでくると美智子妃が主導したという。
  美智子妃は63年に第二子を流産するが、引きこもらず、皇太子とともに山口県を訪れ、懇談会に臨んだ。地元の保健婦や農村青年と話した時間は、合わせて2時間半に及んだ。言葉の力によって危機を乗り越えるのだ。懇談会は、タウンミーティングとしての意味をもっていた。地元議会に女性がほぼいなかったことを考えれば、美智子妃が若い女性の声をすくい上げ、その声が地方紙などに大きく掲載されることの意味は小さくなかった。だが右派にとって、天皇と皇后は決して対等であってはならなかった。彼らは昭和天皇のような神格化した権威を、次代の天皇にも求めようとしていたからである。「日本を守る国民会議」を中心とする右派が80年代から復活させたのが、提灯奉迎である。提灯奉迎というのは、ただ提灯行列を行うだけでなく、天皇や皇后に向かって人々が提灯を振り上げ、万歳を叫ぶ奉迎のことだ。
  昭和天皇の在位60年に当たる86年11月には、皇居前広場で提灯奉迎が復活した。88年には、昭和天皇の名代として皇太子夫妻が全国植樹祭に出席するため訪れた高松市のホテルでも、提灯奉迎が行われた。右派にとっては、人々から仰ぎ見られ、高みから提灯を振る天皇こそ理想の天皇であった。だが彼らの期待に反して、こうした天皇像が平成に定着することはなく、それとは正反対の天皇像が定着してゆくのだ。
  その姿が初めてあらわになるきっかけとなったのが、1991(平成3)年6月に長崎県の雲仙・普賢岳で起こった大火砕流である。天皇と皇后は、7月に被災地を日帰りで訪れた。災害の直後に被災地を二人で訪れたのは、これが初めてであった。テレビのニュースには、被災者が収容された島原市の体育館で、天皇と皇后が二手に分かれてひざまずき、同じ目の高さで一人ひとりに語りかける映像が繰り返し流れた。これは60年代から福祉施設で美智子妃が率先して行い、皇太子がならったスタイルにほかならなかった。昭和期には天皇と皇后の陰に隠れて見えなかった「平成」が、初めてあらわになったのだ。
  93年になると、昭和天皇と香淳皇后が住んでいた吹上御所に代わる新御所の建設を機に、「皇室バッシング」というべき現象が生まれた。宮内庁職員を自称する「大内糺(ただす)」という人物は、こう述べている。
「本来、ご皇室にとって皇后陛下は、あまり意味のある存在ではない。ご公務はもちろん、大抵の儀式も天皇陛下がおいでになれば事足りる。(中略)それなのに、最近では国際親善の場面にとどまらず、あらゆるところにご夫妻として参加されるようになってきているのである」(「皇室の危機」、「宝島30」93年8月号所収)
  ここには右派の本音が透けて見えている。彼らにとって、常に天皇に寄り添う皇后の姿は、目ざわり以外の何物でもなかったのだ。皇后は、この年の10月20日の誕生日に際して、「事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます」「事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません」などと反論する文書を公表した。言葉に対しては言葉で反論するという姿勢を見せたわけだ。 しかし精神的な苦痛からか、誕生日に倒れ、失声症になっている。だがこのときも、皇居に引きこもることはなかった。11月6日には、天皇とともに松山市の愛媛県身体障害者福祉センターを訪れている。

  「出迎えた県聴覚障害者協会長西原治見さん(中略)に、皇后さまが手話で『お会いできてとてもうれしいです』と話しかけられた。西原さんが、皇后さまの体を気遣って『がんばって下さい』と答えると、にっこりほほ笑まれたという」(「愛媛新聞」93年11月7日)
  皇后は、声を失っても手話で人々と会話を続けることで、危機を乗り越えたのだ。またしても言葉の力が発揮されたのである。95年1月に起こった阪神・淡路大震災でも、天皇と皇后の現地での振る舞いが右派から批判を浴びた。「日本を守る国民会議」の代表委員を務めていた江藤淳は、「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない。現行憲法上も特別な地位に立っておられる方々であってみれば、立ったままで構わない」などと述べている。(「皇室にあえて問う」、「文藝春秋」95年3月号所収)。
  しかし天皇と皇后は、昭和期に美智子妃が主導する形で確立され、平成になってあらわになったスタイルを変えようとはしなかった。宿泊を伴う定例の行幸啓では右派による提灯奉迎にこたえつつも、天皇の隣には常に皇后がいた。二人は全国各地の福祉施設で、そして被災地で時としてひざまずき、「市井の人々」に同じ目線で語りかけたのである。
  その人数を累積すれば、おびただしい数にのぼる。行幸啓を重ねれば重ねるほど、政府や議会を介在せず、天皇や皇后と一人ひとりの国民が直接つながる関係が強まったのだ。天皇と万単位の人々がひとつになる昭和の「君民一体」とはちがい、今度は一対一の関係で、天皇と「市井の人々」がひとつになる。これをミクロ化した「国体」の強化と言い換えてもよいだろう。


「令和」時代を確かなる世界平和社会実現の第一歩に!

  30年にわたって続いた平成が間もなく終わりを告げ、新しい元号「令和」の時代を迎えることになります。戦後74年間、戦争がない平和社会の中で今日まで生きて来られたことに改めて感謝したいと思っております。これからの日本はどのような国づくりを目指すべきなのか、国民の一人として誰もが考えなければならない重要な課題ではないかと思う昨今です。
  人間が同じ人間を殺戮する戦争というものが、どれほど悲惨で残酷なものであるかは過去の体験や証言などから誰もが知っている筈ですが、世界に眼を転じてみると平和とは凡そ正反対の方向へ向かっている現実があるような気がしてなりません。現在の平和が保たれているのは、核兵器など軍事力の均衡であるなどとよく言われることがありますが、一体いつになったらこの世に大量破壊兵器をなくすることができるのでしょうか?

  筆者がこの世に生を受けたのは、終戦間もない昭和20年の秋でした。物心ついた頃に聞いた母の話によれば、食糧がなくて大変な思いをしたと言います。栄養不足のために母乳も満足に出なくて、赤ん坊であった筆者は母親の乳首を無我夢中で吸ったそうです。時に吸い方が激しく、乳首がもぎれそうになったともいいます。その後、弟二人が誕生しましたが、食糧事情は相変わらず大変だったことを子どもながらに覚えています。当時の御馳走の一つは、「生卵」でした。一個の生卵を割って醤油をたくさん入れ、兄弟三人で分けてご飯にかけて食べたことが今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。ご飯も今のような白米ではなく、麦ご飯と呼ばれるものでした。それでも当時「生卵かけご飯」を食べられるのは良い方だったことが数年前に分かりました。と言いますのは、北海道生まれ、北海道育ちのある大先輩から伺ったお話によれば、幼い頃口にしていたものは凡そ「人間の食べ物」とは程遠いものであったとしみじみ語っておりました。それほど生活に困窮した時代だったのです。

  筆者の小学校時代の楽しみの一つは、当時町に一台しかないテレビで「プロレス」を見ることでした。テレビのあるお寿司屋さんは、自宅から歩いて5分程の場所にありましたが、プロレス中継がある日は始まる数時間前から大人たちが酒を飲みながら開始時刻を楽しみに待っていたのです。店の主人は身体の小さい小学生のために道路沿いの窓のところに椅子を用意してくれ、その上に乗って部屋の中にあるテレビで当事プロレス界の王者であった力道山に声援を送りました。プロレス同様相撲も大人気で、地元茨城県平磯出身の大内山を応援したことが今でも懐かしい思い出になっております。我が屋に初めてテレビが入ったのは昭和34年春頃で、丁度その年の4月には明仁様と正田美智子様の成婚パレードの模様がテレビ中継され、多くの国民から祝福を受けました。
 歌好きの父親の影響を受けて流行歌が好きなこともあり、中学時代には三橋美智也、春日八郎などのベテラン歌手や当時デビューしたばかりの橋幸夫、舟木一夫などの歌をよくテレビで見たものです。今思い出すと滑稽な話なのですが、この頃テレビを賑わす大スターに憧れ、将来歌手になりたいと思って熱心に練習に張り込んだりしたものです。結果的にプロの歌手にはなれませんでしたが、当時一生懸命練習に励んだことが今でも時々役に立つことがあり、決して無駄にはなっていないと実感しています。

  高校に進学してからは、縁あって器械体操部に入部して練習に励む日々を送りました。運動能力のない自分にとっては大変でしたが、一つひとつの技を覚えるごとに喜びが涌き、大学進学後も教員になってからもずっと器械体操を続けてきたのです。この運動経験が今でも役に立っていることは言うまでもありません。心のどこかに「負けじ魂」が宿っているのかも・・・。ともあれ、今まで自分の好きな道を歩んでこられたのは、「平和社会であったればこそ」とつくづく思わずにはいられません。
 
  先日、「令和へ 次代を語る」と題するある新聞記事が眼に留まりました。その中で筆者は「『令和』は激動の時代になる。この先、北朝鮮がどうなるか分からないし、米国は『日本は勝手にやれ』みたいな態度だ。ただ付いていけば良いわけではない。国際環境は見通せない。そんな時代に過敏に反応し、危機意識を強く持ちすぎると、武張った強硬論や、『こうやれば全ては上手くいく』式のまやかし論にからめとられる。政治家にも国民にも、事態に距離を取ってみるという沈着な態度こそが必要だ。平成時代には諦め気分も漂ったが、物事の異変に右往左往しない落ち着いた気分、『平静』の芽生えがあった。この成熟した心の習慣が定着することで、令和の激動を乗り切ってほしいものである。若者が伸びていける社会の転換をもっと考えないといけない。子供を増やす方策、非正規雇用の改善、災害への備え、地方の衰退をどうするか。高齢者の力も大事だけれども、若い人だけのプロジェクトやチームに任せる試みがさらに必要だろう。
  平成は『改革と諦め』の時代だった。バブルが崩壊し、政治や教育もこのままではいけないと、衆院選への小選挙区導入や大学改革など、様々な改革が行われた。途中、民主党が政権を取ったが、思うような成果が出ないところに東日本大震災と原発事故という未曾有の災害が起きた。昭和までの『未来は今よりも良くなる』という『進歩・成長史観』は崩壊した。改革はうまくいかなくなり、経済もデフレ脱却ができず、諦めが漂うことになった。だが、長期停滞の中で人々は、現状維持であればまあ満足という気持ちになっている。欧米のようにポピュリズム(大衆迎合主義)が猛威をふるうこともなかった。否定面だけを見てはならないだろう―以下省略」と述べている。筆者とは社会学者の竹内洋氏であるが、さすがに学者だけあって目の付け所や分析力が違うなと感心させられました。

  昨年末に起こった韓国海軍によるレーダー照射問題などの例をみても、危機意識をあまり強く持ちすぎるととんでもない議論に発展してしまう恐れがあるように思います。国と国との間で起こる個々の問題を殊更に取り上げ、友好ムードを壊してしまってはならないと思います。尖閣諸島問題も解決しなければならない課題ではありますが、中国が日本にとって最大の貿易国である以上、粘り強い対話外交によって解決すべきであると感じています。
  日本の一部には、何か問題が起こる度に勇ましい事をいってナショナリズムを煽るような言動が見られますが、とても残念なことです。また明治初期以来、欧米列強のアジア侵略に抵抗するため,アジア諸民族は日本を盟主として団結すべきであるというアジア主義が生まれましたが、これも最終的には日本をアジアに浸出させる役割を果たし、新たな火種を生むことに至った経緯は歴史が如実に物語っているのではないでしょうか。
  この地球上から悲惨な戦争をなくすためには、今後人間生命の尊厳を説き明かした仏教の哲理に基づいた思想が鍵を握っているように思います。東洋思想の人間第一主義においては、地球上に住む全人類を運命共同体として捉えています。そのような視点に立っているのが「地球民族主義」です。この原理は「戦争は、国家と国家、民族と民族との抗争にほかならない。さらに、人類は原水爆という自らの滅亡につながりかねない大量殺りく兵器をもってしまった。その最終兵器もまた、国家に帰属しているのだ。ならば国家、民族という壁を取り払い、人類が「地球民族」という一体感に立たないかぎり戦争はなくすことはできない」というものです。これは、「自分は同じ地球に生きる”人間”であるという意識をもった『世界市民』を創出することを意味しています。

  結びにユネスコ憲章の前文を紹介したいと思います。
  この憲章の当事国政府は、この国民に代わって次のとおり宣言する。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信の為に、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。ここに終わりを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代りに、無知と偏見を通じて人種の不平等という教養を広めることによって可能にされた戦争であった。 文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、 かつ、すべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神を持って、果たさなければならない神聖な義務である。 政府の政治的及び経済的取り決めのみに基づく平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって、平和が失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かれなければならない。
プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
 「情念の炎」下巻
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