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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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同盟相手・長州藩に花を持たせた水戸の先人たち (下)

  文久年間に至って尊王攘夷運動は最高点に達し、政治の表舞台は江戸から京都に移る。文久3年1月27日には、各藩(長州、土佐、肥後、水戸など6藩)の代表者が西本願寺の別邸に集まり、攘夷の具体的方策が検討された。これが世に言う「翠紅館会議」である。顔ぶれを見ると長州から世子の毛利定広、久坂玄瑞ら10名、水戸から住谷寅之介ら14名と多く、ついで肥後5名(宮部鼎蔵ら)、土佐2名(武市半平太ら)、対馬2名、津和野1名となっており、長州側がいかに水戸藩に大きな期待を寄せていたかがうかがわれる。

※翠紅館会議の参加者
 長州藩 世子・毛利定広
 長州藩士 中村九郎、佐々木男也、久坂玄瑞・松島剛蔵・寺島忠三郎・神村斎宮・大和弥八郎・長嶺内蔵太・井上馨
 土佐藩士 武市半平太・平井収二郎
 肥後藩士 住吉甚兵衛・宮部鼎蔵・佐々木淳次郎・山田十郎・河上彦斎
 水戸藩士 梶清次右衛門・下野隼次郎・金子勇次郎・山口徳之進・住谷寅之介・大胡津蔵・高畑考蔵・林五郎三郎・岡部藤助・
        大野謙助・西宮和三郎・川又才助・林長左衛門・赤須銀三
 対馬藩士 多田荘蔵・青木達右衛門
 津和野藩士 福羽又三郎

 水戸側の参加者で住谷寅之介ら桜田事変関係者以外に、明治になって第二代茨城県令(権参事)に就任した山口徳之進(正定/当時19歳)の名が連なっていることに注目したい。かれは本圀寺勢の一員として活躍していたが、長州藩士(桂小五郎ら)や土佐藩士(土方楠左衛門/久元/宮内大臣)らとも強いパイプを築いている。

 この後、過激攘夷を嫌った公武合体派による巻き返し(8.18の政変、第一次長州征伐など)で長州藩は窮地に立たされ、筑波で挙兵した天狗党もついに加賀藩に降伏するというように時代は急テンポで動いていく。そして慶応3年10月、将軍徳川慶喜による大政奉還によって260余年つづいた徳川幕府は幕を閉じることになった。それまで尊王攘夷の旗を掲げ、ひたすら幕政改革を成し遂げようとした幕府自体が消滅したことは、当時の在京水戸藩士(本圀寺勢)の眼には一体どのように映ったのであろうか。

  その間、冷や飯を食わされた長州は薩摩の呼びかけで同盟を結び、王政復古の大号令を経て新政府を樹立していくことになるが、水戸藩の場合、国許で門閥派が実権を握っていることや藩主が謹慎していたことなどを理由に新たに設置された三職(総裁・議定・参与)会議の一員に加えられることはなかった。そうこうしているうちに鳥羽伏見の戦いが勃発して、在京水戸藩士は全く身動きが取れない状況に陥る。以上が、幕末から明治期にかけての水戸藩尊攘派の一連の動きということになる。
他方、元治から慶応年間に至るまで水戸藩の実権を握っていた門閥派は、敵対する天狗派への弾圧の行き過ぎが幕閣の間からも問題視されるようになり、水戸藩は門閥派、改革派ともに立ち行かなくなったのである。
 ※門閥派による主な弾圧
  慶応元年(1865年)3月25日 武田耕雲斎の遺族7人の斬首
    同年1 0月25日 改革派の元参政岡田新太郎、元側用人美濃部又五郎ら17人の極秘処刑

  ペリー来航以来の内憂外患という状況下の中で、水戸藩改革派は「尊王攘夷」の旗印を高く掲げ、天下の魁を担うべく幕政改革の主導権を握ってひたすら突き進んできたのだが、皮肉なことに水戸出身の将軍慶喜の大政奉還によって改革すべき対象の江戸幕府そのものが消滅してしまったのである。
  こうした時代の流れを見ていくと、現代に生きる水戸人にとっても空しく感じてしまうのだが、当時、慶喜側に就けば良いのか、新政府側に就くべきなのか、その判断を巡り、本圀寺勢が逡巡したことに思いを馳せると胸がいっぱいになってしまう。「かれらは最早、時代の変化に付いて行けなくなったのだ」という手厳しい評価を下すことは簡単だが、武士としての生き方や信念を果してそう易々と変えることができるのかどうか、ということも視野にいれて再考してみる価値があろう。

 また単に勝者、敗者という視点に立てば、明治新政府に人材を送り出した薩長などは勝者、送り出せなかった水戸は敗者ということになるのだろうが、私は必ずしもそうは見ていない。情緒的と批判されるかも知れないが、武士として人間としての生き様という視点でみると、全く異なった世界が見えてくるのだ。
 それというのも、水戸藩士、特に改革派藩士の中には楠木正成や赤穂浪士など古い武士の生き様の中に武士としての理想像を描いていたのではないかと思うからだ。楠木正成の場合、所謂合戦の勝ち負けではなく、あくまでも「天皇のため」という大義に重きを置いた生き方だ。赤穂浪士は主君に殉ずる道を選んだ。藤田東湖の「正気の歌」の中に、楠木正成、正行父子の桜井の駅の別れや、赤穂義士が登場することがこれらを良く物語っているように思えてならないからだ。
 「正気の歌」の最後の部分、「生きるならば、まさに主君の冤罪を晴らし、主君のふたたび表舞台で国の秩序を伸張する姿を見るにちがいない。 死しては忠義の鬼と化し、天地のある限り、天皇の御統治をお護り申し上げよう」との一節の中に東湖の心意気がうかがえる。
※参照 藤田東湖の「正気歌」http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/jpn15.htm

 水戸の先人たちは、自分自身(水戸藩)が花を咲かせようというよりも、他人(長州藩)に花を持たせるために敢えて困難な道を選んだということ、また古来の武士の伝統を重んじたという視点に立って考えてみると「敗者」どころか、むしろ真の「勝者者」ではなかったのだろうか。


 
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同盟相手・長州藩に花を持たせた水戸の先人たち(上)

  近現代の歴史について話が及ぶ時、必ずといって良いほど話題に上がるのが「水戸藩は、何故明治維新の時、表舞台に立てなかったのか?」という類の疑問である。多分、それは自分たちの郷土に愛着を感じているからであり、誇りに思いたいという潜在的意識・願望があるからだろう。勿論、自分もその中の一人である。
 また、水戸藩が明治新政府に人材を送り出せなかったことに関しては、「水戸藩は内訌で多くの人材を失ってしまったからだ」というのが一般的見方のようである。これを別の角度から見ると、少なくとも大政奉還後、門閥派・改革派を問わず、果たして水戸藩士の間で新政府に人材を送り出すという状況下にあったのかどうか、これを検証してみる必要がある。歴史研究家でもない素人があれこれ言うのもおこがましいが、人にはそれぞれの見方、感じ方があるものだ。

  驚くべきことに、王政復古(慶応3年12月9日)の大号令をへて新政府が樹立されたのは、あの「桜田事変」からわずか8年しか経っていないということである。水戸の脱藩浪士たちは、何故自分たちの命を犠牲にしてまで井伊大老を討ち果たす必要があったのか、その意味を(斬奸趣意書などから)正しく読み解かなければ、その後の水戸藩改革派藩士(天狗党)による一連の行動が理解できなくなってしまうのではなかろうか。 
  歴史の教科書ではあまり取り上げられていないが、実は桜田事変から4ヶ月後の万延元年7月22日、尊王攘夷派の長州藩士と水戸藩士の間で「成破の盟約」(丙辰丸の盟約・水鳥盟約とも)」が結ばれた。これは幕政改革(倒幕ではなく「幕閣改造」)に関する同盟なのだが、それぞれの藩情により公式な会見(藩府の実力者長井雅楽・周布正之助と武田耕雲斎)にまでは至らなかったため「密約」ともいわれる。

  ※長州側参加者 桂小五郎、松島剛蔵(「丙辰丸」艦長)
    水戸側参加者 西丸帯刀、岩間金平、園部源吉及び結城藩士の越惣太郎
    仲介者    草場又三(佐賀藩士)

  この「成破の盟約」では、水戸側が分の悪い「破」の役割(破壊=刺客を放って君側の奸を除く)を演じ、長州側は名誉ある「成」の役割(成就:藩侯を動かして在野の賢を国政に奨める)を担うと取り決めたのだから、交渉に臨んだ水戸の先人たちの凄まじい気迫には圧倒されてしまう。「桜田事変」もそうだが、今の平和社会に慣れた我々現代人には到底理解が及ばない。

  盟約を結ぶに当たり、西丸らが藩首脳(側用人・美濃部又五郎ら)とどのような打ち合わせを重ねたのかは分からないが、自分たちが多大な犠牲を払ってまで長州側に新しい政権の誕生を委ねる、つまり「相手側に花を持たせる」というのだから、その度量の広さには度肝を抜かれる。一口に幕閣を誅殺すると言っても当事者には死の危険が伴うので、余程の覚悟が求められたであろうことは想像に難くない

  水戸側の代表者西丸帯刀は盟約を結ぶ際、「桂先生は、破と成とどちらを選びますか」と問うたのに対し、桂は「破は難しい」と答えたので、西丸は「しからば水戸が破を引き受けましょう」と応じたという。またこれは余り知られていない話だが、西丸は盟約の本気度を示すため、後日桂に「大日本史」を贈ったという(県立歴史館主任研究員・石井裕氏の講演から)からこれも驚きだ。

 この盟約に基づいて西丸ら水戸の尊攘派は死士を糾合することとなり、桜田事変後に幕権を握った老中安藤信正の襲撃(坂下門外の変)を企てる。当時この全体計画を練っていたのは、桜田事変にも深く関わった野村彝之介、住谷寅之介らで「桜田事変の再現」を目指したという。第一次東禅寺事件も水戸藩尊攘激派が中核となっている。
  結果的に「坂下門外の変」では、水戸藩士平山兵介(水戸酒門共有墓地)ら6人が討ち死にし、1人が長州藩邸で自決した。襲われた安藤信正は軽傷ということで本来の目的こそ遂げられなかったものの、これら「破」の行動により、長年つづいた幕府の権威は地に落ち、やがて公武合体へと流れが変わっていく。それから2年後の元治元年(1864年)に水戸藩尊攘激派(天狗党)の藤田小四郎らが筑波山で挙兵したことも、「成破の盟約」の精神を引き継いだものと考えられる。水戸藩尊攘派は当初薩摩の同志と手を結ぼうとしたが、桜田事変の件で見切りをつけ、長州との提携に舵を切った感がある。(つづく)


  

歴史を学習、楽しむ 「歴楽会」 の再開

 これまで新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために求められていた移動の自粛が6月18日、ようやく全面解除された。これは国内の感染が一定の範囲内に抑えられているとして発表されたもので、19日からは緊急事態宣言を全て解除した際に出した行程に沿い、社会経済の活動水準をも引き上げられることなった。これらの措置に伴い、嬉しいことに今まで休会となっていた「歴史学習会」も今月から三ヵ月ぶりに再開されることになった。

  「歴楽会」と銘打たれた歴史学習会は、市内の「ふぁみりこらぼ」を会場に毎月一回第三水曜日の午後1時から3時半まで行われる。会員数は、地元ひたちなか市9名、那珂市1名、常陸大宮市1名の合計11名で、この中には歴女も2名含まれる。3年前の発足時は地元の4名だけだったことからすると、この数年間で大きく躍進したことになる。
  当初は近現代の郷土史を中心に学習会を実施してきたが、最近は幅広く幕末史全般をテーマに取り上げるようにしている。昨年後半からは「天狗党の乱」「8.18政変」「禁門の変」「大政奉還」「王政復古の大号令」などを経て、今年1月からは鳥羽伏見の戦い、そして現在は「戊辰戦争」について理解を深め合っている。

  6月の定例会では、事前に配布したリジュメをもとに戊辰戦争のなかでも主に北越戦争から最終局面となる函館五稜郭の戦いまで進んだあと、いつものように会員との質疑応答を行った。「歴楽会」では一方的な講義だけで終らないよう質疑応答の時間を可能な限り多くとり、理解を深めていくことを重視している。これが上手く機能しないと長続きしないからである。今回は会員の一人から、水戸藩の北越戦争について質問が出された。具体的には「戊辰戦争(北越戦争)における水戸藩の立ち位置」に関する内容だった。これに関しては、小生の場合も拙作「烈士たちの挽歌」執筆を手掛けてはじめて知ったことであり、それまでは水戸藩がどのように関わったのか、まったく未知の世界だった。

  実は、天狗党の乱以降、戊辰戦争が本格化してきた当時、水戸藩には大きく分けて二つの勢力があった。一つが門閥派(市川勢)で、もう一つが改革派(天狗党、本圀寺勢)である。朝廷は慶応4年1月19日、本圀寺勢と呼ばれた在京水戸藩士(家老大場景淑)に対してそれまでの泉涌寺警衛を免じ、藩政改革のため東帰することを許可した。その際、「鈴木石見(重棟)、市川三左衛門はじめ奸人共厳罰を加え、忠邪の弁を明かし、藩屏の任を失せざる様処置致すべし」と命じた勅書を下した。勅書の宛名は「水戸中納言」(徳川慶篤)である。 
  翌日20日、この勅書を携えた本圀寺勢300名は歓喜雀躍として京都を発し、2月10日江戸城西の丸に入城、徳川慶喜立会いのもと勅書を慶篤に渡した。それまで藩政の実権を握っていた門閥派は改革派の巻き返しを恐れ、小石川邸を脱走したことにより、ついに天狗派が藩政を奪還したのである。さらに本圀寺勢が国許に向かうことを知った市川三左衛門、朝比奈弥太郎、佐藤図書ら門閥派500人余(市川勢)は水戸を脱して会津へ向うことになった。

  一方、水戸に帰陣した本圀寺勢は、それ以降勅書の趣旨に沿った行動を取るべく、市川勢追討軍を編成して討伐に向かうことになる。従って水戸藩にとっての戊辰戦争、北越戦争は、ひたすら門閥派の壊滅を第一義とするもので、他の東北諸藩による新政府軍相手の戦闘とはまったく性格が異なったといっても過言ではない。つまり、水戸藩内の言わば身内同士の戦いだったのである。実際、市川勢追討軍は市川勢の所在を容易に突き止めることができず、代表者が若松城に赴いて直接藩主と謁見、引渡し要求を突きつけるのだが、会津藩としては立場上言葉を濁すだけであったという。
  それもその筈、談判している折、市川勢は会津藩から極秘に資金提供をうけ、別働隊的立場でともに新政府軍と対峙していたのである。しかし、会津藩のなかには水戸藩改革派の意向を察していた重臣もいて、市川勢が新潟方面にいることを暗に仄めかした人物もいたのである。両者は在京当時、お互いに信頼を寄せ合う仲だったというから人間関係は誠に重要なものである。

  その会津藩も必死に新政府軍と抗戦したものの、9月22日ついに藩主松平容保が降伏書を提出するに及んで大きな山場を迎えることになる。これを知った佐川官兵衛ら城外支援軍はなお抗戦の意志を持ちつづけ、市川勢などとともに新政府軍を相手に果敢な戦いを挑むものの、ついには藩主の意向に抗うことは出来ずに力尽きることになる。だが、市川勢の場合は佐川とは異なり、若松城自体が落ちたことを決して同盟軍の敗北とは考えていなかったようで、幕府再興の旗印を掲げて国許の水戸城を占拠することを企てるのである。しかし、そうはいっても市川勢だけでは数が不足して無理なので、言葉巧みに旧幕府軍の一部を誘い、佐川から預かった銃器を手にして一路水戸へ向かうことになる。

亡き母親との対面  - 母親が投稿した文集を発見 ―

 新型コロナウイルスの影響で、長い巣籠もり生活を余儀なくされている方は多いのではないでしょうか。このような事は今までにまったく経験がないことで、当初は大分面食らってしまいました。しかし、人間は誠に不思議なもので、慣れてくると何とかなることを知らされました。家内は外出自粛を機に、今までなかなか手が付けられなかった屋外の物置、屋内の書庫などの整理を始めました。お陰さまで家の内外が見違えるほど綺麗になりました。整理整頓がきちんと出来ていないのは小生の部屋だけとなり、家族の険しい視線を浴びながら生活している今日この頃です。
  そのような中、今日になって家内がいろいろな書物を整理している折、何と小生の母が寄稿した文集を発見したのです。奥の方にしまい込んでしまい、内容を見ないまま今日に至ってしまったようです。大いに反省をし、早速その本をめくって記事に眼を通しました。読んでビックリとは、まさにこの事を言うのかも知れません。母が健在の時に読んでいれば・・・、と今更ながら悔やんでもどうしようもありません。実際読んでみて、亡き母と対面したような思いに駆られました。

  文集の表紙には次のように記されていました。

    菅谷支部結成十五周年記念

   「追憶の記 道しるべ」 
 
     青少年育成那珂町民会議菅谷支部 

  発行日は、平成五年一月二十日となっています。

   以下に亡き母の文を紹介します。


       菅谷国民学校教員時代の思い出
                                            一ノ関区 鯉渕フミ

  昭和18年(1943)4月30日付の辞令で、私は母校の菅谷国民学校の教員となりました。前任校である本米崎での2年1ケ月の自炊生活から解放されて、両親の元より通勤できるので喜んで転任しました。担任は一年二組でした。次の日、かつて知った学校なので近道をして、裏口の小使い室から職員室に入ったとたん、校長先生(故黒澤子譲先生)から大目玉をちょうだいしました。
 菅谷国民学校には、きちんとした職員出勤の決まりがあったのです。先ず正門から入り、運動場のはるか東奥にある奉安殿(天皇、皇后両陛下のご真影や教育勅語が保管されているところ)の前に行き最敬礼をします。次に職員室隣の慰霊室(戦死者の写真が飾ってあるところ)に参拝して、それから職員室の神棚に二礼二拍手、そののち校長先生や教頭先生に挨拶し、その後出勤簿に捺印。それがすめば自分の名札を「出勤」のところへ上げるのです。この名札は出勤した順に上げ、退勤の時も順に下げることになっています。以上のことを正確にきちんと励行するように厳しく約束させられました。
 
  また、子供達も軍隊的に厳しく躾けられていて、登下校は集団で校門を出入りする時は、班長の子が「歩調取れ、歩調止め」と号令をかけます。やがて校門脇にある二宮金次郎の石蔵の前にくると、「頭、右」の号令をかけて石蔵に注目します。一、二年生の子供も、きちんとやっているのには驚いたり感心したりしました。職員室に入る時には直立不動の姿勢をとり、大きな声で「〇年〇組〇〇、〇〇先生に用事があって来ました」と言い、また帰る時には「〇〇、用事終わり帰ります」と言って職員室を出ることに決められていました。一言でも抜けていたら、何回でもやり直しをされるのです。

  この頃は、学校用として田んぼや畑がありました。食糧増産を目指し、職員も放課後田畑の仕事に精を出して働きましたから、子供の成績物の処理等は学校の勤務時間内にするということはあまり出来なく、ほとんど家に持ち帰ってからやりました。
 春と秋の農繁期になると、一週間ぐらい「農繁休」といって学校が休みになり、子供たちに農業の手伝いや子守などをさせました。そして出征兵士の留守宅には、その地区の五年生以上の児童が行って、草取り、麦刈り、いね刈り、いも堀り等の仕事を手伝いました。指導は地区担当の先生です。私は原福田担当だったので、今まで農作物等したことのない私も、見よう見まねで一生懸命稲を刈ったり子供の指導に当たりました。十時頃になると、ふかし芋が出たり、お昼になると大きなおにぎり等を出してもらえるので、それがとても楽しく、また大変おいしかったのです。
 
 この当時の授業の様子など、今思い出してみると、誠に粗末な状態であったと思います。学習の資料として高学年では掛図や地図があれば上等で、低学年用としては、若干の紙芝居や絵本があるだけでした。オルガンは、一、二年生の学年に一台と唱和室にあるだけで、子供達はオルガンに触れなかったのです。
唱歌の時間は、歌唱指導の他に聴音訓練に重点をおきました。ドミソ、ドファラ、シレソの三つの和音を聞き分けることを一年生から徹底して訓練しました。これは敵の飛行機の爆音を一早く聞き分けることのできる耳を養うことを目的としました。クレヨンや鉛筆も、現代のように豊富な時代ではないので、子供達はいろいろ工夫して本当に短くなるまで使ったものでした。この様に一人ひとりが物を粗末にせず大事に使っていたので落し物等はまったくありませんでした。
 教科指導の他に避難訓練を月に何回か実施しました。「警戒警報」と「空襲警報」にわけて真剣に行い、敵に姿を見つけられると危険なので避難場所は学校の東隣の杉山を利用しました。地区別、学年別に並ばせるため、地区名を書いた木札に針金を付け、杉の木にぶらさげましたが、これはあとで山主から大目玉をもらいました。杉の木に釘を打ち付けられては、杉の木が大きく育たなくなると叱られたわけです。

 昭和十九年(一九四四)一月、私は軍属の主人と結婚しました。この頃になって毎月何人かに召集令状が来ました。この人たちを四年生以上の子供達は、鼓笛隊の音楽に合わせ、日の丸の旗を振って上菅谷駅まで見送ったのです。間もなく国民学校の貴重な存在である男の先生にまで召集令状が来るようになりました。学校には若い女の先生の数が多くなってきましたが、これは、どこの学校も同じでした。そこで県の方から女教員だけで学校運営ができる体制が必要であるという通達が来て、その研究校に菅谷国民学校が指定されました。特定のその日だけは、学校全体の運営を女教師だけでということで、私達十数名の女教員が、それぞれの任務を受けもちました。
 朝会の訓話から朝の体操、そして全体訓練に至るまで協力して頑張りましたる校長先生には上席の中井川ひさ先生(現在一の関在住)が当たり、私は体操の号令を受け持ちました。研究発表の日には、那珂郡をはじめ他郡の先生方も大勢参観に来られ、盛大な研究会場になったことを今でもよく覚えています。普段厳しく躾けられていたので、子供達はいつもの変わらぬ態度で女教師の指揮に従ってよく活動してくれました。いざとなれば、女教師だけでも学校の運営はできるという確信を持つことができ、大きな自信となりました。

 昭和十九年も半ばを過ぎる頃になると、食糧事情も日増しに悪化し、各家庭では米の中に麦をまぜるのは勿論のこと、小麦をつぶして平たくしたものや、じゃがいも、さつまいも、かぼちゃの類にいたるまで入れて焚くようになりました。そんな時代ですから、子供達の弁当は現在では考えられないほど粗末なものでした。今でこそ学校の給食で誰もが同じものを和気あいあいのうちに食べていますが、この当時は弁当のおかずといえば、紅しょうが、干しのり、梅干し等で、塩びきや小魚の佃煮、たまご焼き等はいっていたら極めて上等な弁当と言えたでしょう。
 子供達は弁当のおかずを他人に見られるのが嫌で、みんな弁当箱のふたを立てたり、または新聞紙を立てて、誰にも見えないように頭をつっこんで食べていました。このような食べ方は、先生に随分と注意されてもなかなか直りませんでした。昭和二十年に入ると、警戒警報を知らせるサイレンの数が日増しに多くなりました。地元に住んでいる教員は、このサイレンの音が聞こえると夜中であれ、日曜日であれ、学校へ出勤しなければなりません。電気もつけられない真っ暗な闇の中で、八、九人の先生方が寒い夜にわずかばかりの火鉢を囲んでぶるぶる震えながら、この先どうなるのだろうかと不安に胸を痛めたことが何回あったか数え切れません。

 三月のはじめ、ついに東京が空襲されました。それからは毎日毎夜のように、菅谷の町にもけたたましいサイレンの音が鳴り響きました。ついに、私は学校の勤務と家庭生活とが両立できず、この年の三月三十一日、まる四年間の教員生活に終止符を打って退職することにしました。同窓の萩野谷きよ先生も一緒に辞めました。退職するにあたっては、校長先生をはじめ周囲の人達から「この非常時に個人的事情で辞めるとはわがままだ」と言って怒られもしました。その後、五年間ほど家庭で過ごし、昭和二十五年に復職し、佐野小、横堀小、五台小と三校を勤め上げ、五十二年三月の退職まで延べ三十一年間奉職することが出来ました。それぞれの学校に数え切れない思い出がありますが、何といっても戦争たけなわの頃勤務した菅谷国民学校時代が一番印象深く心の中に残っています。

<参照> 小生が生まれたのは昭和20年11月です。

特別寄稿 「新型コロナウィルス」 

先日、大学先輩の松宮輝明(伊能忠敬研究会東北支部長・元日本大学工学部講師・化学) 氏より標記についての寄稿文が届きましたので、ご紹介させていただきます。


  筆者の祖父は明治15年越後新潟弥彦村の生まれ、旧制新潟中学校を卒業し、上京陸軍省の官吏(法務部・奏任官)となりました。父は、明治41年、東京市板橋区板橋町6丁目822番地(現豊島区板橋)の生まれ、東京府立豊島師範学校附属小学校(創立明治41年、現東京学芸大学付属小学校)の5年生の学童の時に、スペイン風邪が日本全土に拡散し多くの人命が失われました。

  大正7年の感染症のスペイン風邪は、世界全体の推定感染者数は約5億人で死亡者は4500万人~5000万人とも云われております。当時の世界人口は18億人から20億人であると推定され、全人類の3割近くがスペイン風邪に感染したことになります。当時の日本の人口は、5500万人、全国でスペイン風邪に感染した人は約2300万人と云われております。 最近の研究者の記録によればスペイン風邪の各年の死亡者数は,大正7年、男子34,488人,女子35,336人,計69、824人、大正8年、男子21,415人,女子20,571人,計41、986人。大正9年、男子53,555人,女子54,873人、計108、428人で合計220、238人が死亡しました。

  日本においてはインフルエンザの死亡は冬季に多く発生しています。そこで,大正7年1月から大正9年12月までの死亡者数を月別に集計によると,スペイン風邪による死亡者のピークは,大正7年の11月と、大正9年の1月の2回であったことがわかります。豊島師範付属小学校では、伝染病の対策は厳格でスペイン風邪にかかれば登校禁止でマスクの着用が義務づけられウイルスの感染を防ぎました。また、トラホームの感染では学童の制服に黄色の腕章を付けさせ、トイレも区別して使用させたそうです。
  陸軍省勤めの祖父の話では「スペイン風邪では、東京では、火葬場が順番待ちで使用不能となり、池袋の原っぱで荼毘(だび)にした」と聞きました。スペイン風邪の始まりは、大正7年、3月にアメリカのデトロイトやサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍と共に大西洋を渡り、5月から6月にヨーロッパで流行しました。 次に、大正7年の秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり重篤な合併症を起こし死者が急増しました。第3波は大正9年春から秋にかけて、大正7年と同じく世界で大流行しました。スペイン風邪の大流行は、最初に医師・看護師の感染者が多く感染し医療体制が完全に崩壊してしまったため、感染者の被害が全世界に拡大したのです。現在の新型コロナの感染に似た現象が100年前に起きておりました。

 感染症は、微生物の病原体の細菌がヒトや動物の身体や体液に侵入し、定着、増殖して感染をおこすと組織が破壊され、病原体が毒素を出し身体に害を与えると、一定の潜伏期間を経たのちに病気となります。また、伝染病の流行を「はやり病」と呼びました。 感染症の歴史は生物の出現とその進化の歴史とともにあり、有史以前から近代までヒトの疾患の大きな部分を占めてきました。感染症や疫病に関する記録は、映画「十戒」でエジプトのファラオの息子が厄病にかかり亡くなりました。古代メソポタミア文明にあってはバビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』にすでに「四災厄」のなかに、同時期のエジプトでもファラオの悪疫は厄病神と記されております。中国でも、紀元前13世紀における甲骨文字の刻された考古資料からも疫病を占卜する文言が確認されています。また、医学の歴史は感染症の歴史に始まったといっても過言ではありません。感染症は、民族や文化の接触と交流、ヨーロッパ世界の拡大、世界の一体化などによって流行しました。

  歴史上知られている伝染病は、明治8年、ハンセン氏病は、発見者が、ハンセン(ノルウェー)です。 明治13年(1880)、マラリアは、ラヴラン(フランス) 。明治13年、腸チフスは、エーベルト(ドイツ)、明治15年、結核は、コッホ(ドイツ)、明治16年、コレラは、コッホ(ドイツ)、明治27年、ペストは、北里柴三郎(日本)、イェルサン(フランス)です。そして、大正7年~大正9年 スペイン風邪のパンデミックが起こりました。アテネのペストは、全盛時代の政治家ペリクレスがペロポネソス戦争のさなかの紀元前429年、篭城戦術を用いてスパルタ軍と対峙していたギリシャ最大のポリス、アテネを感染症の流行が襲い、多数の犠牲者を出しました。この疫病は、かつて「アテネのペスト」と呼ばれました。今日では痘瘡(天然痘)または発疹チフス、あるいはそれらの同時流行と考えられており、ペストでは無かった様です。ペロポネソス戦争を主導したペリクレスもこの疫病で死亡しており、この戦争でアテネの敗北は、デロス同盟の解体を招きました。

  14世紀の「黒死病」は、14世紀のヨーロッパで猛威をふるったペストは、感染すると、2日ないし7日で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点や腫瘍ができるところから「黒死病」と呼ばれました。歴史家マクニールによれば、「黒死病」は、中国の雲南省地方に侵攻したモンゴル軍がペスト菌を媒介するノミと感染したネズミを中世ヨーロッパにもたらしたことによって大流行したものと記しております。 西洋の貴族の女姓が舞踏会でドレスの胸元と背中を広く開け「黒死病・ペスト」に感染していないと証でワルツを踊ったと云われております。
  黄熱病のウイルスは昭和2年に野口英世が発見しました。は昭和3年、黄熱の研究中に英領ゴールド・コースト(現在のガーナ)の首府アクラで死亡しています。感染症のウイルスは、地球が誕生し、生命が誕生した時代より存在しました。生命体の進化(環境)により強力な毒性の強いウイルスに変化してしまいました。環境の変化とは、急激な人口移動により風土病が一部地域に止まらず全世界に移動し拡散を続けております。科学とウイルス生命体の戦いは今後も永遠に続きます。今後、ウイルスを放射線などで刺激し変化させないようにしなければならないと思います。感染症の薬としてノーベル賞の大村智北里名誉教授が開発した抗寄生虫薬「イベルメクチン」が新型コロナウイルスに有効なようです。新型コロナウィルスの抑制に効果があったとオーストラリアのモナシュ大学の研究チームから報告されております。

  地球温暖化現象、原発の放射能問題、新経済政策問題、医療体制、観光行政などの諸問題がります。日本人が世界の人々が平和で安全に生活が出来る様に叡智を集め、早期に再検討することを望みます。
プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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