FC2ブログ

桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

                 桜田門外の変「情念の炎」ホームページはこちら
本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

FC2ブログランキング
←ご協力お願いします

気になる第二作「烈士たちの挽歌」の動向

  例年にない早期の梅雨明け、毎日ジリジリと照りつける太陽、時として発生する自然の猛威による大災害・・・・。海水温の上昇、太平洋高気圧に加えて日本に張り出したチベット高気圧等々、その要因はいろいろあるようですが、結局のところは地球温暖化によるものではないかと想像する今日この頃です。災害に遭われた地域、甚大な被害を受けた方々に心より御見舞い申し上げます。
  これらは日本国だけでなく、アメリカをはじめ世界各国に共通する深刻な問題ではないでしょうか。いくら科学が発達しているとはいえ、自然の力には到底及びません。今こそ、環境問題を真剣に考えなければならないと思うのですが、どういう訳かメディアは余り取上げていないようです。

 昨年の夏は、第二作「烈士たちの挽歌」完成に向け、無我夢中で執筆活動をしておりました関係上、何とか暑さを乗越えられましたが、今年は緊張感の欠如も手伝い、多少暑さ負けしている自分を見る思いがしてなりません。無理をしても仕方ないので、日中は出来るだけ外出を控え、普段出来ないことをやるよう心掛けています。暑中見舞いも例年より早めに取組み、二月の出版記念祝賀会にご出席賜わったご来賓の方々を中心に書き終え、先日投函致しました。あれから既に半年が過ぎようとしていますが、つい昨日のことのように思い起こされます。お一人お一人のお顔を思い浮かべながら、感謝の気持ちを綴りました。

 一般書店での第二作「烈士たちの挽歌」の動向が気になっていますが、8月中には中間状況が把握できるのではないかと期待しています。茨城新聞、朝日新聞に拙作が紹介されたことで多くの皆様から出版元に問い合わせがありました。つい最近になってからも数件あったので、驚いている次第です。都合上、水戸を中心とした狭い範囲の書店にしか置いていないので、遠い地域の皆様には申し訳なく思っています。そのため、先日から小生のHPからも注文できるように致しました。しかし、購読希望者の多くは、余りネット検索はなさらないようで、つい手軽な電話での問い合わせをするケースが圧倒的です(笑い)。なかには、子供さん等を通じて直接メールを下さる方がおります。誠に有難いことであると感謝しております。また少数ですが、第二作を購読された方の中には第一作「情念の炎」を注文なさる方もいらっしゃるようで、これも大変嬉しく思っております。共に多くの皆様に愛読されることを願うばかりです。


 さて、福島県を含む東北の地方紙では、戊辰150周年を記念した特集をしている新聞もあるようです。先々月、小生の知人である松宮輝明様(伊能忠敬研究会東北支部長、越後の侠客・通称観音寺久左衛門こと松宮雄次郎のご子孫)よりメールを頂戴し、新聞掲載の原稿を添付していただきましたので、随時ご紹介していきたいと思います。


戊辰戦争150周年記念 タイトル 幕末動乱の地を行く(1)
    サブタイトル 戊辰戦争はなぜ起きたのか      伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

  平成30年の今年は、戊辰戦争後150年の節目にあたる。勝者となった新政府軍(西軍)が官軍、敗者となった同盟軍(東軍)が賊軍の歴史観を再考することが必要である。
 日本史上最大の内戦となった戊辰戦争は多くの教訓を残し現在の国家観、政治体制にも大きな影響を与えた。第二次大戦を経て民主主義の時代に生きる私達にとっても明治維新の国家造りの理念は150年後の現代にも日本人の民族意識に受け継がれ影響を与えている。戊辰戦争とは何か、戊辰戦争の激戦地を訪ね、新に発見された史料を基に検証し執筆しました。
  戊辰戦争は慶応4年(1868)から 明治2年(1869)にかけて、王政復古で成立した明治新政府が江戸徳川幕府勢力を一掃した日本の内戦である。慶応4年(明治元年)の干支が戊辰だったことから「戊辰戦争」と呼ばれた。この戦争に勝利したことで「明治維新」が成功し、明治政府が名実ともに誕生した。薩摩藩、長州藩が中心に、薩長協力藩である佐賀藩、土佐藩等の出身者が明治政府の主体となり、日本は近代的な中央集権国家への道を歩んでいった。戊辰戦争の概要は二条城で十五代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還をしたことから、朝廷側は王政復古の大号令を発し薩長が政権の指導を握ったことから始まる。  
  幕末動乱の始まりは、黒船来航、桜田門外の変、天狗党騒乱、そして戊辰戦争は、鳥羽伏見の戦い、江戸への進軍、江戸開城、上野戦争、東北戦争(白河戦線、二本松戦線、会津戦争、磐城戦線)、北越戦争、奥羽列藩同盟、函館戦争で終焉を迎えた。戊辰戦争は、西軍、東軍と対峙した日本国最大の内戦であった。
  写真「十五代徳川慶喜公が大政奉還した二条城」は省略。
スポンサーサイト

武田金次郎に関する新たな史料見つかる

  七月に入ってから連日うだるような暑さが続き、計画した散歩もままならない状況となっています。どうしたら健康を維持できるか、そんなことを考える今日この頃です。
 さて、先月「維新後の困窮 如実」との大見出しで、金次郎に関する記事が茨城新聞に掲載されましたので、原文のままご紹介したいと思います。

 幕末尊攘で脚光 水戸藩士 
維新後の困窮 如実 

  幕末の尊王攘夷運動で脚光を浴びた水戸藩の武田金次郎ら上級武士たちが、明治以降、経済的に困窮し不遇な晩年を送った実情を示す史料が見つかった。維新後、伯爵となった水戸藩出身の幕末志士、香川敬三が書き残した手紙類を、県立歴史館主任研究員の石井裕さん(41)が研究し、今春、「常陸大宮史研究」で発表した。明治維新150周年の今年、激動の時代に翻弄された旧藩士の知られざる悲運が明らかになった。

 県立歴史館
 研 究 員 記述の手紙発見

 水戸藩は幕末、尊王攘夷思想に連なる水戸学で吉田松陰ら多くの志士たちに多大な影響を与え、「維新の先駆け」となった。しかし、天狗党、諸生党による激しい藩内抗争で多数の人材を失い、明治維新に乗り遅れたといわれている。
 石井さんは、皇學館大學(三重県)が管理する香川敬三の子孫に伝わる文書を研究。天狗党を率いた武田耕雲斎の孫、金次郎の晩年の困窮ぶりを、香川が知人に明かした手紙を発見した。
 金次郎は天狗党の乱に参加後、王政復古によって朝廷から罪を許され、藩の実権を掌握。維新後、諸生党に対して激烈な報復を行い藩内は極度の混乱に陥った。廃藩置県後の晩年はあまり知られていなかった。

 耕雲斎の孫、援助にひれ伏す

 手紙は1894(明治27)年12月23日付。金次郎が亡くなる約3カ月前の生活苦を生々しい描写で伝えている。手紙によると、香川が栃木県の塩原温泉に赴いた際、道端の祖末な小屋で暮らす、体が不自由な金次郎と出会った。物乞い同然の姿に驚き、香川が金銭を渡すと金次郎は喜んで受取り、ひれ伏した。その様子に香川は何度も涙したとつづった。
 香川は手紙で「自分は廃藩後、金次郎に数百円の援助を行った。旧藩主や旧重臣はどのような援助をしたのか。このまま『見せ物』のように放置した揚げ句、病死でもしたら水戸藩の恥である」とも記した。
 金次郎はその後、水戸に連れ戻され、間もなく48歳で亡くなった。
 別の手紙には、混迷する幕末の水戸藩を主導した鈴木重義、三木直ら尊王攘夷派の上級藩士に関する記述もあった。鈴木は晩年、経済的に困窮を極め、香川や山口正定ら同藩出身の成功者に度々借金を申し出ていた。
 三木は徳川光圀を養育した名門の末裔で、余生を神職として送ったが、最晩年は困窮にあえいた。常磐神社宮司の座を目指したが、かなわなかった。
 石井さんは「旧水戸藩士たちの晩年が、経済的に苦しかったことがはっきりと分かる貴重な史料と評価。幕末から明治にかけ、激動の時代を生きた旧藩士の栄枯盛衰に思いを馳せ、「武田金次郎らは維新当初、いっときは勝ち組だった。全体を見たとき、果たして勝者と言えたのだろうか」と話した。(勝村真悟)

読者から寄せられるお手紙に心より感謝!

  不順な天候が続きますが、皆様方は如何お過ごしでしょうか? 小生の方は挨拶廻りも一段落し、健康増進のための散歩を再開したところです。1、2月に少し無理をしたことがたたり、まだ腰痛が残っています。長時間の運転がつづいたことが原因かと思います。
  さて、先日久しぶりに大学時代の後輩N氏(阿見町在住)からお手紙を頂きました。余り親しく付き合った訳ではないのですが、同じ体育科に属していたので顔はよく覚えています。因みにN氏は野球部で活躍されていました。以前、かれから「第二作の「烈士たちの挽歌」を是非読んでみたい」とのお電話を頂きましたが、最近になって感想文を送ってくれたのです。封を切って見ますと、本人以外にも、かれの友人S氏(千葉県柏市在住)の感想文も入っていました。原文のまま紹介したいと思います。

「烈士たちの挽歌」を読んで 

  水戸藩の藩内抗争をテーマにした御著を拝読いたしました。全編を読み終え、心に浮かんだことを率直に記させて頂きます。
 こんなことってあるんだろうか・・・・。「面白いから読んでみろ」と高校の同級生N君から手渡されたご著書の最初のページを開いたとき、あまりの偶然の一致にびっくりしてしまいました。
『越前敦賀津は三方を山に囲まれた天然の良港で、蝦夷(北海道)と大坂を結ぶ西廻りの北前船が頻繁に寄港するようになると、日本海側で最も先進的な商業の町「北国の都」といわれるほどに繁栄した』
 と、書き出しにある敦賀に行って来たばかりだったからです。ゴールデンウイークが始まる直前、敦賀を訪れた目的は、北前船による日本海航路について調べるためでした。しかも、一泊目は敦賀、二日目の宿は天狗党追討のため徳川慶喜が本陣を構えた滋賀県大津市、信じられないほど不思議なご縁です。
 敦賀に行ったのは初めてではありません。実は十年ほど前、松尾芭蕉「奥の細道」の全行程を徒歩で旅した際、訪れているのです。
 2005年5月のことでした。わたしは木の芽峠を越え、新保の集落に下りていきました。路地にスイセンが黄色く咲き誇っていたのを覚えています。新保のバス停で昼食を済ませ、車道を避けながら葉原―越坂―樫曲と旧道を下っていきました。「天狗党の旗を挙げた郷土の人々は幕府軍と戦いつつこんなところまで来て投降したのか。京都を眼の前に、さぞかし無念だったろうなぁ」と、囚われた浪士たちを偲びつつ木の芽古道をあるいたものです。敦賀の市街地に入ってからは、旅のルートから外れるのを承知で「武田耕雲斎等の墓(水戸烈士の墓)に手を合わせ、松原神社を訪れました。浪士たちが閉じ込められていた鰊蔵の上でトンビが空高く弧を描いていたのを思い出します。
 十数年ぶりに敦賀を訪ねた今回の旅では、浪士が一時幽閉された本勝寺を見ることが出来ました。何度も迷いながら訪ね当てた寺は太平洋戦争中の空襲で全焼し、往時の面影を偲べなかったのが残念です。天狗党の顛末について一応の知識はありましたが、今回御著を読んだことで加賀藩の武士道に基づく行動、幕閣の思惑、小浜藩の対応など詳細を知ることが出来、改めて感謝しております。
 
 ページをめくりながら終始感じたのは、冷静・公平な変わらない視点でした。天狗党、諸生党をはじめ、様々な勢力が入り乱れて殺戮を繰返す悲惨な歴史を描きながら、一方に偏ることなく複雑極まりない事実関係を一貫して正確に記してゆく執筆姿勢に感服しました。自分だったら感情にとらわれて筆がすべり、どちらかに肩入れしてしまったのではないか、と省みる次第です。参考とすべき鯉渕様の執筆のスタンスは、巻末の参考文献を見るまでもなく、膨大な資料を読み込み、わがものとされた結果によるものであると拝察いたします。

  討つもはた討たるるもはた哀れなり
  同じ日本のためと思えば

 武田耕雲斎の辞世の句ではありませんが、歴史に散った人々は立場の違いこそあれ、それぞれに国を想い、郷土を愛しつつ戦ったのでしょう。個人的感想を述べさせてもらえば、数奇な運命を辿った耕雲斎の孫、武田金次郎が哀れでなりません。政敵、市川三左衛門を処刑後、心と体を病み、四十八歳で亡くなった生涯はまさに「歴史に翻弄された一生」と言えるのではないでしょうか。
 私事になりますが、私の叔父は銀行を退職後、水戸弘道館で観光ボランティアをしていました。土浦出身の叔父が言うには、「水戸という土地柄は本当に難しい。天狗党が良いとか諸生党が悪かったとか、うっかりしたことはしゃべれない。誰がどこでどう繋がっているか分からないのだから」とのことでした。
 今回、ご著書を読んだことで錯綜する水戸の藩内事情を知り、改めて伯父の言葉を思い出しました。そして「言いたかったことはこういうことだったのか」と真意がストンと胸に落ちました。

 最後に、検討して頂きたい問題がひとつあります。それは書籍のビジュアル化、つまり文中に関連地図、人物相関図といったものが掲載されていたら理解が更に深まったのではないかということです。わたしも二年程前に自費出版の形で本を出した経験があり、地図一枚、図表ひとつ載せるごとに手間がかかり、製作費がかさむことは承知しています。しかしそれでも、天狗党と追討軍が対峙した木の芽古道の両軍配陣図、水戸を脱した諸生党の転戦経路などが挿入されていたらより分かり易かったのではないか、と思っています。

 失礼をも省みず勝手なことを申上げましたが、書籍離れが急速にすすむ昨今、世の中に一点でも多くの良書を送り出したいとの思いによるものですので、ご容赦いただければ幸いです。
 鯉渕様のますますのご健康をお祈り申し上げます。

 この場を借りて、後輩のN氏、その友人のN氏に心より感謝申し上げます。本当に有難うございました。

未来のために、過去に学び、自分の生き様を楽しんで設計しよう!

  小生の第二作「烈士たちの挽歌」出版記念祝賀会から、早三ケ月が経過してしまいました。この間、何人かの方から激励のお手紙や葉書などを頂戴し、大変嬉しく思っています。全くの素人が書いたものでも読んで下さる方がいらっしゃることにただただ深く敬意を表すばかりです。プロが手掛けた作品とは大きく違い、読者はそう多くはありませんが、深く関心を寄せて下さる方がいらっしゃること、大変有難い限りです。
 読者層は大きく分けると、二通りあることが分かりました。一つは、ご先祖が水戸藩の歴史に直接、間接的に関わっている方で、もう一つは幕末の水戸藩の歴史に興味を持っている方のようです。前者の特徴は、主に門閥派あるいは尊攘鎮派に属した方を先祖に持つ方が今回の第二作に注目していたように思われます。書き手である著者が、自分たちの祖先をどのように扱っているのか、ということに着目しているのかも知れません。今回、大変嬉しいことに、門閥派の重鎮(家老、側用人)のご子孫からお手紙を頂戴したり、ご自宅を訪問して懇談する機会がありました。いずれの方々もご先祖に誇りを持っていらっしゃる方々ばかりです。元家老筋のご子孫とは来月懇談する機会を設けて下さることを約束して下さり、お会い出来ることを楽しみにしています。

 後者における今回の特徴は、女性および比較的若い世代の方々が興味を示して下ったことです。これは小生にとって大変嬉しいことであり、出来るだけ多くの方々と懇談の機会が得られるよう努力していきたいと思っています。共に歴史を学ぶことは、大変重要なことだと思っているからです。因みに、私たちひたちなか市の第一中学校区内に住む人で構成する「楽歴会」(月に一度集まる歴史学習会)に、最近3人の女性が加入しました。雰囲気も大分変り、講座の担当者も意気込みを新たにしています。また、今月は別の女性グループに招かれ、水戸市内で歴史学習会を持つことが出来ました。今後、数回に分けて水戸藩幕末の歴史を学習する予定になっています。
 先日、郵送されてきた「友の会(退職教職員の会)だより」には、― スペシャルインタビュー ― 歴史を学ぶ意義、と題する小和田哲男(歴史学者)さんの記事が掲載されていました。以下にその内容を紹介したいと思います。

未来のために、過去に学び、自分の生き様を
楽しんで設計しよう

 
  大河ドラマなどの歴史番組の時代考証や解説を通して、戦後史の面白さを発信している小和田哲男さんに、歴史の陰から見えてくる史実の醍醐味を語ってもらいました。

″歴史博士″の称号をいただく

  歴史上の武将たちの生き様、合戦の駆け引き、合戦の舞台となった城の仕掛けなど、戦国史に興味を抱くようになったのは、小学校の頃の出来事が始まりです。母親が結構な歴史好きで、家には歴史の本がたくさんありました。テレビもない時代でしたから、母親がよく歴史の話をよくしてくれて、小学校低学年ですでに歴史に興味を持っていました。
  小学校5年生の授業で、先生が黒板に「人」という字を書いて、熟語になると「人」を「うど」と読むと教えてくれました。先生は「狩人」を例に挙げ、「他に知っているか?」と問われた時、私は、「落人(おちうど)」を知っていたので、恐る恐る手を挙げて答えました。先生に「どういう意味だ」と聞かれたので、「源氏と平氏の戦いで、負けて山奥へ逃げて行った人たちのことです。今も子孫がいます」と答えました。先生は、「小和田は歴史博士だな」と言ってくれて、そのことが嬉しくて歴史だけは他に負けまいと決心しました。

民衆の視点で、戦国時代を洞察する

 ところが、大学では「歴史好き」だけでは通用しないと先輩たちから教わりました。合戦で勝った負けただけでなく、武将たちがどのようにして勝つための戦略を練ったのかが大事だと。平たく言えば、富国強兵がヒントです。戦いに勝つためには国を豊かにしなければなりません。武将たちの国を豊かにする知恵を掘り出そうという思いで、修士論文は「戦国大名の経営手腕」をテーマにしました。
「民衆の立場で歴史を診ろ」と先輩たちからアドバイスを受け、戦国史を戦う武将ではなく、民衆の立場で研究することで視野が広がりました。所謂、社会経済史的な研究の視点をこの頃に身につけたと思います。
 
歴史の陰に光を当て、史実を伝える

 歴史は勝った側が都合よく書き残します。その例が太田牛一の『信長公記』です。織田信長の家臣が残した信長の伝記なので、主人の傷になるようなことは書かれていません。そのことに気がついたのは、安土城築城のシーンです。『信長公記』には、信長様のお知恵で容易く大きな石を上げたとだけ書いてあります。ところが、宣教師のルイス・フロイスが残した「日本史」には、大きな石を上げる際、片側に石が滑り始めたため石の下敷きになって150人が死んだと書かれています。
  これは同じ石のことでしよう。信長は、事故を隠ぺいしています。だから、この部分だけでなく、他にも隠ぺい工作をかなりしていると考えられますから、隠されている部分にも光を当てないと本当の歴史は描き出せないと思っています。今川義元、明智光秀、石田三成など、どうも世間から「軟弱だ」とか、「バカなことをやってんだ」と言われる武将に親近感を持ち、シンパシーを感じます。負けた側の書き残せなかった無念さを晴らしてあげたいと思います。 

※2020年東京オリンピックの年  NHK大河ドラマ第59作「麒麟がくる(明智光秀)」
  「麒麟がくる」は、大河ドラマの原点に戻り、戦国初期の群雄割拠の戦乱のなか、各地の英傑たちが天下を狙って、命をかけ愛をかけ戦う、戦国のビギニングにして「一大叙事詩」です。
  脚本は、第29作「太平記」を手がけた池端俊策のオリジナル。大河ドラマとしては初めて智将・明智光秀を主役とし、その謎めいた前半生に光があてられます。物語は、1540年代、まだ多くの英傑たちが「英傑以前」であった時代から始まり、丹念にそれぞれの誕生を描いていきます。若き明智光秀、織田信長、斎藤道三、今川義元、そして秀吉が、家康が、所狭しと駆け巡る… 「麒麟がくる」―新たな時代の大河ドラマの始まりです。

歴史を学び、歴史に学ぶ

  越前の戦国大名・朝倉氏の家臣の一人、朝倉宗滴(そうてき)が記した「朝倉宗滴話記」は、みなさんに読んでいただきたいと思います。その中に「巧者の大将と申すは……」とありまして、「名将と言えるのは、大敗北をした者だ」と書き残しています。それに一番当てはまるのが徳川家康です。1572年12月、浜松の三方ヶ原の戦いで負け戦をしました。しかし、それから家康の家臣への接し方が変わり、自分の身代わりで死んだ家臣がいっぱいいた反省から、家臣を大切に思うようになりました。『宝の中の宝といふは、人材に如(し)くはなし』は、家康の名言です。このように失敗例から学ぶことは、武将たちの生き様から受け取るメッセージだと思っています。
 歴史は鏡です。例えば、平安時代の歴史物語の『大鏡』や『今鏡』、鎌倉時代の『水鏡』や『吾妻鏡』は、いずれも鏡という字が使われています。要するに、過去を鏡に映し未来を照らすわけですから、過去は単なる過去ではなく、未来のための過去になります。過去と現在と未来がつながり、自分の生き様をいろいろと設計するために過去があります。だから、先人たちの知恵をいつまでも学ぶべきです。
 今の目標は、先人たちの知恵を生かし、自分の足で見聞きし調べ上げた日本の城の研究を集大成させたいと思っています。

◇ 小和田 哲男 氏

 歴史学者、文学博士。1944年、静岡市生まれ、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。
 静岡大学名誉教授。
 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」などの時代考証や歴史番組での解説で、戦国史の面白さを発信している。「家訓で読む戦国 組織論から人生哲学まで」(NHK出版新書)、「井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史」(洋泉社歴史新書、2016年)など著書多数。全国の城を訪ね、地方の地酒に眼がない。

明治維新150周年記念「薩長因備」シンポジウム特集 ②

 午後1時の10分前、森本さんの指示で二階の講堂に入りました。会場は既に満員で、熱気が充満しておりました。パネラー役の原口先生、西郷さん、原田さん、そして私は、最前列の指定された席に腰を下ろしました。コーディネーター役の森本監督は興奮した様子であちこちを歩いていました。時間ギリギリで講堂に駆けつけてくるお客もいて、場内整理の役員は椅子を手にもって対応に大わらわでした。
 午後1時丁度、森本鳥取歴史振興会長がマイクを握り、第一声を放つと、会場から万雷のような拍手が起こりました。そうとうの期間に渡って準備を重ねて来たので、気合が入った挨拶となりました。内容は二部構成で、第一部は原口泉先生による基調講演が行われました。さすがに薩摩藩研究の第一人者だけあって、淀みない口調で語る姿には大変感服させられました。先生は慶応三年末の西郷隆盛書状を通して、維新の本当の立役者は「薩長因備」であることを強調したことで、会場から惜しみない拍手が送られました。参考までに「維新に“薩長因備”の力」と題する、昨年の産経新聞の記事を紹介します。

【歴史のささやき】
志學館大教授・原口泉氏 維新に“薩長因備”の力
先般、鳥取市の映画監督、森本良和氏が西郷隆盛自筆書状1通が売り出されていることを教えてくれた(思文閣目録『和の史』243号)。慶応3年12月24日の「外倉修理之介」宛てである。西郷は名字を間違って記しているが、岡山藩家老、土倉修理助正彦のことで、後に新政府参与となった。文中で西郷は鳥取藩家老、荒尾駿河守成章について尋ねている。
成章は土倉の叔父で、西郷は成章が本当に勤王の意志が強いかを確かめたかったようだ。その内容は次の通り
〈因州(因幡)家老の荒尾駿河という人は、尊上(明治天皇)の所へ罷り出て、ぜひ勤王の御実行をしたいので、自分へも警固を命じて下さいと申したてたと聞きましたが、これはどういう事態でしょうか。朝廷がその申し出を聞きいれたことは私も承知しましたが、荒尾は一向にその動きをしていません。きっと貴方ならこの件について御存知のはずだと思い、ひとまず御尋ね申し上げます。荒尾は真に王事に尽くす者でしょうか。ただ朝廷の御都合向きを計らっているだけでしょうか。御賢慮を拝承したく、略儀ながら書をもって尊意をうかがいます〉

 書面からは、土倉と西郷が以前から親しいことがわかる。12月24日といえば、江戸の薩摩藩邸が焼き打ちされる前日。旧幕府軍との鳥羽伏見の戦いが始まるのは翌年正月3日。荒尾は、このとき御所の警備をし、新政府側に味方している。因備すなわち鳥取藩と岡山藩は、ともに池田氏が藩主だった。この両藩は鳥羽伏見の開戦2日目に新政府側についていた。これは大久保利通が、島津久光側近の蓑田伝兵衛に宛てた手紙(鹿児島県歴史資料センター黎明館常設展で公開)で確認できる。
「備前・因州官軍に相違御座なく候。備本末(本藩と支藩)共に大津へ出張大に相振ひ申し候」
 岡山藩は支藩の岡山新田藩(鴨方藩)・生坂藩とともに、大津に布陣した。草津まで関東から旧幕府歩兵大隊が迫っていた。
 この手紙は、「因州は本末、山崎へ出張、同断相振ひ申し候。懸ては御疑念もこれあるべく候えども、勢ひは言外にあるものにて、実に皇威振興…」と続く。鳥取藩も支藩の鹿奴藩・若桜藩とともに山崎で大いに戦った。新政府軍の大勝利が決定的になったことを伝えている。

 大久保は6日の日記に次のように記した。「初戦より一日も敗走これなく、寸歩も退きたることこれなし…実に大愉快に堪えざる次第なり」と喜びを隠しきれなかった。
 因備が戊辰戦争の緒戦で新政府に味方したことの意味は大きい。新政府軍は西国へ戦力を削ぐことなく、関東へ出軍できたからである。
 では、いつ頃から西郷は、岡山藩家老の土倉と通じていたのであろうか。それを知る手がかりは桐野利秋日記にある。桐野は戊辰戦争の鳥羽街道の総指揮から会津鶴ヶ城の受取りまで大役を果たしている。
 慶応3年9月1日、桐野は京都で備前藩士の青木太郎左衛門の所に行き、夜10時過ぎに薩摩藩邸に帰っている。11月3日初雪、桐野はまた青木を訪ねた。
 このほか青木の名が何度か日記に出ている、岡山藩主、池田茂政は徳川斉昭の九男であり、表向き佐幕の立場にあったが、3月15日藩主を継いだ章政は慶喜追討軍を送っている。岡山藩下級藩士の青木は、尊王攘夷派として桐野と接触したのであろう。
 鳥取藩主、池田慶徳も徳川斉昭の五男で、将軍徳川慶喜の兄だったので、両藩が新政府に味方したことは、旧幕府の士気を喪失させたであろう。
 実は西郷が土倉に宛てた手紙はもう1点ある。所有者の日本史家、磯田道史氏はその手紙を平成26年6月25日の新聞紙上で紹介された。
 日付は慶応4年の1月15日。西郷は新政府を揺るがす神戸事件の4日後に岡山藩家老の土倉に頼る必要があった。神戸事件とは神戸の警備についていた岡山藩兵とフランス水兵との銃撃戦である。英公使パークスの厳しい抗議に新政府は苦慮していた。西郷は結局、岡山藩の隊長、滝善三郎に詰腹を切らせて決着させた。
 西郷は戊辰戦争の直前と最中、2回も岡山藩家老、土倉の強力な援助を受けていたのだ。西郷書状は現在、縁の深い鳥取市が入手に向けて動いている。

 原口先生は、鳥羽伏見の戦いにおける備前と因幡の兵の配備状況から、鳥取藩が先陣を切って幕府軍と戦った様子を強調し、真の維新の立役者は「薩長因備」と声を張り上げて聴衆に訴えたことでも会場から万雷の拍手が巻き起こりました。
 第一部終了後、休憩を挟んで二部が始まり、パネラーからそれぞれの思いが語られました。何と言っても西郷隆夫氏に注目が集まり、報道陣によるカメラのフラッシュが何度も光った次第です。全体的内容は、新聞記事で紹介します。
(写真左より原口泉先生、西郷隆夫氏、原田良子氏、鯉渕義文)











プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
 「情念の炎」下巻
この本を購入する
茨城県内一部店舗で販売しています
義援金募集
FC2「東北地方太平洋沖地震」義援金募集につきまして
FC2はユーザーの皆様から募金を募り義援金として支援を実施いたします。
映画「桜田門外ノ変」
桜田門外ノ変映画予告編 桜田門外ノ変メイキング 主題歌alan/悲しみは雪に眠る
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
リンク
検索フォーム
QRコード
QR