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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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大橋天狗党 「森貞次郎」 について (下)

  黒沢登畿は26歳で夫に死別。行商により貧しい生活を支え、傍ら俳句、狂歌、和歌などを学んだ。安政5年(1858)の安政の大獄の際には、前藩主徳川斉昭の無実を京都まで訴えに行ったが、捕えられて追放の身となる。明治5年(1872)郷里の錫高野に小学校が開設されると、教師として任用された。時に66歳、我が国最初の小学校女教師である。
  貞次郎の影響で、尊攘思想は大橋村の若者の間にも浸透していったものと思われる。大橋村では安政5年12月、森重左衛門、貞次郎父子ら13名からなる血盟が結ばれた。大橋天狗党の結成である。血盟の中心は、当時22歳の貞次郎といわれている。
  かれは安政年間(1854~59)にしばしば江戸へ出て国事に奔走し、また文久年間(1861~63)には藩主徳川慶篤に従って上京した。文久3年(1863)11月、即時攘夷を実践せんとする藤田小四郎は、かつての学び舎「日新塾」を訪ね、挙兵の時至ると塾生の決起をうながした。貞次郎はいち早くその呼びかけに応じた。

  元治元年(1864)3月、貞次郎は大橋村の他の10名の同志と共に小四郎らの筑波山挙兵に参加した。その後、天狗党別働隊の田中愿藏一派が大橋村近辺を横行し、放火、掠奪などを行なったため、憤激した村内村役人層は諸生派に与し、8月に森家など天狗挙兵の留守宅を襲撃し、二度にわたって打毀しを行なった。
同年10月、大子村に集結した武田耕雲斎を総大将とする天狗党に貞次郎らは合流した。その折、貞次郎は幼い娘「いそ」の頭をかき撫で名残りを惜しんで出発した。これが今生の別れとなったのである。

  11月1日、天狗党は禁裏守衛総督一橋慶喜を頼って京都へおもむき、朝廷へ尊王攘夷の素志を訴えるため大子を出立した。時には戦い、時には戦わずして多くの藩領を通過し、約1.000キロを歩き通した。厳寒に耐えて幾多のや山野を踏破し、艱難辛苦の行軍を続けた。常陸大子を出発してから40日、苦難の果てに敦賀新保宿に到着した。しかし、かれらを待ち構えていた幕府、諸藩の追討軍最高司令官が、頼みとする一橋慶喜と知って絶望し、ついに投降した。幕府の裁決の結果、武田耕雲斎以下823名中352名が死罪となった。大橋天狗党から参加した貞次郎(28歳)以下4名も斬刑に処せられた。貞次郎らは己の信ずる大義に殉じたのであろう。
  生き残りの人たちの話によれば、罪を決める訊問はごく簡単で、武器をとって戦ったか否かということだけ。戦ったと言えば斬首、自分は百姓で荷を運んだだけとか、炊事その他の雑用をしただけと言えば、そのまま赦された。実際には武器をとっても、そう言わずに助かった者もあったらしい。

 前述の通り、森家は二度の打毀しを受けている。母屋の床柱も刀傷を受け、また目ぼしい家財も大半を持ち去られたという。その間、当主重左衛門は下野国(栃木県)茂木方面に身を潜めていたらしい。また、彼の妻は子を引連れ姑の実家(七会村森家)に避難していた。当時の森家の書院は近郷に類を見ない壮麗なものであったという。これも打毀され、幼時の私が感じ入った書院は、そのとき破壊された残材で再建されたものであるという。
  やがて江戸幕府が崩壊し、1868年明治維新政府が成立すると、天狗党が官軍、諸生党が賊軍となった。大橋村においても、安政5年貞次郎らの血判以来明治元年に至る10年間、村内農民の天狗、諸生両派の劇烈な騒動にも終止符が打たれた。大橋天狗党首領であった森重左衛門も長い潜伏生活から帰村し、庄屋職に復帰した。やがて諸生派に与した農民を呼出し、謝罪状を書かせて忠誠を誓わせた。

 水戸藩内では、維新後天狗党が村政の指導権をにぎった例は多数あるようである。「明治十四奉歳次辛巳 有斐亀井直(笠間藩儒学者)書」名による「松原神社」を標題として、敦賀行軍死亡者400名近い氏名が書かれた掛け軸が森家に残されている。20年ほど前までは、毎年2月にこの掛け軸を掲げて遺族7軒ほどが順送りに当家を務め、供養を行なっていたという。
  このレポート作成のため60年ぶりに森家を訪れてみると、再建140年を経過した書院は、かつての栄華をすべて清算し尽くしたかのように静かにひっそりと佇んでいた。(終わり)
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大橋天狗党「森貞次郎」について (上)

  先日ご紹介させていただいた松宮さんより、大学時代の友人で天狗党のご子孫「萩野谷(旧姓持丸)洋子」さんが書いたレポートを紹介して欲しい旨の要望がありましたので、以下、原文のまま掲載することに致します。

  今を去る60年前、私の長兄が結婚した。兄嫁は旧大池田村大橋(現笠間市)出身で、旧姓は森である。小学校低学年であった私は、義姉の姿、行動のすべてが眩しく関心の的であった。優しく洗髪してくれたり、遠足などの際には洋服も作ってくれたものである。食事といえば母の作る田舎風お惣菜しか馴染みのなかった私には、義姉の作る「シチュー」「コロッケ」などの目新しさに瞠目したものだ。
  その義姉が里帰りの時、どういうわけか一度私も同道したことがあった。どんな道を通ったのかはほとんど記憶にないが、バス停留所から500メートルほどの道を歩いて母屋に落ち着いた後、太鼓橋を渡り書院へとおもむいたが、書院も中庭の佇まいも、いかにも古色蒼然とした趣があり、幼い私の心にもくっきりと焼き付いたものであった。
  ある時、義姉から天狗党に加わって敦賀で処刑された「森貞次郎」という名の先祖がいるという話を聞いたことがあった。当時私はまだ小学生で、天狗党について何の知識もなかったが、なぜかこの話はずっと記憶に残った。成長して天狗党についての興味は少しずつ膨らんでは来たものの、在職中は仕事と家庭生活の両立に追われ、趣味に費やせる時間は皆無に等しかった。

 定年を迎え、ようやく自分自身の時間が持てるようになった頃、縁あって郷土の史跡、神社、仏閣等の見学会や学習会への誘いを受ける機会に恵まれた。回を重ねるごとに身近な歴史等に興味、関心が沸き立ち、同時に義姉から聞いて以来ずっと私の心に残っていた天狗党への関心も高まった。以下は「森貞次郎」について史料などで調べたこと、遺族からの伝聞などをまとめたものである。
  幕末の水戸藩の状況をみると、文政12年(1829)第9代藩主の地位に就いた徳川斉昭は、藩政改革を主張する改革派を積極的に登用した。改革派には下級藩士が多く、かれらは天狗派、天狗党と呼ばれた。それに対して、上士、門閥派を中心とする保守派は諸生派と呼ばれ、両派の対立抗争は時とともに激化していった。両派の対立は領内郷村にも影響を及ぼし、一村内で天狗党に与する者と諸生派に与する者とが対立抗争する例も少なくなかったのである。

 このような状況の中で、森貞次郎は天保7年(1836)水戸藩領大橋村庄屋兼山横目を務めた森重左衛門の次男(長男は早世)として生を得る。誠之進、義直または貞次郎と称した。幼少より文武の道に励み、向上心の強い少年であった。父重左衛門宛の書簡を実見した人の話によると、文辞は簡潔で要を得、筆跡も流麗で雄渾、在郷知識層といった俊才ぶりがうかがえるという。大橋村から往復25キロの成沢村(現水戸市)の加倉井砂山の日新塾に学んだ。ここで斎藤監物(静村静神社神官)、鯉渕要人(下古内村諏訪神社神官)、島長重(石塚村)、黒沢登幾(岩船村)などと知り合い、尊王攘夷思想を学んだ。森重左衛門、貞次郎父子は熱烈な尊王攘夷派であり、森家は大橋村、上下古内村、石塚村、静村等、水戸領北辺の尊攘激派の溜り場となっていた。

  斎藤監物は大たぶさ(髻)、朱鞘の大刀、高足駄の出で立ちで、鯉渕要人を誘って大橋村の森家を訪れ、時勢を憂え、尊皇攘夷の実現を熱望して激論をたたかわせた。師の加倉井砂山は、このような熱血漢を片田舎に置いては視野が狭くなると心配して、藤田東湖の私塾に入れたという。万延元年(1860)3月3日、江戸城桜田門外で大老井伊直弼の暗殺を謀る水戸浪士18人の中に斎藤監物、鯉渕要人も加わり、両者とも深手を負い死亡した。
 鯉渕要人は、幼少より武術を好んだ。初め、砂山と同族の加倉井松山(忠珍)に学んだが、学問は不得意で退塾させられた。砂山の日新塾に入門後も、学問より武術に精を出し、塾生の剣術指南にあたった。監物とともに桜田門外の変に参加し、現場近くで自決した。監物、要人らは井伊大老暗殺決行前に森家を訪れ準備を整えて出立した。おそらく森家より資金も提供されたであろう。
  島長重は荻野流砲術の名手であり、能書家でもある。藤田小四郎の筑波山挙兵に森貞次郎とともに応じた。その後、幾多の戦闘に臨み、やがて武田耕雲斎率いる天狗党の西上にも貞次郎とともに加わり、上州(群馬県)下仁田方面を自ら殿となって夜間行軍中、敵方に槍で腹部を突かれ、壮烈な最期を遂げた。(下につづく)

越後の大侠客松宮雄次郎(観音寺久左衛門)の曽孫ご紹介

  現在、昨年末に出来上がった小説(水戸藩の幕末維新を題材とした作品)の下書きを修正する作業に取り組んでいるところですが、その中に越後の大侠客「松宮雄次郎(通称観音寺久左衛門)」という人物が登場します。かれは奥羽越列藩同盟軍の一員として「聚義隊」を率いて官軍と戦うことになりますが、その時、長岡藩や水戸の市川勢、会津藩諸隊、庄内藩諸隊などと行動を共にしています。
 大変驚いたことに、先日この松宮雄次郎の曾孫にあたる方からメールを頂戴致しました。福島県須賀川市在住の松宮輝明氏で、何と小生の大学の先輩にあたることが分かり、二重の驚きとなりました。しかも、茨城大学ご出身なので、地元水戸にも沢山の友人がいらっしゃって、たまに水戸にもお出でになるというのですから世間は本当に狭いものだとつくづく感じさせられました。大学時代は、あの有名な瀬谷義彦先生(昨年死去)に水戸学の講義を受けたと言いますから、余程水戸に縁があったのだと思います。現在は陶芸家として、水戸藩のお庭焼、笠間焼、小砂焼にも挑戦しているそうです。

 因みに松宮輝明氏の父方の先祖が松宮雄次郎(観音寺久左衛門)で、長岡藩牧野家17代牧野忠昌様の要請で、長岡藩主牧野家史料館と河井継之助記念館に松宮家の戦争遺品が展示公開されることになったそうです。母方は上杉謙信時代からの近習(大小姓)福島大掃部介で、上杉景勝公の近習である直江兼続などと同じ近習の一人だったようです。

 以下、原文のままご紹介したいと思います。
「福島家は15代にわたり、代々上杉藩の大小姓で、幕末には米沢藩の鉄砲方をつとめております。
上杉藩の武器、大砲の火薬の調合などの史料が乗って残っております。幕末の鉄砲方は福島源作とその子福島久太郎です。福島久太郎は、幕末の上杉藩主上杉茂憲公が明治政府の命令により、上京しております。福島久太郎は上杉茂憲公のお供で東京に謝罪にお供をしております。福島家の菩提寺は米沢市の林泉寺です。元茨城大学教授磯田先生に福島家の400年の史料300点が行っております。この度は、桜田門外の変での関鉄之助の様子をお知らせします。

 松宮雄次郎は桜田門外の変の関鉄之助匿を越後で匿いました。
 幕末動乱の地を行く・=桜田門外の変=
      弥彦村観音寺の大侠客松宮雄次郎(観音寺久左衛門)の子孫 松宮 輝明
 安政7年3月3日(1860)、雪にけむる江戸城桜田門外に轟いた一発の銃声と激しい斬りあいが、幕末の日本に大きな転機をもたらした。「桜田門外の変」である。
無勅許の開国等で独断専行(安政の大獄など)する大老井伊直弼を暗殺したこの事件を機に、水戸藩に起こった幕政改革をめざす尊王攘夷の思想は、倒幕運動へと変わって行く。
 大老井伊直弼を討つ
桜田門外で井伊直弼を襲撃した18士の指揮官は水戸脱藩の関鉄之介である。彼は藩校弘道館で学び、水戸学の影響を受け尊王攘夷に傾倒し、遂に行動を起こしたのである。
 3月3日、桃の節句の朝、短銃の発射音を合図に斬り合いが始まった。
激しい戦闘の結果、若干の仲間の死をもって、鉄之介らはついに井伊大老の首級を取ることに成功した。
しかし、大老襲撃と同時に挙兵するはずの薩摩藩内では挙兵慎重論が持ち上がり、幕府改革計画は瓦解した。
時の大老暗殺の指揮者として、幕府はもちろん、・水戸藩からも脱藩者として追われる立場となった鉄之介は薩摩藩による幕府制圧に参戦すべく京都へと向かうが苦難の逃避行が待っている。

 その後、薩摩藩などを頼って近畿・四国方面の各地を回ったが、受け入れられず水戸藩領に戻り、文久元年7月9日(1861)に袋田村(現在の久慈郡大子町)に入り、知人の桜岡家にかくまわれた。

 雪の道を桜田門へ
 桜田門外の変の襲撃はどのように行われたのであろうか。伊能図を基に検証してみよう。 
当日の早朝、一行は決行前の宴を催し一晩過ごした東海道品川宿(品川区)の旅籠相模屋を出発した。東海道(現在の国道15号)に沿って進み、品川の大木戸を経て札ノ辻を曲がり、網坂(港区、神明坂、中之橋(を過ぎて桜田通りへ抜け、芝愛宕神社で襲撃隊の同志全員が待ち合わせたうえで、桜田門へ向かう。水戸藩にはあらかじめ大老襲撃の届けが出され脱藩を願い出ていそして、彦根藩邸上屋敷(から内堀通り沿いに登城途中の井伊直弼を江戸城桜田門外で襲撃した。現在の警視庁前の桜田門交差点である。

 不穏の状況にあり井伊家には襲撃の警告が届いていたが、直弼は護衛の強化することは、かえって失政のそしりに動揺したとの批判を招くと判断し、あえて登城の護衛の強化をしなかった。
 当日は朝から季節外れの雪で視界は悪く、すでに3寸(9cm)(ほど積もっていた。鉄之介は降りしきる雪を見て「天佑だ?と思った。井伊大老の登城を護衛する供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけての護衛であり、襲撃側には有利な状況だった。
江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲うなどという発想はなく彦根藩側の油断を誘ったのである。襲撃者たちは『武鑑』を手にして大名駕籠見物を装い、大老井伊直弼の駕籠を待っていた。武鑑とは、江戸時代に出版された大名や江戸幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などを記した年鑑がある。
 駕籠が近づくと、まず前衛を任された水戸藩士の森五六郎が書面を掲げ直訴を装って行列の供頭に近づき、慌てて取り押さえにきた彦根藩の日下部三郎右衛門をやにわに斬り捨てた。こうして護衛の注意を前方に引きつけておいたうえで、鉄之介が合図のピストルを駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始された。鉄之介により発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなった。襲撃に驚いた丸腰の駕籠かきはもちろん、太平の世に慣れた彦根藩士の多くは隊列を乱して応戦が出来ずちりぢりとなった。
  鉄之介、伝馬町牢屋敷で処刑される。
襲撃後、各地の逃走地には既に探索の手がはいっており、水戸領内を転々と潜伏した後、鉄之介は越後へと逃れた。越後では、小生の先祖、弥彦村観音寺の侠客松宮雄次郎直秀の庇護を受けたが、次の潜伏先、湯沢温泉(現在の岩船郡関川村)で遂に追手によって捕らえられ、水戸に連行された。
護送の途中、白河宿で顔なじみの旅籠主人の求めにより唐丸篭越しに「我天不愧」((我、天に愧(はじ)ず)と揮毫したと伝えられる。水戸で投獄された後、江戸送りとなって、日本橋小伝馬町の牢において斬首された。
享年39歳。後に明治政府より従四位が贈られた。
 
松宮輝明略歴
・日本大学工学部講師(化学)・安積高校、須賀川高校、須賀川女子高校教諭、・あさかの学園大学講師(芸術文化・歴史) 
・二本松市グレートアカデミー講座講師・長岡藩主牧野家奉賛会会員。旧長岡藩士柏友会会員
・伊能忠敬研究会東北支部長・元須賀川市文化財審議委員・須賀川の文化を考える会会長・福島県美術連盟会員(県展招待)
・元福島県科学博物館理事(ムシテックワールド)
・工芸美術日展作家・第4科工芸美術・陶芸)
・元福島県立須賀川高等学校同窓会副会長
・須賀川高等学校旧職員会会長

・(陶芸家・歴史研究家・美術評論家)

年頭のご挨拶

  本年も、昨年に引きつづきどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 新しい年が明け、すでに半月が過ぎてしまいました。年のせいなのか、一年ごとに一日が過ぎるのが速く感じられる今日この頃です。
 昨年は、手がけた小説の草案を書き終えるのに追いまくられた一年でしたが、今年に入って改めて読み返してみるとあちこちに不備な点が目立ち、もう一度全体を見直す必要があることが分かりました。勿論、これで万全などということは永遠にないのでしょうが、ある程度自分で納得できなければとても人様には見せられないと思っている昨今です。一応、今年中の出版を目標としているのですが、慌てずにじっくり構えてやるしかないと自分に言い聞かせているところです。

 さて、昨年十二月、小生のホームページをご覧いただいた方からファックスが入り、「桜田門外の変」に関する小説を出版したので、是非読んで欲しいという連絡があり、数日後早速その書籍が送られてきました。茨城県ご出身(水戸一高卒業生)の小貫和也様という方で、本の題名は「香梅の門―桜田志士外伝―」と書かれていました。桜田十八士の一人「広木松之介」が主人公で、今まで出版された関連本とは違ったユニークな切り口で物語を展開しています。
 御子孫の方から取材された内容を元に書いたもので、大変面白く出来上がっています。そうしたところ、今年の年賀状の中に、何と小生の大学先輩(部活の先輩)の方から「同級生が香梅の門を出版したので、是非、読んで欲しい」という一文が書かれていました。早速、本人に電話したところ、昨年行なわれた水戸一高の同窓会の折、小貫氏も参加してその本のことが話題になったと伺いました。小貫氏の場合は、すでに何冊も書いた経験のあるベテランの方だと言うことですが、時代小説は初めてであるとお聞きしました。
 
  力作「香梅の門」を読んで感じたことなのですが、先ず語彙が豊かな上に表現力が素晴らしく、読み手が作品の中にグイグイ引き込まれていくのがよく分かります。小貫氏が大学時代、何を専攻したのかは分かりませんが、言葉を自由自在に使いこなす技量が抜群で頭が下がりました。これらは一朝一夕にして為せるものではないと思うので、まさにその人の力量とでも言えるものなのかも知れません。
  話は変りますが、先日読売新聞の第一面に作家三島由紀夫に関する記事が掲載されていました。ある方との対談をテープに録音していた貴重な資料が発見されたというもので、彼自身が自分の作品の欠点を述べていました。それは「余り劇的過ぎる」というもので、一般の人にとってはとても想像ができないような次元の話のように感じました。
  そのような話を通し、外にあった「死」が内側に迫ってきたというのですから、尋常な感覚の人には何とも分かりづらいものです。それがあの割腹事件に繋がったことを考え合わせると、三島自身の人生こそが劇的であったような気がしてなりません。

  ご承知の方もいらっしゃると思いますが、三島由紀夫(本名平岡公威)の実質的育ての親である祖母夏子は、小生の手がけている小説に登場する宍戸藩主松平頼徳の妹「雪」の長女に当ります。と言うことは、三島由紀夫は武家出身である祖母から教育を受けて育てられたということになります。昔東京大学で病理学の教授をされていた方の執筆した本を読んだことがありますが、その中に何故かれが割腹自殺を図ったかということに関して、それは祖母の教育と深い関係があったのはないかと書いています。
  つまり、夏子は母親の「雪」から兄頼徳の無念の死を聞かされていたと思いますが、そのことを物心がついた孫の公威にも話して聞かせたと筆者は記しています。つまり、無意識の中に「死に際して武家の男子がとるべき態度」が植えつけられていたのではないかという指摘です。このことが果たして真実なのかどうかは分かりませんが、あながち関係がないとは言い切れないものもあるように思ったことが、つい昨日のことのように思いで起こされたのです。
 
  このように見ていきますと、明治維新の際に決起した西南諸藩の若き志士も、別の意味で、二百六十年もの間言い伝えられてきた先祖の無念を晴らそうとする思いが蘇ったという捉え方が出来るようにも思いました。

一年を振り返って

  正月元旦のお祝いから始まったこの一年も、残すところとあと二週間弱となってしまいました。この3年間、無我夢中で取組んできた自分の課題もやっと一段落し、そろそろ年賀状の準備をしなければと思っているところです。
 我が家においては、今年三月に待望の内孫が誕生し、家族七人賑やかに生活しています。自分の子供の子育てについては、すべて義母が面倒を見てくれたので余り細かい点は分からなかったのですが、定年を過ぎて毎日観察が出来るので、日々成長していく姿を目の当たりにし、改めて人間の生きる力を実感しているところです。現在、歩伏前進と方向転換が自由自在に出来るように成長したので、片時も目が離せません。
 子供にとって眼に入る物全てに興味があるみたいで、そこら中にあるものを手にとって触ってみたり、舐めたり、噛んだりする日々がつづいています。以前はベットに寝かしていましたが、何回か落下して危険なため、現在はベットでなく普通の床に布団を敷いて寝かしているようです。落下するのは親にとってヒヤヒヤものですが、子供にとっては寧ろ楽しいみたいで、ケロッとしているのが不思議に思えてなりません。やがてハイハイから立ち上がる時期が来ると思いますが、母親とばあちゃんは大変だと思います。私もたまにはお相手するのですが、いろいろやることが多く、いつも家内に文句を言われる始末です。

 さて、三年間かけて取り組んできた小説ですが、なかなか思った通りには仕上がりませんでした。所詮は素人なので、無理もない話なのですが、一応目標であった幕末から明治までの水戸藩の様子は出来るだけ分かりやすく書いたつもりです。高校時代の友人に下書きを見せましたら、小説ではなく「歴史書」と言われてしまいまた。確かに小説であれば主人公がいて、それを中心に描くのでしょうが、残念ながらそのような能力がないのが悔しいです。
 一応出来上がった草稿を何度も読み返しながら修正を加えてきましたが、一定の限界があってそれなりのものしか書けないことがよく分かりました。もっとも、誰でも自由自在に書けてしまえばプロは必要なくなってしまいますので、当たり前のことだとつくづく思い知らされた今日この頃です。
 でも、三年間取り組んだお陰で水戸藩の幕末から明治維新に至る流れが理解でき、大変良かったと自負しています。その当時の人々が如何に苦労をして生き抜いたかが、良く分かりました。特に水戸藩の場合は、徳川三家になっていましたので、大きな時代転換の時には想像を絶するようなご苦労があったとものと拝されます。
 とりわけ水戸藩の場合は、改革派と門閥派に分かれ、熾烈な闘争を繰り返してきた歴史がありますので尚更だと思います。現代では考えられないことが、つい百五十年前に現実にあったのですから大変だったと思います。党派の争いが、現代まで続いているということも良く耳にしますが、感情的には理解できないこともありません。
 ただ、注意しなくてはならないことは、飽くまでその時代背景の中で起こったことであるので、それを子孫のせいにしたりすることは誡めなくてはならないと思います。どちらが正しかったという観点で議論をすることが、現在にまで「しこり」を残す要因になっていると思われます。私たちは一般的に正邪、善悪という価値基準で見てしまうので、そのようなことが起って来るのではないかと感じています。とは言っても、水戸藩の場合、家族まで巻き込んだ処刑などが行なわれて来たので、それが一番ネックになっているのかも知れません。
 戦国時代には、敵対勢力を「根絶やし」にするいうことは度々あり、決して珍しいことではありませんが、それに似たようなことが江戸時代の末期になって行なわれたことに問題を後世に残すことになったのかも知れません。現代の眼から見れば大変恐ろしいことですが、事実は事実として受け止めてゆかねばなりません。そのような凄惨な歴史をへて今日に至っていることを思うと、改めてその当時に生きなければならなかった人々に深い敬意を表さなければならないと感じております。
 現在、出来あがった草稿をどのような形で出版したらよいか、検討中です。遅くとも来年中には完成出来るよう頑張っていきたいと思います。
プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

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