桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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新作原稿 ( 仮称『遠い夜明け』―水戸藩始末―)、四年越しの苦労やっと実る ③

  今回の執筆にあたり、小説の一つの舞台となる福井県敦賀市や同三方郡美浜町佐柿については若狭国吉城歴史資料館の学芸員大野康弘氏、美浜町在住の高木和行氏から貴重な史料を提供していただき、大変有難く感謝している次第です。
  若狭路文化研究会が平成二十六年に発刊した「水戸天狗党敦賀関係史料」には、活字翻刻された酒井家編年史料稿本や南越陣記(葉原日録、葉原日記、旭櫻雑志等)などが収録されていて、水戸天狗党に関する内容が克明に記録されています。その中で驚くべきことが沢山ありましたが、紙面の都合上全てを述べる訳にはいかなので一つだけ紹介したいと思います。
  幕府から遠島処置を申渡された武田金次郎ら同勢百余人が、手狭な敦賀の「永厳寺」宿坊から三方郡佐柿村殿町の准藩士屋敷に移って生活し、やがて朝廷の召命に応じて京都に向かうことになりますが、その時小浜藩京留守居役の案内で本圀寺勢の目付山口徳之進と朝倉五郎左衛門が金次郎ら准藩士引取りのため京都から佐柿に迎えにやって来ます。
  この記録は、明治になって立憲政党員になった小畑三郎右衛門蔵として酒井家編年史料稿本の中に収録され、山口徳之進については後年書き足したように名前の下に小さく、 「此人後男爵ヲ授ケラレ宮内省ニ出仕」と記され、朝倉五郎左衛門のところには、「此人敦賀ニテ斬セラレシ(処刑)朝倉弾正(源太郎)之弟之由」と付け加えられている。
  朝倉源太郎は、大発勢の大将榊原新左衛門が幕府に降伏する中、潮来勢を率い武田耕雲斎、藤田小四郎らの隊と合流し、天狗党として志士たちと運命をともにした武士である。小畑氏が如何に水戸藩に関心を持っていたかということが分かる貴重な史料である。
 平成二十六年十月上旬、小説の冒頭に出てくる敦賀の新保宿を肌で実感したいと思い、高校時代の友人や鳥取、京都の歴史仲間と一緒に現地を訪問した。正確な戸数は数えなかったが、七、八十軒ほどの小さな集落で、中央の細い道路は思ったよりも勾配が急な坂道であるのに大変驚かされた。天狗党の本陣となった家は、当時問屋を経営していた塚谷家の屋敷の一部で規模は小さいが書院造で格式高い造りとなっている。
  その後、史跡となっている武田耕雲斎等の墓、松原神社、鰊蔵を見学し、翌日は美浜町佐柿にある若狭国吉城歴史資料館を訪問し、学芸員の大野康弘氏や美浜町在住の高木和行氏の案内で准藩士屋敷跡の説明を聞いた。帰りがけ近くの徳賞寺へ行き、水戸藩士の墓石を探したが結局見つからなかったが、後日大野氏からメールが入り、住職の案内で墓石があることが分かったとの一報を受け、大変嬉しく思った次第である。
 史料提供に関しては、ふとしたことから水戸市在住の郷土歴史家小林義忠氏と交流するようになり、武田金次郎の動向を知る上で重要な「伊藤栄太郎懐中日記」のコピーをいただきました。改めて厚く御礼申し上げます。
  伊藤栄太郎は、千葉出身の水戸藩士井田平三郎を慕って郷校の「潮来館」に入り、那珂湊戦争にも潮来勢の一人として参戦したほか、井田の家来として敦賀まで行軍、遠島処置を申し渡されました。明治になってからは警視庁巡査として職務を全うしたといいます。
  難解な文書についてご指導を賜わった水戸史学会の宮田正彦会長、那珂民俗資料館の仲田昭一館長、また小説の全体構成、挿話の取捨選択など細かく助言をして頂いた茨大の大先輩小貫和也氏に感謝の意を表します。
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新作原稿 ( 仮称『遠い夜明け』―水戸藩始末―)、四年越しの苦労やっと実る ②

  水戸藩の学者青山延寿の孫にあたる山川菊栄は、著書「覚書 幕末の水戸藩」の中で、結城の処刑の状況を知る人物が後に語った話として、処刑は前触れもなく侍が三、四人やってきて、獄舎の役人に口止め料として五両が与えられたこと、斬首される際、結城は最後まで公正な審理を求め訴え続けたことなどを記しています。
  結城寅寿の遺骸は、藩命によって「打ち捨て」とされたようですが、処刑場に隣接する蒼泉寺の住職米庵天貢がこれを引取って秘かに寺内に葬り、その後、下野の氏家(栃木県さくら市)に住む結城家の縁者によって墓石が立てられたと言われています。
 その子結城種徳(一万丸)も家禄と屋敷を没収されて蟄居処分を受け、寅寿と同じく拘禁されたが、絶食して牢死したとされる。結城家の墓地は水戸市元吉田町の清巌寺にあり、その一角に結城寅寿、結城種徳(一万丸)、結城七之助の三人の名が刻まれた墓標がある。
 このような経緯をたどると、天狗党から「結城之残党」と称された上士層の鈴木石見守、市川三左衛門ら保守派が遺恨を晴らすため、敵対する天狗党に残忍な仕打ちをした動機がおぼろげながら見えてくる。その残忍な行為が、今度は全く逆の立場で天狗党政権下において再び繰返されたのある。
  明治政府にこれといった人材を水送り出せなかったことに関しては、誠に残念なことではあるが、これも史実をたどると止むを得ない事情があったことを何となく感ずる。
 未曾有の国難に直面した幕末、水戸藩は第九代水戸藩主徳川斉昭が提唱した「尊王攘夷」を旗印に日本の国家体制を護持すべきであると主張し、全国諸藩に先駆けて幕政改革の必要性を強く訴えた。
 だが、長年続いた老中を中核とする官僚体制がそう簡単に崩せるはずもなく、そうこうしている間に軍事力を背景とした恫喝に屈し、日米通商条約が結ばれてしまった。これに憤慨した斉昭は、大老の暴挙であると不時登城して詰問したが、逆に大老から謹慎を命じられ、幕府中枢から排除された。
  激昂した水戸藩尊攘派は巻き返しを図るため、朝廷に働きかけて天皇から直接幕府を諌める勅命を下してくれるよう奏請し、所謂「戊午の密勅」が下賜されたが、これに大老が激怒し、水戸での永蟄居を命じられたことによって政治生命を絶たれる形となる。
  これに対抗すべく、水戸藩尊攘激派の高橋多一郎、金子孫二郎らは、幕政改革を推進めるために東西同時に決起することを企図した。即ち、改革を阻害する大老を江戸で討つとともに、斉昭と気脈を通じる薩摩藩の兵三千の大軍を入京させて朝廷を守り、天皇から直接幕政改革の号令を発してもらうという。
 前者は水戸脱藩浪士などによって首尾よく目的を達成したが、後者は薩摩藩の諸々の事情が重なって不首尾に終わり、大坂にあった高橋多一郎親子は自刃、大老誅殺の成功を受けて薩摩藩士有村雄助とともに大坂で後挙を謀ろうとした金子孫二郎も伏見で捕えられた。
  その四ヶ月後、水戸藩の西丸帯刀ら尊攘派有志は、長州と謀って活路を見出そうと「成破の盟約(水長密約)」を結んだ。この席には、水戸側から西丸帯刀、岩間金平、園部源吉および結城藩士越惣太郎、長州側から丙辰丸艦長松島剛蔵、江戸有備館用掛桂小五郎らが参加し、佐賀藩士の草場又三が仲介役を務めた。
 協定の内容は、幕府要人や外国人を襲撃して世の中を掻き乱す「破」の役割を水戸藩が担い、混乱に乗じて幕政改革を成し遂げる「成」の役目を長州藩が受け持つというもので、幕藩体制そのものを破壊する討幕を趣旨とするものではなかった。
  盟約は結ばれたものの、実際に両藩の中枢まで含めた行動指針には至らなかったが、西丸らは野村彝之介、原市之進らと謀議を重ね、文久元年イギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃(東禅寺事件)し、 翌年には登城しようした老中安藤信正の行列に斬り込む(坂下門外の変)など、密約に沿って忠実に役目を果たした。
 これによって幕府の威信は急激に低下し、その後の全国的な攘夷運動の気運を高める大きな要因となった。水戸藩側からすれば決して割に合う盟約とは言えず、多くの尊攘志士の血を見ることになったが、西丸帯刀は密約である「破」の役割を一手に引受け、長州に「成」、即ち後事を託そうとしたのである。
  このような経過を見ていくと、西丸ら当時の水戸藩尊攘有志の考えは、新しい時代を築くための言わば「捨て石」になることを覚悟していたように感じられてならない。
 大きな改革、時代の変革を成し遂げる上で最も困難で、大きなエネルギーを必要とするのは最初に行動を起こすことであると言われるが、それに死を賭して挑んだのであるから先駆けの武士たちにただただ驚嘆するばかりである。
  「武士に二言なし」という諺があるが、明治政府が成立した後、西丸帯刀らが木戸孝允に任官を求めたとは思えないし、逆に求められても応ずることはなかったと想像できる。西丸らに限らず尊王敬幕の立場にある水戸藩士は、幕府が崩壊した時点ですでに政治変革を成し遂げる役割を終えていたことを敏感に感じ取っていたのではないだろうか。

新作原稿( 仮称『遠い夜明け』―水戸藩始末―)、四年越しの苦労やっと実る ①

  もともと小説に関して門外漢の私が、初めて手がけたのは「桜田事変」を題材に扱った「情念の炎」で、九年ほど前に自費出版本の出版にこぎつけることができた。その後、下巻を執筆しているうちページ数が多くなり、上中下の三巻に増えてしまった。
 下巻が完成したのは平成二十四年十一月で、これで終わりにしようと思っていたのであるが、その後の水戸藩の様子が無性に知りたくなって図書館通いをしているうち、今まで分らなかった水戸藩党争の激しさを知り、唖然とさせられた。 
 水戸には天狗党と結城残党(諸生党)があり、両者が激しく対立したことは断片的に知ってはいたが、いろいろ調べていくうちに様々なことが分かり、その時代に生きなければならなかった先人たちの並々ならぬ辛苦がひしひしと伝わってきた。
  水戸藩幕末史に関する小説では、主に天狗党を題材とした本が数多く出版されているが、大半は「天狗党の乱」を題材とした作品が中心で、かれらが処刑された慶応元年二月以降から明治期までを扱った作品は見たことがない。
 結城残党(諸生党)を中心とした作品も少数で、ましてや両者を総合的に扱った小説は皆無と言っても過言ではない。想像するところ小説の題材としては馴染みにくいという側面と、もう一つは余りにも残忍な仕打ちが繰返されたため、それを取上げることに大きな抵抗があったのかも知れない。
  取分け、市川三左衛門ら保守門閥派が水戸藩政の実権を握った元治元年(一八六四)十一月から、市川勢が壊滅する明治元年十月までの史実を知れば知るほど、如何に水戸藩内で激しい党争が繰返されてきたかということが分かり、暗澹たる気分になる。
 しかし、明治維新百五十周年という大きな節目を来年に控えた本年、先人たちがたどって来た言語に絶するような凄まじい歴史の事実を知り、その途上で亡くなられた多くの人々のご冥福を祈ることも大切であると考え、今回敢えてタブーに挑戦して筆を走らせた次第である。
  さて、水戸藩の歴史に関することでよく話題になるのが、 「何故水戸藩が分裂し、党派間で血生臭い争いが続くことになったのか?」、「何故保守派は敵対する当事者ばかりでなく女、子供を含めた家族をも処刑の対象にしたのか?」、「何故幕末に天下の先駆け的立場にあった水戸藩が、明治政府に人材を送り出せなかった」という三点です。 
 水戸藩では、第八代藩主徳川斉脩の死後、上士である保守派重臣は幕府との関係を親密にするため、将軍徳川家斉の庶子清水恒之丞を養子に迎えようと運動するが、中下士層を中心とした国許の改革派がこれに激しく反発して南上を繰返し、斉脩の遺書を突きつきつけて弟敬三郎(斉昭)を藩主にすることに成功します。
  藩主に就任した斉昭は、自分を推挙してくれた改革派の人材を登用する一方、譜代の家臣も重用して調和を保つように配慮した。その代表格が結城寅寿(朝道)で、小姓からを若年寄、御勝手改正掛ととんとん拍子に出世し、二十四歳の若さで執政に昇進した。
 名門の出である結城は聡明な人物で、当初斉昭や天狗党からも好感を持たれていたが、生来保守的な性格で上士層によって形 成された佐幕派の支持を受けて次第に頭角を現わし、藩内に「結城派」を形成するほどの勢力を築くことになる。 
  やがて、結城は天狗党が実権を握る水戸藩政に反発し、保守層の勢力挽回のために革新的な政策を打ち出す斉昭や、その腹心である執政戸田忠太夫、側用人藤田東湖らをはじめとする尊攘派と次第に対立を深めることとなった。
  これによって上士層を中心に親幕府的立場をとる結城党と、朝廷を信奉する天狗党の二派に分かれ、代々藩内で闘争を繰り返してきたのである。
 弘化元年(一八四四)五月、幕政にも多大な影響力を持っていた斉昭が突然幕府から謹慎を命ぜられ、長男の慶篤が第十代藩主に就きます。この斉昭の失脚は、結城一派による幕府への讒言によるものと斉昭とその近臣は認識していました。
  結城の画策によって失脚させられた斉昭や改革派藩士の恨みは凄まじく、やがてかれらが復権を遂げると、保守派の家臣が次々と処罰され、結城は水戸一門松平氏の領地である長倉(常陸大宮市)陣屋の一角にある獄舎に投じられた。
  安政二年(一八五五)の江戸大地震で斉昭の腹心戸田と藤田が圧死すると、斉昭にに諫言する家臣がなくなり、保守派への粛清が一気に進んだといわれています。結城親子は翌安政三年四月長倉の獄で死罪となり、遠く讃岐高松藩(香川県)に身を隠していた結城一派も厳しい探索によって捕えられ、極刑に処された。(つづく)

家族旅行と今後の取り組み

  毎度のことになりますが、月日が経つのが夢のように早いです。今年に入ってから、やっと仕上がった原稿のチェック作業を進め、500ページほどあったものを400ページに縮小してみました。それは大変な作業で、頭の中が混乱してしまったこともあります。それによって全体のバランスを考慮しなければならないので、高年齢の小生にはきつい作業となりました。
  第一、相当な日数をかけて調べた北越戦争の部分を大きく削らなければならなかったので、それを決断しただけで大分気力が萎えてしまいました。あれもこれもと欲張ったことが裏目に出てしまった感じです。何に一番重点を置くかと言う柱を損なわないようにするためには、過去に費やした労力を惜しんではならないということを学びました。
  先月末やっと一段落し、なんとか全体の流れはバランスが取れたように思います。そのような矢先、同居の娘が家族旅行を企画してくれました。長男家族、三男家族、そして我家の家族と三家族合同で一泊二日の温泉旅行が一番良いということなり、嫁たちと相談したようです。
  幸いにも嫁の勤め先の社長さんが、草津温泉某ホテルの会員になっているので豪華な部屋に数千円で宿泊できるとのことで早速予約を入れて貰いました。そういうことで今月はじめ、鯉渕一家十二名、二台の車に分乗してささやかな温泉旅行を楽しんで参りました。
  本当は、今回手がけている作品の中の最後の章に「伊香保温泉」の某旅館が出てくるのでそちらの方も立ち寄りたかったですが、今回は時間の関係で回れませんでした。

  草津温泉は6、7年前でしたか、家内と一緒に長野県の松本城、上田城跡公園を見学した帰り道に一泊したことがあるので、今回二度目となります。前回と違って高架橋も完成していたので雄大な景色を楽しむことも出来ました。
 草津の有名な湯畑は、今回初めて見学することが出来ました。大変良く整備されていて昔から当地を訪れた有名人の方々の名前が記されていました。その中に源頼朝も名前も紹介されていました。
  今回宿泊したホテルは敷地面積が広く、自然豊かな森林浴やパターゴルフ、プール、ボーリングなどのアミューズメント施設も充実していて孫たちは大喜びでした。朝夕のバイキング料理も値段の割には品揃えが多く、大変美味しく腹いっぱい食べてしまいました。近くに沼があるということで、子供たちと別行動でそちらの方へも足を向けてみました。
  夜、孫たちが「カラオケ」をやりたいというので、小生爺ちゃんもメンバーに加えていただくことになりました。子供や孫とカラオケをやるのは初めてで、大変思い出のある旅行となりました。天候も良く、暑い最中ではありましたが、これを機会に来年も実施出来ればと秘かに期待を寄せているところです。

  旅行翌日から再び机に向かい、いよいよ最終の見直し作業を開始致しました。小生の狭い二階仕事部屋はエアコンがないので、いつも網戸にして暑い中で踏ん張っています。幸い海に近いせいか、我慢できないほど暑くはないので持ち堪えています。
範囲は元治元年からスタートし、明治期までの水戸藩の様子を取扱っています。具体的には天狗党の敦賀での降服、処刑から戊辰戦争(主に北越戦争)、市川勢の壊滅、廃藩置県、水戸城火災、士族の反乱辺りまでを主にしています。後半は、以前指摘しましたように一般的には「タブー視」されてきたことにも内容が及んでいます。
  具体的にどのような形で出版できるか、現在検討中です。いずれにしても来年は「明治維新百五十年記念」の節目を迎えますので、それに合わせて出版できることを目標にしています。今回、福井県三方郡美浜町佐柿の「若狭国吉城歴史資料館」の学芸員や友人等々から貴重な資料が得られましたので、今まで明らかにされなかった武田金次郎(武田耕雲斎の嫡孫)をはじめとする遠島組の動静を出来得る限り詳細に触れるように心がけました。
  一番大切なタイトルが今もって確定できず、困っています。仮称としていくつかの案はあるのですが、「これだ」というものがなく、もう少し時間がかかりそうです。

歴史あれこれ

 本日午後、昨年より自治会仲間数人で取組み始めた恒例の「歴史研修会」がひたちなか市内のCafe 月兎耳で行なわれました。これは原則として月一回第三水曜日に開催されることになっています。資料作成および講師は中根自治会役員のY氏が担当し、途中途中で質問の出た事柄について話合う形式をとっています。主要テーマは江戸時代の水戸藩で、郷土の歴史をより深く掘り下げて勉強したいという有志の発案によって始められました。
  水戸藩の歴史に精通しているYさんが講師役を引受けて下さったので、参加者の皆さんは毎月この日を楽しみにしています。最初は四人からのスタートでしたが、現在は二人増え、都合六人になりました。そのうちの一人は、たまたま我々が研修している姿を隣の席で耳に、自分も加えて欲しいとの要望で仲間に加わった次第です。もう一人は、この研修会があることを仲間のIさんから聞き、先々月から参加するようになりました。

  講師のYさんは三重県ご出身の方で、仕事の関係で数十年前からひたちなか市に住むようになったとのことです。当地に落ち着くまでは、いくつかの県外勤務も経験されたとのことですが、私が感心したのは、その土地その土地の歴史を勉強してきたということです。自治会の会合で顔を合わせている内そのことが分かり、歴史を勉強する会を立ち上げようということで出来たのが「月兎耳」会です。
  Y氏は日本史だけでなく世界史にも長けていて、広い視野の中から日本史を見ているので毎回大変勉強になります。研修会では様々な質問が出ますが、ほとんどのことは答えられるので参加者は大変満足しています。歴史関係本に多く接してきたことで、驚くほどの知識があり、私としても大変勉強になります。

  毎回の講義内容はY氏にお任せしているのですが、段々幅広く専門的内容になって郷土史から遠ざかってしまったので、もう一度郷土に目を向けようということになり、今回から再び水戸藩に関する内容に戻ることになりました。資料を拝見しましたら「徳川斉昭その1」となっていたので安心致しました。水戸藩のあるいは日本の幕末史を勉強する上で、徳川斉昭という人物の存在は決して欠かすことは出来ないと思います。
 一般的に水戸では神様扱いされていますが、県外出身ということもあり優れた面とそうでない部分を同時に取上げて説明するので、議論が深まっていくのが面白いところです。今回は斉昭の寺社改革を巡っていろいろな意見が出されました。何故、反対を押し切って強引にこれを進めようとしたのか、次回が期待されます。いろいろな事実をもとに真相に迫られればと期待しているところです。

  私事になりますが、今月は「水戸藩の光と影」というテーマである研修会の講師に招かれ、自分なりに幕末混乱の水戸藩に関するお話をさせていただきました。何故水戸藩が分裂し、党派間で血生臭い争いが起きたのか、多くの人が一番関心を寄せている点です。しかも、今もってそのしこりがあると言われていますので、どちらかというとタブー視されてきたように思われます。
これらの悲惨な歴史をどう伝えていけば良いのか、そのような思いもあって今回招かれたと承知しています。先日主催者から感想を聞く機会がありましたが、いままで疑問、謎であったことが少し解けたということを伺い、少しはお役に立てたのかなと有難く感じているところです。
  歴史は、人間の心の奥深い部分にあるものと密接に関係しているのではないでしょうか。何故悲惨な処刑が繰返されたのか、憎悪の根底に何があったのが、それらの背景にあったものを考えて行くことで少しずつ真実に迫ることが出来るのではないかと考えています。
プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

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