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山内昌之「将軍の世紀」 ― 「みよさし」と王政復古の間

(1) 明和事件、山県大弐の悲劇

  人間何が幸いするか分からない。あの事件がなければ、朝鮮使節にも名の轟いた書家・篆刻家としての沢田東江は、ただ朱子学者の秀才として徳川中期の歴史の片隅に名を留めただけに違いない。しかし東江は、大田南畝も含めた多くの友人知己のなかに、山県大弐がいたばかりに明和事件のとばっちりを受けた。儒学を断念して書の道に転じ天明・寛政の江戸文化史に名を残した東江は落書でも、「横倒しても威勢ある物 東江先生 越中守 団十郎」と松平定信や五世市川団十郎と並ぶ名士なのだった(矢島隆教編『江戸時代落書類聚』上巻)。

 さて、その山県大弐の一件は、やがて語る大塩平八郎の乱にもまして歴史の先駆者の悲劇である。明和事件は、竹内式部の宝暦事件(連載第二十八回参照)と合わせて王政復古と倒幕謀叛のさきがけといってよい。明和四年(一七六七)に摘発された事件は、京都の朝廷を舞台にした竹内式部の一件と違い、江戸・八丁堀の家塾を中心に上州・小幡藩家老吉田玄蕃を通じて藩主・織田美濃守信邦まで巻き込む武士による反幕運動の性格を帯びていた。しかも、大弐は将軍・家重の側用人として権勢を振るった大岡出雲守忠光にも仕えたことがある。忠光は危篤に際して大弐を「我一代限りの者なり」、死後は暇をとらせよと遺言したという(山田三川『想古録』1、五六七)。忠光は大弐の鬼才ぶりを炯眼にも見抜いたことになるが、実は生前に召し放っていた可能性も高い。

 甲斐・巨摩郡に生まれた山県大弐は家塾で儒学・医学・兵学を教えながら、幕藩体制を否定する『柳子新論』(宝暦九年)をまとめたが、幕府を転覆する手法を思いつかなかった。ところが、明和元年(一七六四)閏十二月に信濃から上野・下野・武蔵にかけて日光東照宮百五十回忌法要に伴う助郷役増徴計画に反対する伝馬騒動が起きて、二十数万人が打ち壊しに参加した。これは、商品生産の発展と並んで中山道の伝馬助郷村の拡大で助郷役負担分の貨幣徴収を請け負う商人たちに反発し、藩領と天領の境界を越えた強訴に発展したものだ(久留島浩「百姓一揆と都市騒擾」『岩波講座日本歴史』近世4)。その少し前、宝暦十四年二月には神田新銀(しんしろがね)町から出火、北風烈しく本石町や鍛冶橋内まで広がり、折から滞在していた朝鮮人使節も大火に恐怖したといわれる(斎藤月岑『増訂武江年表』1)。大弐は前者から農兵構想、後者から江戸城攻略のヒントを得る一方、最低十年くらいの教化運動を民衆レベルで進めて、「全国にいくつか中核になる核心諸藩」をつくる実践計画を練ったのではないか。

 こう類推したのは、一九六七年に『「明治維新」の哲学』(改題『思想からみた明治維新』)を出した分析哲学者の市井三郎であった。市井は、幕藩体制を根本的に転覆しないと庶民を安んじることはできないと信じた点で、大弐を吉田松陰の先駆者と考えた。実際、江戸時代を通して刑場で見事な最期を見せて刑吏を感動させた二人の死刑囚が松陰と大弐だったというのはありそうなことだ。信州上田に潜伏中、講義中に人相書と大弐の風采年齢が符合するのを案じて駆け付けた者に、神色変ぜず顔の似た者は多い、心配するに及ばずと打ち笑い、講義を優々と終わって子弟を帰した後、服装を正して従容として縛についた逸話は何とも松陰の横顔を髣髴させる(山田三川『想古録』1、四四五)。

 市井は、幕府が大弐の陰謀計画を「朝廷公卿まで含んだ大謀叛」だととらえた旧幕臣・福地源一郎(桜痴)の見方を紹介し、「革命家大弐の人民主義」を高く評価する。これはロシアのナロードニキ運動を意識したのだろうか。他方、一九六三年にマルクス主義歴史学者の林基は、竹内式部や山県大弐の天皇信奉をロシアのプガチョーフ農民戦争のツァーリ主義めいた傾向と同じく「おくれた、弱い側面」だと強調していた。天皇を反幕運動の「旗印」としたかった点で、幕末の勤王志士らの動きも二人の再演でしかないといずれにも厳しい評価を寄せる。そして、「再演は喜劇であるのに対して、式部らの事業は初演として悲劇であるほかなかった」と、カール・マルクスの「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)を想起させる言い回しを用いた(「宝暦―天明期の社会情勢」『岩波講座日本歴史』近世4)。しかし、松前藩や安中藩に仕えた儒者・山田三川が言うように、大弐は「平生正直ナル人ニテ王朝ノ衰ヲ歎キ懇々人ニ説シトゾ」であり、寛政三奇人の高山彦九郎や蒲生君平を「王朝家」にする影響力を発揮したとすれば、封建時代の水準としては十分に先駆的だったのではないか(『三川雑記』天保八年条)。

 大弐は死罪に、竹内式部の門人として式部と大弐をつないだとされる藤井右門直明は梟首(獄門)に、すでに宝暦事件で伊勢に閉居中の式部は改めて流罪とされた。右門は、赤穂浪士の義挙に参加しなかった江戸家老・藤井又左衛門の実子であり、京都の地下の諸大夫・藤井家の養子になったという説明が『国史大事典』『日本近世人名辞典』にある。詳しい素性はどうも謎のヴェールに包まれている。青年公家への孫子・呉子の兵書雑談に不敬ありとされ、宝暦事件が起こると京都を出奔したようだ。上杉鷹山の侍医・藁科貞祐が事件の一年後に或る書簡で述べたように、「これはまことに幕府の指導者が神経を張り詰めねばならぬ時だった」のである(Peter Nosco. Individuality in Early Modern Japan: Thinking for Oneself. NY/London: Routledge, 2018. chp.3)。

 林基は大弐が安藤昌益のように収奪や搾取の一掃でなく「制限」を目指したにすぎないと手厳しい。それでも、大弐にフィージビリティ(実行可能性)の観点から低い評価を与えがちな二十一世紀の研究者よりも、市井と林は立場を越えて大弐に注ぐ眼差しが柔らかく感じられる。中野三敏は、「明和の御静謐の御代を震撼させた有名な大逆事件であり、山県大弐の復古勤皇の思想が幕府の忌憚(きたん)に触れて、前年の竹内式部一派と合わせて死罪に処せられた事件だった」とするが、「大逆事件」とはまるで幸徳秋水の明治天皇暗殺謀議の冤罪を連想させる用語法ではないか(『近世新畸人伝』)。他方、政権の末期症状は財政(食)、軍事(兵)の破綻・不足、民心(信)の離反から始まるが、山県は主著『柳子新論』において、この三言を理念として湯武放伐(無道な暴君を天下のために討伐する行為)・易姓革命を正当化し、尊王斥覇の鋳型のうちに徳川政権批判の論を溶かし込み、挙句の果てに山県が刑死するのだから「矯激の度合」は他者と比べものにならないと見なす専門家もいる(小池喜明『武士と開国』)。泰平が続くと、「礼楽」をうるさく説いても世に用いられない徂徠学の儒学者らは、虚喝か自虐的哀調を帯びた「吠声」を立てるしかなく、吠声が悲哀にすぎると、『柳子新論』のように「不穏な怒声」となったと説く研究者も現れた(高山大毅『近世日本の「礼楽」と「修辞」』)。実際に、大弐は徂徠学をも積極的に学んでいた。しかし、竹内式部のように垂加神道に直結する動きはなく、名分論を主題とする尊王論が引き起こした事件だという点を強調する学者もいる(磯前順一・小倉慈司編『近世朝廷と垂加神道』)。

 市井が江戸時代に「類を絶したただ一人」の思想家にして実践家と評価し、林が「アジテーターとしてすぐれた才能」を示したとする山県大弐の主著『柳子新論』を少し覗いてみよう。まず最初の「正名第一」で中心思想をこう開示する。「それ文を以て常を守り、武を以て変に処するは、古今の通途にして、而して天下の達道なり。如今(いまのごとく)、官に文武の別なし。則ち変に処る者を以て常を守る、固よりその所に非ざるなり」(平時を守るのは文人であり、非常時に対処するのは武人である。これは古今の通則であり、天下の道理である。今の世には文人と武人の区別がない。非常時に対応する武人が平時を守っているのだ。もとより、それは正しくない)。ここで大弐は、武家政権の徳川幕府が統治の正統性を主張する根拠を正面から否定しているのだ。「計吏宰官の類の如き、終身武事に与らざる者も、また皆兵士を以て自ら任じ、一に苛酷の政を致す」(経理・行政官のように、一生軍事に関与しない者も、みな武人と自任し、もっぱら厳酷な政治を行う)。これは番方だけでなく役方も旗本・御家人が務める徳川政治体制の否定につながる。

 「文武第五」の出だしはもっと明快である。「政の関東に移るや、鄙人その威を奮(ふる)ひ、陪臣その権を専らにし、爾来五百有余年なり。人ただ武を尚(たつと)ぶを知り、文を尚ぶを知らず。文を尚ばざるの弊、礼楽並び壊れ、士はその鄙俗に勝(た)へず。武を尊ぶの弊は、刑罰孤り行はれて、民はその苛刻に勝へず」。源頼朝以来の武家政権を否定する激論はそのまま徳川幕府の拒否につながる。「政治が東国に移ると、田舎びとが威光をふりかざし、また者が威権をもっぱらにする。それ以来五百年以上も経った。人は軍事の尊重を知るだけで、文治の尊重を知らない。文治を尊重しない弊害は、礼と楽がともに壊れ士はその卑俗に打ち勝てない。軍事を尊重する弊害は、刑罰ばかり行われて、民衆はその苛酷さに打ち勝てない」。しかも、「今や天下の士たる者、列位すでに広く、冗員倍々(ますます)多し。またただ便宜事を執るのみ。文に非ず武に非ず、彼将に何を以て任となさんとするや」(いまでは世の中で士と呼べる人びとは、その序列や位ともに広く定まっており、余計な人数が多くなる一方だ。ただ便宜的に仕事をするだけである。文人でもなく軍人でもない。当人はまさに何を自分の任務にしようというのだろうか)。

 大弐は人材発掘と有効活用に無関心な徳川政治体制に憤りを隠さない。それは中国のように科挙の制度がなく、能力のある者を伸ばさず、能力のない者に望まないことを無理強いし、あげくに人がいないからこうなると、責任を問うのはどうしたことか。「国家に益なき者」を上に挙げて、「天下に用ある者」を抑圧するからこうだと大弐は怒る。こうした非を改め、士をまっとうする道、民を安んじる道を何故に求めないのか、と(「勧仕第八」)。
 大弐は「利害第十二」において、誰憚ることなく倒幕の必然性を暗示的に説いてやまない。「苟も害を天下になす者は、国君といへども必ずこれを罰し、克たざれば則ち兵を挙げてこれを討つ」。その大きな例は、中国古代史で殷の湯王が夏を討ち、周の武王が殷を討ったことだ。この「湯武の放伐」は「無道の世」で「有道の事」に成功するなら、こちらは君となり、あちらは賊となる。これは徳川の世を「無道」、将軍を賊と言うのに等しい。 

 そして天皇は君として「有道の事」を担うと暗示している。さらに重要なのは、「たとひその群下にあるも」(庶民・民衆であっても)、無道の害を除いて、志が庶民・民衆の利を高からしめるなら、「放伐」という行為は仁というべきだと大弐はいうのだ。「民と志を同じうすればなり」と民衆蜂起について、大弐の思想を媒介に反体制のエネルギーに転化させる根拠を掲げる。「天下国家の長たる者は、文ありて後武いふべきなり。礼楽ありて後刑罰行ふべきなり」。ここで文人優先、武人追随を語り、礼節による秩序を罰則に依拠する社会に優越させるのは、武家中心の将軍権力を拒否し、文人優先の天皇権力の樹立の正当性を語っているのに等しいのではないか。『孟子』にもないほど明白に、「民と志を同じう」する限り、「群下」の者でさえ放伐に立ち上がれというのだ。『柳子新論』の思想は、まさに時代を突き抜けていた。寛政の三奇人のうち高山彦九郎と蒲生君平が「勤王」「王室再興」に人びとを奮起させる「膏油(あぶら)」だったとすれば、大弐は「その膏油を激発せしむる火」であった(『想古録』2、九一七)。松平定信は、老中就任の前に出現していた竹内式部や山県大弐の尊皇反幕思想に対し、改めて幕府による統治の正統性を示す必要を痛感したに違いない。ーつづくー
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山内昌之「将軍の世紀」  寛政改革の行詰り

(4) 「寛政異学の禁」の周辺

 現代の日本人は、徳川政治体制が儒教・封建思想の体現として家康の時代から構造化されていたように思いがちだ。徳川の近世も後期になると、時間を追うに従って儒教が普及したのは事実であるが、体制思想として儒教が正式に採用されたわけではない。松浦静山によれば、すでに明和安永の頃に節倹が厳しくなった時、幕府は昌平坂の聖堂を「第一無用の長物」として取り崩そうと思案したという。御側御用取次たちが奥右筆組頭に対して、聖堂に安置あるは神か仏かと尋ねると、奥右筆はたしか本尊は孔子とか云うと答えた。すると御用取次たちは、孔子とは何かと問う。奥右筆は論語とかいう書物に出ている人だと聞き及ぶと答えた。ここで御用取次らははたとうなずき、林大学頭が聖堂崩しになると唐(もろこし)へ聞こえても外聞が悪いと言った意味が分かった。それではしばらく崩しを見合わせようとなった(『甲子夜話』1、巻四の三五)。

 あまりにも出来過ぎた話である。幕臣のレベル低下という解釈も成り立つが、そもそも儒教を統治理念とした体制でない以上、幕吏に定信のような教養を期待しても無理というものだ。黒住真氏によれば、林羅山以来の林家はよく官学と称されるが、それは長いこと朝廷にあった文章道の菅原家・大江家、明法道の中原家、算道の小槻家らの「博士家」のように幕府の抱えた家学だったというのだ。林家の施設が昌平坂学問所として官に移されるのは、やっと徳川後期の一七九〇年代つまり定信の時代にすぎない。彼がこれから触れる寛政異学の禁を出したのは、すでに見たような幕府人材の払底による統治体制の弛緩への危機感からであった(『複数性の日本思想』)。大体にして、林家そのものが歴代当主や啓事(門下生監督役)に人を得なかった事実は、漢文に熟達した朝鮮通信使から多少なりとも揶揄されてきた。吉宗の将軍襲職の時、祝賀に来た使節の製述官・申維翰(シンユハン)は三代目林鳳岡(信篤)を長者の風があると評しながら、その文章は「拙朴にして様をなさない」と厳しく、日本の官爵はすべて世襲なので学問がいかに高くても信篤(林家)の下に入らないと登用されず、「可笑しいことだ」と触れていた(『海游録』二〇)。

 そこで定信は柴野栗山(彦輔)次いで岡田寒泉(清助)などを聖堂儒者に登用してテコ入れを図った。六代林鳳潭(ほうたん 信徴)が若くして死に、温和ながら何事にも右顧左眄する養子・七代林錦峰(きんぽう 信敬)の時代、寛政元年末になると、聖堂維持費に使うべき年貢収入を他に流用したり、鳳潭の後室(未亡人)の公私混同などで「林家又々内乱はじまり候由」と揶揄され、とても教学のリーダーシップを果たすどころでなかった。この後室は「放蕩転婦」だという評判が立つ。「転婦」とは「みずてん」(不見転)くらいの意味だろうか。天明七年春にすでに「愚姦後家」と悪評をとった女である。遊び人らを集めて博奕をやるわ、芝居小屋の多い堺町に繰り出して役者をあげて博奕し逗留するわで、あまりの「放蕩至極」に孝子の大学頭もあきれ果てた(『よしの冊子』上、四。下、十二)。とんだ聖堂の御母堂様もいたものだ。しかも、出が高家・前田左少将長泰の娘だというのにも驚く(『寛政重修諸家譜』22、巻千四百八十八)。

 定信もさすがに目をむいたはずだ。定信は天明八年の「心得」に、旗本に似合わず三味線を弾き浄瑠璃を語る者もいれば、河原者(歌舞伎役者)の真似をする者もいると「我儘なる行跡」に警告を発していた。この手合いはみな本妻がおらず「召使」に家内を任せるから家政で物事が軽々しくなるというのだ。まさか、礼法を学ぶ高家に生まれ育った正室が莫連まがいだとは定信の理解を絶しただろう(『甲子夜話』6、巻九十の三。『続篇』4、巻四十三の三)。高家といえば、定信の仕切った寛政三年春から夏の頃に、大澤右京大夫基之の養父で隠居の定寧(さだやす)は「大放蕩」で有名だった。当主の妻(自分の娘)を役者と「姦通」させ、その役者を自分の「頑童」にするなど「言語道断の振舞」で評判が悪くても、隠居なので家への咎めはなかったのである(『よしの冊子』下、十六)。定信は、寛政五年に七代林錦峰が死ぬや、美濃・岩村藩主松平乗薀(のりもり)の子・乗衡(のりひら)を第八代とし、聖堂の人事権と出納権を幕府に移した。まさに林大学頭家も「義気」の衰えた幕府旗本御家人の一員にほかならないからだ。とかく不評判の「放蕩転婦」に家政と聖堂の仕切りを混同されてはたまらなかった。祖父が享保改革の老中・乗邑だった乗衡は衡(たいら)と改名し、やがて林家中興の祖・述斎になる。

 定信の改革は第一に寛政異学の禁である。寛政二年五月に林錦峰に向けて出され、聖堂儒者の柴野や岡田にも示された達(たっし)には、幕臣教育の刷新と人材取立てのために慶長以来代々「御信用」の学問だった朱子学を「正学」として改めて認定し、「学術純正ならざるもの」として「異学」を排斥するとあった。結果として異端とされたのは、陸象山・王陽明の陸王学(陽明学・心学)、伊藤仁齋・東涯の古義学、荻生徂徠の古文辞学などであった。
 第二に、昌平坂学問所を学問教育と学問吟味の場所としながら、試験制度を通して幕臣たちの政治意識と学問標準の均質化を図ろうとした。それは朱子学の教えを学ぶことで役人たる武士の精神に政治哲学を浸透させ、政教一致を定信ひいては寛政の改革で目指すべき理想の統治形態にしようとしたのだ(真壁仁『徳川後期の学問と政治』)。

(5) 「寛政の三助」と大田直次郎

 この二つとも、定信が老中になった翌年の天明八年に『政語』の「小引」(序論)で公にした政治哲学と結びついている。人の行うべきことを道といい、人の道に従うことを政というと定義した上で、聖人が先王だった時には教と政は結びついていたが、その後の王になると、政と教は分かれてしまった。「是において先王の教降りて儒者の任となり、先王の道汚る」と。定信は、儒者は政治と関わらない場で是非を争うだけとなり、政治家や役人は道の実践や垂範から無縁になったと言いたげである。これが改革を招いた政治の乱れの原因ということになる(「政語」『近世政道論』。宮城公子『幕末期の思想と習俗』)。定信の目指した政教一致の理想は、各藩と地方から抜擢した儒者に託された。

 讃岐・高松の柴野栗山(彦輔)、直参旗本の岡田寒泉(清助)、次いで伊予・川之江の尾藤二洲(良佐)の三人が期待される。この三人、あるいは清助の代わりに肥前・佐賀の古賀精里(弥助)を加えて「寛政の三博士」と呼ぶことはよく知られている。または、この四人の誰かを削り寛政四年に奥詰医師となる京都・福井楓亭(ふうてい)を加えることもある。楓亭は龍助、立助、良輔と書かれる医学者であり、高貴な患者とも「色々毎日々々喧嘩計いたし居候」と伝わっている(町泉寿郎「医学館の学問形成(三)」『日本医史学雑誌』45の4)。口さがない世評では「三助(スケ)」と呼ぶこともあった。清助と良助(佐)は、それぞれ寛政元年と三年に新規に召し出され、切米二百俵、儒者を仰せ付けられた(大田南畝『一話一言』1、巻八『日本随筆大成』別巻1所収)。奥詰医師・福井立助も二百俵を宛がわれた。「三助は六百俵の御損毛(ごそんもう)」という川柳もある。三人への二百俵ずつの扶持は無駄遣いだと酷評されたのだ。この三人はどうも彦輔、清助、立助だったらしい。聖堂の講釈では大勢参加した旗本の間で人気のあったのは岡田清助のようだ。大盗人・熊坂長範の逸話などを交えて「仁」について、さながら庶民の心学のように話すので面白いだけでなく分かりやすかった。清助は人柄が悪くても、講釈上手だと評判をとっている。良助は唸ってばかりで面白くないと不評だった。これは尾藤良佐のことだろう(『よしの冊子』下、十五・十九)。

 寛政異学の禁を担った彼らは、徂徠学の影響を受けながら、それを克服する思想として朱子学を位置づけようとした。朱子学は徂徠学から否定された過去の思想でなく、逆に徂徠学を乗り越える新鮮な思想として蘇ろうとしていた。それでも昌平坂学問所では、学習方法として徂徠学派の「会読」が採用されたように、議論と討論を重んじることで自己の意見と異なる「他者」の存在を容認する開かれた態度を身につけさせた。彼らは徂徠以前の山崎闇斎とその学派の好んだ講釈一辺倒をとらなかった。蘭学や国学も会読を行った新たな時代に、いわば「文芸的な公共圏」から「政治的な公共圏」に寛政の朱子学を転位させたが、他学を絶対に排除したわけではない(前田勉『江戸後期の思想空間』)。むしろ寛政異学の禁は、多元性と多様性をもつ土壌の力と儒教・朱子学の「弁析純化力」との間でゆっくり進んだ相互作用の結果として、揺らぎかけた徳川政治体制の再統一を朱子学に託したともいえよう(黒住真『近世日本社会と儒教』)。本来の定信が徂徠学の徒であり、表面だけ朱子学を装っているという評は、なかなかに核心を衝いているのではなかろうか。「越中様は御一躰徂徠学ニ御ざ候へ共当時ハわざわざ朱子学ニ表向をなされ候よし。全躰ハ徂徠学じやとさた仕候よし」と(『よしの冊子』下、十四)。

 改革の第二は寛政四年に始まった学問吟味である。「山陰にかしこき人の有ならバ鳴ても告よ谷の鶯」とは定信の作と伝えられる。人材発掘に苦しむ定信の心性をよく示しているではないか(『よしの冊子』上、三)。定信は正学として朱子学の素養を持つ幕府の官吏・役人を生み出す教育的基盤を作ろうとした。それは、中国の科挙のように身分横断的な試験でなく、すべての幕臣に必須の官吏登用試験でもなかった。たかだか及第者に家格相応の役職に就く時期を早めさせ、家督相続者でない者にとって他家との養子縁組を成功させる有利な条件を得るものであった。寛政六年から元治二年まで生れた学問吟味の及第者は、甲乙丙の三科合わせて九百五十四名であったが、落第者を含めて昌平坂学問所の稽古人となった幕臣はその数を遥かに上回った。徳川後期の江戸幕臣社会は学問吟味による選別化を通して儒学が活況を呈した時代だったのである(『徳川後期の学問と政治』)。

 学問吟味が今でも有名なのは、寛政六年(一七九四)の第二回に大田直次郎こと南畝(蜀山人)が御目見以下の御家人として甲科に首席合格したからだ。また、御目見以上の旗本では遠山金四郎景晋(かげみち)が首席であった。江戸町奉行・景元の父である。また、御目見以下の合格者には北方探検家になる近藤重蔵も入っている。南畝は第一回にも受験して良い成績を収めたが試験官の悪意によって不合格となった。戯作や狂歌で江戸期最大の有名人の一人・ねぼけ先生が吟味を受けるというので見物客が試験場に殺到したというほどだ。出題者の清助こと岡田寒泉が『史記』の伍子胥を誤って呉子胥と記した時、呉国の子胥か、楚国の子胥かと解答で論じながら清助を嘲笑ったので落ちたという説もある。しかし南畝にはこの種の悪趣味はない。すでに野口武彦氏が『蜀山残雨』で明らかにしたように、定信が妙に贔屓して聖堂の啓事を命じられた森山源五郎孝盛の南畝嫌いが災いしたのだろう。森山は「人の事をわるくいはねバ立身ハならぬと申見識のよし」と水野為長に酷評されたが(『よしの冊子』下、十九)、自分が勘定組頭になって四十八両で「終日の饗応」をした前年に、狂歌師として全盛期を迎えていた大田直次郎(南畝)が洲崎の一流料亭・望汰欄(ぼうだら)などで豪遊しまくり、その後決まって新吉原に繰り出した過去を忘れていない。そのうえ南畝その人は丁寧にも、望汰欄の「食次回」(食事会)のおそらく三の膳から成る本膳料理の献立(天明三年三月四日)を書き留めていた。

 一の膳は、御吸物(とふがらしみそ・鯖・もみ大こん・ねぎ)、御肴(とこぶし・あなごかまぼこ・蟶(まて)・小ささゐ木のめあへ・さるぼ・はまぐり)、御小皿(小川たたき・葛いり酒・わさび)、御茶わん(御飯切あへ・やきどうふ)、御香物。
 二の膳とおぼしきは、御吸物(さより・黒くわゐ・ぼう風)、御肴(鯛小付・れんこん・木のめす)、御茶わん(うすくず・こんにやく・からし)、御肴(いはる・ゆば・岩たけ・みつば)、一(白うを玉子鮨・生すし・たで)、一(豆くわい)。
 三の膳らしいのは、御吸物(うすみそ・焼満中・すぎな)、御膳(御汁・蕨)、御(五種ほど不分)、御飯、御烹物(むしり鯛・菜筍・麩)、御焼物(もろあじ 木子ヲユキサシ鯖ノゴトクシタル也・半ぺんうま焼 田楽ノゴトク青串ニサス)、御香物(二種ほど不分)。

 折詰にする焼き物や引き物もここに入っていたかもしれない。あるいは招待した主人が主人だけに折詰は別に用意しただろうと想像をめぐらすのも楽しい(『一話一言』5、巻三十九、『日本随筆大成』別巻5所収)。

 望汰欄の豪遊などに南畝を毎週のように招いたパトロンは、田沼の失脚で唯一死罪となった勘定組頭・土山宗次郎孝之である。定信や森山が忘れる男ではない。森山はやや粘着質だったのかもしれない。彼によれば、儒学者は学問吟味で人物人柄よりも成績を重視するが、「実学」で苦労して人柄も慎み深く真面目に勤めに出ている者に、低い点しかつけないと不満気である。儒学者は、勤め人が自分の見識を出すあまり学問の根拠を疑うというのだ。要するに、森山は林大学頭や「三助」に批判的なのである。南畝と比べると冴えない自分の随筆での辛辣な寸評も、大田直次郎こと南畝をあてこするとしか思えない。「血気放蕩のやからは、不敵なる根情にまかせて、きのふまで浄瑠璃三味線に心耳をこらしたる者が、四五十日が内に、そこら講釈を聞覚えて、試学に出るやから多し」。そして師の言うことを一字一句も違えずに記憶して書くからいつも上の成績をとる、と(『蜑(あま)の焼藻(たくも)の記』)。しかし森山は、大田南畝がすでに狂歌の道を捨てた事実を知らないわけがない。南畝の幼年時からの和漢の教養と文芸の素養は、森山が嫉妬から競争心を抱くようなレベルでないが、面白くなかったに違いない。鈴木健一氏の教示によれば、天明二年二月、田沼意次の部下の土山宗次郎に招かれた時に平然と漢詩を詠んでいる。首聯は「望汰欄前、万里の流れ。紅亭、麗日(うららかな陽光)、意悠々たり」で始まり、続いて「偶々仙侶に陪して余暇を偸み 更に賢人に対して百憂を散ず」とある。仙人仲間と一緒に休日を味わい、そのうえ賢人とも会って多くの憂いも晴れたというのだ。この賢人が土山を指すことは言うまでもない(『南畝集(抄)』、『新日本古典文学大系』84所収)。

 森山の妨害をかわして南畝は、二回目の学問吟味に四十六歳で晴れて合格した。それでも、彼は将軍行列最後尾を警固する御徒のままである。ようやく支配勘定に登用されるのは、四十八歳になってからだ。とはいえ森山には南畝に優位を感じる世界があった。それは役職昇進のテンポが南畝をはるかに引き離すほど早かったことだ。文筆家・芸術家としての定信なら南畝を見る眼に少し余裕があったかもしれない。しかし、老中として彼は狂歌師や戯作家の前歴を持つ御家人を評価するはずもないのだ。それが定信という人物なのである。
 「詩は詩仏書は米庵に狂歌俺芸者小万に料理八百膳」という狂歌は南畝が詠んだらしい。市河米庵は幕末三筆の一人だが、この大窪詩仏が江戸夏の花火を詠みこんだ漢詩の尾聯に次のような表現がある。

 夜深戯罷人帰去  夜深けて戯罷(ぎや)み 人帰り去れば
 両岸蕭疎烟淡遮  両岸蕭疎(しょうそ)として 烟(けむり)淡く遮(さえぎ)る

 夜もふけて花火が終わり見物客も帰ってしまえば、川の両岸にいた人の姿もちらほら見えるばかりで寂しくなり、花火の煙だけが薄く一面を覆っているというのだろう(鈴木健一『日本漢詩への招待』)。「烟花戯(はなび)」と題した詩仏の漢詩は、歓楽が終わって揺曳する寂寥感や虚無感を描くことで、芸術とそのぐるりの知友と訣別し吏道に専念しようとする南畝の心中をまるで映し出すかのようだ。支配勘定として大坂銅座や長崎御勘定方に転勤する大田直次郎には、大坂の上田秋成との出会い、長崎でのロシア使節レザノフとの遭遇が待ち受けている。
(了)


山内昌之「将軍の世紀」  寛政改革の行詰り

(2)「小普請の喰うや九八が書上も」  勝小吉と川路聖謨

  水稽古いたち松浦いぬのくそ貧乏神にとぶらひの供

 これは、下谷あたりに多く住む御徒(おかち)が、将軍補佐・松平定信の登城前の対客に遅れる原因を詠んだ歌だ。西之丸下(西下)の定信邸に日参を心掛けても、障害に出くわした日は屋敷にたどりつけないか、遅刻して御逢いの時刻に間に合わないか、とかく邪魔になる原因がある。それはまず、徒士に命じられる水稽古のせいだ。夏には将軍の上覧に供するので水練をなおざりにできない。これが対客の日参を朝から邪魔する一因である。道を横切るいたちも宜しくなく、犬の糞を踏まずに出かけるのも一苦労だ。不浄物を踏むと具合が悪く、葬儀の供に出会うのも縁起がよくない。貧乏神にたたられて日々出かけるのも物入りだというのだろうか。西之丸下へ日参の象徴といえば松浦市左衛門である。毎日やってくるので競争相手の身としては気がかりで仕方がない(『よしの冊子』上、四)。

 松浦市左衛門とは、通称からして千五百石の旗本・松浦信安の子・信賢であろうか。父は家治の嫡子・家基の小姓や小納戸の役にありついたが、子の方は『寛政重修諸家譜』の編纂時にも無役であった。市左(右)衛門の家は延宝年中(一六七三~八一年)には下谷の宗対馬守上屋敷の一つおいて北隣にあったが、この時期の下谷にはない(『寛政重修諸家譜』八、巻四百七十六。『江戸城下変遷絵図集 御府内沿革図書』十五巻)。また、千五百石の大身旗本は、この日参をするには家格が高すぎる気もする。少し後の嘉永四年と文久二年の尾張屋清七の『東都下谷絵図』を覗くと、いかにも御家人とおぼしき松浦才一郎の長屋じみた小宅が加藤遠江守上屋敷のすぐ西(下谷広小路の東)に記載されている。市左衛門と才一郎との関係は分からないが、こちらの方が逸話ともしっくりくる。いずれにしても市左衛門は、下谷から不忍池脇を抜けて昌平橋あたりを渡り、大名小路から西之下の定信邸を目指して毎日まっしぐらに早足で通り抜けたのだろうか。

 市左衛門は「西下が天だ」と信じて、その天に日勤して勘定になるのが天命だと吹聴すると、周りが聞いて、そんなら貴公は日勤よりは「天(転)勤」だと笑われた。才もさほどとは思えない。定信の公用人や出入りの人に頼んでも「ほろろけんのあしらい」だった。「神へ百度参り候ても神託がなかれバどうふか信仰が薄くなる」というボヤキには実感がこもっている。質素節倹の意味を知らない「文盲なる御役人衆」がおり、勘定吟味役でも算勘にうとい者がいたことを考えれば、市左衛門だけが学問に薄かったとは思えない。結局、市左衛門は「互にめのかたき」にしていた松井久三郎と一緒に支配勘定となった。かなりの抜擢でめでたし、めでたしであった。(『よしの冊子』上、一・三・四・五)。字さえ読めない旗本・御家人がいたことには驚くが、彼らが番入りを目指して、対客や御逢に日参したのにも驚く。しかも、それが現代人もよく知る人物の父なのである。当人のたどたどしい言い分を聞いてみよう。

 十六の年には漸々(ようよう)しつ(疾)も能(よく)なつたから、出勤するがいいといふから、逢対(あいたい)をつとめたが、頭の宅で帳面が出ているに銘々名を書くのだが、おれは手前の名がかけなくつてこまつた。人に頼んで書て貰た。石川が逢対の跡で、「こじきをした咄しをかくさずしろ」といつたから、はじめからのことをいつたら、「能く修行した。今に御番入(ごばんいり)をさせてやるから心ぼうをしろ」といはれた(『夢酔独言』)。
 名前を書けぬやら、乞食をしたやら、これでも徳川の直参である。四十一石一斗二合六勺九才・二人扶持という微禄でもとにもかくにも将軍への御目見以上なのだ。勝左衛門太郎惟寅(これとら)という大層な名前だが、普通には勝小吉で通っている。勝海舟の父である。江戸っ子の啖呵めいた言い草は、芝居のセリフや下級武士が町人に変身した「やつし」のようなところがある。尻はしょりで緋博多の帯・長羽織をして草履取りを連れて深傘をかぶった番町の旗本も天明から寛政の時分にはいたことだ。これが小吉だったとしても驚かない(『よしの冊子』上、一)。小吉の素朴な江戸弁をそのまま気取りのない英語にしたテルコ・クレイグ氏の翻訳を読むとかえって江戸人の闊達な気分を味わえるのではないか。

 I was sixteen. My infection had cleared up. It was decided that I should apply for official service. I went to Ishikawa’s residence to pay my respects. In the front hall there was a register for those seeking jobs to enter their names. I couldn’t even write my own name and to my great embarrassment, had to ask someone else.
 After I had presented myself, Ishikawa said, “Tell me about your experience as a beggar. Keep back nothing.” I told him everything from the very beginning. “Well,” he said, “you might say it was a kind of toughening-up experience, and you came through all right. I’ll see you to it that you get an appointment soon. Be patient.” (Katsu Kokichi. Musui’s Story: The Autobiograpy of a Tokugawa Samurai. Tucson: The University of Arizona Press, 1988)

 これは文化十四年(一八一七)のことだ。松浦市左衛門の話は天明八年(一七八八)だから、二人の間には三十年ほどの開きがある。無筆の小吉を心配した小普請支配の石川とは、左近将監忠房であろう。蝦夷地問題でも定信を補佐し、やがて勘定奉行から留守居まで上り詰める高級旗本の手本のような男だ。石川がどうにもできないほど小吉は身持ちが悪く、また出奔するくらいだから番入りが巧くいくはずもない。ところが小吉と同じ頃、石川に見出されてトントン拍子に出世したのが川路聖謨である。豊後日田代官所の手代の子が御家人株を買って奮励努力の結果、遠国奉行の数々や勘定奉行を務めて小吉と正反対の生き方をした男である。
 川路は後に石川を「此人の恩殊に多く」と感謝の念を生涯抱き続けた(「天保八酉年十月調」『遊芸園随筆』)。他方、「燈心もて竹の根を掘如くにて、やうやうにして」(一生懸命努力しても効果がなく、ようやっと)と苦心を表現したのは、石川より一回り以上上で定信に仕えた森山源五郎孝盛である。番入りしても上役の宅に毎日出入りするのは勿論、なかには日に朝夕、二、三度も出かけて機嫌伺いする者もいた。こうして小普請与(組)頭になった森山は、同役二十三人を礼席に招いて四十八両もする酒菓魚物を提供するなど物入りが続く。しかも、風流・風雅でなく、形の大小、数の多寡にこだわる饗応だから森山ほどの教養人ならげんなりしたに違いない。
 六歳のころに母から四書五経、小学、三体詩、古文の手ほどきを受けた森山には、小吉にない教養があり、将来に目付・火付盗賊改・鑓奉行などに昇進する基礎ができていた(『蜑(あま)の焼藻(たくも)の記』、『日本随筆大成』第二期二十二巻所収)。それでは、出奔から戻って改心して番入りにまた精を出す小吉はどうなったか。

 夫から毎日毎日上下(かみしも)をきて、諸々の権家を頼んであるひたが、其時、頭が大久保上野介といいしが、赤坂喰違外(くいちがいそと)だが、毎日毎日いつて御番入をせめた。夫から以前よりいろいろ悪ひことをしたことを残ず書取て、「只今は改心したから見出してくれろ」とていつたら、取扱が来て、「御支配よりおんみつをもつて世間を聞糺すから、其心得にていろ」といふから、まつていたら、頭が或ときいふにや、「配下のものはなにごともかくすが、御自分は残ず行跡を申聞た故、処々聞合(ききあわせ)た所が、いわれたよりは事おおきい。しかし改心して満足だ。是非見立やるべし。精勤しろ」といふから出精して、合にはけいこをしていたが、度々書上にもなつたが、とかく心願ができぬからくやしかつた。
 これは文政八年(一八二五)のことだ。今度の小普請支配は大久保久五郎忠晦である。音は「ちゅうかい」であるが、「ただみち」と読むのだろうか。盗妖騒動に際して賊に踏み込まれた大久保忠温の子である。小吉が改心して真人間になったから御城に出仕させろとは、将軍直参の言い草とも思えない。大久保が隠密を使って身状(みじょう)を調べると、小吉は書き留められた悪事よりもっと大きな事を起こしていた。改心したのだから真面目に対客に来いとありがたい言葉だ。しかし小吉には微禄で貧しくても、強者に卑屈で弱者へ居丈高になる虚勢は見られなかった。御役に就いても、たとえば奥州へ巡見使に出た者は、休憩場所でも金五両をせびりとったり、船賃も払わぬ者がいた。他では通じても、これを水戸徳川家につながる松平播磨守(常陸府中藩)の陸奥領内でやったのだからたまらない。事件は表沙汰になった。

 「小普請の喰うや九八が書上も始終出世のたねを植崎」。四十俵二人扶持の植崎九八郎政由(まさより)が必死に番入の手蔓をつかまえようとする様を詠った狂歌だが、どこか憐憫と共感をこめた歌である。四十一石の勝小吉とおつかつな九八郎は、文化元年七月に罪を得て鳥居丹波守、次いで片桐主膳正へ大名預りとなり大和国で死に家絶えになった(『よしの冊子』上、五。『寛政譜以降旗本家百科事典』第一巻、702)。一説には政治向きの機密を上書で漏らしたともいうが、小普請無役の九八郎がどれほど政務の秘を知っていたというのだろうか。九八郎と同じく番入りが叶わなかった小吉なら、この悲しい結末を切ないほどまじめに受けとめられたに違いない。大田南畝(蜀山人)によれば、九八郎は勘定の成田九十郎正之の次男であったが、天明二年七月の養家の小普請・植崎弥一郎政信の後を継いだ。九八郎は実父のように勘定畑を目指したのであろうか(『一話一言4』巻二十五。『寛政重修諸家譜』第二十、巻千三百三十二、第二十一、巻千三百八十九)。九八郎は、最近の世上の弊害、政務のあるべきあらましをすべて半紙四、五十枚にまとめて定信に出したので、世間もこれを聞いて喝采した。九八郎の努力はよかれあしかれ誰でも知っており、定信に登用された森山孝盛が多少の優越感と憐憫をこめて書き留めている(『蜑(あま)の焼藻(たくも)の記』)。

 小吉が九八郎のような運命をたどらなかったのは、天明から寛政にかけて成立した江戸っ子の良い気質が小吉に強く教養もなかったからだろうか。その伝法な調子は英語訳で楽しむと分かりやすいかもしれない。

  Every morning I put on my kataginu and hakama and made the rounds of the powers that be. I went to Commissioner Ôkubo Kôzukenosuke’s home in Akasaka Kuichigaisoto and begged him to recommend me for a post. I even submitted a list of the misdeeds I had committed, adding a request that I be considered, now that I had repented. An agent came from his office one day. He said, “ Be forewarned that Ôkubo-sama will be sending out investigators to gather information on you.” I wait expectantly.
 Ôkubo spoke to me one morning. “Your followers simply refuse to tell on you, and though you’ve confessed everything, we find upon investigating that the mischief you’ve done is far more serious than you say. Be that as it may, you’ve repented, and that’s good enough for me. I will do my best to get you an appointment. Continue to report diligently.”
 I showed up at his residence with renewed fervor and practiced fencing in my spare time. Often enough my name was entered on the rolls of candidates, but bot once was I given a post. And that I found very galling.

 「半紙四、五十枚」の建言とは、「植崎九八郎上書」として知られる史料である(『日本経済叢書』第十二巻、国会図書館DC、二二〇~二二七コマ)。文化・文政期を世評した名著、武陽隠士の『世事見聞録』は、この上書を「いずれも見識広く、肝胆を砕き、国政の好策に似たる」「国家の根本を執り直し、万民を安んずる」次のような書物と並べて評価している。熊沢蕃山『大学或問(わくもん)』、荻生徂徠『太平策』『政談』、新井白石の著述類、太宰春台『経済録』、山下幸内『武門大和大乗』、本居宣長『玉くしげ』。『世事見聞録』(青蛙房)に解説を寄せた瀧川政次郎は、九八郎の田沼意次批判を含む十五箇条をまとめているので、ここで要約しておこう。

 (1) 諸大名の苛斂誅求の制止、(2)御料代官・手代の収賄、奢侈の禁止、(3)老中・若年寄への贈物の制止と人材登用、(4)大奥勢力の抑圧、(5)江戸市民の救い米を関東郡代でなく町奉行に命じること、(6)米売買を禁じて米価を下げ、銭相場を引き上げて細民を利すること、(7)農民の離村と江戸集中の制止、(8)藪医者・茶の湯の師匠・生花の師匠・俳諧師・生臭坊主らの遊民の減少を図ること、(9)博徒の手入れ、目明し・岡引(おかっぴき)の廃止、(10)町方与力・同心、鷹匠らの非礼横暴の制止、(11)婚姻・養子縁組を持参金の高で決める風潮の矯正、(12)遊女・売女・春画・張型などの禁止、とくに岡場所よりの年賦上納金徴収の停廃、(13)江戸中の無宿・菰かぶりの佐渡送りの停止、代わりに荒地の開墾・耕作への使役、(14)町方の隠密・密告の禁止、(15)田沼時代の諸運上の廃止。 

 一見すると九八郎の提言はすべて定信の改革に適いそうだ。しかし、(3)(4)は幕府政治の高いレベルの急所を衝くものであり、(14)は『よしの冊子』のような定信の情報探索の手法をあてこすっているように見えたのかもしれない。そもそも定信は、山下幸内の目安箱上書をこだわりなく参照した祖父・将軍吉宗と違って、献言を身分の弁えがない政治発言として必ずしも謙虚に受け止めるたちではない。九八郎は、蝦夷地問題の青嶋俊蔵、ロシア問題の林子平がはまった“負のスパイラル“にからめとられたのだろうか。定信が辞めた後も九八郎はどこまでも不運なのである。享和元年(一八〇一)の『牋策雑収』は、家斉への建言書や経済から外交に及ぶ各種の上書を含む堂々たる著述であるが、採用されなかった。(『日本経済叢書』第十二巻、国会図書館DC、二二八~三〇〇コマ)。中々に遠慮のない筆致が災いしたのだろう。「王と率直に話したい人は穏やかな言葉を使うように」というペルシア王キュロスの母の言葉は九八郎にもあてはまるのかもしれない(『モラリア』3)。

(3)「御楽屋がしれる」  定信の隠密政治

  盗妖騒動の余波が醒めやらぬ寛政三年夏頃にはやった「御時節七不思議」のなかに「御政道の厳しいに、先頃中の夜盗押込」という皮肉めいた落首がある(『よしの冊子』下、十六)。確かに何故に幕府を恐れぬ犯罪が起きたのか。定信は、誰の利益にもなると信じる改革のさなかに盗妖が跋扈した原因と処方を探るために老中たちに「御相談」(四月二十六日付)を回した。いかにも定信らしく、事件の本質は数十年来の奢侈や怠惰の「風儀」が蔓延して武士の「義気が日々に衰(おとろえ)、廉恥月々に滅び、軽薄の風俗さかんに相成(あいなり)候」となり、節倹などの「義心」を心掛けても、かねてから衰弱の「義気」はなかなかに上向きにならない。そして定信は「下々の勢ひを増長いたし来り候」と考えた(『寛政改革の研究』)。
 忠義や義侠の意気の衰えは、札差(蔵宿)に金を借りた旗本御家人の「利倍増していつ果べしとも見えず」、困窮に陥った御家人を「あしざまにもてなし、かつておそるるけしきもなく」、札差に代って手代が「あしざまにあしらい侍るなんど、けうときふるまいなり」と定信が怒るのに通じる(『宇下人言』)。もっとも、定信は将軍補佐となった天明八年に老中一同に回した「老中心得十九ケ条」でもすでに「町人百姓下賤の者ニ候とてあなとり申すまじき事」(五条)としていたように(『有所不為斎雑録』第廿四)、「下々の勢ひ」を無視できないことを早くから知っていた。

 しかし、定信がいちばん心を許したはずの側用人・老中格の本多弾正大弼忠籌(ただかず)は、「武威の衰」を危惧する定信に同意するにせよ、政策の達成目標と結果との乖離を問題にしており、定信よりも犀利な洞察を示した。倹約を進めるのはよいが、統制をあまりにも強め、出版を厳しく規制すると「人情屈し居候」(感情のゆとりを萎縮させる)ではないか、と忠籌ならではの下情に通じた危惧を見せる。ここにきて二人の齟齬は狂歌でも冷やかされる。「白川をにごすハ本多うそじやない虚談上手(弾正)で國の大弼」と(『よしの冊子』下、十四)。忠籌は、寛政二年五月に大人向けの黄表紙だけでなく子ども向けの草双紙も厳しく規制されたことを懸念したのである。定信は古の出来事を装いながら現実について「不束なる儀」(不謹慎なこと)を書く作品を許せなかった(佐藤至子『江戸の出版統制』)。

 ましてや黄表紙ともなると、現代人でさえ読みだすと笑いが止まらない改革政治の風刺に定信は苦虫を噛み潰したような思いだったに違いない。山東京伝の『孔子縞于時藍染』(こうしじまときにあいぞめ 『黄表紙 洒落本集』所収)は、聖賢の教えが世に浸透するあまり、乞食まで橋上で漢籍を学び、いも売りの孝行、大工の忠義から始まり、『春秋』の「魯の西の狩に麟を獲たり」と聞けば孔子も淋病を患ったとまじめに語る。有徳の町人が欲深そうな番人に金を渡しても、老年で戒めるべきは金銀をむさぼることだと『論語』の教えを引合に出し、金を受け取ろうとしない。ざっとこういう具合で、寛政改革の儒教奨励や禁欲主義の成果をパロディー化しているのだ(棚橋正博『山東京伝の黄表紙を読む』)。

 公儀への風刺、実は自分への嫌味に厳格に対処しがちな定信と、草紙くらい楽しめないと「小人ハ慰なき也」と寛大な忠籌との差異は小さくない。また忠籌は定信が多用した隠密目付の出没を御家人が「ひそひそとして」警戒する様をよくないと、定信をたしなめる風情もある。隠密の御小人目付は或る御家人が三味線を弾くのを見て要注意人物として「帳面」に星を附けたところ、隠密の友が此奴は左様な人間でないと庇った。すると、非行の注進がないと上の目付が不満を言うからというのだ。この友は星が附かない人がいればそれだけ良い世だということではないか、公儀の「御楽屋がしれる」と怒りを隠さない(『よしの冊子』上、六・七。下、十六)。忠籌は隠密政治を辞さない定信の暗い一面に批判的だった。弾正大弼忠籌は「弾正殿ハどふもよい人だ。何もかも入りわたり氣付て丁寧で扨々功者ナんヨイ御役人」と評判がよかった(『よしの冊子』上、三)。

 定信には改革原理主義ともいうべき禁欲主義を譲る意志がないというより、そうした感性をそもそも持ち合わせなかったのだろう。将軍補佐となった翌年、天明九年正月の「心得書」では、旗本の知行はもともと先祖の勤めによるのに、「自身の物」と錯覚して百姓を虐げ撫育する心もなしに役を課する者がいる、と非難した。心正しくない不行跡は、「若年より無学にて、何事も弁へず育ち候よりの事に候」と断じていた(『甲子夜話』6、巻九十の三。『甲子夜話続篇』4、巻四十三の三)。この指摘は先に見た島津斉宣の訓諭書とも共通している。不行跡をただすために「弓馬の道」、殿中の「月次の講釈」、聖堂の「日々講釈」を受けるべきと語る一方、忠籌との議論の前後にますます学問への統制と奨励を強めることになる。
(つづく)

 


山内昌之「将軍の世紀」   寛政改革の行詰り

(1) 盗妖騒動と武家規範

 1603年(慶長8年)にイエズス会宣教師が編んだ『日葡辞書』によれば、白浪(Xiranami) とは盗賊のことだ。白浪物は、歌舞伎の河竹黙阿弥や講談の松林伯円(しょうりんはくえん)の作品を通して江戸時代でも人気を博した。しかし、現実に起きた白浪の犯罪はとても、黙阿弥の『鼠小紋東君新形』(ねずみこもんはるのしんがた)や『三人吉三廓初買』(さんにんきちさくるわのはつがい)のように絵になる芝居に遠かった。とくに十一代将軍・徳川家斉と将軍補佐・松平定信の時代、寛政三年(一七九一)四月に二十日間も江戸市中を震え上がらせた盗賊騒動は歴史に類を見ない事件である。これは、幕府の武威を失墜させ、怪しげな流言つまり妖言で市中をおびえさせた事件として盗妖騒動と呼ばれた(竹内誠『寛政改革の研究』)。定信は次のように回顧している。

 「盗妖てふ事あり。ここにも盗入たりといへば、かしこにも入たり。きのふは何ケ所へ盗入たりといふ。それより町々にても犬声など聞ては、そよ盗きたりけりとて、鐘などうちならすにぞ、その鐘の声をききて又うちさはぎつつ一夜いねず。かかる事半月計にも有けん」(『宇下人言』)。

 しかも武家が盗賊に襲われながら切り捨てられなかったという噂が広がった。武威に関わる流言蜚語が飛ぶだけで幕府には鼎の軽重が問われかねない。『御触書天保集成』の「盗賊之部」には寛政三年から天保七年までの盗賊取締関係の法令が十一点も収められているが、そのうち九点までが盗妖騒動の月に出されたものだ。なかでも、大目付への触では武家屋敷に盗賊や狼藉者が押し入る場合には、近所の面々で申し合わせて「相互ニ一屋敷と心得」、主人が家来を召し連れて鎮めよと指示した。そのうえで、「法外の始末これあり候得は、討捨申すべき儀ニ候」としている(『御触書天保集成』下、六五〇五)。

 武士が盗賊ごときを鎮定するのに他家から助太刀を受けるのはいかがなものか。こうした正論は厳しい現実にかき消され、「向三軒両隣」の協力を申し合わせる屋敷も現れた。寛政三年には、駿河台胸突坂(現山の上ホテル近辺)あたりの武家屋敷では「向七軒両隣、うしろ三軒」と大仰な取り決めをする者も現れた。それでも押込に遭った武家がいたらしい。それも「番頭大久保豊前守」だというのだから洒落にもならない。この人物らしき者は、小姓組番頭(十番組)の大久保豊前守(彦兵衛)忠温(ただあつ)であろう(『柳営補任』一。『寛政重修諸家譜』第十二、巻七百十三)。『江戸幕府役職武鑑編年集成』収載の限りでは、豊前守は須原屋の『寛政武鑑』の寛政三年以降、出雲寺の『大成武鑑』の寛政六年以降の版に載っており、屋敷は四谷御門外とある。事もあろうに将軍直率の常備軍団・小姓組番の四千石高の頭で、家禄五千石の大身旗本の屋敷が抜き身をさげた五人に襲われたのだ。

 しかも江戸城の堀に近い屋敷は、東西が四谷仲町通と赤坂喰違に抜ける濠端にはさまれ、南に紀伊殿上屋敷、北に尾張殿中屋敷がある江戸城防衛の中核地点(今の上智大学北隣)にあった(『江戸城下変遷絵図集 御府内沿革図書』十一巻)。足軽小頭が巧みに梯子を使って狼藉者たちを取り押さえていなければ、将軍親衛隊長ともいうべき者は腹を切るだけでは済まない。足軽小頭が加増を受けたのは当然にせよ、豊前守が八年に無事に書院番頭に転じたのは解せない。幕府の信賞必罰人事は静かに崩れ出していた(『よしの冊子』下、十六)。町方にも同じ頃に出された触は、夜中に「怪敷者」が通るなら、木戸を閉めて問い糺し盗賊だと分かれば、「召し捕り候とも打ち殺し候とも致すべく候」とあった(『御触書天保集成』下、六二七九)。犯人を逮捕できる権限は町奉行所や火付盗賊改など公権力に限られるのに、木戸番や町内による個人の「打ち殺し」を正当化するのは、法の支配の転換であるだけでなく、町人・百姓を保護する武士の義務を自己否定しかねないのではないか。

 盗妖は白浪の由来、後漢の末に黄巾の乱の余党が西河の白波谷に隠れて集団で悪事を働いたよりも大胆だったかもしれない。火付盗賊改本役の長谷川平蔵宣以(のぶため)に拘束された大松(だいまつ)五郎は、盗みをはたらく時には駕籠に乗り、若党に扮した手下を供に仕立てた。鑓を立てながら挟箱を持たせ、葵の紋所の提灯を点じて押しまわした。葵小僧と名乗り、大身旗本めいた出で立ちの盗妖の真実が後世に伝わらないのは、定信や長谷川平蔵らが関係書類や証拠を一切合財処分したからだという説がある。押し込み先で婦女子へ落花狼藉に及んだ葵小僧の罪状を細かく詮議すると被害者の内情が表に出てしまう。葵小僧の一件は数日で審理を終わらせ、逮捕の十日後に首魁の首は晒された。これほど手早い一件落着は、三世紀に及ぶ将軍の世紀でも珍しい(「五人小僧」『三田村鳶魚全集』第十四巻)。

 盗妖騒動は現象・実体・本質の三面で幕府に大きな課題をつきつけた。現象としては、武士が階級として一体性をもつエートスと力を失っていたことである。実体としていえば、能力のある武士の人材開発に幕府が失敗した点である。本質として見るなら、幕府を維持する意志と支える力が歴史の大きな方向性とずれはじめたことだ。この三つの危険に気付いたのは松平定信である。彼は古宝物図録集ともいうべき『集古十種』の編者、名品の多い随筆家としてのイメージが強い。しかし彼は、身体鍛錬を兼ねて剣術・槍術・馬術・弓術の免許皆伝をとり、鈴木清兵衛邦教に学んだ起倒流柔術の名手でもあった。自らの「気」を調整しながら人間を「本体」に戻そうとする柔術は、儒教の経書を通して人間にひそむ「本性」を理性的に会得するのと同じように、武士の自己修養に不可欠であった。昌平坂学問所の開設や学問吟味につながる改革を成功させる定信にとって、アイルランド国立大学の徳川思想史研究者キリ・パラモアがすこぶる要約するように、柔術は文武両道の柱でもあった。

 旗本御家人の教養や政治知識の劣化は寛政年間になる前ですら覆いがたく、武道に精進せず、先祖以来の家禄にしがみついて日々を無為に過ごす者が多かった。天明五年の大身旗本・藤枝外記教行(二十八歳)と新吉原大菱屋抱え女・綾絹(あや衣とも。十九歳)の相対死(心中)は、「君とね(寝)やるか五千石とるかなんの五千石君とねよう」と三味線に合わせて一世を風靡したが、後室・みつ(十九歳)も夫の死を偽り家は改易となった。これは大田南畝の『俗耳皷吹』と『一話一言4』(巻二十七)で紹介されている(『日本随筆大成』第三期4、別巻4)。盗妖が武家屋敷を嘲弄するかのように襲った背景も分かる気がする。

 藤枝外記の死も歌も定信は知っていたのではないか。それは、寛政三年に水野左内為長が記した直参らの退廃にもつながる。「四ツ谷新屋敷辺(あたり)至て人物あしく、御旗本ニても大小さし候ハ稀にて、単物(ひとえもの)ニ緋ぢりめんの丸ぐけ抔いたし、脇差一本或ハ無刀の者多く、武げい学文(問)等いたし候ものハ、大に謗りわるく申立(もうしたて)候ニ付、おのづから人物宜しからざる放蕩のミの人多く御ざ候由」(『よしの冊子』下、十六)。

 両刀を差さないというのも驚くが、学問に励む新屋敷の加藤三平なる人物を憎み、寛政二年秋の大嵐の際、近くの旗本寄合(無役の者)は三平の門や垣根をわざと毀した。三平は素知らぬ顔をして修復するなど、とりあわないので最近はなぶられることもない、実に小身の旗本は人柄がまったく悪い。最近も新屋敷の内で「近来ニこれ無き大博奕」があり蕎麦屋が大儲けしたそうだ。また、本所の十八歳の御徒(おかち)が吉原の女郎屋二階で役人を偽って客改で金を脅し取る事件が起きた。長谷川平蔵が召し捕った若者は、懐中に捕縄と十手をしのばせており、小悪党の狡さだけが際立つ。
 親も「宜しからざるもの」だというから、幕府の役に就けない旗本御家人らのすさんだ気分は、親子・一家・地域に蔓延していたのだろう(『よしの冊子』下、十六)。もとより『よしの冊子』は日時を必ずしも確定できない情報が多く、探偵・風聞の類が混入しているのですべて一次史料として信頼するわけにいかない。しかし、史実として確定できる事件の起きた雰囲気や事件の詳細を同時代的によく伝えている以上、二次史料よりも高いレベルで事実を記録している場合が多いことも、橋本佐保氏の詳細な分析から確認できるのではないか(「『よしの冊子』における寛政改革の考察」『史苑』七〇の二)。

 興味深いのは、無役であれ役付であれ、さして変わりがない実務知識や武家教養の欠如を後世に伝えてくれたことだ。なかでも、老中の松平越中守定信・本多弾正大弼忠籌(ただかず)・松平伊豆守信明だけが「歴々の御学者」で目立つ反面、下の者は「一向文盲」で勘定奉行にも本を読む人がいないという指摘がある。良く言えば、計数には明るくても学問のできる人間が役人にいないというのだろう。代官といっても、定信の統治論たる『国本論』を一向に読めない。また『牧民忠告』を読めないからカナを附けてほしいという代官ばかりだというのだ。なにルビを附けたってやっぱり分からぬと水野為長はやや投げやりなのだ(『よしの冊子』上、五)。『牧民忠告』は、中国・元代の官僚・張養浩が県令となって記した書だが、江戸時代に会津藩の保科正之が藩政指南書として各大名に贈呈して有名になった。定信なら代官や旗本たちに、「よろしく学問し、六経史諸子百家の書を洽見(こうけん。広く読む)すれば、下民の情・稼穡(かしょく 農業)のくるしみ、照々として明かなるべし」と『国本論』の一部を引いて言い聞かせるに違いない(『翁草』巻の百二十八、第三期22巻所収)。

 幕府に人材が少ないのは事実にしても、各藩でも実情はさほど変わらない。天明九年に薩摩藩主・島津斉宣が家老たちに宛てた三箇条の訓諭書は、上下を問わず藩士の資質が劣化したことを嘆く。第一に、「大身小身によらず、幼年より我儘ニ生立(おいたち)候えハ、盛長の後國家の用に立ちがたく、別して氣の毒の至ニ候條、貴賤共ニ得と其旨を相考(あいかんがえ)、油断なく出精もっともの儀ニ候」。斉宣は、身分の上下に関係なく幼少時から気ままに育つので、成長しても「国家」(藩)の役に立たず、とりわけ自分に迷惑をかけると不満を隠さない。その点をよく考え注意して努力するのが当然だと叱咤する。

 第二に、「一門名代をも相勤(あいつとめ)候家格の向(むき)は、屹(きつ)と立ち候身分ニて専(もつぱら)國中の見当ニ相成事に候條、第一身持を慎(つつしみ)、家法を嚴にし、惰弱の風儀これなき様相心得、文武の藝ハ勿論、萬端礼儀正敷(ただしく)、威儀を失ざる様心掛候儀専要(せんよう)ニ候」。これは、島津家の一門などや藩主名代を務める高い家柄は、国中の模範として素行を正しく家をきちんと守り軟弱な様子を見せず、学問武芸はもとより万事に礼儀正しく、威厳を失わぬように努めるのが肝要だと談じる。斉宣は、藩屏の一門四家・一所持(いっしょもち)三十家・一所持格十二家らの当主・子弟の奮起を求めたのだ。

 第三に、「大身分の儀ハ家柄ニ應し夫々の役場へ召し仕るべきの処、是又(これまた)至(いたつ)て不才ニこれあり、書讀等不自由ニてハ相當の役儀も申付がたき事に候間、分限ニ随ひ諸藝を相嗜(あいたしなみ)、往々用立候様相心得、何篇(なにへん)律儀を相守(あいまもり)、風俗宜敷、士風も相立候様心掛るべく候」

 身分の高い者は家柄に応じて役儀を申し付けたいが、才がなく講読もできなければ役を命じられない。学問武芸を身につけ役立つように心がけ、武士たる気風を立てるようにと斉宣は世襲で安逸をむさぼる上士らに警告と激励を発したのである(天明九年一月廿八日付訓諭書『旧記雑録追録』六、二七八六)。ついでにいえば、明治維新を指導する小松帯刀清廉は実家・養家ともに家老を務める一所持の家柄だったのを見ると(『薩陽武鑑』)、斉宣の訓諭で奮起した者たちをいたのだろう。

 人材がいない点では朝廷も同じである。宝暦八年の竹内式部事件で意識の高い中堅公家十七名が処分されたのも大きい。桃園天皇の宝暦八年には天皇近習二十六人のうち六割以上が三十代より上だったのに、事件処分の余波で後桜町天皇の明和三年には七割近くを未熟な十代と二十代が占めるようになった。不慣れな女帝を補佐すべき近習が同輩に「虚言無礼」を働き、集団で「嘲哢」するだけでなく、上司や年長者を貶めるトラブルが頻発した。近習が徒党を組んで跋扈すれば、女帝とやがて後桃園天皇になる儲君に悪影響を与え禁裏の身分秩序が崩壊する危険もあった。宝暦事件は垂加神道などの学問に触発されて国家の大事を考える面もあったが、今回の事案は低レベルの集団的いじめにすぎず、公家たちの教養と知識の水準劣化をまざまざと示したにすぎない。そのうえ、結果として朝廷の要たる議奏を辞任に追い込む陰湿な事件となった(松澤克行「山科頼言の議奏罷免と宝暦事件」『論集 近世の天皇と朝廷』)。禁裏公家は到底武家の劣化を笑えたものでなかった。(つづく)

山内昌之 「将軍の世紀」―北方問題の開幕

 (4) 「一向別々」へ、松平定信と本多忠籌

 青嶋俊蔵の報告にはもっともな指摘が多い。しかし彼は寛政二年、定信の忌諱に触れて遠島処分を受けまもなく病死した。普請役見習の青嶋は、「内実蝦夷地騒動糺(ただし)のために候得ども、表向俵物御用として差し遣わされ」たはずである。にもかかわらず、松前藩重役の接触に応じて「間者」の身分を隠さず、松前藩の内情をじかに探った行為が越権とされた。
  情報収集にあたる間者が身分を明かすのは、戦のさなかに「返り忠」をしたも同然の「軽からざる義」だと定信の怒りは深い。田沼時代の天明六年出張の時、松前城下の遊女屋で「遊女買揚遊興」したのは、松前藩の警戒する「公儀役人」として軽率だったばかりでない(『蝦夷地一件(五)』一三、一五、一九、二〇、三一)。青島がもともと田沼意次の蝦夷開発論の系譜を引く人物だったのも定信には面白くなかったはずだ。

 しかし、もともと騒乱の原因を作った松前藩は家老以下三名の押込三十日、飛驒屋は藩場所交易から外される制裁を受けながら、幕府は手先・下代の「不埒の儀は相聞えず候」と咎めなかった。この問題に触れた先駆者・故照井壮助氏は哭するかのように、「功ありながら賞せられず、労多くして慰めを得られず」、囹圄(れいご)に繋がれて病死し弔いも許されずと表現している(『天明蝦夷探検始末記』)。
 蝦夷地問題という自分の専門領域で発言した青島は、幕閣の内部亀裂、一橋治済と定信の不和、御三家と定信の連合、定信の政権永続化への野心など、新たな権力ヘゲモニーの行方と自分の言動が関わったことを知る由もない。それは、松前藩を対ロシア防衛の最前線基地として再編する定信のリーダーシップと、ロシアの登場する大きな北方問題の新たな機微に青嶋が無意識に立ち入ったのが定信の逆鱗に触れたのだ。

 定信と本多忠籌(ただかず)は、寛政元年冬から「一向別々」になり、忠籌も今度は「錠がおりた」というのは、定信に心を閉ざしたということだろうか(『よしの冊子』十二)。忠籌でさえ「しくじるから西下ハこわい」とされたのは、蝦夷地やロシアをめぐる政策が微妙に食い違うようになってきたことも指すのか。
 クナシリ・メナシの蜂起後、定信はクナシリに外国の者が入れば「おひはらひ」すべきだと松前藩による今後の軍事行使を認めた。側用人となった天明八年に弾正少弼から大弼に官途名を変えた忠籌は、松前藩だけでは手にあまるので、クナシリやエトロフのアイヌが「赤人」(ロシア人)に慰撫されないように帰服を促すために、幕府も関与して二段構えでロシアに備えるのが有効だと唱えた。それでも、この段階ではまだ、定信の主張を補強する体をとっている(「寛政改革期の蝦夷地政策」)。

 実際に、本多忠籌には北方問題をロシアを防ぐ安全保障の面からますます論じがちな定信と違って、アイヌ民族問題の漸進的解決こそ北方安全保障の要だと考えていたフシもある。寛政二年三月に久世広民へ直に渡し翌日返された「蝦夷地風聞」なる文書には、定信と異なる忠籌の個性がうかがえそうだ。
 「もっとも命は助け遣し申すべき趣申し聞かせ候につき月ノ井(ツキノエ)と申す長、走り廻り、蝦夷人どもを三十人余召し連れ参り候由、然るところ三十人余の蝦夷どもを明き家え押込め置き候て、一両人つつ呼出し、外とにて首を討ち申し候由。右の音を承り、蝦夷は以(もって)の外驚き、俄に騒ぎ立ち、大声申し発し、既に明き家を押し破りいで申すべき勢いに狂ひ立ち候につき、松前の人数槍を以て家の外より突き死なせ候て、戸を開き、頭立ち候者七人の首を持ち帰り、松前表におゐて獄門に掛け候由」。

 結果としてツキノエが松前藩のむごい謀殺を手引きした印象を与え、彼を恨み怨を晴らそうとする者が出現して当人も困惑する。「惣て松前家政道宜しからざる趣を申し、蝦夷ども一統に遺恨を含み居り候由」という指摘は、信頼という安全保障の安定基盤を内から毀す松前藩の悪政に忠籌がすこぶる批判的だからだ。そのうえ、「彼地はアカヒトなど申す所へも通路これある儀」であり、赤人(ロシア人)との変事もこれから出来しかねないと松前あたりで噂しているという指摘は、忠籌が情報力ばかりか分析力にも秀でていたことを示唆する(寛政二年三月廿六日付、『蝦夷地一件(五)』二四)。

 忠籌の視点は、「其地を得も国ニ無益、其地を失も国に無損」という老中・松平乗完(のりさだ)の無定見な発言とは裏腹に、安全保障と国土開発と民族問題の解決を統一的にとらえるバランス感覚に富んでいるのではないか。「天のその地を開き給はざるをこそ有がたけれ。今蝦夷に米穀などおしへ侍らば、極て辺害をひらくべし」という定信の発言も地政学的危機感に随分と鈍いように思える。
 乗完や定信は、蝦夷地を放置するとロシアがやがてサハリンや千島列島や沿海州に南下する結果として、幕藩体制国家の防衛線が津軽海峡まで下がらざるをえない理屈を洞察できたのであろうか。とはいえ、松前藩は後に二度内地に転封させられた。定信は必要とあれば、松前藩を父祖墳墓の渡島半島から引き離すことに痛痒を感じなかったであろう。

 しかし、忠籌とまだ訣別しきれない定信は北方問題の危機に直面して、松前藩にアイヌ蜂起の総括とロシアの動きへの分析を示すように厳しく求めた。その回答は寛政二年四月に出された五条の「蝦夷地改正」である。
 第一条は、「東西蝦夷地場末」における交易を「旅人」(他国商人)にまかせず、自前の船と家来にアイヌを「介抱」「帰服」させる。第二条は、交易の「稼方」には他国者でなく松前領の百姓を使うこと。第三条は、場末として東のアツケシと西のソウヤに番所を置き、冬季に結氷する自然環境の厳しさを考慮し、アイヌへの手当を厚くし、「異国境」をきちんと見分しながら、場末の取締りに留意する。
 第四条は、家来の支配する場所まで「制度」(支配地)の最前線を守る。第五条は、「外国の儀」もあるので武備を怠らず「急変」の際には烽火で連絡すること、他に「遠境の蝦夷地幷島々異国境」まで毎年家来を派遣して地理・方角・人物を見究めて物事を定めるというのだ(『蝦夷地一件(五)』二九)。

 交易の現場はもはや「松前」でなく、遥かに離れた蝦夷地つまり「場末」まで広がっている点に注意しよう。五条から成る「蝦夷地改正」では、近世初頭の藩祖・松前慶広いらいアイヌと交易してきた場所を「場末」と認識し、その「異国境」の先に「急変」事態に即応できる軍備の必要な「外国」(ロシア)の存在が明示された。
 改正には、松前藩に幕府の地政学的認識につながる危機感を共有させたい定信の思惑や、アイヌ撫育や帰服の重要性を松前藩に理解させたい忠籌の信念も含まれている。これは松前藩の情報収集の成果であろうか。「場末」の番所とは国境哨点に他ならず、「異国境」の先にはロマノフ朝ロシアと清朝中華帝国という「外国」が姿を現していた。松前藩による蝦夷地統治の確認は、家康が慶長九年(一六〇四)に松前慶広に安堵した交易・商売独占権を軸とする蝦夷地支配の時代と異質な状況が到来したことを示している(『近世蝦夷地在地社会の研究』。「寛政改革期の蝦夷地政策」)。

 松前藩が須原屋の大名武鑑に大名として登場するのは、深井雅海氏と藤實久美子氏の労作『江戸幕府大名武鑑編年集成』に関する限り、享保七年刊の『享保武鑑』からである。そこには「蝦夷松前一円先祖より代々これを領す」とあり、いま話題にしている時期に近い寛政二年刊の『寛政武鑑』でも変わらない。
 この「一円」の範囲は曖昧であったが、寛政二年の「蝦夷地改正」に出てくる「東西の蝦夷地番所」「場末」「異国境」といった言葉で「一円」も遡及的にイメージを結ぶようになったのではないか。それは、現在の北海道にクナシリとエトロフを加えた領域、時にはそれに「異国境」が漠然としたカラフトも入れた地域がイメージされるようになったと言えよう。すると、別の厄介な問題が生じる。
 それは、これほど広大な陸海域を果たして松前藩という無高の大名で押さえきれるのかという疑問が再び生じるということだ。定信が松前藩の限界を知らぬはずはない。クナシリ・メナシ蜂起後に定信がアイヌの農業教化論を出し、忠籌の蝦夷地開発論に歩みよったのは、不毛の地であってもシベリアからアラスカ、カラフトから北千島まで植民地化するロシアのダイナミズムに直面していることを今や悟ったからではないか。
 それでも定信が幕府の直領化に消極的だったのは、蝦夷地経営の負担が膨大で寛政改革の財政健全化を妨げることを知っていたからだ。

(5)幕府財政と寛政改革

 幕府の金銀は、明和七年(一七七〇)に三百万両余(うち貯蓄金銀は二百九十七万両余)ほどあったが、定信が将軍補佐になる天明八年(一七七八)には一挙に八十一万両余(うち貯蓄金銀は六十三万両余)に減少していた。
 定信は倹約などを進めて、退任後の寛政十年(一七九八)には百七万両余(うち貯蓄金銀は九十八万両余)にまで財政を健全化したのである。また、寛政元年から十年まで、定信の改革の結果、経常費の収支差額は毎年黒字になり、その額は年平均三万両に及んだ。大野瑞男氏によれば、臨時出方つまり出費の多いのは寛政元年の禁裏御所の普請と、六年以降継続的に支出された日光東照宮の修復費用のせいであった。他に米価調節のために買上米代金を支出したことも大きい。
 この間の黒字累計は二万六千両余となり、この分が御金蔵に蓄積されたわけだ。しかし、定信が退任すると、寛政十一年から文化二年まで財政事情は再び悪化した。収支は平均すると年三万両の赤字に転じる。ここに寛政十一年から直轄地とした東蝦夷地の経営支出がからむ。これは幕府の過重な財政負担となった(『江戸幕府財政史論』)。

 「御繰合」を見ていくと、寛政十一年の収納高は金百十一万七千百三十一両余、入用高は金百三十一万六千九百十九両余で差引は金十八万九千七百八十八両余の不足(赤字)となっている。この大きな原因は、尾張徳川家への淑姫(ひでひめ)君様御入輿向御入用金の二万二千両余と並んで蝦夷地御入用金七万七千両余である。
 翌年も十六万千九百八両余の不足だが、淑姫君様御入輿入用金の一万二千両余と並んで蝦夷地御入用金六万六千両余の出費が目立っている。蝦夷地入用は東蝦夷地を上知させた翌年、享和三年(一八〇三)以後はひとまずなくなるが、文化四年(一八〇七)と五年になると西蝦夷地も直轄するので入用が八万五千両も新規にかかった。ただ、文化九年からは松前幷箱館御収納金三万両が入った。
 その後も合わせて十二万両の収益金が納めらる一方、蝦夷地の開発と対ロシア政策のために膨大な予算を入用としたことに変わりはない。蝦夷地予算に加え、多数の家斉子女の養子縁組や入輿の費用は、定信改革の成果を帳消しにしたのである(「向山誠斎雑記及雑綴」、大野瑞男編『江戸幕府財政史料集成』下巻)。

 定信は、本多忠籌(ただかず)の蝦夷地開発論や青嶋のアイヌ撫育策にも通じる「御救交易」を試みるために青島の弟子だった最上徳内を普請役として蝦夷地御用に抜擢し、寛政三年(一七九一)正月に松前経由で北方海域に派遣した。
 徳内は、松前藩の烽火設備が少しも改良されておらず、藩主直支配に変えたはずのアイヌ交易が松前商人・村山伝兵衛に任されている現況を見て驚いた。アッケシからクナシリ・エトロフを経て、ウルップ島最北部まで踏査し、カムチャツカまで探査に出かけんばかりの熱心さだった。さすがにカムチャツカ行きは断念し、十二月末に一旦江戸に帰るが、翌四年正月末には西蝦夷地に向かった。
イシカリ(石狩)やソウヤで御救交易を試み、カラフトのクシュンナイ(久春内)やトーブツ(遠淵)まで見分している。そこでロシア人来住の噂や、アイヌと交易するアムール川(黒竜江)下流域のウリチ人など山丹人がアイヌの幼少年を人身売買で拉致した非道さを知った。
 アムール川下流域から満州にいたる地政学的知識を得ただけでなく、クシュンナイを北緯四十八度としたのはカラフト最初の緯度測定として誇るべき学術成果でもあった。七月にソウヤに戻った徳内は、シャリ(斜里)やイシカリを含めて御救交易を監督見聞した。ソウヤの相場では煎海鼠五百個を玄米八升入俵一俵とする適正な御救交易はアイヌたちにも歓迎され、寛政三年・四年度で幕府御金蔵に千両の益金を納めている(島谷良吉『最上徳内』)。

 寛政二年には、本多忠籌が側用人から老中格、戸田氏教も側用人から老中に昇進して定信チームが強化されたかに見えたが、改革のスピードと個別の政策をめぐって軋みが生まれた。若年寄の下に寄合肝煎が新設され、寄合たちに文武が奨励された年でもある。
 「世の中ハ蚊ほどうるさきものハなし文武といふて人をいちめる」(『よしの冊子』上)、「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶ(文武)といふて夜もねられず」(『甲子夜話』1、二の六)。作者は蜀山人こと御家人・大田直次郎とも言われるが、改革の特性と時勢をよく伝えている。
 大田は組頭の尋ねに、所存はなく、ただ口ずさんだのみ、強いていうなら「天の命ずる所なるべし」と答えたので一同笑っておしまいになった。さて、いくら定信でも米価や物価は思うようにならない。寛政元年の札差棄捐令という強引な政策と同時に、江戸に住む十人の両替商を勘定所御用達に登用して上方市場に対抗できる江戸市場を育てようとした。
両者の均衡を図りながら「東西の位よくせん」(『宇下人言』)として、商業資本の掌中にある米穀・貨幣相場の実権を幕府の側に奪い返すことで物価の平準化を図り、「天下の政」を実現しようと努めたのである(竹内誠『寛政改革の研究』)。

 ところで、定信政権は寛政改革の質とスピードをめぐって天明八年(一七八八)から寛政元年(一七八九)頃にかけて、内部で軋みを起こしていた。それは定信が将軍補佐就任に伴い、本多忠籌と松平信明、御側御用取次・加納久周への不信を募らせたからだ。
彼らは彼らで独裁化を強める定信への不同意をもはや隠そうとしない。政治家の考え方や生き方はそもそも移ろいやすいものなのだ。定信は、忠籌が主従ともども収賄に走っているのではないかと疑い、老中格の忠籌を体よく御用部屋から遠ざけ、御側御用取次の部屋に追いやった。
 忠籌は、万人の上に立つ者が人を疑ってばかりいると、相手も生き物だから不愉快になり思う様に使えなくなる、と子の忠雄に語った。また、情を知るのは嗜みなのに、貴人は下々のことに疎いので用心が肝要だというのは、定信その人を揶揄しているようだ。
これは寛政二年に忠籌の教えをまととめた子・忠雄の聞書にある。蝦夷地問題をアイヌ民族問題としてとらえる見方を持っていた忠籌の感性の一端でもあろう。定信は、引退後に和解を幾度か忠籌に求めたが、忠籌の拒絶に遭った。
 定信は、この冷淡な態度を自分の老中解職を画策した忠籌の役回りに由来すると恨みがましい。そのくせ、自分がいちばん頼ったはずの年長の旧友を蝦夷地問題担当から解任した仕打ち(寛政四年十二月)など不信の数々を忘れているのだ(『松平定信政権と寛政改革』)。
 将軍吉宗の孫として生まれたサラブレッドと一万五千石の譜代小大名の家に生まれた苦労人との人間関係を見ていると、モンテーニュの金言をどうしても思い出してしまう。人間の不変性ほど信じる気になれないものはなく、逆にその定めのなさほど信じるのが簡単なものもない、と(『エセー3』第一章) - つづく -


 
プロフィール

鯉渕義文

Author:鯉渕義文
1945年、那珂市生まれ。茨城大学教育学部を卒業後、教員として那珂湊水産高校、鉾田二高、太田二高などに勤務。退職し現在は桜田門外の変同好会代表幹事。

「情念の炎」上巻、中巻、下巻
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