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桜田門外の変「情念の炎」ブログへようこそ

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本日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。
  

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新型コロナウィイルスが示唆する 「人類の団結」

 新型コロナウィルスが猛威を振るい、一向に終息する気配をみせていません。昨今は、新聞を見てもテレビニュースを見てもこの話題で持ちきりです。死亡率は低いといっても、現に亡くなる人が相次いでいるのですから、穏やかな話ではありません。一般的に、人間は身近なところで発症した方がいないと、なかなか危機感を共有しにくいものですが、我が家では家内が先頭に立ち、手洗い、うがい、マスクの着用を厳しく呼びかけているため、家族一同みなこれに従って感染防止に努めている昨今です。
 茨城県としては、つい最近まで感染者が「ゼロ」ということで安心していた向きがありますが、地元ひたちなか市から感染者第一号が出たことで、俄かに危機意識が高まったように思います。そうこうしている間に次々と感染者が判明し、あっと言う間に二桁になってしまいました。当初は他人事のように思っていた人たちも、現在では相当数の方々が危機意識を持つに至ったのではないかと思います。

 人類と感染症との戦いの歴史はかなり古い時代からあり、時間をかけてそれらの一つひとつを克服してきた経緯があります。近年は文明の発展、交通機関の発達により、世界中のどの国々へも短時間で行けるようになったこともあり、それに伴って感染症の拡散もグローバル化している感が否めません。感染者数を見るとヨーロッパやアメリカが多く、いずれの国も人の往来を防ぐ処置がとられるようになりました。まるで、江戸時代における日本の鎖国のような状態です。先行きが不透明だけに、これから先しばらくの間は、各人が自身の健康を維持するべく、基本的な予防対策を励行することが重要だと思います。
 今回のコロナ騒動は、単に感染症の問題のみならず、経済活動にも大きな支障が出ています。消費が低迷するばかりでなく、中小企業、フリーランスと言われる方々にとっては新たな死活問題が発生するなど、単に個々人の努力だけでは解決できない深刻な問題が横たわっています。これらは国の政策や地方自治体の助けがなければ解決しません。そのような意味では、今後の対策のあり様に全てがかかってくるといっても過言ではないと思います。

 テレビの番組などでも、それらの対策を巡って様々な意見が出されている昨今ですが、一日も早くその対応策が練られ、多くの国民が安心できるような予算措置が講じられることを願うばかりです。当面はコロナ関係が主流になると思いますが、自然災害に対する備えも忘れてはならない一つだと思います。昨年発生した大雨による甚大な自然災害は、地球温暖化によるものと言われております。もし、そうであるなら、今年もそれと同じような災害が発生することは当然予測されるべきものです。逆に言えば、昨年の大災害は、今後起こり得る大災害の新たな「始まりの年」ということになるかも知れません。そういった意味では、今のうちから防災・減災のための対策を十分に立てておく必要があるのではないかと考える一人です。

 なお、自然災害の大きな原因となる「気候変動」に関しては、2015年9月、国連サミットで採択されたSDGs(「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称。国連加盟193か国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた17の目標)の一つに掲げられています。グローバル化した現在にあっては、一国だけで問題を解決するのは困難であり、全世界が一つになって一つひとつの課題に向き合わねばならないと思います。

※参考 17の目標
 1.貧困をなくそう   2.飢餓をゼロ  3.すべての人に健康と福祉を  4.質の高い教育をみんなに
 5.ジェンダー平等を   実現しよう    6.安全な水とトイレを世界中に   7.エネルギーをみんなに そしてクリーンに
 8.働きがいも経済成長も   9.産業と技術革新の基盤をつくろうせ  10.人や国の不平等をなくそう 
 11.住み続けられるまちづくりを    12.つくる責任 つかう責任   13.気候変動に具体的な対策を
 14.海の豊かさを守ろう  15.陸の豊かさも守ろう  16.平和と公正をすべての人に
 17.パートナーシップで目標を達成しよう

  これからも、感染症と人類の果てしなき戦いが続くと思いますが、これを機会に国と国が相互に協力し合う体制が構築されれば、大きな前進ではないかと思います。さらに言えば、新型コロナウィルス自体が人類の団結を呼びかけているようにも思えてなりません。今後は、人類的視座にたって問題の解決が図られることを祈るばかりです。これからは、「世界民族主義の理念」がより重要になってくるような気がしてなりません。


タイトル 幕末動乱の地を行く(11)
     サブタイトル 天狗党の乱 ①       伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

  安政大獄で徳川斉昭は謹慎を命じられ心臓発作で亡くなり、第10代水戸藩主徳川慶篤(斉昭の長男)のもとにあった勢力が水戸藩内で盛り返してくる。水戸藩は幕府派の門閥派と激派の尊王攘夷派が対立を深めていった。身分の低い激派は鼻を高くして威張り散らすので、軽蔑の意味を込めて「天狗派」と呼ばれた。激派の中心人物、藤田小四郎は藤田東湖の4男である。東湖は安政の大地震に遭遇し小石川の水戸藩邸で母親を助けるために圧死した。小四郎は父東湖の教えを受け水戸藩領内の加倉井砂山の日新塾に入門し洋式教連、鉄砲射撃、数学、天文、地理学を学んだ。さらに、水戸の藩校弘道館に入り、十九歳の時に起きた「桜田門外の変」に刺激され思想を尖鋭化し、尊王攘夷の激派の中心人物になっていった。
 文久3年(1863)3月、22歳になった小四郎は藩主慶篤が京都に赴くおり随行した。京都では水戸藩の思想が広く信奉されていることを知り多くの志士達と結び付いて行く。小四郎は長州、鳥取両藩の同志と話し合い雄大な計画を企てた。徳川斉昭の婦人は有栖川親王の王女なので宮に働きかけ、勅使として江戸に向かつてもらう。その折鳥取、岡山両藩の有志数百名が随行して江戸に入り、幕府に攘夷の決行を迫る。無論長州も強力に支援をする。この機に乗じて藤田小四郎が筑波山に挙兵し、攘夷の先頭に立ち、攘夷決行を幕府に願い出る。これが実現すれば、全国の尊王攘夷論者は一斉に立ち、攘夷を決行することが出来る。
  明治維新の4年前、元治元年(1864)いよいよ天狗党挙兵の機運が熟したとみた小四郎は、主だった同志に打ち明けた。「挙兵するには大将が必要である。藤田殿は23歳と若いが参謀の任がふさわしい。藩の重鎮を大将に仰ぎたい」この言葉に、藤田を初め一同が賛同し、大将田丸稲之衛門(水戸藩町奉行)以下170余名の天狗党が筑波神社を拠点に誕生した。天狗党は藩士、郷士、神官、村役人らからなる過激武力集団である。

 天狗党は徳川斉昭公の位牌を納めた白木の御輿を先頭に立て宇都宮藩が警備する日光東照宮に向かい進軍し、そして幕府との対立を深め行く。関東の各藩は尊王攘夷の天狗党と対峙するかの決断を迫られる。各藩を二分する騒ぎとなり、挙兵に驚いた幕府は、水戸藩に対し厳重に取り締まること命じた。水戸藩の中でも完全に藩意が二分され、弘道館の内でも激論が戦わされた。各藩の尊王攘夷派は天狗党に対し、莫大な軍資金を何万両も拠出し応援し、天狗党の勢力は千名を超える武闘集団になって行った。


タイトル 幕末動乱の地を行く(12)
     サブタイトル 天狗党と新選組芹沢鴨       伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

  元治元年(1864年)いよいよ天狗党挙兵の機運が熟したとみた藤田東湖の子、藤田小四郎は、主だった同志に挙兵を打ち明けた。 「挙兵するには大将が必要である。藤田殿は23歳と若いが参謀の任がふさわしい。藩の重鎮を大将に仰ぎたい」。この言葉に、小四郎を初め一同が賛同し、大将田丸稲之衛門(水戸藩町奉行)以下170余名の天狗党が筑波神社を拠点に誕生した。天狗党は水戸藩士、郷士、神官、村役人らからなる尊王攘夷思想の過激武力集団である。
 その中には芹沢鴨もいた。芹沢鴨は後に新撰組局長として京都の街を震え上がらせることになる。芹沢鴨は茨城県の北浦湖の近く玉造町の郷士芹沢貞乾の三男として生まれた。15歳の時、潮来の延方で医学を学び、この時水戸藩家老武田耕雲斎に教えを受け「水戸学」を学び尊王攘夷の思想を身につけた。剣は神道無念流の免許皆伝で、居合いの腕前もそうとうのものだったと伝えられている。鹿島神社の門前の茶屋の柱には芹沢鴨の鉄扇により切りつけ跡が残っている。

  安政6年(1859)には勅書返納を阻止するための「長岡事件」に関わる。長岡事件後に玉造藩校で天狗党を組織し、潮来、佐原、などで軍資金を調達し、一説には3万両(およそ30億円)の軍資金を集めたと云われている。この時、参謀の藤田小四郎とも連携する。身丈6尺の大柄な玉造隊長の芹沢鴨は平素から「尽忠報国の士芹沢鴨」と彫った大鉄扇(三百匁・1キログラム余)を振り回し暴れていた。
  芹沢鴨は300名の玉造天狗党を率い、「東禅寺事件」に関係し新見錦と共に、捕らえられ水戸で入牢したと云われている。茨城県玉造町には芹沢鴨記念館がある。筆者は、毎年冬には鉾田市大洋で作陶制作の傍ら長逗留し潮来、筑波、大洗、水戸など史跡巡りをして史料の収集をした。それによると芹沢鴨は投獄されたときに死罪を覚悟し、小指を切り鮮血で辞世の詩「雪霜に色よく花の魁(さきがけ)て散りても後に匂う梅の香」と詠んでいる。芹沢鴨は後の天狗党遠征に加わることは許されませでした。芹沢は天狗党事件で多くの同志を失い幕末の京都で死に場所を探していたのでしょうか。


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あれから9年 - 3.11に寄せて

  2011年3月11日午後2時46分頃、自宅の二階で机に向かって作業をしている時、突然地を突き上げるような激しい揺れを感じた。直ぐに揺れが収まればいいなと思っていたが、いつもと大分様子が違っていた。そうこうしているうちに揺れは激しさを増し、下の部屋から大きな物音が聞こえてきた。咄嗟に身の危険を感じ、家内と共に屋外に飛び出し、裏の畑の前で腰をかがめた。とても立っていられる状況ではなかった。隣近所の方々も同様に外に飛び出して不安そうな顔で揺れが収まるのを待った。揺れは一体何分ぐらい続いたのであろうか・・・、とても長く感じた。私も含め、顔面は蒼白になっていた。
  やがて揺れが収まり、恐る恐る家の中に戻ってみると、信じられないような光景が目に入ってきた。箪笥や食器棚等が倒れ、足の踏み場もないほど部屋の中に散乱していた。のちにこの地震は「東日本大震災」と名付けられた。別居している子供たち家族等のことが心配になり、電話連絡しようにも一向に繋がらず、不安な気持ちになった。幸いにも近所隣で家屋倒壊はなかったが、後でテレビをみて東北地方に甚大な被害をもたらしたことを知り、背筋が凍りついたのを今でもよく覚えている。
 
  特に原子力災害が発生した福島県の方々にとって、9年前のこの災害は悪夢のようであったろうことは間違いないと思います。多くの死傷者が出たのみならず、今もって不自由な避難生活を強いられている方々が大勢いらっしゃいます。9年経った今日、ようやく避難解除が出されたものの、あと2年経たないと元の生活には戻れないといいます。本日付の新聞各紙を見ると、そういった方々の憤懣やるせない思いがひしひしと伝わってくるようです。 茨城北部においても、東北ほどではないにしても甚大な被害に見舞われました。それから比べると、ひたちなか市は被害が少なくて済んだ方であると思います。それでも那珂湊では岸壁が破損して海水が町中まで押し寄せるなど、一時は大変であったことを後で知りました。那珂川対岸の大洗町でも海水が低地まで浸水し、駐車場に止めておいた車輌が海に流されてしまいました。

  この日以来、停電、断水が長い間つづき、如何に平時の生活が有難いか、しみじみと感じされられたことを昨日のことのように思い起こされます。まして多くの犠牲者を出した東北の方々にとって、この9年間の思いは如何ばかりであったか、想像に難くありません。一日も早い真の復興を心より願わずにはいられません。


タイトル 幕末動乱の地を行く(9)
サブタイトル 二つの東禅寺事件     
                                              伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

  安政の大獄で大きな打撃を受けた水戸・長州両藩の激派は、桜田門外の変の井伊直弼暗殺後も結束を強め、安政7年(1860)7月には、江戸湾にあった長州藩の軍艦丙辰丸で、幕閣の改革を目ざす盟約を結び、薩摩の激派とも接触を深めていった。丙辰丸は全長約25メートル木製帆船で、長州藩が初めて建造した洋式軍艦である。江戸では長州藩士と水戸藩士の交流が深まり、丙辰丸の船内で「丙辰丸盟約」が結ばれた。

  幕末の尊王攘夷派の志士は第1次東禅寺事件、第2次東禅寺事件を起こした。第1次東禅寺事件は文久1年(1861)年5月28日水戸藩浪士らによって行われた。江戸品川高輪の東禅寺にあるイギリス公使館を襲撃した事件である。イギリス公使 J.R.オールコックが幕府の反対を押切って陸路入京したことは神州をけがしたとの理由から,同日夜,14人が襲撃し,書記官や通訳官を負傷させたが,警備していた幕府兵により殺傷,逮捕された。

  東禅寺はイギリスの公使館になっており、幕府の重要な外交の場である。そこを襲撃したので、幕府のいっそうの弾圧を受けることになり、水戸藩内では保守派が勢力を得て、攘夷激派は劣勢になった。第2次東禅寺事件は翌年5月29日東禅寺を警備していた信州松本藩士が,自藩が東禅寺警備のために多大の出費を要するのを憂い,警備責任を解こうとして単身,公使館内に侵入,イギリス人水兵2人を殺害し,自殺した。幕府から,外人被害者1人につき 3000ドル(現3千万円)~1万ドル(現1億円)の賠償金が支払われた。
  この東禅寺事件には後に新撰組をつくった水戸藩の郷士医師の芹沢鴨も加わり捕らえられ牢につながれた。芹沢は天狗党の乱にも参加できず、京の街で死に場所を探していた。


タイトル 幕末動乱の地を行く(10)
サブタイトル 尊王攘夷論の提唱者藤田東湖  
                                    伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

  水戸藩は徳川御三家で尾張藩、紀州藩の三藩が幕府の中心となり徳川本家を支えた。尾張藩、紀州藩からは徳川幕府の将軍職に就けるが水戸藩からは将軍になることは出来ない。水戸藩主は江戸徳川将軍の副将軍・後見役として関東の「押さえ」の役割が与えられた。
  水戸藩の成立は徳川家康の11子徳川頼房を祖とする祿高は三十五万石の大藩である。三代水戸藩主徳川光圀(水戸黄門)のもとで「大日本史」の編纂が始まる。この大日本史編纂は、明暦3年(1657)から始まり明治39年(1890)まで250年かけて完成された。水戸学は大日本史編纂の過程の中で成立した学風で、幕府の官学である朱子学に国学神道の『尊王思想』を加味したものである。徳川幕府は一時的に政権を天皇より預かり、日本国は天皇が治めるとの考えに立つものである。
幕末になり水戸第9代藩主徳川斉昭(烈公)によって水戸学は一段と盛になる。水戸藩校・弘道館において後期水戸学の創唱者の藤田幽谷・藤田東湖(幽谷の次男)父子・水戸藩士会沢正志斎が熱烈な尊王論を説いた。

  会沢正志斎は文政8年(1825)「新論」を著した。新論は徳川幕府が異国船打払令を発布し、これお好機に国家の統一を強化し、政治改革と軍備充実の具体策を述べたものである。異国船払令は、外国船がしばしば来訪し上陸や暴行事件、特にフェートン号事件が発生したことに対し、江戸幕府が文政8年(1825)に発した外国船追放令である。文化5年(1808)英国軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎港に侵入し、オランダ商館員を捕らえ、食糧・薪水を強要した事件。
  日本の沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃し、追い返した。また上陸した外国人については逮捕を命じている。民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王攘夷思想の重要性を説いた。この改革推進のために徳川斉昭は城内の北に藩校弘道館を建設した。 藤田幽谷、東湖父子は水戸藩の藩主継承問題では徳川斉昭の擁立に尽力し、斉昭が藩主に就任すると腹心として藩政の改革を押し進めた。藤田幽谷亡き後水戸藩士の藤田東湖は徳川斉昭が進める幕府改革のシンクタンクとして貢献した。

令和2年を迎えて

  日頃は、当ブログにアクセスしていただき誠に有難うございます。心より厚く御礼申し上げます。本年も、どうか宜しくお願い申し上げます。

  さて、諸事情により昨年10月以来ブログの更新を怠ってしまいましたことを先ずもって深くお詫び申し上げます。第二作「烈士たちの挽歌」が完成して以来、安心したのか急に気力が衰えてしまい、机に向かうのが億劫になってしまいました。少しだけ言い訳をすれば、約10年間の執筆活動のせいで腰痛がひどくなり、椅子に座ってパソコンに向かうことに恐怖感を覚えるようになってしまいました。夜の8時頃から朝の3時、4時、そして仕上げ近くになると夜明けまで椅子に座りつづけてきたことによる一種の生活習慣病ではないかと思っております。途中1年間の休養を取ったものの、約10年間もつづけてきたので少し無理があったのかも知れません。昨年末、専門的治療を受けたうえ、散歩なども積極的にトライしたことで今は何とか普通の生活ができるようになりました。そうした折、今度は今まで経験したことのない背中の痛みに襲われ、現在治療に専念しているところです。今年は後期高齢者の仲間入りをするので、この際身体の総点検をしておくことも大事かな、と考えています。お陰様で、1、2時間程度なら椅子に座れるようになりましたので、これからは月に一度を目安にブログ更新をしていきたいと思っておりますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

  昨年末から今年にかけ、小生の小説に登場する水戸藩士、郷士のご子孫に当たる方々から拙作の注文がありました。過去の新聞記事(読売、朝日、茨城)を見た方や、既に購読された方から拙作を紹介されたようで、自分のご先祖を確認したいという思いがあったようです。県外在住の方へは郵送をしましたが、常陸太田市在住のH氏(郷士のご子孫)に関しましては、直接お会いしてお話を伺いたいと思い、歴史仲間と共に紹介者を通してご自宅を訪問させていただきました。
  H氏は私たちの訪問を殊の外喜んで下さり、早速、近くにあるご先祖の眠る山間のお墓にまで案内してくれました。東日本大震災で墓地が崩れてしまったため改修されたもので、真新しさが感じられました。改めて墓石を確認したところ、間違いなく小説に登場するご先祖の名前が彫ってありました。その後、自宅に戻ってお茶を飲みながら懇談のひと時を持ち、ご先祖が門閥派の手によって捕らえられ死罪に処せられた事などをお話して下さいました。これも水戸藩の幕末における悲劇の一つであり、歴史の残酷さを思い知らされました。因みにH氏のご先祖は豊田小太郎らと同じ尊攘鎮派に属しており、密書を江戸に運ぶ途中、水戸郊外で捕縛されてしまったのです。「烈士たちの挽歌」100ページにその様子が描かれています。門閥派による一連の粛清の犠牲になったのです。

  県外在住のF氏のご先祖(書院番)の場合は、慶応4年6月、武田金次郎の手勢によって不慮の死を遂げた例であり、親子共々犠牲になってしまいました。このように水戸藩の幕末維新は、水戸人が同じ水戸人を殺害するという狂気の風が吹き荒れていたのです。遺恨というものが、如何に根深かったかを如実に物語っていると思います。このような不幸な歴史の流れの延長に、現代があるということを改めて考えさせられた次第です。
  水戸の地では、あれから150年余経過した今日でも門閥派と改革派(天狗派)の末裔がいがみ合っているというような声をたまに耳にすることがありますが、どこまでそれが真実か実態は知る由もありません。封建時代に起きた忌まわしい過去の歴史を消し去ることは出来ないかも知れませんが、それをいつまでも引きずっているとすれば悲しいことです。少なくともそれぞれの子孫には直接関係はないのですから・・・・。
  私も6、7年前、浅田次郎原作の「柘榴坂の仇討」という映画の試写会(東京品川区内の映画館)が催された折、水戸代表50人の一人(団長・水戸市長)として参加する機会に恵まれました。彦根側からも市長をはじめ、井伊家の末裔など50名が招待されておりました。試写会が始まる前、控室で井伊家の末裔とお会いした際、「水戸浪士の末裔鯉渕と申します」と挨拶したところ、笑みを浮かべておりました。桜田事変は、お互いの先祖が関わった事件ではありますが、先方も今となっては特に水戸浪士に遺恨を抱いている様子は微塵も感じられませんでした。但し、水戸藩の内訌の場合、女、子供という家族にまで塁が及んでいることが、後世にまで大きなしこりを残すことになったのかも知れません。



タイトル 幕末動乱の地を行く(7)
           サブタイトル 安政の大獄 ⑤  伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

  幕府は水戸藩に「戊午の密勅」を朝廷に返還すべきであると迫った。水戸藩の意見は二分し、戊午の密勅を戻す必要がないとの意見が激化し、有志たちは水戸藩境の2里8町(約9キロ)水戸街道の長岡宿(茨城県茨城町長岡)で街道を封鎖した。この長岡屯所は水戸藩上層部の工作により懐柔され失敗した。
  過激派の藩士たちは活動の中心を江戸に移した。以前より攘夷派の後に桜田門外の変を計画した高橋多一郎や金子孫二郎などの水戸藩士と、薩摩藩の江戸藩在中組の有村次左衛門は薩摩の挙兵により上京し、義軍及び孝明天皇の勅書をもって京都における挙義を断行し、幕政を一気に是正しようとしていた。
  しかし、薩摩藩は第11代藩主島津斉彬が急死してしまった。後に実権を握った弟の島津久光が、江戸での「挙義」を黙認しつつも薩摩藩の直接関与を避ける方策をとった。久光の子、最後の薩摩藩主島津茂久が直書で志士の「精忠」を賞賛したが後日のために脱藩することを思いとどまるように説諭した。異例の対応で攘夷激派を強引に沈静化させたのである。
  ここに薩摩藩の挙兵上京は不可能となり、京都における攘夷派の蜂起は破綻することになった。幕政是正のためには井伊直弼の排除が必要不可欠とする水戸浪士たちは、関東における挙義を単独でも実行する方針を固めていた。薩摩との合流のため水戸藩士高橋多一郎、金子孫二郎らは京へ上り、関東では水戸藩士関鉄之介率いる実行部隊が井伊大老襲撃を断行するとして分かれ、関東組へは江戸薩摩藩在中組のうち有村次左衛門が桜田門外の変に一人加勢した。
  鯉渕義文氏は茨城大学の後輩、桜田門外の変の烈士鯉渕要の玄孫である。鯉渕義文氏は「桜田門外の変」を描いた小説「情念の炎」を執筆した。「この桜田事変は今までタブー視され、一方では暗いイメージとして捉えられてきた経緯があります。しかし、よくよく調べてみると、襲撃を計画した水戸藩士も、襲撃に加わった下級武士たちも決してテロリストとして訓練されてきた人たちではなく、寧ろ、当時の緊迫した外交問題や内政問題を真剣に考え、真面目な生き方を貫いてきた民政家でありと、高い見識と教養と身に付けていた人物であったような気がしてなりません」と語られた。


タイトル 幕末動乱の地を行く(8) 
          サブタイトル 坂下門外の変        伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

  安政7年3月3日(1860)桜田門外の変の後に「坂下門外の変」が起きた。桜田門外の変に参加した水戸烈士達18名は処刑され尊王攘夷派は一掃されたが、水戸藩の激派は益々過激な行動になっていった。
  2年後、文久2年1月15日(1862)午前8時頃、水戸藩士は浪士となり各藩の尊王攘夷の志士と糾合し、江戸城坂下門の手前で、登城する老中安藤信正を襲撃し、負傷させた事件が起きた。桜田門外の変と同じく安藤信正の行列が江戸城に登城するときにその事件は起きた。
  老中を乗せた駕籠が江戸城西の丸の坂下門に差し掛かると、水戸浪士6人が行動を起した。1人の浪士が、将軍などに直接願い出る「直訴」を装い行列の前に飛び出した。老中安藤信正の乗る駕籠に向けて銃撃し、これを合図に水戸浪士達5人が登城する行列に切り込んでいった。
  大老井伊直弼の後任として老中になった磐城平藩主安藤信正は、井伊の後を継いで幕政を進めた。公武合体の政策の基に皇女和宮の江戸降嫁を実現させ、この年2月11日には婚儀が行われることとなっていた。そこで水戸藩の激派は、和宮降下の実現によって幕府の立場を有利にしようと安藤信正を直接襲撃する計画を立てた。襲撃計画は、水戸藩士を中心に宇都宮藩士も加わり、志士との連合で進められた。幕府により計画は事前に発覚し、1月2日に捕えられたが、平山兵介ら3名の水戸藩士を中心とする6名が1月15日に襲撃を決行、安藤信正を負傷させた。
  坂下門外の変は、単に井伊政権を継承した安藤政権への反対運動ではなく、王政復古論者や地方都市の商人、医師、学者など「草莽」と呼ばれた者の幕府批判の運動の現れであった。


  

令和元年度 「歴史研修旅行」 を終えて

  先月9月27日(金)から9月30日(月)まで、3泊4日の日程で四国の松山市、高知市の史跡巡りをしてきました。前年度までは鳥取や京都の仲間と一緒でしたが、今回は諸事情が重なり、水戸勢5人だけの研修旅行となりました。
年金生活者にとっては、如何に旅行経費を抑えられるかが重要となるので、航空券や高速バス券については出来るだけ早めに申込むことにしました。早割やネットを活用することによって、大分経費が抑えられました。また、今回、宿泊は朝夕2食付きでなく朝食のみとし、夕食は外食することにしました。飛行機も駐車場の関係(無料)で茨城空港発の便が一番良いのですが、四国への直行便がないため、止むを得ず成田空港発のジェットスターを利用することになり、それに合わせて車は成田空港近くにある有料駐車場に4日間預けることにしました。

〇主な旅行行程
  9月27日(金)
  午前7時30分 水戸市の友人宅集合 → 水戸大洗から成田空港近くの駐車場まで高速道路 → 送迎バスで成田空港へ
  東京/成田空港 搭乗便GK403 10:25発 → 松山12:10着 
     昼 食 「松山空港内」レストラン 
  昼食後、リムジンバスで大街道駅へ → 到着後、徒歩で宿泊先の「松山ニューグランドホテル」へ(荷物預け)
      休憩後、松山城へ移動
   (ロープウェイで山麓駅『東雲口』~山頂駅『長者ヶ平』へ)
      松山城見学後、電車で道後温泉へ(温泉街散策・入浴)
   入浴後、ホテル近くのレストランで夕食

  9月28日(土)
    午前 松山市内商店街散策 → 電車で喜多郡内子町へ移動
        情緒漂う懐かしい町並み、内子座などを見学 
         (内子町で昼食)
    午後 高速バスで高知市へ移動
       JR松山駅発15:35 → はりまや橋着18:20 伊予鉄5号             
       (走行距離161km  所要時間2時間40分 運転手1名・高知道経由)
        到着後、宿泊先の高知共済会館へ 
        チェックイン後、市内散策、夕食 

9月29日(日)
   午前 日曜市見学 → 高知城見学 → 龍馬の生まれたまち記念館へ
        昼食「こうち旅広場」
   午後 南国市へ移動 →「高知県立歴史民俗資料館」
         (長宗我部氏の居城であった国史跡・岡豊城跡にある歴史系総合博物館)
   宿泊先 ホテルエリアワン高知

 9月30日(月)
   午前 レンタカーで桂浜方面へ 
        → 途中、長浜の「長宗我部元親公初陣之像」を見学
         高知市浦戸城山到着後、「高知県立坂本龍馬記念館」→ 桂浜公園内の坂本龍馬像を見学
   午後 桂浜から高知空港へ移動 → 空港施設内で昼食
       高知空港発GK426 14:55発 → 東京/成田着16:25 
     空港到着後、送迎車で駐車場へ
         → 成田インターから圏央道で水戸へ

〇感 想
  小生にとって伊予松山も土佐高知も行ったことがないので、見る物全てが新鮮であり感動的であった。初めて見る松山城の威容、石垣の素晴らしさには圧倒された。今まではテレビでしか見たことのない道後温泉街は大変賑やかで、大勢の観光客で賑わっていました。時間に余裕があって喜多郡内子へも足を伸ばし、明治時代さながらの貴重な町並みを歩くことが出来たほか、喫茶店でコーヒーを飲みながら地元のご婦人方と交流のひと時が持てたことは幸いなことでした。当地で食べた日本蕎麦の美味しかったこと、最高でした。
  土佐の高知では、主に坂本竜馬や長曾我部元親に関する資料を展示する資料館に入り、いろいろなことを学ばせていただきました。偉人が育った場所で同じ空気を吸えたことは貴重な体験となりました。「高知県立坂本龍馬記念館」はリニューアルオープンしたせいか、とても綺麗な建物で、展示内容等も充実していたのが印象的でした。

  今回の研修旅行で一番気がかりだったのは天候でした。直前の予報では曇り又は小雨となっていましたが、結果的には全て好天に恵まれたことが一番良かったと思います。旅行期間中、毎日2万歩近く歩いたせいか、皆へとへとになってしまいました。今後は参加者全員、しっかり体力をつけて本番に臨むことが必要だと感じました。










 

平和の詩 「本当の幸せ」

沖縄慰霊の日、いまを生きる小学生が問いかけた幸せの意味。
「お金持ちになることや 有名になることが幸せではない」


  6月23日(日)、沖縄県糸満市の平和祈念公園で開催された「令和元年沖縄全戦没者追悼式」の席上、山内玲奈さん(糸満市立兼城小6年)が朗読した自作の詩に深い感銘を受けましたのでご紹介したいと思います。

平和の詩「本当の幸せ」

青くきれいな海
この海は どんな景色を見たのだろうか
爆弾が何発も打ちこまれ 
炎で包まれた町
そんな沖縄を見たのではないだろうか

緑あふれる大地 
この大地はどんな声を聞いたのだろうか
けたたましい爆音 
泣き叫ぶ幼子 
兵士の声や銃声が入り乱れた戦場
そんな沖縄を聞いたのだろうか

青く澄み渡る空
この空は 
どんなことを思ったのだろうか
緑が消え 
町が消え 
希望の光を失った島
体が震え 
心も震えた
いくつもの尊い命が奪われたことを知り
そんな沖縄に涙したのだろうか

平成時代 
私はこの世に生まれた
青くきれいな海 
緑あふれる大地 
青く澄みわたる空しか知らない私
海や大地や空が74年前 
何を見て 
何を聞き 
何を思ったのか
知らない世代が増えている

体験したことはなくとも
戦争の悲惨さを 
決して繰り返してはいけないことを 
伝え継いでいくことは
今に生きる私たちの使命だ

二度と悲しい涙を流さないために
この島が 
この国が 
この世界が幸せであるように
お金持ちになることや 有名になることが幸せではない
家族と友達と笑い合える毎日こそが 本当の幸せだ
未来に夢を持つことこそが 最高の幸せだ

「命どぅ宝」
生きているから笑い合える
生きているから未来がある
令和時代 
明日への希望を願う新しい時代が始まった
この幸せをいつまでも


タイトル 幕末動乱の地を行く(7)
サブタイトル 安政の大獄 ⑤               伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明


  幕府は水戸藩に「戊午の密勅」を朝廷に返還すべきであると迫った。水戸藩の意見は二分し、戊午の密勅を戻す必要がないとの意見が激化し、有志たちは水戸藩境の2里8町(約9キロ)水戸街道の長岡宿(茨城県茨城町長岡)で街道を封鎖した。この長岡屯所は水戸藩上層部の工作により懐柔され失敗した。
  過激派の藩士たちは活動の中心を江戸に移した。以前より攘夷派の後に桜田門外の変を計画した高橋多一郎や金子孫二郎などの水戸藩士と、薩摩藩の江戸藩在中組の有村次左衛門は薩摩の挙兵により上京し、義軍及び孝明天皇の勅書をもって京都における挙義を断行し、幕政を一気に是正しようとしていた。
  しかし、薩摩藩は第11代藩主島津斉彬が急死してしまった。後に実権を握った弟の島津久光が、江戸での「挙義」を黙認しつつも薩摩藩の直接関与を避ける方策をとった。久光の子、最後の薩摩藩主島津茂久が直書で志士の「精忠」を賞賛したが後日のために脱藩することを思いとどまるように説諭した。異例の対応で攘夷激派を強引に沈静化させたのである。

  ここに薩摩藩の挙兵上京は不可能となり、京都における攘夷派の蜂起は破綻することになった。幕政是正のためには井伊直弼の排除が必要不可欠とする水戸浪士たちは、関東における挙義を単独でも実行する方針を固めていた。薩摩との合流のため水戸藩士高橋多一郎、金子孫二郎らは京へ上り、関東では水戸藩士関鉄之介率いる実行部隊が井伊大老襲撃を断行するとして分かれ、関東組へは江戸薩摩藩在中組のうち有村次左衛門が桜田門外の変に一人加勢した。
  鯉渕義文氏は茨城大学の後輩、桜田門外の変の烈士鯉渕要の玄孫である。鯉渕義文氏は「桜田門外の変」を描いた小説「情念の炎」を執筆した。「この桜田事変は今までタブー視され、一方では暗いイメージとして捉えられてきた経緯があります。しかし、よくよく調べてみると、襲撃を計画した水戸藩士も、襲撃に加わった下級武士たちも決してテロリストとして訓練されてきた人たちではなく、寧ろ、当時の緊迫した外交問題や内政問題を真剣に考え、真面目な生き方を貫いてきた民政家でありと、高い見識と教養と身に付けていた人物であったような気がしてなりません」と語られた。

プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
 「情念の炎」下巻
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