桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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新作原稿( 仮称『遠い夜明け』―水戸藩始末―)、四年越しの苦労やっと実る ①

  もともと小説に関して門外漢の私が、初めて手がけたのは「桜田事変」を題材に扱った「情念の炎」で、九年ほど前に自費出版本の出版にこぎつけることができた。その後、下巻を執筆しているうちページ数が多くなり、上中下の三巻に増えてしまった。
 下巻が完成したのは平成二十四年十一月で、これで終わりにしようと思っていたのであるが、その後の水戸藩の様子が無性に知りたくなって図書館通いをしているうち、今まで分らなかった水戸藩党争の激しさを知り、唖然とさせられた。 
 水戸には天狗党と結城残党(諸生党)があり、両者が激しく対立したことは断片的に知ってはいたが、いろいろ調べていくうちに様々なことが分かり、その時代に生きなければならなかった先人たちの並々ならぬ辛苦がひしひしと伝わってきた。
  水戸藩幕末史に関する小説では、主に天狗党を題材とした本が数多く出版されているが、大半は「天狗党の乱」を題材とした作品が中心で、かれらが処刑された慶応元年二月以降から明治期までを扱った作品は見たことがない。
 結城残党(諸生党)を中心とした作品も少数で、ましてや両者を総合的に扱った小説は皆無と言っても過言ではない。想像するところ小説の題材としては馴染みにくいという側面と、もう一つは余りにも残忍な仕打ちが繰返されたため、それを取上げることに大きな抵抗があったのかも知れない。
  取分け、市川三左衛門ら保守門閥派が水戸藩政の実権を握った元治元年(一八六四)十一月から、市川勢が壊滅する明治元年十月までの史実を知れば知るほど、如何に水戸藩内で激しい党争が繰返されてきたかということが分かり、暗澹たる気分になる。
 しかし、明治維新百五十周年という大きな節目を来年に控えた本年、先人たちがたどって来た言語に絶するような凄まじい歴史の事実を知り、その途上で亡くなられた多くの人々のご冥福を祈ることも大切であると考え、今回敢えてタブーに挑戦して筆を走らせた次第である。
  さて、水戸藩の歴史に関することでよく話題になるのが、 「何故水戸藩が分裂し、党派間で血生臭い争いが続くことになったのか?」、「何故保守派は敵対する当事者ばかりでなく女、子供を含めた家族をも処刑の対象にしたのか?」、「何故幕末に天下の先駆け的立場にあった水戸藩が、明治政府に人材を送り出せなかった」という三点です。 
 水戸藩では、第八代藩主徳川斉脩の死後、上士である保守派重臣は幕府との関係を親密にするため、将軍徳川家斉の庶子清水恒之丞を養子に迎えようと運動するが、中下士層を中心とした国許の改革派がこれに激しく反発して南上を繰返し、斉脩の遺書を突きつきつけて弟敬三郎(斉昭)を藩主にすることに成功します。
  藩主に就任した斉昭は、自分を推挙してくれた改革派の人材を登用する一方、譜代の家臣も重用して調和を保つように配慮した。その代表格が結城寅寿(朝道)で、小姓からを若年寄、御勝手改正掛ととんとん拍子に出世し、二十四歳の若さで執政に昇進した。
 名門の出である結城は聡明な人物で、当初斉昭や天狗党からも好感を持たれていたが、生来保守的な性格で上士層によって形 成された佐幕派の支持を受けて次第に頭角を現わし、藩内に「結城派」を形成するほどの勢力を築くことになる。 
  やがて、結城は天狗党が実権を握る水戸藩政に反発し、保守層の勢力挽回のために革新的な政策を打ち出す斉昭や、その腹心である執政戸田忠太夫、側用人藤田東湖らをはじめとする尊攘派と次第に対立を深めることとなった。
  これによって上士層を中心に親幕府的立場をとる結城党と、朝廷を信奉する天狗党の二派に分かれ、代々藩内で闘争を繰り返してきたのである。
 弘化元年(一八四四)五月、幕政にも多大な影響力を持っていた斉昭が突然幕府から謹慎を命ぜられ、長男の慶篤が第十代藩主に就きます。この斉昭の失脚は、結城一派による幕府への讒言によるものと斉昭とその近臣は認識していました。
  結城の画策によって失脚させられた斉昭や改革派藩士の恨みは凄まじく、やがてかれらが復権を遂げると、保守派の家臣が次々と処罰され、結城は水戸一門松平氏の領地である長倉(常陸大宮市)陣屋の一角にある獄舎に投じられた。
  安政二年(一八五五)の江戸大地震で斉昭の腹心戸田と藤田が圧死すると、斉昭にに諫言する家臣がなくなり、保守派への粛清が一気に進んだといわれています。結城親子は翌安政三年四月長倉の獄で死罪となり、遠く讃岐高松藩(香川県)に身を隠していた結城一派も厳しい探索によって捕えられ、極刑に処された。(つづく)
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家族旅行と今後の取り組み

  毎度のことになりますが、月日が経つのが夢のように早いです。今年に入ってから、やっと仕上がった原稿のチェック作業を進め、500ページほどあったものを400ページに縮小してみました。それは大変な作業で、頭の中が混乱してしまったこともあります。それによって全体のバランスを考慮しなければならないので、高年齢の小生にはきつい作業となりました。
  第一、相当な日数をかけて調べた北越戦争の部分を大きく削らなければならなかったので、それを決断しただけで大分気力が萎えてしまいました。あれもこれもと欲張ったことが裏目に出てしまった感じです。何に一番重点を置くかと言う柱を損なわないようにするためには、過去に費やした労力を惜しんではならないということを学びました。
  先月末やっと一段落し、なんとか全体の流れはバランスが取れたように思います。そのような矢先、同居の娘が家族旅行を企画してくれました。長男家族、三男家族、そして我家の家族と三家族合同で一泊二日の温泉旅行が一番良いということなり、嫁たちと相談したようです。
  幸いにも嫁の勤め先の社長さんが、草津温泉某ホテルの会員になっているので豪華な部屋に数千円で宿泊できるとのことで早速予約を入れて貰いました。そういうことで今月はじめ、鯉渕一家十二名、二台の車に分乗してささやかな温泉旅行を楽しんで参りました。
  本当は、今回手がけている作品の中の最後の章に「伊香保温泉」の某旅館が出てくるのでそちらの方も立ち寄りたかったですが、今回は時間の関係で回れませんでした。

  草津温泉は6、7年前でしたか、家内と一緒に長野県の松本城、上田城跡公園を見学した帰り道に一泊したことがあるので、今回二度目となります。前回と違って高架橋も完成していたので雄大な景色を楽しむことも出来ました。
 草津の有名な湯畑は、今回初めて見学することが出来ました。大変良く整備されていて昔から当地を訪れた有名人の方々の名前が記されていました。その中に源頼朝も名前も紹介されていました。
  今回宿泊したホテルは敷地面積が広く、自然豊かな森林浴やパターゴルフ、プール、ボーリングなどのアミューズメント施設も充実していて孫たちは大喜びでした。朝夕のバイキング料理も値段の割には品揃えが多く、大変美味しく腹いっぱい食べてしまいました。近くに沼があるということで、子供たちと別行動でそちらの方へも足を向けてみました。
  夜、孫たちが「カラオケ」をやりたいというので、小生爺ちゃんもメンバーに加えていただくことになりました。子供や孫とカラオケをやるのは初めてで、大変思い出のある旅行となりました。天候も良く、暑い最中ではありましたが、これを機会に来年も実施出来ればと秘かに期待を寄せているところです。

  旅行翌日から再び机に向かい、いよいよ最終の見直し作業を開始致しました。小生の狭い二階仕事部屋はエアコンがないので、いつも網戸にして暑い中で踏ん張っています。幸い海に近いせいか、我慢できないほど暑くはないので持ち堪えています。
範囲は元治元年からスタートし、明治期までの水戸藩の様子を取扱っています。具体的には天狗党の敦賀での降服、処刑から戊辰戦争(主に北越戦争)、市川勢の壊滅、廃藩置県、水戸城火災、士族の反乱辺りまでを主にしています。後半は、以前指摘しましたように一般的には「タブー視」されてきたことにも内容が及んでいます。
  具体的にどのような形で出版できるか、現在検討中です。いずれにしても来年は「明治維新百五十年記念」の節目を迎えますので、それに合わせて出版できることを目標にしています。今回、福井県三方郡美浜町佐柿の「若狭国吉城歴史資料館」の学芸員や友人等々から貴重な資料が得られましたので、今まで明らかにされなかった武田金次郎(武田耕雲斎の嫡孫)をはじめとする遠島組の動静を出来得る限り詳細に触れるように心がけました。
  一番大切なタイトルが今もって確定できず、困っています。仮称としていくつかの案はあるのですが、「これだ」というものがなく、もう少し時間がかかりそうです。

歴史あれこれ

 本日午後、昨年より自治会仲間数人で取組み始めた恒例の「歴史研修会」がひたちなか市内のCafe 月兎耳で行なわれました。これは原則として月一回第三水曜日に開催されることになっています。資料作成および講師は中根自治会役員のY氏が担当し、途中途中で質問の出た事柄について話合う形式をとっています。主要テーマは江戸時代の水戸藩で、郷土の歴史をより深く掘り下げて勉強したいという有志の発案によって始められました。
  水戸藩の歴史に精通しているYさんが講師役を引受けて下さったので、参加者の皆さんは毎月この日を楽しみにしています。最初は四人からのスタートでしたが、現在は二人増え、都合六人になりました。そのうちの一人は、たまたま我々が研修している姿を隣の席で耳に、自分も加えて欲しいとの要望で仲間に加わった次第です。もう一人は、この研修会があることを仲間のIさんから聞き、先々月から参加するようになりました。

  講師のYさんは三重県ご出身の方で、仕事の関係で数十年前からひたちなか市に住むようになったとのことです。当地に落ち着くまでは、いくつかの県外勤務も経験されたとのことですが、私が感心したのは、その土地その土地の歴史を勉強してきたということです。自治会の会合で顔を合わせている内そのことが分かり、歴史を勉強する会を立ち上げようということで出来たのが「月兎耳」会です。
  Y氏は日本史だけでなく世界史にも長けていて、広い視野の中から日本史を見ているので毎回大変勉強になります。研修会では様々な質問が出ますが、ほとんどのことは答えられるので参加者は大変満足しています。歴史関係本に多く接してきたことで、驚くほどの知識があり、私としても大変勉強になります。

  毎回の講義内容はY氏にお任せしているのですが、段々幅広く専門的内容になって郷土史から遠ざかってしまったので、もう一度郷土に目を向けようということになり、今回から再び水戸藩に関する内容に戻ることになりました。資料を拝見しましたら「徳川斉昭その1」となっていたので安心致しました。水戸藩のあるいは日本の幕末史を勉強する上で、徳川斉昭という人物の存在は決して欠かすことは出来ないと思います。
 一般的に水戸では神様扱いされていますが、県外出身ということもあり優れた面とそうでない部分を同時に取上げて説明するので、議論が深まっていくのが面白いところです。今回は斉昭の寺社改革を巡っていろいろな意見が出されました。何故、反対を押し切って強引にこれを進めようとしたのか、次回が期待されます。いろいろな事実をもとに真相に迫られればと期待しているところです。

  私事になりますが、今月は「水戸藩の光と影」というテーマである研修会の講師に招かれ、自分なりに幕末混乱の水戸藩に関するお話をさせていただきました。何故水戸藩が分裂し、党派間で血生臭い争いが起きたのか、多くの人が一番関心を寄せている点です。しかも、今もってそのしこりがあると言われていますので、どちらかというとタブー視されてきたように思われます。
これらの悲惨な歴史をどう伝えていけば良いのか、そのような思いもあって今回招かれたと承知しています。先日主催者から感想を聞く機会がありましたが、いままで疑問、謎であったことが少し解けたということを伺い、少しはお役に立てたのかなと有難く感じているところです。
  歴史は、人間の心の奥深い部分にあるものと密接に関係しているのではないでしょうか。何故悲惨な処刑が繰返されたのか、憎悪の根底に何があったのが、それらの背景にあったものを考えて行くことで少しずつ真実に迫ることが出来るのではないかと考えています。

幕末維新、水戸藩の光と影

  昨年末、水戸藩の幕末維新を題材とした小説の下書きを作ってみましたが、構成その他の点で多くの不備があり、少し頭を冷やしてから再度見直し作業を進めています。総ベージ数もかなり多いので、どこの部分をカット、あるいは簡略化するか日々悩みながら取り組んでいるところです。また、小説と言っても正確さが要求されますので、改めて確認しながら進めていますのでかなり時間がかかりそうです。
  折角、長い期間をかけて取り組んできたので、何としても完成させなければならないと思っていますが、60歳代とは違って体力も気力も減退していますので、なかなか大変です。文章も手直しを始めると際限がありませんので、適当なところで切り上げなくてはなりません。更にどのような形で出版するかどうか、これも頭痛の種となっています。

 さて、今年は有難いことに「桜田門外の変」に関する講演依頼が続いていて、こちらの方へも力を注いでいます。これまでにも何回となくお話をさせていただきましたが、一回も納得できるような内容ではなく、毎回反省の連続です。折角の機会ということでどうしても力み過ぎてしまうのが欠点のようです。
  先日は小生の出身高校のある県北地区の同窓会総会でお話をさせていただきましたが、開催時間が夕方のため、文字が見えなくて一苦労致しました。会場がホテルのため、照明が薄暗くなっているのです。また同窓会長である常陸太田市の市長をはじめ、錚錚たる方々が参加されていたので、肩が凝ってしまいました。

 来週は、これも高校の同級生(元県教育次長)からの依頼で、水戸地区退職校長会総会終了後の研修会でお話をさせていただきことになっています。こちらの方は、今までとはテーマが大きく違い、幕末から明治までの水戸藩の歴史を共に研修することになっています。最初はお断りしたのですが、専門家の方より素人の話の方が良いと説伏せられ、引受けることに致しました。
  水戸では観光事業も含め、現在水戸弘道館周辺の整備に力を入れているようです。今月からは大手門の復元工事が始まり、茨城国体前の完成を目指すようです。今回の講演依頼のきっかけとなったのは、天下の魁であった水戸藩が何故、明治新政府に人材を送り出せなかったというような素朴な疑問に答えて欲しい、ということでした。

  確かに、この問題はどこに行ってもよく耳にする言葉です。水戸人として残念な思いを共有する方々が多くいらっしゃるということの裏返しかも知れません。無論、小生自身も最初はそのように感じていた一人です。事実、水戸士族は廃藩置県後、明治政府に「物申す」という行動を起こしています。これは水戸城火災を機縁に正院へ文書を送り付けていますが、当時の人々の思いを代表する意見と思われます。
 実は、その文書の行間に「天下の魁」を果たした水戸藩の事績を少しも顧みていないというようなことが滲み出ています。現代ばかりでなく、当時の方々もそう感じとっていたのです。しかし、歴史を紐解いていくと、当時の茨城県官員(旧水戸藩重役)では、あからさまにそのような事を言える状況にはなかったとも考えられますし、実際、そう思った人物がいたかどうかは大いに疑問が残るところです。
  水戸出身の元将軍慶喜が謹慎している中で、そのようなことを直訴する雰囲気でもなかったろうし、いろいろ複雑な思いがあったように思います。茨城人物評伝の中の一節(酒泉彦太郎)にそれを裏付けるような一文が書かれています。
「桜田門外の変」の後、有志ではありますが、あの有名な「成破の盟約」での水戸藩の役割を考えますと、水戸側は飽く迄も「破」、つまり破壊的な行為を行って世情に混乱を起こし,長州が「成」,つまり正しいと信じる姿の世につくり変えていくというものでしたから、水戸侍としては、最後までその信念を貫いたように考えられます。
 当時、水戸出身の香川敬三(元本圀寺勢)という方が新政府に入っていましたので、あるいはそれと同じ道を進むことを「よし」としなかったのかも知れません。

戊辰戦争の激戦地を行く (3)

水戸藩高炉と三春藩士熊田嘉門 ②

  茨城県の那珂湊の高台にある溶鉱炉は地下からの高さが21メートル、地上15メートルの巨大な西洋式高炉である。反射炉脇に登り窯があり、耐火煉瓦を焼いた。反射炉には耐火煉瓦約四万枚が使われている。耐火煉瓦の原料は栃木県馬頭町の粘土を用いた。大砲の形成には砂型鋳造の技法が用いられている。現鉄は岩手県釜石産の南部鉄と鳥取県の雲集鉄が使われた。
  28門以上の砲身の長い大砲(カノン砲)が鋳造された。柳沢の水車場で加工され品川沖のお台場へも献上された。ここで造られた大砲は長州の萩や伊豆韮山の反射炉で造られた砲より性能的にすぐれていたと言われている。砲弾は直径12,7センチ、装填火薬304グラム、飛距離1233メートルとの記録が残されている。

  水戸藩那珂湊に西洋式高炉を造った三春藩士熊田嘉門について明治37年発刊の田村郡郷土史は「水戸公その労籍し銀百枚及び日本史一部を賜る。後会津藩に招かれ鉄鉱溶解の事を託され一年にして帰り、更に相馬藩に招かれ鋳造の事を託され事竣て帰る。会津相馬二藩より各金若干を賜りてその労を謝す。
  慶応二年三春藩学校句讀師に補せられ師弟教育に従事す。慶応四年京師騒然に際し山地立固と謀りその状を察せとことを藩老に説き相携え京師に至り岩倉公(岩倉具視)に拝謁して三春藩情を具陳す。官軍大挙東下するに際し百方周旋藩主をして早く帰順せしむ事平定するにおよんで藩白鞘刀一口を賜うてその功を賞し、更に文学教授に似んぜられ、明治四年七月廃藩置県に際し藩校もまた廃止、諸生等方嚮に迷うを慨し有志謀り養才義塾を設立し子弟教育の任務を持続す。
  明治六年三春小学校を置くに及んでその教師に聘せられ、尋て磐前県第二中学校を三春に置くに及んでその教師に聘せれれ中学校廃止するに及んで家塾を設け子弟を教育すること前後十有余年にして明治二十年一月歿す。時に七一歳天澤寺先瑩の域に葬る。」と記している。

  三春藩は戊辰戦争は11歳の幼君映季侯を擁し、伯父秋田主税が後見人を務め、いち早く奥州越列藩同盟を脱退し西軍に組みした。そして二本松藩を攻めることになる。 三春藩に熊田嘉門のような広い見識をもった藩士がいたので、二分する藩意をまとめ朝廷に恭順の意を示し、三春の町を戦禍より救ったのであろう。

吉田松陰先生終焉の地 ③

 嘉永7年(1853)1月16日前年の予告通り、ペリー率いる7隻の艦隊が来航し、江戸湾小柴沖に停泊した。3月三日幕府の井伊直弼は日米和親条約調印(神奈川条約)に調印した。三月二八日吉田松陰と金子重之助は伊豆、下田沖に停泊していたペルー提督のアメリカをめざして小船を乗り出した。しかし軍艦の乗組員は2人の若者の話しを取り合わなかった。松陰と重之助は自首した。4月5日吉田松陰は「下田踏海事件」に連座して、松代藩士で松陰の師佐久間象山も逮捕される。松陰、重之介は長州に護送された。
  9月18日幕府、吉田松陰、佐久間象山を蟄居処分とした。12月15日長州藩は吉田松陰を出獄させ、蟄居とする。九月長州藩、吉田松陰に私塾主催を許可した。身分に関係なく約80人が塾生とさせた。松下村塾の門弟には伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等明治維新の大業に功績のあった著名の士を多く輩出している。

  安政5年4月将軍家定が井伊直弼を大老に任命した。井伊大老は越前藩主松平慶永を隠居の上謹慎、徳川斉昭を謹慎、水戸藩主徳川慶篤、一橋慶喜を登城停止処分にした。そして宮家公家の家臣30余名と水戸藩家臣が逮捕され安政の大獄が始まった。
  4月吉田松陰は江戸に護送され取調べを受け伝馬町の牢屋敷に繫がれた。10月7日吉田松陰(30歳)、頼三樹三郎(35歳)橋本左内(26歳)が伝馬町牢屋敷で処刑される。安政7年3月3日桜田門外において大老井伊直弼が暗殺された。大伝馬町の屋敷跡にある大安楽寺の高野山真言宗準別別格本山中山弘之住職を訪ねると「松陰先生、橋本左内、頼三樹三郎がここで処刑されました。
  処刑執行人は山田浅左衛エ門(首切り浅左衛エ門)でした。江戸時代伝馬町牢座敷に収監された罪人は数10万人で多くの侍が処刑されました。町民や農民は鈴が森や小塚原の刑場で処刑された。明治八年牢屋敷は市谷囚獄署(防衛省跡)に移転するまで約270年間伝馬町牢屋敷が存在しました。
  敷地は2618坪ありました。移転後伝馬町牢屋敷跡には人は住まず、夜になると人魂が出没します。2人の若者が怨霊を鎮めるための議論をしていたのを高貴な方がじっと聞いていて、高貴な方はここにお寺を建てて供養するのがよいと話された。そして二人の若者によって高野山別山の「大安楽寺」が建てられた。筆者の問いに住職は高貴な方は山階宮で二人の若者は帝国ホテル、帝国劇場などを設立した大倉喜八郎と東京大学の安田講堂を造った安田財閥の安田善次郎です、と話された。

 伝馬町牢屋敷跡に建つ大安楽寺「揮毫は山岡鉄舟筆により為囚死郡霊離苦得脱(いしゅうしぐんれいりくとくだつ」と記されている。(おわり)
プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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